「と、言うわけなんだよお兄さん」
「なにが、というわけなんだよ!」
紫陽花公園で待ち合わせた紅子さんは説明もなしに唐突だった。
こうなった経緯は、前日の夕方まで遡ることとなる。
◆
「寒い、寒い、五月蝿い……雨の音が、やまない」
未だかんかん照りの朝、男子生徒がぶつぶつと呟いた。
「……へえ」
七彩高等学校のブレザーを羽織りながら、彼女――赤座紅子は目を細める。
雨も降っていないのに傘を差し、目の下に隈をこさえた男の子を視界に捉えながら。
――ねえ、知ってる? 一年生の村雨君の話。
――知ってる。雨も降ってないのに傘をさして歩いてるんだってね。
――そうそう、しかもね。ずっと呟いてるんだって。雨が降ってるって。
――怪異調査部の部室だったところに行くところを見たって人もいるって。
――へえ、もう怪異調査部なんてないのにね。
――うん、だって。
「怪異調査部のメンバーは全員、今年の夏休みに死んじゃったもの」
噂が蔓延った。
そんな噂が。一人で過ごしている紅子にもその噂は飽きもせずに届き、段々と歪んだ伝言ゲームとなっていく。それをただ聞いているだけの紅子ではない。
人の噂も七十五日とは言うものの、実際には違う。
確かに全く同じ内容の噂が流れ続けることはないだろう。しかし、人の噂とは変化するものだ。形を変え、姿を変え、そうして曖昧だったものが明確に力を持って渦巻き、怪異として生まれ落ちる。
そういうものなのだ。
だから紅子は向かう。
以前、怪異調査部と呼ばれていたその部室のある場所へ。
「部長の
紅子が
夏休み明けに爆発的に広まった話は未だに消えることなく続いている。
曰く、怪異調査部の面々は本当に脳吸い鳥に殺された。
曰く、怪異と決めつけて挑んだから社会の闇に捕まってしまった。
曰く、実は青凪と黄菜崎。そして緑川と紫堂の駆け落ちである。
複数人に渡って噂好きな人間達が囁きかける話。
死人に口はなく、好き勝手に捏造される噂。
それらを知っているはずなのに、かつて怪異調査部の部室だった場所へ行くという男子生徒の話。
それらを統合して彼女は動いた。
「お仕事のニオイがするねぇ」
カタカタ、カタン。
古い古いパソコンを叩きながら。
そうして、紅子は〝怪異調査部の部室〟から外へ出た。
後には、電源のつけられた古いパソコンだけが残される。
暗い部室の中に光るその画面に映っているのは……
「こ、これって……」
そうして、今日も今日とて希望を捨てきれずにこの部室にやってきた男子生徒は、縋り付くようにパソコンに打ち込んだ。
【同盟が】怪奇現象の悩みを打ち明けるスレ【解決】
265 秋の夜長に名無しさんが行く
助けてください
266 秋の夜長に名無しさんが行く
お、久しぶり
コテっていうか、名前の変え方分かる?
