02,二人と2人、変音と平穏
普段はレンが寝静まり、安定した事を確認してからヴィクトーリアとエドガーは屋敷へと戻る。今日もその例に漏れず、ヴィクトーリアとエドガーは彼の血に汚れた両腕の包帯を取り替えて帰ろうとしていた。
「危なかったらすぐに私達を呼ぶ事。良いわね?」
「分かっとるって。もう、そんなに
「レンが死んだと誤認した人に言われても説得力皆無ですわよ」
「……耳が痛いなぁ」
ジークリンデとヴィクトーリアは、ほぼ同時に二階の方を見た。そこには半ば失神という形で眠る彼の部屋がある。
「じゃあ私達はそろそろ戻るわ。レンの事を頼んだわよジーク」
「おやすみ。ヴィクターとエドガーを気を付けて」
玄関先でそんなやり取りをして、ヴィクトーリアとエドガーはジークリンデと別れた。車がゆっくりと発進して、周囲の家々を風景と共に後ろに流していく。
角を曲がる直前、ヴィクトーリアはレンの家の方を見た。
ジークリンデは、まだそこに立っていた。
エドガーが運転する車は段々と彼の家がある住宅街から離れ、大通りへと出た。前から後ろへ流れ行くキラキラと輝く夜の街を窓から眺めながら、ヴィクトーリアが思い出すのはさっきの出来事。
平和だった彼女達を壊した、彼の身体を蝕む忌むべき呪いとでも呼ぶのが相応しい正体不明の病気。そして、それと今この瞬間も戦っている彼。
「レンは……果たしてどれほど持つのかしらね」
ヴィクトーリアは思う。彼はもう長くは持たないと。医者にもそう言われたし、何より自分の直感が叫ぶのだ。
近い将来に彼は死ぬ、と。
「なるべく長生きして欲しいとは思っていますが……」
「そうね、私もそう思ってる。そして間違いなく、ジークもそう思っているでしょうね」
ジークリンデの名を出した瞬間、ヴィクトーリアの脳裏をよぎったのは倒れた彼を光の消えた瞳で見つめ続け、涙を流しながらうわ言のように何かを呟き続ける幼いジークの姿だった。
思えばあの頃から、ジークリンデは、あの場に居た彼を含めた4人は、壊れてしまったのかもしれない。
「お嬢様。ジーク様は……」
「エドガー。今は私も貴方もプライベートよ。貴方も執事のエドガーではなく、私達の友人のエドガーで良いわ」
その言葉を聞いたエドガーが少し戸惑い、しかしすぐに口を開いて、普段のエドガーからは考えられないほど粗暴な喋り方で喋る。
「……ジークは、どうなると思う?」
「どうなる、とは何かしら?」
「さっきのジークの取り乱し方は尋常じゃなかった。お前も分かってるだろ?」
ヴィクトーリアは答えない。が、その沈黙こそが雄弁に答えを語っていた。
「昔、それこそ去年の今頃のジークは、あんな取り乱し方は絶対にしなかった。
今年に入ってからだ。日を追う毎に段々と取り乱し方が激しくなって、更にはレンが血を吐くだけでエレミアの神髄を半覚醒させるようにもなったのは」
「……そうね」
「なあヴィクトーリア、教えてくれ。あのままだとジークはどうなる?」
「それは……」
懇願するようなエドガーに、しかしヴィクトーリアは問いの答えを持ち合わせてはいなかった。
だから黙る。黙る事しか、彼女には出来ない。
「…………」
「…………」
暫しの無言。交差点で車が停車し、一際大きなテレビスクリーンを有した建物に人が出入りしているのが分かる。ヴィクトーリアはその建物が、先日リニューアルしたばかりのファッション専門店である事に気付いた。店頭のマネキンが着ている服に見覚えがあったのだ。
ミッドチルダの中心街は、夜だというのに人通りが絶えない。
すぐそばの歩道をヴィクトーリアと同じくらいの歳の女子3人組が笑いながら通り過ぎる。その横を、仕事帰りのサラリーマンが足早に歩いている。酒に酔ったらしいオッサン2人が陽気に肩を組んで歩いている。ワザとらしく男に媚びを売る表情をした女も居た。
車の窓一つ隔てるだけで、こうも変わる物なのか。
それを眺めていたヴィクトーリアは、何を思ったか目を閉じて溜息を一つすると、片手で頭を押さえながら閉じていた目を開けた。
──瞬間、ヴィクトーリアの耳から声という声が消えた。歩道からは人が消え、対向車は消滅した。テレビスクリーンは何処か無理をした笑みを浮かべたアイドルを映したまま動かず、服を着せられたマネキンは不気味に立ち尽くしている。
人が消え、音が消えた。残ったのは、ヒトが創り出したコンクリートの
時間にすれば1秒程度。しかし、体感時間では何時間にも感じられた刹那の時を、ヴィクトーリアだけが生きていた。
信号機の色が変わり、再び車が動き出す。時の流れも元に戻る。一瞬で雑踏を後ろへと追いやりながら、車はダールグリュン邸へと戻る。
その際にヴィクトーリアが背後を振り返ると、そこには先程と変わらない、灰色の人々が虫のように蠢いていた。
────喧騒は、未だ聴こえない。
口を開いたのは、ヴィクトーリアが先だった。
「……一つだけ、私でもジークがレンに執着してるって事だけは分かるわ。それも、とびきり凄い執着をね」
「それは分かってるよ。何せ、エレミアの神髄を発動するトリガーにしてるくらいだ。並みの執着じゃないってのは重々承知だ」
2人が脳裏に浮かべたのは、先ほど彼の家で錯乱しかけたジークリンデの姿だった。
冷たく澄んだ中に、何処か深淵を思わせる深い闇を感じれる瞳をした彼女。
レンが原因でエレミアの神髄という、ジークリンデが持って生まれてしまった先祖からの
そう、まるで……あの全てを倦んだ老人のように朽ち果てようとしていたジークに。
