表向きは「町内停電時における糸守高校への安全経路確認のための緊急避難訓練」ということだったのだが、ぞろぞろと校庭に集まってきた町民たちは先刻までの秋祭り気分のままに、千二百年に一度の天体ショーを楽しんでいる様子だった。元から灯りは少ない地域ではあるが、変電所が吹き飛んでしまった手前、見上げる夜空は太古の昔と何ら変わらないであろうほど輝いている。
その一方で、大多数の公務員は宮水俊樹町長の指示の下で慌しく奔走していた。廃棄予定だった机や椅子を校舎裏に撤去したり、至る所でブルーシートを引いたり、校舎に備蓄してあった緊急用の食糧や物品を引っ張り出していたり。その光景を見ながら安堵すると同時に「もし何もなかったらどうしよう」などと二律背反に陥っている少女が一人、宮水町長のやや後ろに佇んでいた。
けれども彼女、宮水三葉は確かに見たのだ。血染めのような真っ赤な天井が落ちてくるおぞましいあの眺めを。町が瓦礫となり、湖がおよそ倍の広さになっていた胸が締め付けられるようなあの光景を。あれが夢であったとしても、現に分裂した彗星のかたわれが赤い塊となって降下してきている。現在の時刻は午後八時三十七分。ここまで導いてくれた『あの人』が教えてくれた衝突時間まであと五分を切った。そろそろ備えなければならない。
「お父さん!」
三葉に促され、宮水町長は目を細めながら腕時計を確認する。
「わかっている。あとは任せて、三葉も安全なところに行ってなさい」
自分たち姉妹を捨て、家を出て行った父のことは憎んでも憎み切れないほどだったはずなのだが、今はこの上なく頼もしい。それどころか三葉は、あの堅物だった父が自分を信じて動いてくれたことが何よりも嬉しく、そして少しだけこそばゆい感じがしていた。
三葉は父の返答に小さく頷くと「お父さんも気を付けてね」なんて、今まで言ったことのない様な言葉を投げかけてしまった。それを受けた父は一瞬呆けた様子だったが、すぐに照れくさそうに笑って「お婆ちゃんと四葉を頼む」と言いながら娘の背中を押し出した。
「おねえちゃん! こっちこっち!」
既にブルーシートに祖母を座らせていた妹の四葉は、不安そうに己の手が縋る先を待っていた。その傍らにはまだ少し目を腫らした名取早耶香と汗だくの勅使河原克彦が控えている。三葉は先ほど二人と合流した際、念のため祖母と四葉の相手を頼んでおいたのだ。
「みんなお待たせ。ありがとう、サヤちん、テッシー」
しがみつく四葉をなだめながら、三葉は今回の町民避難の立役者を労う。
「おう、これで何とかお役御免やな」
「三葉、あんた怪我大丈夫なん?」
二人とも疲労困憊の様子だが、三葉を気遣ってか気丈に振舞っている。
「これくらい平気やって。サヤちんもそんな目腫らして」
「あー、そんなひどい? もう一生分のトラウマ背負ったわ……」
町内の防災無線乗っ取りに際し、放送委員というだけで矢面に立たされ、しかもそれがバレた際にはこっぴどく教師陣に叱られた早耶香である。トラウマにもなろうというものだ。
大変だったなぁ、と三葉が頭を撫でてやると早耶香は「うわーん」と言って三葉に抱きついた。四葉も合わせて女子三人がベタベタしてる様は、男としてはどうにも見てはいけないものを見ている気がする。ああいった世界は全くもって理解が出来そうにない、いや、一生理解できなくても構わない。そんなことを思いながら、勅使河原は視線を上空へ移すことにした。その先には恐ろしくも美しい、長い光の尾を伸ばした天体が二つ。片や青白く、片や赤々と輝いている。特に落ちると聞いた赤い方は殊更悪魔の様に笑んでいる風に見えて、彼の口からは思わず呟きが零れてしまう。
「今更やけど、悪い夢か何かだったらと思うわ」
夢という言葉にふと、もう名前も思い出せない誰かの顔がよぎった気がした。
「夢ならもう、覚めてまったよ……」
空を仰ぎながら思わず一人ごちると、早耶香が「何か言った?」と聞いて来たので、零れかけた涙を必死に引っ込めた三葉は「ううん、何でもない」とやり過ごす。
彗星から分裂した核は、既に巨大な赤竜と化している。いくつかの破片や喰い千切った雲を道連れとして、今、まさにこの世を喰らう寸前といった様子だ。人智の及ばぬ荒ぶる神として代々語られて来たであろうそれは、その荘厳な姿を惜しげもなく晒している。
――あれが、落ちる。
落ちた後の光景を見てしまった後ですら、にわかには信じ難い。
「おねえちゃん、本当に彗星落ちてくるん? 私たち大丈夫?」
普段は大人ぶっているはずの四葉が、泣きそうな顔で見上げてくる。
「心配しんの。大丈夫やよ、みんなここにおるでね」
妹を座らせて落ち着かせた後、三葉は自らもその隣に座って微笑んでみせた。誰に求められたわけでもないが、今の自分はそうすべきなのだという、不思議な自覚があった。
二百年前の大火で失われたという神楽舞や秋祭りの意味も、今の三葉には何となくわかる気がしていた。幼い頃に母が話してくれた、神が紐を使って竜を絡め取ったとされる物語。きっとそれはこの地に結びついた人々が襲い来る星神に抗うため、自分たちの神を見出す物語だったのではないだろうか。時間、空間、人間、ありとあらゆるものを網羅する、ムスビという名の神を。
そして、きっとあの誰かと自分も、そのムスビの下に結ばれていたに違いない。
ふと三葉は、横に座る祖母が神妙な顔をしているのが目に入った。
「おばあちゃん、大丈夫?」