分かるなら名前を自分で固定して相談してくれ
227 秋の夜長に雨音さんが行く
これでいいのかな
お願いです助けてください
雨の音が聞こえるんです
ずっとずっとずっと
みんなは雨なんて降ってないって言うんです
実際に空を見れば雨なんて降ってません
でも僕が外に出るとき傘を差していないとずぶ濡れになるし、ずっと雨の降る音が聞こえ続けているんです
日を追うごとに雨の音が強くなってて、小さな声だと間近にいても言葉が聞こえないくらい雨の音が五月蝿いんです
助けてください
228 秋の夜長にBe25が行く
正式な依頼は下のところからメールを送ってね
大丈夫、アニメとか漫画は見たことあるだろう? 妖怪ポストみたいなもんだとでも思って、送ってごらん
ちゃんと待ち合わせる場所と時間を指定してくれればちゃんと行くよ
229 秋の夜長に雨音さんが行く
…………
紅子は更新ボタンを押しながら、依頼が出るのを待った。
そう、彼女の仕事はこういう現象を解決することも含まれる。令一がまだ知らない、彼女達の活動。
「きた」
同盟。
彼女達、人に友好的な怪異が集まる組織。
そこでは人間の悩みを解決する真似事もしていた。
そこでは、必要最低限人間を襲うことは許可されているが、殺戮などの行為は禁止されている。禁を破れば同盟メンバーによる〝討伐クエスト〟が組まれることとなる。
人間のゲームを真似たその内部構造。
怪異にしか見ることのできないネット回線で普段使われている掲示板。彼女達は悩みのありそうな人間をそこに誘導することもできたし、怪異現象に悩まされている人間は自然にそこへ辿り着くことができるようになっていた。
今回、雨音に悩まされている人間は紅子が見つけた依頼者だ。
そうして待ち合わせる場所と指定された時間をメモして彼女はスマホで電話をかける。
「もしもし、アタシメリーさん。今ちょっと困ってるの」
「何度やれば済むんだよそれ!」
気持ちの良いツッコミが電話口の向こう側から返ってきて紅子は言葉を続ける。ああなんて、いじりがいのある人なんだろうとほくそ笑んで。
「なに言ってるの? まだ二回目だよ」
「あのあとも、やれ買い物に付き合ってほしいだの、墓場に調査に行こうだの似たような電話かけてきただろ!」
「そうだったっけ? お兄さんといると楽しいけれどあっという間に時間が過ぎちゃうねぇ」
「誤魔化されないからな!」
打てば響くように返ってくる言葉に、紅子はその赤い目を愉快そうに歪ませる。そして、本題となる言葉を笑みを浮かべたその口から紡ぎ出した。
「ねえ、お兄さん。アタシとデートしない?」
「……はい?」
慌てる彼に対してクスクスと笑いながら待ち合わせる場所と、依頼者の指定の時間より三十分程早い時間を彼に告げる。
さすがにこれくらい早ければ大丈夫だろう、と思って。
紅子にとっては待ち合わせの時間よりも一〇分は早く行動するのが当たり前なので、ついこの前に行動を共にした令一のように遅れてくる人間の気持ちが分からない。
そして、時間は翌日の夕刻まで進むのだ。
紅子にとっての授業のやり直しが終わり、彼女は足早に帰宅を開始する。
「赤座、もう帰るの?」
「……うん、まあね」
「じゃあねー」
「また明日」
こうして冒頭に戻るのであった。
◆
「つまり、紅子さん達はその、鬼太ろ」
「それ以上はだめだよ? お兄さん。けれど、それを考えると日本の文化って偉大だよねぇ。いや、人間の文化がってことになるのかな。ネットが普及してから劇的に動きやすくなったって聞くからね」
「ふうん」
「ネットには嘘も混じっているけれど、アタシ達からすれば本当に怪異に悩まされている人の書き込みにはそれ相応の怪異の気配ってやつが漂っているものなんだよ。だからね、そこから辿って同盟の連中が勝手に解決しちゃうわけ」
公園の中を歩きながら紅子さんは説明してくれる。彼女の姿は既に人間としての制服姿ではなく、いつもの赤いマントの姿になっている。学校に通っているときとは服装が違うし、彼女はあんまり人付き合いをする性格じゃないようなので、同じく学校に通っている生徒だとは依頼者にも気づかれることはないだろう。
