焦燥を押し殺しながら、鳶一折紙は街中を奔り回っていた。
五河士道と<プリンセス>を見失ってから大分時間が経っている。かれこれ30分以上もだ。
折紙は
それが崩れたのは<プリンセス>が士道に近づき、身の程知らずにも行動を共にしようとしてからであった。初めは驚きと戸惑いが飛来し、次いで怒髪天を突くと、折紙は憎悪と怒りが宿った。ソレに身を任せて飛び出していきたかったが緊急用の小型デバイスのみの装備しかない今では返り討ちにあうと自分に言い聞かせられる程度の冷静さは残っていた。忌々しいが<プリンセス>に士道を害する気配は無い……とは言い切れない。その時は是非もなくこの身を挺して護るだけだ。
それにしても奇妙な光景だと折紙は疑念に駆られる。
昨日の四月一〇日。来禅高校始業式の放課後に起きた空間震と<プリンセス>の出現。従来通り空間震は前哨戦として、主戦たる精霊との戦闘が開始されるかと思いきや出て来て間もなく<プリンセス>は
しかし今日この時の光景を見ればそうは言っていられなかった。<プリンセス>が人間と接触し、よりにもよって五河士道と行動を共にしているのだ。どうしてこんなことになっているのか、五河士道と共にいる要因に折紙は1つしか心当たりがない。
<プリンセス>が逃亡する直前に見えた人影。あれは本当に見間違いではなく五河士道だったのなら共通点としては弱いが成り立つ得るものではある。どうして士道が空間震警報が鳴っていたにも関わらずシェルターに行かずに外に出たのか……あの右手の怪我はどうしたのか、疑問は絶えないが全部後回しだ。自分は冷静に、殺意は精霊に向け、折紙は士道を見守り、<プリンセス>の監視を開始した。
彼我の距離は精霊の感知範囲にギリギリ捉えられない位置をキープしている。居場所がばれる位置ではないが会話が聞ける位置でもなく、動向を探るには顔色を見るしかなかった。初めのうちは霊装を解除し来禅高校の制服に偽装した<プリンセス>が不機嫌に商店街を歩いていた。忙しなく周囲を警戒してくるため気付かれないよう細心の注意を払い、様子を見る。何やら声を上げて士道を言い退けているようだが暴れる所作ではない。一方的に我儘を押し付けている感じで、士道もさぞ迷惑千万していることだろうがこの場では都合が良い。士道が<プリンセス>を見限れば、あるいは逆に<プリンセス>が士道が見限れば彼の安全を確保できる好機と<プリンセス>を討ち取る好機が同時にやってくる。アレはいま精霊の絶対防御たる霊装を装備していないのだ。コレはまたとない、千載一遇のチャンス。一挙手一投足見逃さんと神経を尖らせていると、折紙は信じられないものを見た。
手を握ったのだ。恥ずかしそうに、たどたどしく、握る二人は見えない壁でも造ってるみたいに周りを見ずに、二人だけの世界を作っていた。士道の気まずさも<プリンセス>の不機嫌さもない。二人の間に入り込む余地も無い。あそこには士道と<プリンセス>しか存在しなかった。
―――殺意を超え、恨みを抑え、苛立ちが募り……嫉妬した。
鳶一折紙は精霊を憎んでいる。
精霊は敵、斃さなければならないモノ。その人類の総意に加え、折紙は私怨で精霊を駆逐しようとしている。風化することなど
そんな義務感を優に超えて折紙はどうしようもなく嫉妬した。
どうしてあんな怪物が彼と手を繋いでいる?
どうしてそんな嬉しそうな顔をする?
どうしてあそこにいるのが私じゃない?
