宇城家長女にして第二子である”宇城清子”はようやく着いた自宅の前で背筋を捻った。小学校が終わり、放課後も終わり、そして一番面倒な同級生からの相談事も終わった。パキペキと小枝を折るような軽い音と共に、凝ってしまった背中の筋肉が伸ばされていく。
「ん~~~」
一日の疲れを実感する瞬間だ。自宅の前とは言え、公共の場でやるべき行動ではないのだが、習慣となってしまったこれを清子はやめられそうにないなと感じていた。
下ろしていたランドセルを抱えなおすと、自宅のドアを開ける。このあとは宿題やって、夕飯食べて、テレビ見て、風呂に入って、そして寝るだけ。他人の相談に頭を悩ませる必要もない、気楽な家族だけの時間だ。
「たっだいま~」
いつもの調子で帰宅の挨拶をし、靴を脱いで揃えて上がる。そして、いつものように居間で本を読んでいるだろう兄、宇城正太の返事が届いた。ただし返事の調子は、いつもと随分違ったが。
「お、お帰り……」
疲れたような、弱りきったような様子の正太の声。それを聞いた清子は訝しむように眉根を寄せる。
はてさて、兄から帰ってきた挨拶は随分と気分の落ち込んだものだった。兄は「前の一件」のような大失敗を、またやらかしてしまったのだろうか? あれだけ反省と後悔をしたのだからそれはないと信じたい。というか、そうであってくれないと困る。
では何か。一番ありそうなのは「兄は何かしらの小さな失敗をやらかして、それを自分の中で針小棒大にふくらませた挙句、そいつでどっぷりと落ち込んでみせている」という一人上手な真似をやからしている可能性だ。
――熱くなりやすい質のくせに、あれ以来無闇矢鱈と考え込むようになっちゃったからねぇ
清子は兄をそう評すると、一番可能性の高そうなそれをとりあえずの仮説として、居間へと足を踏み入れた。まずは、マイナス思考のスパイラルに陥っているであろう兄を、さっさと引き上げてやらねばなるまい。家族に辛気臭い顔をされていると、こっちまで気が滅入ってしまう。
「兄ちゃん学校で何かあったの? 話くらいなら聞くけど……」
居間に一歩を踏み込んだ清子の前には、想像を超えたものがあった。
まず目に入るのは顔を手で覆って、悩んで落ち込んでいることを全身で表現している兄の姿。コレはいい、予想していたのとそう違いはない。
続いて、テーブルの上に散らばっているハードカバーとお菓子の袋。珍しいといえば珍しい。以前こんなふうに夕食前に沢山お菓子を食べて、母にこっぴどく叱られたことがあった。それ以来、兄は夕食後に少しだけ食べるようにしているのだ。まあ、これも兄が珍しく言いつけを破ったとすれば、別段おかしい話ではない。
最後に兄の向かいのソファーで、膝に顔をうずめている子供の姿だ。ソファーにかかった髪の長さと、薄緑の肩ありワンピース姿から見るに、女の子で間違いないだろう。
これは予想外で大問題だ。宇城家に私より小さい女の子はいない。となれば、この子は外からやってきたということになる。だが、母はパートに出るときは、窓と扉の鍵は一通りかけるようにしている。
つまり、誰かが鍵を開けるか壊すかしない限り、この子供が我が家にいることはないはずなのだ。そして壊された様子の鍵は、見る限りどこにもない。ということは、誰かが内側から鍵を開けたと言うことで、その誰かは目の前にいる兄しかいない。
これらを総合すると、「この子を家に招き入れたのは兄である」ということになる。さらに目の前の子供は落ち込んでいるを通り越して、絶望しているようにしか見えない。これはまずい、色々とまずい。
清子の脳裏に「未成年略取」「児童誘拐」「特別少年院」などの、不穏極まりない文字が浮かび上がり、ぐるぐると回る。
だが、不正は正さなければならない。清子は迷いを吐き出すように深く息を吸って吐くと、決意を秘めた顔で正太の肩を叩いた。
「兄ちゃん、警察には一緒に行ってあげるから、だから……」
「違う!」
正太の悲しい絶叫が響いた。
*
宇城家の居間には、正太、清子、蓮乃の三人。ランドセルを子供部屋に投げ込んでから急いで居間に戻った清子の目の前には、テレビの前で突っ立ったまま頭を抱える正太と、ソファーの上に腰を下ろして膝を抱える蓮乃がいる。正直なところ清子としても、どっちかをやって現実から目を背けたいのが本音だ。だが、ここで自分が空想に逃げ出したところで何にもならない。清子は萎える気力を奮い立たせて、正太に現状を確認する。
「え~っと、まずこの蓮乃ちゃんが空いてた窓から勝手に入ってきたと。それでこのソファーで寝ていたら兄ちゃんが帰ってきた。それで、何やかんやあって親御さんに電話連絡して、それを蓮乃ちゃんに話した。それとも書いて見せたかな? そしたら途端にこんな様子になったと」