祖母の一葉は、一瞬だけ狐に摘まれた様な顔をした後に、少々あってから我に返った様子で「あ、あぁ、大丈夫やよ」と返す。そこには誰か、懐かしい顔を見たような安堵が混じっていたように思えた。そうしてから、これはあんたの母さんの受け売りなんやけどな、と断りを置いてから話し始める。それは三葉が久しく見なかったような、というよりも、初めて見る穏やかさだった。
「全てのものは、あるべきところに納まるんやさ。確かに、これまでにあった色んなことも全て、今日のためやったんかもしれんな。多分ワシと一緒で、あのバカ息子も、同じようなこと思ったんやろ」
三葉の母が亡くなる以前から、父と祖母は犬猿の仲であったらしい。母が亡くなってからそれは激化し、父は家を出て行くに至ったわけだが、以来祖母が発する父への視線はより厳しく、より鋭くなっていった。しかし今日ここには、優しげで、それでいて少し物憂げで、何かを悟った風な、そんな柔らかさがあるのみだ。
糸守湖を背にする町民を前に、宮水町長は校舎側から拡声器を握る。町長に当選した直後は大いに緊張していたものだったが、今こうして町役員を伴う姿は実に堂に入ったものである。
「お集まりの皆さん、放送で申し上げました通り、変電所において爆発事故が発生し、ご不便をおかけしております。大変申し訳ございません」
深々と頭を下げた後、宮水町長は更に続けていく。要約すれば、変電所が爆発したように、いつ何時突発的な爆発事故が起こるかわからない。万が一の時に被害を最小限に抑えるため、爆発に遭遇してしまった時の対処の重要性を理解していただきたい、そして、その際の正しい姿勢をこれからレクチャーしたい、そのような趣旨だったと思われる。
言ってしまえば謝罪以外はデタラメで、いかにも取って付けました、という内容だというのにも関わらず、大衆は「なるほどな」という顔で聞いている。あくまでも訓練である、ということを強調し、この場の不安を煽ることなくやり過ごしてしまおうという腹だ。父を遠目に見ながら、さすがに演説は手馴れたものだな、と三葉は感心する。
「早速ですがこれより衝撃に備えるための訓練を行います。こちらを向いたまま座っていただきまして、頭を手で抱えながら地面に付けて下さい。その際に埃が入らないように必ず目を瞑って下さい。ほんの数分だけ、どうかご協力お願い致します。繰り返し申し上げます……」
急ごしらえで考案された耐衝撃用の姿勢は、町民の転倒と頭部損傷を防止するための役所の苦肉の策だった。人類史で見ても隕石との邂逅はそう多くない上、避難所と落下予測地点が比較的近いために何が起こるかわかったものではない。半年ほど前にロシアに落ちた隕石が話題になったが、不意の衝撃波によって現地人約千五百人が負傷したことを顧みても、糸守町が置かれた状況がいかに深刻であるかは明白だ。落下時刻と落下地点を知る人物がいたことによる事前対処を敷けることだけが唯一の救いであり、唯一の希望であった。
町長の指示の通りに、三葉、一葉、四葉、早耶香、勅使河原も頭を抱えて地に伏せる。その際、三葉は町長の指示に重ねて、しっかりと目を瞑るように全員に促す。隕石と大気の摩擦で発生した光は、いとも簡単に人の目を焼いてしまうのだと、いつか誰かが教えてくれたはずなのだ。
それぞれが祈るような思いで、その瞬間が過ぎるのを待つ。一秒一秒がとても長く、愛おしく、それでいて瞬く間に過ぎていくような不思議な感覚があった。
午後八時四十二分。秒速三十キロメートル超の速度でそれはやってきた。太陽が昇ったのではないかと錯覚してしまうほどの光量と、神に匹敵するほどの破壊力を持って。
――お前は誰だ?
まぶたの下からでも、自分の血液の色がはっきりとわかる。光だけで周囲が焼けてしまうのではないか。そんな思いと全く関係のない、遥か遠いところで。
――名前は
あぁ、誰かが泣いている。叫んでいる。
あんなに悲しそうに、私の名前を知りたがっている。
――世界のどこにいたって、俺がお前を見つけ出してやる
あなたは、誰?
君の……名前は?
全てが通り過ぎた後、三葉は泣いていた。
何故泣いているのか、自分ではよくわからない。
無意識に右の手のひらを持ち上げて視線を落とす。
そこには逆さまの平仮名が三文字。
すきだ
書かれているのはたったそれだけであるのに、どうにも涙が止まらない。
一体誰が、何のために書いたのかすらもわからないというのに。
自分の中の温かい部分が、ごっそりと抜き取られてしまったかのような寂しさに。
ただ、ただ、涙が止まらないのだ。
宮水神社、並びに宮水家付近に落下した彗星の片割れは、宮水町民の生活区域のほぼ半分を奪い取っていった。秋祭りの日、それが意味するところは被害甚大の一言に尽きたはずだった。だが、幸いにして犠牲者は一人も出なかった。竜はまたしても紐に絡め取られたのだ。
自分の生まれ育った家、思い出の場所、不便ではあったけども、色んな温かさが詰まった大切な町だった。そういったものを失った悲しさは決して小さいものではない。だが三葉は、それ以上のものを失くしてしまったような、どうしようもない寂しさに打ちひしがれていた。
――あなたは、誰?
問うても返事はない。あるはずがない。
――君の名前は?
けれども、問わずにはいられない。
三葉の遥か上空では、片割れを失ったティアマト彗星が、それでも尚一層美しく輝きながらも、今まさに新たな旅路へ飛び立とうとしている最中だった。