唇の端に血の一滴が、握り拳の内側には血の雫が滴り落ちる。
殺意だけであの女を殺せるのならどれだけ素晴らしい事だろうかと思わずにはいられない。
そんな折紙に追い討ちを掛けるように事態は深刻化した。
士道と<プリンセス>が、抱き合っていたのだ。
正確には少し違うが変わりはしなかった。身体はこれでもかというくらいくっ付きあい、唯一の例外は唇だけだった。
その時の瞬間を折紙はよく覚えていなかった。
限定的な記憶喪失なのか、自分がどうしたのか、自分が何をしたのかが分からず、折紙はその瞬間意識を手放してしまったのだ。
次に気がついたのは<プリンセス>が士道を抱きかかえて街中を駆け廻ろうとした時だった。士道はグッタリとしていて顔色が優れない。一体どうしたのだと折紙は立場も目的も忘れて駆け寄ったが、<プリンセス>の足の速度が尋常でなく影を追うのが精いっぱいだった。向こうは精霊とはいえ人間一人を抱え、こちらは既に
そして健闘虚しく、ついに折紙は<プリンセス>に撒かれてしまった。
あの速さならば隣町はおろかニ、三の県をもまたに駆けていても不思議じゃない。昨日の例が合ったばかりなのだから尚のことだ。
落ち着け、落ち着けと頭に叩き聞かせても逆効果にしかならなかった。士道の身体の具合がどうなっているのか心配で焦りが積もる。通信機器は電波妨害でもあるのか通信不能に陥りAST本部への連絡もできない。
何はともあれ報告が来るまでは虱潰しに探すしかないと足を動かしていくと―――
「――――ッ!」
今まで走ってきたのはなんだったのか、士道と<プリンセス>がいとも容易く見つかった。建物から出てきた姿を確認して慌てて隠れ、折紙は息を潜めた。
士道はもう自分の足でちゃんと立って歩いている。体調は良好そうだった。
体調は良好そうなのだが、顔色は…………………
「……?」
折紙は訝しげに眼を細める。
士道の顔色が、よくわからないのだ。
何だあの顔は? 憔悴していて、失意に塗れ、でもどれどもない。
表しようのない顔、としか言えなかった。
否、一つだけ確かなのは微妙に顔が赤らんでいることだけだった。
ついでに見れば<プリンセス>も似たような顔色となって赤らんでいる。
――――本当に、なんなのだ?
折紙が離れていた時間の合間に一体何が起こったのだ?
答えを求めて折紙は士道と<プリンセス>が居たであろう建物に気付かれないよう近づき確かめる。
そこの看板には、こう書いてあった。
〝夢と希望を『産みだす』城 ドリームランド〟
〝身体と心を癒すならココ!! 快適な空間で2人を安らかなる極楽へ誘います!! もちろん、3P・4P以上も全然OK!!〟
「………………………………」
ぷっつん――――そんな音が頭の中で聞こえた。
無言で看板に拳を打ち抜いた。
打って打って打って打って打って打って打って打って打って打って打って打ちまくり、鉄の打楽器を己の拳で奏でながら放ち続ける。顕現装置によって強化された拳には傷の一つもついていないが、たとえ強化されていなくとも折紙は拳を放ち続けただろう……そうでもしなければこの胸の激情を持て余して何をしてしまうか分からない……いや、現在進行でしているか。
鉄屑と化した看板を横目に荒くなった息を整える。気持ちとは裏腹に脳では冷ややかに事態を把握していた。
<プリンセス>に対する殺意が過剰摂取され、逆に落ち着いていく。
折紙は先程出て行った仇敵を見据え、殺る気満々と肝を据えた。
装備など殺意だけで十分、ASTの立場など知ったことではない、コノウラミハラサデオクベキカ。
あの怪物はまだ視認できる場所にいる。後ろ姿は隙だらけだ。今なら殺れる―――!