「エレミアの神髄……まさか、自分に向けられるとは思いませんでしたわ」
エレミアの神髄を、まさか自分に向けられるとは。それも試合会場ではなく、彼女が
「ショックか?自分の娘に首を折られかけたのは。まるで反抗期の娘に悩む父親だな」
「からかうのは止めてくれません?私、あの時は本気で死を覚悟してましたのよ?」
「俺もそうだよ。あの時のジークは見境が無いからな」
通常時のジークリンデならいざ知らず、エレミアの神髄を発動したジークリンデに一切の情けは無い。それは今年のインターミドルで、対戦相手のミカヤという選手の右手首を流れ作業のように粉砕した事からも分かる。
そうして動けなくなったミカヤになお、トドメを刺すかのように大技を叩き込もうとしていたのだから、エレミアの神髄恐るべしだ。
「はあ……そこまで想われているレンが少し羨ましいですわ」
だが、【ジークリンデの身体が「命の危険」を感じたら反射行動として発生する】というエレミアの神髄の特性を考えると、先ほどのようにジークリンデがレンの死を誤認して神髄モードになる事自体が普通に考えればおかしい。
その筈なのだが、そのおかしい現象にヴィクトーリアとエドガーは納得していた。むしろ、神髄が発動するのは当然とさえ思っている。
「ジークにとって、レンは自分の命と同義……いや、それ以上の存在という事なのでしょうね」
「ジークの本能が理解しているんだろうな。レンの死は、他ならぬジーク自身の精神の死とイコールで結ばれるって事をさ」
レンが死ねばジークリンデの精神が死ぬ。彼女の精神が死ねば、そのまま済し崩し的に肉体が滅びる。生きようという気力を失った者ほど、死にやすい奴は居ないのだから。
それを無意識の何処かで理解しているから、本来なら自分の命が危ない時にしか発動しない筈のエレミアの神髄を発動するトリガーの一つにレンがなっているのだろう。と、エドガーとヴィクトーリアは推測していた。
ヴィクトーリアはレンとジークリンデが居る家の方角を向きながら言う。
「ジーク。貴女のそれはもう病的ね。狂っていると言ってもいいかもしれない。
……いえ、私が言えた義理ではないわね」
人は、誰しもが自分を正気だと、自分こそが正しいのだと思い、時々少し正道から外れた事をする者を常軌を逸していると批判する。自分が正気だという保証は何処にも無く、その者がオカシイという保証もまた、何処にも無いというのに。
そしてヴィクトーリアは、自分が世間一般でいう所の"マトモ"であるとは微塵も思ってはいなかった。主観では己は正気であると思ってはいるが、それはあくまで主観。客観的に見れば違うというのも、ヴィクトーリアは聡明であったが故に理解してしまっている。
「エドガー」
「何だ?」
そんなヴィクトーリアの目には──
「私は……私は、この瞬間を
「──ああ。確かに
──世界は酷くツマラナク、色褪せて見えるのだ。
────────
「平気……なんやね?」
「大げさ……」
レン君が倒れてから数時間、目を覚ましたレン君に寄り添いながら、私は極力平静を装っていた。
装っていた。という言葉から分かるとは思うが、今の私の心は平静とは程遠く、荒れ狂う嵐のように揺れ動いている。下手をすれば、次の瞬間にはエレミアの神髄が発動してしまうくらいに。
「レン君、お腹減ったりとかしとらん?エドガーがラップして置いてくれとるんやけど」
「うん、お願い……」
「ん、りょーかい。何かあったら直ぐにナースコール押すんやで。分かった?」
「ん……」
レン君にナースコール(ヴィクターが何処からともなく持ってきた奴だ。病院で正式採用されてるらしい)を握らせて一旦リビングへと降りる。
明かりの消えたリビングは何だか寒かった。私が薄着をしている訳ではない筈なのに。
「さて、早よせなアカンね。レン君は何も食べてないし」
エドガーが二皿に纏めておいてくれた皿を電子レンジに入れて、紙に書かれた時間温める。
「んしょっ……と。うん、これくらいかな」
お盆にお皿を二皿載せて再び二階へ戻る。今宵の月は真ん丸い。
「レン君、お待たせ」
「……待ってないよ」
電気が付いていない、光源が月明かりだけの部屋。
その月明かりに照らされて笑うレン君は、何時も以上に儚く見えた。ともすれば、次の一瞬で砕け散ってしまいそうなくらいにだ。
「ゆっくり、気を付けて食べるんやで?」
「……ジークは、心配性」
「いやいや、誰だってこういう対応になるって」
レン君の食事を見ながら、私は暫くレン君の側で待機する。何があっても動けるように。
「……ねえジーク」
「なんや?水?」
「ううん。そうじゃ、なくて……」
レン君はそう言うと、唇に人差し指を当てる動作──静かにというハンドメッセージだ──をして少し待つ。
すると、微かに何か聞こえてくる。本当に微かで、歩く音だけでかき消されてしまいそうな弱々しい音が。
「窓、開けて」
レン君の言う通りに窓を開ける。冷たい秋風が室内に吹き込んできて、カーテンが風に揺れる。そして、その風に乗るように、さっきの音が強く聞こえてくる。私は、その音がリーンリーンという鈴のような音だと分かった。
「鈴虫……」
レン君はそう言うと、まるで鳴き声に聞き入るかのように目を閉じた。
「そっか。秋やもんな」
リーンリーンという音が強く聞こえた。私はその後、レン君が眠くなるまでそのまま鈴虫の鳴き声を聞いていた。
ジークだけが狂っている訳ではないのです。