それにしても、彼女は学校の七不思議やっていたんじゃなかったっけ。いや、同盟とやらは人を驚かすのは容認されているのか。
まだまだ知らないことも沢山あるんだな。
「それで、なんで俺なんだよ」
「アタシだけでもいいんだけど、オカルト専門家の大人って建前の人がいるほうがいろいろやりやすいからねぇ。だからお兄さんには協力してほしいんだよ。ダメかな?」
おかしいな。疑問形のはずなのに有無を言わさないなにかを感じる。
「分かった。分かった。やればいいんだろ」
紅子さんも面倒くさい性格をしているとはいえ、神内のいる屋敷にこもっているよりはいくらかマシだろう。
あいつを相手にしているより、紅子さんのほうがまだ可愛げがある。人に危害を加えることはないし、彼女は人間の味方。
それに怪異の解決っていうのもちょっと興味が湧かないでもない。
「ありがとう、お兄さん。でも今回も遅刻したことは忘れないからね」
「それは忘れてください」
「やーだね。まったく、どうやったら遅刻なんてするんだか」
「それは俺が知りたい」
神内の奴を相手していたら時間がギリギリだったり、忘れ物をしたり……毎回気をつけていれば済む話なのになぜか遅刻をしてしまう。幸い、数分の遅刻くらいしかしないが、こうも遅れる場面だけ紅子さんに目撃されているといたたまれなくなるな。
「さて、そろそろ時間だよ。準備はいい? お兄さん」
「ああ、事情は分かった。怪異の専門家みたいなフリをしとけばいいんだろ?」
「うん、大体はアタシが話を進めるから合わせてね」
時間ピッタリ。夕刻の時間だ。
公園の外からひた、ひた、と足音が聞こえてくる。
歩くのも億劫だと言わんばかりの、ゆっくりとした足取りの音だ。
同じく音に気がついた彼女と二人、目を合わせて頷く。
足音の主がやってくるまで公園の入り口を睨んでいると、曲がり角から傘を差した人物がやってきた。
この晴れ渡った夕空の中雨なんて降っていないのに、しっかりと抱き込むように身を縮めながらブレザーの男子生徒が歩いてくる。
こうして見るだけだと、彼がお化けだと言われても納得しちゃうだろうな。
「あの……あなた達が?」
「こんばんは。キミの悩みを解決するために来た専門家だよ」
「話を聞かせてほしいんだ」
皮肉気ないつもの笑みではなく、にっこりと微笑んだ紅子さんに男子生徒が安心したように息をつく。
大きくハッキリとした声で話しかけているため、ヒソヒソ話なんてできやしないが、人通りが少なくなっているので問題はないはずだ。
「あの……スレッドに書いた通りなんですけど。僕、どうすればいいんでしょうか」
「お兄さん」
「え? あ、うん。えっと、その、君の中で雨が降るようになったきっかけとかはあるかな? なにか心当たりとか」
俺が尋ねると、男子生徒は大きめの声で「あります」と言った。
大きな雨音の中で声を出していると意識しているせいなのだろうか。大音量の音源の中で人と話そうとすれば自然と出てくる声が大きくなる。そういう感じで、彼は話していた。
「もう、鼓膜が破れてしまいそうで……参ってたんです。話をするのに、僕の家に来てもらう必要があるのですが、いいですか?」
「原因が家にあるならそのほうがいいね。行こうか」
「親は大丈夫なのかな?」
「夜まで帰ってきません。大丈夫です」
道すがらに話を聞いた。
彼によると、雨が降って欲しくておまじないを試したとのことだった。
「僕、強制参加の体育祭が嫌で……」
ああ、それは嫌だな。
俺も強制的に参加させられる体育祭は苦手だった覚えがある。なにせ、背が高いからいろんな種目に出させられるのだ。単純に走るだけならいいんだが、特にバスケットボールみたいな小手先の器用さが必要になってくる競技は苦手だった。しかし、180㎝の身長で一番推されるのもバスケットボールなのである。気持ちは分かる。