自分では止められない、折紙が怒りで愚行を犯そうとしたその時、軽快な電子音が耳に入り、一瞬で感情が四散した。
鳴っていたのはAST隊員に配布されている携帯端末だった。煩わしくも素早く手に取り応答する。
『ちょっと折紙っ!! あんたまた無断で顕現装置使ったでしょ!? 観測結果が出るまで待機って言っておいたでしょうが!!』
「緊急を要する事態が発生したため独断で使ったまで。追って連絡する」
『待ちなさい!? やっと繋がったのに何で切ろうとするのよ?!』
耳がキンキンするほど喧しく怒鳴り散らすのは上司である日下部燎子だった。
こんなになるまで時間を掛けたのは其方なのだからむしら怒鳴り散らしたいのはこっちだ。
『まったく、昨日の事といい反省する気ゼロね……まあいいわ、それで例の女の子だけど』
処分は後回しと、燎子は調査結果を報告した。
『観測の結果、存在一致率九八・五パーセント。ほぼ……いえ間違いなく精霊でしょうね』
「そう」
折紙は特別なにも思わない。なにせこの目で確かめたのだ。観測機を手配したのは業務上にすぎない。
『あんたを疑ってたわけじゃなかったけど、信じられないわね……空間震も起さずに精霊が一般人に紛れこんで此処に来ているなんて』
「戦闘許可は?」
『お偉方がまだ協議中よ。避難も何も無い状況で戦闘なんて出来ないし、下手に刺激して暴れられたりしたらアウトだし、もうしばらくは静観を決め込むでしょうね』
「それでは遅いこれはまたとない千載一遇の好機これを逃したら次はいつ死留められるかわからない即刻勝負を仕掛けるべき」
『ちょ、ちょっとっ、なにをそんなに慌ててるのっ? 落ち着きなさい、緊急用一つで何とかなる訳ないでしょう』
面食らいながら燎子は折紙を窘める。
普段の淡々とした口調は変わらないのだが、そこには未だ嘗てないほどの熱が込められている。折紙が精霊に対して強い憎悪を抱いているのを知っている燎子だが、それとはまた違うモノが含まれているように感じていた。
『とにかく! 出動命令だけは捥ぎ取ったから。折紙、一度本部の方に戻って装備を整えなさい。こっちも<プリンセス>を捕捉できたから作戦を開始するわよ。準備が出来次第一〇一地点で合流。いいわね』
「……………了解」
何を暢気な、そうこう作戦をしてる内にまた逃げられてしまうかもしれないではないか。
しかし、ここで駄々を兼ねても判断を覆らないだろうと、折紙は尾を引く思いで、血の涙を流す思いで、その場を後にした。
決殺は持ち越しとなり、折紙は冷たくその殺意を研ぎすませる。
次に会った時、全てを終わらせると、そう誓った。
○ ○ ○
街の喧騒が随分遠くから聞こえるなと、士道はぼんやり思った。別に天宮市から離れているわけではない。今は再び商店街を歩きだしている。
自分の耳が遠くなったのか、それも当て嵌まるだろう。あるいは関心が無いのだろう。もしかすると知らず知らずのうちに隣界みたいな別世界に辿りついて彷徨っているのかもしれない。はたまた幽霊にでもなってしまい肉体と霊体との差異が出ているのかと斜め上の可能性も模索しだした。
喧騒もそうならすれ違う人々についても似たようなものだった。声はおろか顔すら碌に印象に残らない。
士道の耳には「そういえば駅の南に新しい商店街ができたんですよねぇー」とか「今から行けばなんと商品すべてがタダで提供されるんですよぉー」とか「初デートだったら行くしかないよね!」とか「男ならきちんと女の子を色んな場所にエスコートしなくちゃダメだよね!」とか「……あ、あのぉ~……聞いてますか?」とか「あの! 少しだけっちょっとだけでいいんです! 行ってきてくれませんか?!」とか「お願いします聞いてください」とか「……無視しないでくださいぃぃ」とか、不自然なくらい大きな声で売り込みをする人たちの言葉を完全にシャットアウトしていた。
