ニャル様のいうとおり   作:時雨オオカミ

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紅い蝶ひとひら

 ,

 

 

 

 

 ── パチン、となにかが弾けた。

 

 

 

 

 

 

 アラーム音が鳴っている。

 ああ、起きなければ。起きなければ怒られる。

 もしかしたらまたあいつが布団の中に潜り込んで朝チュンごっこをしてくるかもしれない。それは防ぎたい。

 それでもまだ眠っていたくて頑なに布団を手放さずにいると、頬を誰かに軽く突かれた。催促か、催促だな。たまには休ませろよ。

 そう文句を言おうとしても、言葉は出てこなかった。

 

「ちょっとー、兄ちゃん。今日は寝坊しないようにするって言ってたじゃん。赤座さんが待ってるよー?」

 

 聞き覚えのない声…… いや、もう聞かなくなったはずの、声。

 一気に目が覚めて、勢いよく布団から体を起こすとゴツッと鈍い音が響いて額に衝撃が走った。

 

「いっ、た」

「いってぇぇぇ! 兄ちゃん石頭なんだから勘弁してよぉ!」

 

 暫くお互いに頭を抱えて呻いていたが、確かに聞こえる。

 現実に、今、弟の…… 俺を忘れてしまったはずの弟の声が。

 

令二(れいじ)…… ?」

「なんでそんな変な顔してるんだよ。起きない兄ちゃんが悪いんだろ。今日も赤座さんが迎えに来てるよ。大学の同じ講義に出てるんでしょ。早く支度しろよ」

 

 赤座さんて、紅子さんのことか? 

 大学? 紅子さんと? どういうことだ。

 

「なに言って、紅子さんは幽霊で…… 俺は高校のときに、修学旅行で…… もう父さんも母さんも俺のことなんて覚えてなくて……」

「はあ? なに言ってんだよ。つーか赤座さんそんなこと言ったら怒るだろ。告白したのは兄ちゃんのほうなんだからさあ…… なに、悪い夢でも見てたの?」

 

 夢…… ? そんなはずはない。あれは、邪神に殺されたクラスメイト達は夢なんかじゃ。

 それに、紅子さんだって高校生で死んでいるんだ。間違っても俺と同じ大学に通ってるなんてありえない。俺だって、あれから大学に通ったりなんてしていない。

 夢なんて、あれが夢なんてそんなはずは。

 俺が三年間ひたすら苦しんだのも、救いたい人を救えなかったのも、人じゃないあちらの世界の住民と交流したのも、全部全部…… 夢なんかじゃないはずで…………

 

「っそうだ」

「兄ちゃん、だから早くしてって」

 

 ハッとしたように俺は立ち上がり、見覚えのある部屋の中をガサガサと家探しし始める。いや、かつての自分の部屋なんだから当たり前の光景なのだが、気分的に。

 そうして見つけたのは高校の卒業アルバム。

 

 俺は高校を卒業することもできなかったというのに、そこにあるアルバム。

 ページを捲っていけば、そこには修学旅行で楽しむ写真もあるし、無事帰りのバスに乗っている写真さえある。

 その後も他愛のない日常や文化祭やらの写真が続いていて…… その中には死んだはずのクラスメイトの姿もあった。

 それを見た途端、俺の頬に止めることのできない涙が流れ落ちていく。男が泣くなんて情けないな、とか、そんなこと考えている暇はなかった。

 

「えっ、えっ、兄ちゃんなに泣いてんだよ。さすがにここまでくると気持ち悪いって。夢と現実の区別もつかないなんてさすがにないよ。そんな悪夢だったの?」

「…… ああ、えっと、紅子さんが、待ってるんだっけ」

 

 困惑する弟に、俺のほうがおかしいのかもしれないと思い直して肯定だけ返す。

 

「そうだよ。早く準備しろって」

「…… 分かった」

 

 あまりにもあの不幸や生活が生々しくて、あまりにも印象に残っていて、リンを撫でた感触も、紅子さんが俺の目の前で一度死んで、また復活したときの光景も、アリシアやレイシーの顛末も、なにもかもがリアルな感覚で…… 記憶からこびりついて離れない。

 でも、落ち着いて思い出していけば心の奥底から俺の本来の生活が顔を覗かせる。

 そうだ、そうだ。こっちが俺の、俺があのとき失ったはずの日常。なによりも尊い、〝 普通 〟の生活なんだ。

 