「雨が降ればいいって思って。ネットでおまじないを調べて、信憑性がありそうなのを試したんです」
「どんなおまじないなんだ?」
「えっと、天気を変えるおまじないってやつで……近所にある廃れた神社で、リンゴをお供えして変えたい天気を三回お願いしながら唱えるんです」
ポツポツと、彼が語るおまじないの内容はこうだ。
まず、特定の神社に行き、お天気岩という平たい岩にリンゴを供える。
それから変えたい天気の願い事を三回、目を瞑って唱える。
この場合、彼は「雨が降りますように」と三回唱えた。
それが終わったらリンゴを回収して家へ持ち帰る。このときに喋ってはいけない。
家に帰ったら、これまた喋らずに粘土と布を使っててるてる坊主を作る。
彼の場合、晴れではなく雨にするためのおまじないなので逆さまのてるてる坊主を作る。供えたリンゴを一口齧るごとに逆さのてるてる坊主を作り、吊るす。それを繰り返すのだ。必ず、喋ることなくこれを行わなくてはならない。
そうして繰り返すごとにポツポツと雨が降り出し、彼は成功したことに喜んだ。
けれど、おまじないには喋ってもよいタイミングなどは書いていなかったようだ。
リンゴを食べきり、その分の逆さまてるてる坊主を作り上げ、雨が降り出して彼は声を上げて喜んでしまったのだ。
「きっと、あれでおまじないが失敗したんです。だから僕にだけ雨に囚われてるんです。きっとそう」
「ううん、でもおかしいねぇ。アタシ達には本当に雨が降っているようには見えないし、キミも濡れているようには見えない」
「本当なんです。ほら……」
紅子さんの言葉に彼が傘を下ろす。
「ほら、こんなに濡れて……寒い、寒い、寒いんだ」
「……お兄さん。アタシの目がおかしいんじゃないよね?」
「ああ、紅子さんはおかしくなんてないよ」
多分、見えている光景は一緒だろう。
彼は少しもずぶ濡れてになんかなっていない。
けれど、彼には自分がずぶ濡れになっているように見えているし、感覚もそうなっているということだ。俺達には異常なんてないように見えているのに、彼だけが異常を感知している。これは一体どういうことなのか。
「傘、差してていいよ」
「ありがとうございます……これがないと外は寒くて」
俺達には濡れているようには見えない……が、彼の寒がりようと脅えようは真に迫っているので、今は真実を伝えずに好きにさせておくことにした。
無理に言って、不安にさせる必要はない。
「ここが、僕の家です」
「ここが、ねぇ……けれど気配が薄い気がする。キミからも怪異の気配みたいなのは感じるけれど、それも薄いからなあ……そんなに強い怪異じゃないと思うんだけれど」
気配が感じない……強い怪異じゃないっていうのは、なんとなく分かるな。
俺達には影響が及ばないわけだし、影響を受けているのはこの男子生徒だけ。
怪異だとしても限定的な性質を持ったやつだろうな。
「家に怪異の気配はなし」
「家に憑いてるわけじゃないみたいだな。やっぱり本人か?」
「ぼ、僕に……ですか?」
弱気な彼を見る。
彼にしか聞こえない。分からない現象。
なら、どうやってそれを見せているのか?
「……ねえキミ、神社でお願いしたって言ったね?」
紅子さんがつかつかと彼の前に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「わ、わあ! そ、そう、です!」
「……なあるほど」
彼の顔を覗き込んでいた彼女はそうして俺のほうへと振り返ると、その口元を三日月に持ち上げる。
「ねえ、確かキミ。村雨君だったよね」
「は、はい!」
「……着せましょうか、着せましょうか。赤い赤いちゃんちゃんこに興味はないかな?」
「え? 今なんて」
「紅子さん!?」
囁きかけるように彼へ〝キーワード〟を言わせようとする彼女にストップをかける。
彼女は赤いちゃんちゃんこだ。彼女のその問いかけにYESと答えてしまえば殺されてしまう! 彼女がそんなことをするとも思いないが、紅子さんも怪異の一人だ。万が一があるかもしれない!