士道が向ける視線は、関心は一つだけ。
この左手と繋がっている右手の持主たる十香のみであった。
「……………………………」
「……………………………」
ドリームランドを出た後、士道と十香は一言も喋っていない。
険悪な雰囲気だから、ではない。気まずい空気だから、でもない。
手を繋いで歩いている。
それが続いている。
ずっと、続いている。
「……………………………」
士道は十香を見れなかった。
見る資格がないし、見ることが許されない、そう考えているからだ。
士道は、十香に最低なことをした。
平手打ちで済まされる話ではない、首を落とされたって足りないだろう。
年頃の男の子だから、年頃の異性を過剰に意識してしまうのは普通かもしれない。性への興味を持つのだって思春期ならば当然の事。ソレで自分の感情を制御出来ず、煩悩が走ってしまうのは、百歩、千歩、万歩、億歩と譲れば〝仕方がない〟の一言が成り立つ可能性はあるだろう。そうだったら、まだ救いはあったかもしれない。だが、士道はソレが主ではなかった。
これから出会うであろう少女達の相手の、一番目の相手として。
打ちひしがれた。
自分が、こんな下種い思考を有していただなんて、認めたくなかった。何かの間違いだと主張したかった。
しかし、現実として士道は
十香の感触も、匂いも、味も、声も、その時の顔も、鮮明に思い出すことができる。
言い訳など、何の意味も持たない。どんな理由があろうともそれは士道の都合。十香には関係が無い。
十香には報復の権利がある。それこそ感情の赴くままに士道を鏖殺する権利が。
――――心に負う傷とはそういうものだ。ただ感情が原動力となる。もっとも、それだけでは傷を癒すには足りず、方法が異なっている。その傷を癒すには自分独りではどうにもならない。
癒すには〝なにか〟がいるのだ。物であれ、人であれ。
そしてそれは、士道では成れない。
「……………………………]
でも、この状況。十香は何を思っているのだろうか、士道は不思議でしょうがなかった。
握っている手と手。
この手を繋ぎだしたのは十香の方なのだ。
当然、士道は戸惑った。殴られ、蔑まれ、殺される覚悟はしていたのに、これは予想外がすぎた。
どうすればいいのかもわからず、士道は歩くしかなかった。それ以外のことをしたら逃げられるんじゃないか、そう思えてならなかった……滑稽だ。あんなことをしでかして、士道は未練がましく十香と一緒にいたいと思っている。
不安が、大きくなる気配をしだす。緊張も伴い、心臓が鼓動を早めた。顔も俯き気味になる。
「……っ!?」
正にそんな時だった。
十香がぎゅっと手を握り返したのは。暖かくて優しいその手を包んだのは。
士道は思わず後ずさってしまった。手を繋いでいてそんな事をしたから十香が引っ張られる形で後ずさり、その足を止める。
「……ぁ、っ」
「………」
歩みが、止まった。永久に続くと思った歯車が士道によって終わりを迎え、二人は新たに見つめ合う。
十香は、怒っていなかった。冷淡に底冷えする顔もしていない。
その顔は、士道の考えていたものとは違っていた。
とても、哀しそうな、慈悲の篭もった目をしていた。士道を気遣い、士道を心配していた。少なくとも士道にはそうにしか見えなかった。
「十、香」
もう泣いてしまいそうな顔で、とうとう士道は十香に声を掛けた。
「なんで……なんで、怒らないんだ、十香……?」
怒らないんだ? というのは変だ。殺さないんだ? というのが正しいだろう。
士道は十香がわからなかった。十香に酷いことをしたのに、なんでそんな顔で見つめてくるのか。「妙なことをしたら斬る」と言ったのは十香なのに、どうして……?