 記憶にある通りパパッと支度をして、〝 いつもの 〟約束の時間を15分も過ぎてから玄関へ向かう。

 そこでは弟がなにやら騒いでいて、誰かに謝っているように見えた。

 

「遅いよ、令一さん」

 

 ひとつ、違和感。

 

「あ、ああ、遅れてごめん。紅子さん」

「いいけどね。講義に遅れて困るのはキミだし。深夜までナニをしてたのかなぁ?」

「な、なにも。悪い夢を見て混乱しただけだよ」

「おやおや、悪夢を見て泣いちゃうなんて令一さんも可愛いところがあるんだねぇ」

「え、え?」

「さっきまで泣いていたんじゃないかな? 跡が残ってるよ、お寝坊さん」

 

 紅子さんに指摘されて慌てて頬を拭うが、その手をそっと抑えられる。

 

「ああ、ほら…… そんなに乱暴にしちゃダメだよ」

「っわ」

 

 彼女のハンカチが顔に当てられて、間近に迫る顔に思わず仰け反る。

 

「なにかな。アタシがあまりにも可愛くて照れちゃう?」

「え、っと」

 

 間違ってはいないが間違いだ。なんだそれ。

 いや、混乱しているな。夢での紅子さんとあまりにも違うものだから、少し違和感がある。おかしいな。こっちが現実のはずなのに。

 

「ごめん、まだ混乱してるみたいだ」

「そう。別にいいけれどねぇ…… 大丈夫、アタシがちゃんと見ててあげるからさ」

「ほらー、兄ちゃんも赤座さんもイチャイチャしてないで早く行ってってば! 困るのは二人だよ?」

「…… 行こうか」

「そうだねぇ。アタシまで講義に出られなかったらどうしよ。責任、とってくれるんだよねぇ?」

「からかうなって」

「ふふ、いつものことでしょうに」

 

 弟に急かされて二人揃って歩き出す。行き先は聞かなくとも理解しているし、歩き慣れている道だ。間違えることはない。

 やはり夢でのことなんてすぐに忘れるものだ。現実でさえ忘れさせるような凄惨な夢だったとしても。

 

「きゅう」

「ん?」

「どうしたの、令一さん」

 

 なにかが聞こえたような気がして、立ち止まる。

 けれど、捨て猫でもなし。なにもないことを確認してまた歩き出す。

 

 大学でも日々と変わりない。

 ちょっと俺が変な夢を見たってくらいで、そうなにも。

 

 紅子さんと一緒に受ける講義も、そうでない講義も、話題は何気ないこと。ちょっとした噂。どこそこの店のクレープが美味しいとか、そんな普通のことばかり。

 

 ── ねえ知ってる? 

 ── 自分のドッペルゲンガーを見てしまうと死んじゃうんだってね

 

 だけれど、自然と耳に入ってくる。

 そんな話が気になって仕方がないのだ。あんな夢を見ていたからだろうか。不思議な不思議な怪異譚。周囲は人外だらけで…… そんな世界に踏み込む切っ掛けとなった紅子さんとの夢での脱出ゲーム。いつもいつでも彼女が近くにいて、絶望に飲み込まれそうになっていた俺の新たな〝 相談相手(ゆうじん) 〟になってくれた幽霊。

 壮大で救いのないような夢の中で、初めて俺の心を掬い上げてくれたからかい癖のある都市伝説。

 その姿がどうしても重なって、ここにいるはずの紅子さんに失礼なのが分かっているはずなのに影を追う。

 

 大学には秘色さんだっているし、彼女は年上の男性と付き合うことに成功している。親友の桜子さんとはお互いに手作りマフラーまで送る程の仲だ。

 桜子さんは料理や裁縫が得意なようで、ハンドクラフターとしてネットにショップを開設している。結構売れているらしい。

 

 そう、そこかしこに知っている姿がある。

 夢の中で救うことができなかった者。人ではなかった者。不幸に終わった者。それらが皆、この町の中で幸せに暮らしている。

 まるで夢の中ではこの世の全ての幸福を反転してしまったかのような、そんなキラキラ輝いている世界。

 

 この彩色(いろどり)町には自然が溢れかえり、街中を歩けば花壇や公園などがすぐに見つかる。

 季節外れの蝶々まで飛んでいるのを見かけるほど、この町はとても美しい。

 