「解決してもいい? って聞いてるんだよ」
「え、そのためにお願いしてるんですから、いいに決まってるじゃないですか!」
「言ったね? 許可したね? アタシに、許可をしたねぇ?」
「紅子さんダメだ!」
彼女の赤い瞳の瞳孔が縦長になっていく。
怪異らしいその顔。怪異らしく歪んだ口元。彼の背後に瞬間的に移動した彼女は彼の首を裂いてやろうとガラス片を首元に当て、そして……
「わっ!」
「は、は? な、なにが……」
彼の耳の中から出てきたなにかに弾き飛ばされていた。
「いったた……ビックリした」
「村雨をいじめるな!」
彼女を突き飛ばしたそのなにかは、カタツムリのような姿をして地面にベシャリと落ちる。そして、声を張り上げた。
「なんだこいつ?」
「わー、わー! 無礼者! 摘まみ上げるな! 縮むだろうが!」
耳から出てきた時点で俺のトラウマを直撃しているため、とても優しくしようとは思えないそのカタツムリを観察する。
普通のカタツムリにしか見えない……周りに人魂っぽいのが漂っているから、怪異なんだなって分かるくらいで。
「はあ、酷い目に遭った。でも、原因は引っ張り出せたから結果オーライ、かな?」
「紅子さん、もしかしてわざと襲おうとしたのか?」
「うん、彼にしか影響を及ぼせないなら、彼の視覚か聴覚か、そういうところに干渉してるんだと思って瞳を覗いたらそいつが見えたんだよ。だから、宿主の身に危険が及べば出てくるだろうって」
「だからってあんな……」
本気で殺すつもりなのかと思ったぞ。
「っていうか、紅子さん! 大丈夫なのかそれ!」
「ああー、本当に酷い目に遭った」
カタツムリの突進を受けただけのはずなのに、紅子さんはほぼ全身びしょ濡れになっている。赤いマントがあるからまだ致命的なことにはなっていないが、正直目のやり場に困る状態だ。
そっぽを向きながら彼女に向けて手を伸ばし、パシリと俺の手を取って立ち上がる彼女はひたひたと足を鳴らしながら「ローファーの中まで濡れてるんだけれど」と呟いた。
「も、もしかして僕を苦しめていたのはこのカタツムリなんですか?」
「そうだよ、そいつがキミに雨が降ってると思わせてたんだ」
「な、なら早く退治してください! 僕もうあんなの嫌なんです!」
「む、村雨! そんなあ!」
「なんで苦しめてたお前が、そんな悲壮な顔してんだよ」
カタツムリの顔なんてよく分かんないけれど。
「退治しないよ。アタシが助けてくれって頼まれたのは、キミの〝雨降り〟の錯覚を治すことだけ。それに、そいつはキミの願い事を叶えようとしてああしてたんだよ。あれは善意だったんだ。だからアタシはなにもしない」
「ぜ、善意!? どういうことですか!?」
「わ、わしはただ、ちっさな頃から神社に来てくれる村雨のお願いを叶えてやりたかっただけじゃ。でも、もうわしには雨を降らせるほどの信仰もないし、体も小さい。神からただの怪異に成り果ててしまった。それでも、願いごとを叶えてやりたくて……」
まさか、それで取った手段が雨が降ってるように見せかけるってことだったのか?