「おれ、おまえに、あんなことしたのに……なのに、なんで」
「なんで、と言われてもな」
困ったように頬を掻く十香は、アレもデートの一つと思っているのかもしれない。
あらゆる意味で否定し辛く、一際大きく士道を重くするのは罪悪感だ。何も知らない純粋無垢なこの少女をデートと偽り、騙したも同然のことをしでかし、赴くままに自分の欲望をぶつけたのだ。
あれは、違う。あれはデートなんかじゃ、ない。
「シド―」
懺悔を述べる前に、十香が「シド―」と呼ぶ。名前を呼んでくれた喜びはこんなときにも感じてしまって、自分で自分に追い討ちを掛ける。
士道はもう、自分が嫌いになって仕方が無かった。
「―――そんな顔、するな」
そんな士道を、十香は小さく叱咤した。
握っていた手を両手で包み、胸の前に持ってきた。その柔らかさに反応する以上にぬくもりが士道を満たしていく。
「と、お……か?」
「なんだか分からんが、そんな顔されると……私も辛いのだ。だから……泣くな」
「ッ……、ま、まだ泣いてねえよ」
変な強がりをしてしまう士道は、あるいはそのぬくもりによってある程度の平静を取り戻したのかもしれない。それでも罪悪感は消えないし、疑問も尽きないが。
「だが、なにか恐れているのは確かだろう? 今だってそうだし……さっきは震えていたではないか」
「え……?」
震えていた? ただの獣が獲物を貪り尽くし、欲望の権化に成り下がっていたあの時に、震えていた?
「あのとき、おまえは震えていたぞ。寒さに耐えようとしているみたいに、私に縋っていた。あれは……………怖い? いや、あれは………たぶん…………」
十香は考え、やがて声を出す。
「……そう、〝寂しい〟……〝寂しい〟だ。〝寂しい〟に近かった。
シド―、おまえは寂しがっていた。なんとなく、そうなのだと分かった」
「さびしい、って……なんだよ、それ」
寂しそうだったから、だから怒らなかったと十香は言っているのか?
……いや、違う。少し考えて、十香は本当に怒ってなどいなかったと漸く士道は気付く。でなければ士道は生きてはいないし、十香の隣に立っていない、手も握っていない。
「むぅ……私だってよく分からんのだ。とにかく、私が言いたいのはだな……
――――おまえがそんな顔をしているのが気に食わない……それだけだ」
それは、士道が十香に放った言葉だった。
十香は、強い。その力で襲撃者を返り討ちにした数は知れず、汚れ一つとて付けられたことはない。
十香の前では凡ゆるものは有象無象。凡ゆるものは凡俗。凡ゆるものは塵芥。そう言わしめる強さを持っている。
故に十香は弱者を知らなかった。弱いから誰かと寄り添いたいと願う「求め」を知らず、力の弱い者は知っていても、心の弱い者は知らなかった。
ソレを知ったのはついさっき。士道とドリームランドで触れ合い、繋がったことで
独りではどうすることもできない脆い存在が見せた深淵に潜む古傷。
理由も過程もなく、これが五河士道の根源なのだと、本能で悟った。
コレは辛い気持ちだ。気持ち悪く、気に食わないという気持ち。コレを持ってしまったら同じ傷を持った他人に必ず関わろうとしてしまい、見て見ぬふりができなくなる。
そんな……自分の傷を抉るようなマネを繰り返すのが五河士道なのだとわかった。
馬鹿だ。歪だ。自己満足だ。憐れみを振り撒いているだけだ。それら総てが暴走し、耐えきれなくなった結果として、十香を押し倒した。
この男こそ哀れだと、他の誰かならそう思うだろう。
でも、そこで十香は考える。自分は、どうなのだ、と。士道を愚者と詰るなら、他に何をすればよいのだと。
自分が傷つかないように、同じ傷を持っている者を、見て見ぬ振りをすることが賢い行動なのか? それが正しいことなのか? 他人の為に何かをすることは、悪いことなのか?
誰かを傷つけるのが嫌で、自分の力を抑え込む少女を救うために、氷の散弾銃に撃たれながらも手を差し伸べることが、間違っているのか?
自分の意思で人間を殺し、救いようがないくらい死体の山を積み上げた少女を、それでも救おうとし、償う機会を与えようとするのは、馬鹿なのか?
両親の仇を討滅せんと襲われ、殺されかけた少女を、襲撃者の正当性を理解しながらも黙って見ることができず、身を挺して護ろうとするのは、歪なのか?