 そう、望んだままの。

 願ったままの美しい世界。

 

 紅子さんと大学から帰る途中、いつものようにからかわれながら寄り道をし、評判のクレープを奢る。

 無邪気にとはいかないが、僅かに微笑む彼女の顔をもっと見ていたいから。

 夢の中では決して見られぬような心底幸せですと表すような、その姿を。

 

「令一さん?」

「…… っえ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「また? まあいいけどねぇ。そんなに夢のことが気になるのかな。いいよ、相談に乗ってあげるからそこの公園に入ろうか」

 

 情けないな。心配をかけてばかりだ。

 弟が言うように、告白したのは俺からなのだ。呆れて嫌われてしまわないためにもあんまり弱いところを見せたくないよなあ。

 それでも、いち早く気がついて彼女は世話を焼いてくれてしまうのだが。

 

 公園にひらりひらりと蝶が舞う。

 鮮やかな紅色の蝶々が、視界を掠めて飛んでいく。

 

「きゅ」

 

 いつもいつも聞いていたその声を引き連れて。

 そうして、

 

「紅子さん?」

「…… 令一さん、走って」

 

 私服の彼女に手を取られ、そのまま公園を抜けて駆けていく。

 焦ったように俺の手を引く紅子さんはまるで紅色の蝶から逃れるように、俺を連れて駆けていく。

 なぜか、ひどく胸騒ぎがした。

 

 俺達二人の息遣いだけが空気に溶けていく。

 もういいんじゃないかと後ろを振り向いてみても、まだ俺達を追うように紅色の蝶がひらひらと舞い踊る。

 おかしい。蝶々なんて人間が走れば簡単に振り切れるはずなのに。絶対におかしい。

 冷や汗が流れる。この感じ、夢の中で何度も体感した…… そう、怪異の気配。

 

 そうして街角を走って、走って、走って……

 

 ふと、抜け落ちていた考えが頭の中を過ぎった。

 

 ── そういえば、なんであいつが。神内千夜がいないのだろう

 

 夢の中ではしつこく俺を虐げていた、あいつが。

 知り合いが夢の中に出てきていたというのなら、俺はあいつに出会ったことがあるか? そんなことはない。今日、俺はあいつの姿を見なかった。記憶の中にもない。まったくの知らない人間……

 

 ぞわりと、得体の知れない怖気が背筋に走る。

 

 嫌な予感がする。でもそれがなにかは分からない。

 なんだか、このままではいけないような…… そういえば、なんで紅子さんはあの紅色の蝶から逃げるのだろう。

 鮮やかな紅の蝶なんて、確かに不気味ではあるけれど。必死になって逃げるほどでは……

 

「な、なあ紅子さん」

「な、なにかな?」

 

 走りながらで息がきれる。でも、どうしても聞いておかなければならなかった。上手く言葉にはできない。けれど、絶対に言わなくてはならないこと。

 

「あの蝶はなんだ? どうして逃げるんだ?」

 

 確かに感じる妖しい気配。でも、なぜだか嫌な感じはしないんだ。ただの勘でしかないけれど。逃げなければならないほど悪いものでは、ないのではと……

 

「ね、ねえ令一さん。アタシ怖いんだよ。分かんないけど、あれを見てると、すごく怖いんだ。おかしいかな」

 

 泣きそうな横顔に、らしくないと思った。

 弱音を吐くなんて、紅子さんらしくない。

 あの人は、こんなにか弱い女の子ではないはずなのだ。

 俺の、俺の知ってる彼女とは……

 

「違う」

 

 ピタリと、彼女が立ち止まった。

 そして、彼女の背にぶつかるようにして紅い蝶が溶け消えていく。

 強い衝撃を受けたかのように紅子さんの体が前方に傾いだ。

 

「どう、して」

 

 絞り出すようにそう言った途端、彼女の姿からバタバタと夥しい量の紅色の蝶が飛び出して行き、その姿が見えなくなる。

 蝶に埋もれるようなその光景に心臓が跳ねる。繋いでいた手は、自然に彼女の方から離されてしまっていた。

 

「……ああ、そうだね。アタシはこんなにか弱くなんてない。弱音をキミなんかに話してやらない。アタシは生きてなんかいない。怪異だ。これは、お兄さんが見ていた〝 理想の赤座紅子 〟の幻想にすぎないんだよ」