彼の願い事は確かに雨を降らすことだったが、体育祭が嫌だから雨を降らせたかったんだし……彼だけ雨が見えていても意味なんてないのに。
「もしかして、あの神社の神様?」
「今はもう、ただの怪異じゃよ」
神が怪異になることなんて、あるんだな。
「神も怪異も本質は一緒。力の源が人の信仰か、それとも畏れかって違いしかないよ。分かった? お兄さん」
「あ、ああ、なんとなく」
意味は分からないでもない。
「そ、それじゃあもしかして雨降らしさ……ま……」
彼が目を輝かせながらなにかを言おうとした瞬間、紅子さんは剣呑な顔をしてなにかのスプレーを顔面に噴射した。
「村雨!」
「わわっ、紅子さんなにするんだよ!」
目をトロンとさせて倒れる彼を支えて彼女を睨む。
紅子さんは涼しげな顔で、膝を折って彼を受け止めた俺を見下ろした。
「そいつには名前がない。昔はあったんだろうけれど、今はもうね。怪異に名前をつけるなんてご法度、許すわけにはいかないかな」
「なんでだよ。名前くらい」
「名前くらい? 怪異に名前をつけるというのは、とっても危険なんだよお兄さん。姿カタチの曖昧なものを型にはめれば、弱体化することもあるし、手がつけられないほど強くなることだってあるんだ。今、そこの村雨君はカタツムリの怪異を神様として名前を呼ぼうとした。それを認めるわけにはいかないよ。短期間で神から怪異になったり、怪異から神になったりなんてしたら、体が耐えきれずに崩壊するだけだからね」
体が崩壊? そんなことが起こるのか。
更に紅子さんは語った。怪異に名前をつけるということは、親や恋人のようになることを指す。怪異を一番にその名前で呼び、畏れ、信仰する第一の人間。そんなものになってしまえば、怪異を見捨てる選択をしない限り、一生その怪異が付いて回ることになる。子供にそれは酷だ、と。
「まったく、お兄さんはこっち側の世界について知らなさすぎる。そんなんじゃ本当に危ないよ」
「そりゃ……」
ずっと軟禁されていて、人付き合いだって再開したのは最近だからな。
怪異達の世界を勉強する機会なんてなかったんだ。仕方ないだろ。
「そうか、そうじゃな……わしがいては村雨に迷惑か」
「キミも、神社に来る彼を見守るくらいならいいだろうけれど、取り憑くのはやめてあげなよ。結構参ってたみたいだからね。優しさが仇になることもあるんだよ」
「…………」
紅子さんのその言葉に、俺は言葉が出なくなった。
思い出すのは、救おうとして、そして結局それが残酷な優しさとなってしまった青凪さんのことだ。
そういえば、夢の中でも紅子さんは「優しさは利用されるだけ」って言ってたっけ。でも、俺はそんなことを言うのは寂しいと思うんだよな。確かに間違えるときもあるが、彼女みたいに「優しさが罪」とまではどうしても思えない。
「さて、キミも帰りな」
「ああ……村雨には悪いことをしたよ」
「じゃあね」
紅子さんが手を振るが、所詮相手はカタツムリ。全然動かない。
「……紅子さん、神社まで連れてってやらないか?」
「この、お人好し」
「お人好しで結構だ」
カタツムリを手のひらに乗せて神社に向かう。
カタツムリ本人。本人? に任せておけば場所は分かるからな。
「村雨君はどうすればいいんだ?」
「家の中に入れてあげようか」
紅子さんは言いながら、また前みたいに紅い蝶々に変化して壁をすり抜けていく。内側から、鍵の開く音がした。
そうして同じように鍵を閉め、彼女が壁をすり抜けて帰ってくる。
「さっきのスプレーには記憶を混乱させる作用もあるから、もう何事もなく過ごせると思うよ」
「記憶の混乱? それはなんでだ?」
「……アタシ達のことを覚えられても困るから、かな。お兄さんみたいな特殊な人間はともかく、下手な人間に存在がバレて晒されたらたまったものじゃないからねぇ」
「……そうか。怪異の世界も肖像権はあるよな」
「そんなところ。それに、軽いノリで依頼を出されても困るからね。情報精査してるグレムリン達が過労死しちゃうよ」
「そういうものか」
歩きながら考える。
俺もまだまだ知らないことがある。
だから〝こちらの世界〟の常識を、ルールを、覚えなければならないと。
「へっくしゅ」
「大丈夫か?」
「いくら濡れ透けだからって欲情はしないでね」
「誰がするか!」
紅子さんは先輩であると同時に、やっぱり厄介な幽霊だ。
俺はそんなに軽薄じゃないぞ。
「あー、それにしても……お兄さん。彼がやったのが晴れのおまじないじゃなくて良かったね」
「……? なんで晴れだとダメなんだ?」
「だって、雨で耳が壊れそうになったんだから……」
――晴れなんて願ったら、すぐに失明しちゃうよ
その言葉に、俺は今日で一番ゾッとしたのだった。