彼は……五河士道は……士道は……シド―は……他人のために自分を犠牲にしている。シド―はそんなつもりはないのかもしれないが、結果を見ればそういうことだ。
正しくはないのかもしれないが、やっぱり、間違っているとも思えなかった。
ただ、尊いと思った。
〝見ず知らずの誰かのために―――同じ思いをさせない〟
十香にはできない、しようとも思わなかったことをやってのけるシド―に、かけがえのないものを見つけた気がした。脆いけど、とても綺麗な輝きを放っている気がしたのだ。
十香は初めて自身以外の存在価値を知ることができた。こんなヒトと一緒にいるのは、とても素敵なことなのだと思った。
でも、更に十香は考える。
シド―は……そんなシド―は、誰に救ってもらえばいいのだ?
誰かを救って、救って、救って、救って、その度に傷つくシド―を、誰が癒してやるのだ?
何も無ければ、それでいい。問題なく、滞りなく救えれば、それでいい。でも、そんな簡単に事が運べるほど世界は優しくない。
どうしようもないくらいの絶望に相対して、心が折れてしまうかもしれない。「俺には無理だと」弱音を吐き、挫折してしまうかもしれない。誰ひとりとして傍に味方が存在せず、やめることもできず、独りでなんとかしようとするのかもしれない。
その果てに、シド―の心が………あの輝きが失われてしまうのかもしれない。
自分では手に入らないモノを無くしてしまうのは惜しく、悲しい。
そう思うと、苦しくなる。
そんなのは嫌だと、十香は断言する。
「大丈夫だ、シド―」
十香は自分の頭を、士道の胸に預ける。
士道の心に直接語りかけるように。
「私はここにいる」
士道が少女達を救うのなら、士道を救うのは自分でありたいと、救ってやりたいと、十香は思った。
その絶望を捨て去るだけの捌け口でもいい――――強いけど、弱いシド―の傍にいてやりたかった。
「私はおまえの傍にいる。だから、そんな顔をするな」
「…………」
頭を預けてくる十香を、黙ったまま士道は様々な気持ちが駆け巡っていた。
十香は五河士道を美化しすぎている。俺は、そんな慈悲をかけてもらえる価値なんてない。口だけの達者だ。
情けない、俺が十香をデレさせて救おうとしているのに、思いっきり立場が逆転してしまった。
「いいのか……? おまえの傍にいても、いいのか?」
「うむ」
「あんなこと、したのにか?」
「かまわん」
「でも、そんなんで済むわけ……」
「くどいぞ! いいと言ってるだろうが。そんなに気にするなら今からちゃんとしたデートをするがいい。それすら無碍にする気か? 今日はまだ続いているのだ。それまでデートし尽くすぞ、シド―」
顔を上げて士道を見据える目と、男よりも漢らしく言いきる十香をかっこいいと、思わず見惚れてしまった士道。
罪悪感が拭えたわけではない。これで何かが許されるとかじゃない。それは消してはいけない、男として責任を負わなければいけない類の物だ。
でも、それよりも優先すべきは十香のこと。彼女の言う通り、自分の言った言葉を、何より彼女の思い遣りを無碍にするのだけは、駄目だろう。
「……そういえば、どっかで駅の南に食べ放題の店が並んでるって聞いた気がするな……行ってみるか?」
「なっ、食べ放題?! きなこパンがか!?」
「きなこパン限定じゃないと思うが……どうする?」
「愚問だぞシド―、無論行く!」
「お、おい十香、また勝手にっ、そっちは道が違うぞっ」
気分が頗る上がった十香に、慌てて方向転換を促す。
何なんだろうか、この気持ちは?
未だに重い心持ちなのに、軽くなった奇妙な感じ。
十香が自分を慮ってくれたこと、自分自身が許せずにいること。多くの感情が廻っている。
それらをひっくるめて、士道は、十香に何ができるのだろうか?