 

 そうして、紅色の蝶が全て周りに散っていくと、そこに立っていたのは…… 果たして、夢の中と全く同じ姿。

 女の子らしい私服ではない、赤いセーラー服の上に真っ赤なマントを羽織った怪異の紅子さん。

 

「紅子、さん」

「ここはお兄さんの理想の世界なんだね」

 

 目を細めて俺を真っ直ぐに射抜くその赤い瞳に、蛇に睨まれた蛙のように竦みあがる。なぜだが彼女が酷く恐ろしいように思えてしまって、後ずさる。

 

「でもねお兄さん。これは、悪い夢なんだ。お兄さんは悪い夢に囚われている。そりゃあ、理想の世界で生きたいっていうのは悪いことじゃないけれどね…… 戻ってこられなくなったらいけないよ」

 

 本当に? 

 ずっとずっと夢の中の世界が不幸で、現実が幸福だと信じ込もうとした。

 それが俺の理想だったから。文字通り、夢にまで見た世界だったから。浸ろうとした。慣れようとした。嫌なことも、不幸なことも、なにもかも無かった世界があってほしくて。

 それが俺の望みだったから。

 

「戻ってきなよ。そのためになら……」

 

 紅子さんは、いつの間にか握っていたガラス片をその首に当てる。

 

「ちょ、ちょっと紅子さんそれはっ……」

「そのためになら…… アタシは、何度だってキミの理想を殺してあげるよ」

 

 ニヒルな笑みを浮かべたまま、その手をすいっと横にズラす。

 それだけで彼女の首は横一文字に裂かれて事切れる。

 彼女のいた場所から、大量の紅い蝶がバラバラに散っていく…… それらを捕まえようと手を伸ばしても一匹も捕まることなく、スルリと俺の手の中から消えていくのだ。

 まるで、本当に紅子さんみたいだ。掴んだと思っても掴めない。そんな彼女。

 

「きゅう」

 

 呆然としていれば、また聞き覚えのある声で我に帰った。

 

「リン…… 、リン、なのか?」

「きゅうう」

 

 一匹の紅色の蝶と、赤色の小さな竜。

 それらが俺の目の前をはたはたと舞っていた。

 

「…… 分かったよ」

 

 道しるべのように俺を待っている〝 二人 〟をゆっくりと追いかける。

 理想の、決してありえない世界から別れを告げるように。

 

「…… 分かってたよ」

 

 情けなくも涙が落ちていく。

 蝶と竜を追っていけば、俺の意識は急速に遠のいて行き…… そして。

 

 

 

 

 ── パチンと、なにかが弾けた。

 

 

 

 

 

 目を開く。

 ふらりと体が傾げそうになるのを両足で踏ん張る。どうやら、立ったままあの世界に旅立っていたようだな。

 そうして、俺は真っ直ぐとその元凶を見つめた。

 

「おはよう、れーいちくん。愉しい夢は見れた?」

「起きてすぐにお前を見るなんて、最悪な目覚めだよ」

「うんうん、いつもの通りだね。なによりだよ」

 

 ムカつくその顔。夢の中で一切出てこなかった奴。俺が理想の世界からいらないと判断した、大嫌いな奴。神内千夜(ニャルラトホテプ)だった。

 

「おそよう、お兄さん。体にどっか変なところはない? 無事かな?」

「ああ、お陰様で。それより紅子さんのほうこそ大丈夫なのか? 首…… 切ってたけど」

「え? …… あー、ごめんねぇ。アタシの意識のカケラをリンに渡して連れ戻しに行ってもらってたんだけど…… 小さなやつだから、記録は見れないんだよねぇ…… なに、アタシ自殺でもした?」

 

 そうか、覚えてないのか。そうか……

 

「うん、まあそうだな」

「へえ…… まあいいや。さて、〝 枕返し 〟の捕獲だけれど、もう済んだよ。案外あっさりね……」

「なあ、結局なんで俺は寝てたんだよ」

 

 ああ、そういえば無差別テロのように枕返しがやらかしまくるから捕獲しに来たんだったか。そこになぜ神内がいるのかが分からないが。

 

「覚えてない? お兄さん、バクの風船を割っちゃったんだ」

「バク?」

「うん。本人はいないけれど、邪神が使った。バクは夢の詰まった風船を販売してるらしいから入手経路はそれだろうね。お兄さんが乱入してきた邪神を斬ろうとしたときに、盾にされた風船を割って飲み込まれちゃったんだ」