「だいたいそんな感じだ」
正太は大きく何度も頷いて肯定を示す。清子は小さく嘆息した。母親が帰ってくるって言うだけでこの有様、一体全体どういう親子関係なんだろうか。虐待とかネグレクトとかの話は流石に御免だ。それになにより考えるべきことがある。赤く腫れた蓮乃の目尻を見ながら、清子は問いかけた。
「何やかんやの内訳は後で聞くとして、これからどーすんの?」
そう聞かれた正太は先ほどと同じ様に、頭を抱えて困惑と混乱を体言する姿勢に戻る。どうしようもこうしようもないから、こうやっていたのだ。
「……どーしたもんだろ」
「そんなこと私に聞かれても困るよ」
清子は間髪入れずに返して肩をすくめた。そもそもこの事態と清子は、何の関係もないのだ。この問題をどうこうするのは当事者である正太の役割であり、アドバイスくらいならともかく、無報酬で積極的に解決をするほど清子に余裕はない。
「そりゃぁ、そうだよなぁ」
正太の頭がもう一段と落ちた。先ほどは蓮乃の涙を食い物でどうにかできたが、今度の落ち込みようには効果がない。あと思いつく手段としては、「清子に任せる」くらいしか正太の引き出しには残っていなかった。
別段、清子が子供好きというわけではないことは、正太も知っている。だが、「頭をひっぱたき」「怒鳴りつけて泣かせ」「何かしらの地雷を踏み抜いた」正太が蓮乃の対応をするよりも、まだ何の関係もない清子がする方が幾らかマシなのは明白である。
しかし正太が尋ねるその前に、清子から「NO!」が示された。これ以上ごねるわけにも行かない。以前の騒動であれだけ迷惑をかけたのに、さらにかけるなんてことは出来やしないし、したくない。
「どーしたもんなんだよ、ほんっとこれ」
八方手詰まり逃げ場無し。頭をどれだけ抱えたところで、事態を解決するナイスアイディアが飛び出てくるわけでもない。正太は頭を抱えて床にしゃがみこんだ。
正太は頭を抱えて床に沈み込み、蓮乃は膝に顔を埋めている。実に混沌とした光景だ。清子もまた、してもいない頭痛を感じそうになる。もうこうなったら、「やりたくない」なんて贅沢は言えないだろう。
清子は深く息を吸うと、正太に聞こえるようにわざとらしく、先ほどよりも数段深いため息を長々とついた。その顔には、苦笑と文句と諦めを足して三で割ったような表情が浮かんでいる。
「あーもー、しょうがないなぁ。カスタード大福、箱入りの奴でやってあげましょう」
正太の顔が先の蓮乃の逆回しのように輝いた。
「わかった、四個入りの奴だな!」
「八個入りの奴でね」
そして、清子の言葉に先の蓮乃のように暗くなった。カスタード大福は単品一五〇円。安くとも四、五〇〇円はするケーキ類に比べれば格段に安いものの、小中学生にカスタード大福箱詰め八個入り(税込み一〇四〇円)を買うのは少々つらい。
「せ、せめて六個入りで」
ひきつった顔と震える声で正太は交渉を試みる。六個入り(八四〇円)なら一〇〇〇円以内に収まるため、財布の中だけで何とかなる。だが八個入りともなると、とっておきの貯金箱を割る必要性がでてくるのだ。しかし正太の示した妥協案に対しても、清子の表情に変化はなく決断にも変わりはなかった。
「だめ、八個入り」
にべもなく断られた正太は縋るように清子を見るが、清子の視線には一切のぶれはない。交渉戦の敗北を示すように、カクリと正太の首が落ちる。正太の脳裏には財布から足を生やした硬貨が逃げだし、貯金箱から羽を生やした千円札が飛び去っていく姿が映っていた。
「……わかった、八個入りだな」
空の向こうへ地の果てへと、去ってゆく小遣い達に悲しい別れを告げながら、落ち込んだ声で正太は条件を飲み込んだ。
「おっけー、交渉成立ってことで~」
手をひらひらと降りながら答えると、清子はランドセルを開けてゴソゴソと中身を探り、メモになにやら書き込む。好物のお菓子が手に入ると楽しげな様子の清子を見ながら、正太は俺が買うんだから一つくらいは俺が食ってやると、悲壮な決意を固めていた。実のところ清子が八個入りにこだわっていたのは、「家族四人が二つずつ食べられるから」であり、正太の決意は的外れだったりするのだが。
お目当てのものを見つけた清子は、腹に一物ありと書かれた笑いを浮かべながら、膝を抱えた蓮乃の前に立った。顔を少しだけ上げて、蓮乃は見覚えのない、しかしさっきまでの相手にどことなく似た顔を、落ち込んだ目で不思議そうに見上げる。そんな蓮乃の前に清子は手を突き出すと、不思議そうにそれを見る蓮乃の眼前で、両の掌を素早く打ち合わせた。
パァン!