「………………………………」
「シド―?」
「いや――――こっちだ十香」
「う、む?」
繋いだ手を一緒に振りながら目的地を目指す。
平々凡々の高校生の頭で考えに考えて―――
五河士道は、ある決心をした。
○ ○ ○
「……ふむ。漸く作戦の第一段階に突入できた、といったところか」
「そうですね。あのまま微妙な空気でいたらなあなあに終わってしまいそうでしたからね、正直ほっとしています。作業班の存在もまるで見えていなかったようですし……やはり放置プレイはいただけません。うっとおしければ殴って止めなければ!」
「……………………」
Mの性癖を全開に広げる神無月恭平に、何の感情も浮かべずに、ただ眠そうな顔をする村雨令音。
十香の現界を確認してから今までの始終を遂一カメラで見ていた<フラクシナス>のクル―は、当然、ドリームランドでの出来事も目撃していた。
体調が急変した士道を休ませる場所として選んだドリームランドは<フラクシナス>が、もっといえば<ラタトスク>が精霊攻略のために用意した建物だ。広告に書いてある通り、
整えられているが、それらしいムードに仕立てるだけであり、本来の用途を果たさせようとはしていない。あくまで〝好感度さえ上げればそれでいい〟考えで造られた建物なのだ。まだ学生である士道に強要するのは問題がありまくるし、精霊は十香ひとりではないのだ。これから現れるであろう精霊たちと付き合う破目になったら、五河士道は社会的に死ぬかもしれない。
そして何より、これには士道の性格が考慮されている。彼ならば大きな過ちは起こさない、というより起こせないだろうと考えて設置された……のだが。
「それにしても予想外でしたね。士道くんがあんなにも積極的に十香さんを攻め倒すなんて……確かに彼女は性格こそ純粋無垢な子どものようではありますが、いかんせん余分な脂肪が付き過ぎている。熟れ過ぎた果実に意味は無いでしょうに」
「……とりあえず、十香と農業者の方々に謝った方が良いだろうね」
どうでもいい問答をしながらも、令音は神無月と同じ思いを懐いていた。琴里と話をした後であるから尚更そうであった。
「あの~……士道くんは、その、二人は……本当に……………その、」
神無月の感想に、艦橋下段から前髪の長い女―――<
……そう。士道が突然豹変し、十香を押し倒した時、テレビの「しばらくおまちください」の放送事故が起こったようなご都合主義がカメラの画面を乱し、ノイズ塗れになってしまったのだ。
煽るにしろ止めるにしろカメラはおろか、通信機器までもが異常をきたして直接的にも間接的にも何も出来ずじまいで、普及した頃には既に士道と十香はドリームランドを出た後だったのでどうなったかは分からずじまいだった。
「いやいや、まだ確定したわけではないでしょう。これはヤったと思わせて実は抱き締めたまま何もなかったという肩透かし。ギャルゲーによくあるパターンですよ」
「何を言う! あそこまでいって何も無かったなどありえない。我が縁結びのご加護が告げている――――あれはゴールまでいったと!!」
否と唱えるのは一〇〇人の嫁を持つ男・<
肯を唱えるのは五度のもの結婚を経験した恋愛マスター・<
形勢は川越が優勢だった。二人の顔を、あのやり取りを聞けば、どうなっていたのかは火を見るより明らかだからだ。とはいえ、見た感じそのままでは理論は成り立たないのも道理。決め手は不足しているので中津川の主張も無きにしも非ずだ。
「どちらにせよ、今の二人の雰囲気は悪くない。寧ろ良い。この状態を維持したままいけばデレさせるのも時間の問題。あとはサポートを充実させれば完璧だ」
「しかし、良い雰囲気だからこそサポートは抑えておくべきでは? お互いの意識が相手に集中している以上、他の誰かにしゃしゃり出てこられるのは逆効果で一気に不機嫌になることだって――――」
両方の可能性を入れた上で最大限の支援を主張するのは夜のお店の女たちに絶大な人気を誇る・<