 

 あー、つまり、また俺のミスか…… それであんな目に。

 俺達の会話を聞きながら、憎らしい邪神が小首を傾げながら 「でも、心地の良い夢だったろう?」 と聞いてくる。

 

「…… ああ。こちらを現実と思いたくないほどには、居心地が良かったよ」

「くふふ、良かった」

 

 心底嬉しそうに奴が笑った。

 

「良かったって…… なにがだよ」

「なにって、誕生日プレゼントだよ。居心地の良い夢を選ぶのにも苦労したんだよ? 苦労に見合う出来だったみたいでなによりだよ。たまには眷属も労わないとね」

 

 と、そんなふざけたことを抜かす奴にもう一度斬りかかろうとして紅子さんに制される。

 

「邪神…… 本気で善意でやったって言いたいのかな」

「それ以外にないだろう? 誕生日くらいいい思いをさせてあげないとね」

「…… あっ、そう。なんというか、性質(たち)が悪いよねぇ」

 

 あれで善意? 嘘だろ。悪意しかないだろ。

 なに言ってんだこの邪神。それを本気で言っているあたり、終わってるな。

 

 紅子さんがあのことを覚えていないのは少し残念だし、とんだ誕生日になってしまったが…… まあいい。いや、よくはないが…… 過ぎたことだ。

 

「それじゃ、私は先に戻ってるからね。あとで感想を聞かせてよれーいちくん」

「さっき最悪だって言ったばかりだろーが!」

 

 この数年。邪神野郎はずっと祝ってくれたことなんてなかったのに、どんな心境の変化があったんだよ……

 

「散々だったねぇ」

「ああ、そうだな」

 

 ジタバタと暴れる無差別テロ枕返しを俵抱きにして一息つく。

 あとはこいつを引き渡すだけだ。それだけで終わりだ。

 

「ああ、そうだ。誕生日おめでとう、お兄さん」

「うん。ありがとう紅子さん」

 

 せめて来年は普通の誕生日になってほしいところだ。

 そんなことを思いながら、隣の彼女を覗き見る。

 同じくこちらを見ていた彼女は不敵に笑って、「どうしたの? アタシに見惚れちゃった?」なんていつものように軽口を叩く。

 俺はそれに同じく軽口を返そうとして……立ち止まる。

 

 なにも出てこなかった。

 彼女に見惚れていた? 俺が。そうだ、見惚れていたのは本当だ。なにも言い返せない。

 

「お兄さん?」

 

 なにも言い返さない俺に対して、紅子さんがどことなく不安気に声をかけてくる。

 そんな姿に、不安な顔はしないでほしいだとか、心配かけたくないだとか、どうしようもなく胸の奥がギュッとするような、熱くなるような感覚に陥って混乱する。

 

 あれ、俺。

 

「ねえ、お兄さんったら」

「ごめん、なんでもない。紅子さんに見惚れてたのは図星だったから」

「……そ、そう。そっか。そう言われて嬉しくないなんて言うほど、アタシは意地悪じゃないよ」

「知ってるよ」

 

 そっぽを向いて照れる彼女がどうしようもなく可愛らしくて、愛しくて、そうして俺は気づいてしまったんだ。

 

 ああ、俺。きっと紅子さんのことが好きだったんだなって。

 

 今更気がついた。

 今更知ってしまった。

 今更自覚してしまった。

 

 こうなってしまえば、もう自覚する前には戻れない。

 

「紅子さん、どっかご飯食べに行かないか?」

「アタシはお兄さんの手作りがいいなぁ」

「っ……分かった」

 

 甘えるように言う彼女に、いつもなら少しの動揺で済んだはずの心が動く。

 店に食べに行くよりも、俺の手料理がいいだなんて……そんな殺し文句卑怯だ。

 

「さ、行こ」

「ああ」

 

 すぐ隣、肩が触れ合ってしまうほど近くで並んで歩く。

 今日は人生で最高の誕生日になった。

 

 やっぱり来年は、普通の誕生日なんかじゃなく、もっともっと人生で最高の誕生日の記録を更新していきたいなと……そんなことを思ったのだった。

 

 

 




 1月23日は主人公、下土井令一の誕生日でしたとさ。

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