破裂音にも似た柏手の音が居間に響いた。相撲で言うところの「ねこだまし」である。これは相手の虚を突き思考の空白を作る技であり、実際に蓮乃の頭の中は真っ白になった。渦巻いていた不安や恐れはきれいサッパリ吹き飛んで、驚きに目を白黒させている。それをやった清子は、さっきランドセルから取り出した紙束を、一枚のメモと共に蓮乃の目の前で揺らす。そのメモにはこう書かれていた。
『ババ抜き、やらない?』
*
ババ抜きが始まってしばらくが経過した。TV前の三つのソファーに三人それぞれが座り、中央の机の上ではペアになった捨て札が、小さな山を作っている。
「む~~~ぬ~~」
正太が目の前に広げた七枚の手札の前で、悩み混じりのうなり声とも文句付けの渋り声ともつかない音を蓮乃が喉からあげている。
正太はそんな蓮乃をみながら、一枚のカードを残り六枚の手札より上に引き出した。まるで「このカードが特別ですよ」といっているようだ。余りに初歩的なブラフである。清子あたりなら鼻で笑って、正太の手札から取りたいカードを取るだろう。しかし、慣れていない蓮乃への効果は大きかった。突き出されたカードに目を丸くし、残りの手札との間を視線が何度も往復する。その表情はポーカーフェイスの反対で、つまり焦りの感情が丸出しだ。
覚悟を決めたのか、蓮乃は硬い表情で飛び出した一枚に手を伸ばす。そんな蓮乃にイタズラ心が刺激された正太は、隣のカードも手札より上に引き出した。
「んぅ~~!」
それをみた蓮乃は、焦りと混乱と怒りを足して三で割ったような声を上げる。いや、手を振り回して抗議しているところをみるに、怒りの割合が多いかもしれない。そんな蓮乃の有様を見て、正太は底意地悪くニヤニヤと笑う。さっきまで迷惑かけられ通しだったのだから、少しくらいはいいだろう。
それを見る清子はじっとりとした視線と、呆れ混じりの声で正太をたしなめる。
「兄ちゃん?」
「おお、悪い悪い」
いくら意向返しが楽しくとも、ゲームを止めるのはよいとはいえない。そう思った正太が蓮乃に視線を向けなおした。
瞬間、正太の目の前を素早く白い手が走った。驚く間もなく一枚のカードが正太の手札から抜かれている。カードを抜き取った小さな手の持ち主を見ると、何と言うか「してやったり!」と言いそうな自慢げな表情だ。「ムフーッ」とでも表現すべき鼻息も漏れている。どうやら蓮乃は怒っていながら、同時に隙をうかがっていたようだ。
こいつは意外と強かだ。正太は認識を改め、キツい目つきをいつもより鋭くする。おかげで悪い意味で特徴的な顔立ちが、いつもの三割り増しで怖くなっている。具体的には夜中に交番を通りかかったら、有無を言わさず職務質問を頂けそうなくらいだ。
一方、清子はそんな二人を見て呆れ混じりの忍び笑いをこぼした。素早く取ろうが悩んで取ろうが、当然カードに違いはない。それをよくもまぁ、ああも真剣にやれるものだ。幼い蓮乃ちゃんは当然としても、兄も兄で子供っぽい。
そうこうしているうちに、蓮乃は正太の手札から引いたカードでそろった二枚を場に捨てる。蓮乃の手札は残り五枚。
続いて蓮乃の手札へ清子が手を伸ばす。正太の行動を真似たのか、真ん中の一枚だけが手札から突き出ている。それをした蓮乃は鼻息荒く自信満々の表情だ。それを見た正太は口を一文字に結んで、喉から漏れそうな笑い声を押し留めるのに必死だ。
しかし清子は先の蓮乃と違い、気にすることなく手札の端からカードを抜く。目に見えて蓮乃が肩を落とした。肩を落として落ち込むその様を見て、正太の肩が笑いを堪えて震えている。
清子はそんな二人を見ると、本日何度目かわからない呆れと苦笑の混じったため息をこぼした。