それを諫め、触らぬ神に祟りなしと最小限の支援にすべしと反論するのは愛の深さゆえに法律で愛する彼の半径五〇〇メートル以内に近づけなくなった女・<
二つ名の由来を見れば、この二人自身の経験に裏付けされた提案だと察するに余りあるものがある。士道の女性の接遇の不慣れさを思えば幹本の言うようにサポートを充実させるべきかもしれない。士道と十香の絶妙な空気を思えば箕輪の言うようにサポートは抑えて二人を見守る体勢を敷くべきなのかもしれない。
士道と十香に起こったこと、それを踏まえてどう動くのか、クル―達は話し合い、議論を交わし合うも彼らに決定権は無い。
誰の意見を採用し、どの提示を打診するか、それらをまとめて新たな作戦を着手するのかを決めるのはこの場においてただ一人。<フラクシナス>司令官・五河琴里をおいて他にはいない。
琴里はここに至るまで口を開いていなかった。部下達を自由にし、忌憚のない発言を許可しての放任なのか、黙ったままだ。
「いかがいたしましょう司令。このまま通常通りの『
「……………?」
もはや作戦そっちのけで我が道を往こうとした神無月が急停止した。テンプレの如く忠誠を誓う司令官からの
令音がどうしたんだと目を向ければ、そこには琴里が居る。艦長席の隣の位置に固定化している神無月を見れば視界の端に琴里が入るのは必然だが、令音は琴里に釘づけになった。
端の一部であろうとも無視できぬほどに琴里の様子がおかしいとわかったからだ。
「……琴里?」
呼びかけるも―――令音は呆然として呟きを洩らしただけで呼びかけたわけではないが―――琴里は反応すらしない。他のクル―達も異変を察知して何事かと視線を向ければ、皆同じような顔となった。
琴里もまた呆然として画面に映る士道と十香を、正確には士道だけを見ていた。
それは兄が過ちを、十香と情事を起こしてしまったのかと愕然したもの……ではなかった。
確かに琴里は士道への好感度がMaxで表示されるくらい好いている。<ラタトスク>の一員として、<フラクシナス>の司令官として、精霊を保護するために何てことないように色事を仕掛けているとはいえ、妹としての琴里にしてみればあまりいい気はしないだろう。ましてやまだ少女の年頃なのだから感情が押し殺せなくなるのも無理はない。
だが違う。令音にはわかる。
琴里は、怯えていた。恐怖に支配されていた。
画面越しの士道を見て、
「――――――――――」
令音の言う通りだった。
今、琴里は怯えている。恐怖している。なにより、思い出していた。
(………おにー、……ちゃん)
ああ、思い出した。
今まで忘れていた。
物心つく前の事だったからあまり覚えていなかったが、今はっきりと思いだした。
あの時の、顔だ。
士道がまだ〝五河〟の苗字になって間もない頃の、あの顔だ。
絶望に染まって、生ける屍となっていた頃の、あの顔だ
本当のおかーさんに捨てられた時の、あの顔だ。
琴里はこの場を抜け出したくて仕方なかった。
今の立場を投げ捨てて士道の傍に行きたかった。
それをしなかったのは司令官としての責任感と、少なくとも今の士道は絶望の表情が成りを潜めていたからに過ぎない。でもそれもいつまで続くのか分からない。余計なことをしてまた再発するかもしれない。何もせずとも突発的に発作が起こるかもしれない。
だから何も言えない。指示を出すなんてもっての外だ。琴里にはもう十香をどうやって攻略するかなど頭に残っていなかった。
震えそうになる体を抱きしめもせずに、意思だけで抑えつけようとする。部下の手前での意地であったが、此処にいるクルーには全員、琴里の内心をなんとなく察していた。それでも何も言わないのは敬愛する上司の、琴里の矜持を穢さずに尊重しようとしているからだ。
感情に流されながらも、自分達の司令官であろうとする、小さな少女を。
(……おにーちゃんっ―――………ッ!)
どうか、どうか、無事に十香とのデートを終えてと。
無力な少女のように、自分の所に帰って来てくれと、琴里は祈ることしかできなかった。
それが無情にも散ってしまうのは、もう直ぐそこ……