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子供たちが遊びを終えて「また明日」と別れていき、奥様おば様方が夕飯の買い物をするためスーパーに、商店街に出掛けていく。
赤の夕日と黒い影が街に遍き、各々の時間割を全うさせようと世に蔓延る。
暗くなる前に帰ろうと、用事を済まさなくてはと時計代わりの街景色を見やるも、大半の人々の意識は目的にしか割かず、焦燥感に駆られて足を速く動かしているのが殆どだった。
では目的がない者は、この黄昏時を見て何を思うのだろうか。忙しく立ち回る必要のない人間は、この時間帯を彩る光と闇に何を思うのか。反目する前者と後者に、人はどちらにより心を奪われ刻まれるだろうか。寄り添っていくだろうか。
あるいは双方、というのも有るかもしれない。なにも二者択一でなければいけない決まりはない。郷愁のような想いに焦がれる浪漫を感じる夕日。闇を生みだし得も言えぬ不気味さを感じる影。それぞれの良さと悪さにどっちつかずの優柔不断な感想も人によってはあり得るものだ。
――――――彼女は特に、そんな印象を与える身形をしていた。
彼女は超高層ビルの屋上に立っていた。
波居る摩天楼の中でも、額面通り群を抜いた高さを誇る高級ビルで一人、所在なげにしていた。親に連れられ社交界に訪れるも上っ面だけの裏が隠されたビジネスの話に退屈して屋上に逃げたような様相で、鬱鬱とした溜息を出した。
彼女はパーティから抜け出したのか? 格好は正にそういう場でしか着ないような服だった。
フリルとレース、パニエとヘッドドレスとをあしらうゴシックロリータの服装をしていた。秩序正しく編まれた上質な生地は貴族然とした品格とお譲様然とした可愛さがありながら、肩と胸元は晒され、背中を覗かせる作りは、下手な娼婦よりも淫靡な格好に見える。彩る色は赤と黒――――夕日と影と同じ色であれば、受ける印象、抱く思いも同様で、清濁含める奇奇怪怪な魅力が彼女にはあった。
そんな秀逸した一品を着こなす彼女自身は、なんとも
誤解を招く言い方だが、これは彼女が不細工という意味ではない。透き通る美白肌は扱いを間違えば
……逸脱しているのは、髪型か。
彼女は長い漆黒の髪を左右不均等にした風変わりな括りをしていた。無造作にまとめ上げたのかと思う髪型は逸脱しているといえば逸脱している……しかし違う。左右不均等な髪型程度で彼女の美しさは変わず損なわれてはいない。これもファッションの一環かと勝手に納得するだろう。
彼女が逸脱しているのは――――左目だ。
否、〝左目〟と言っていいものなのかどうか余人には解らない。
その左目は時計だった。
その左目には、時計があった。
カラーコンタクトの一種なのか、凝った商品があるもんだと興味を引かれそうになるが、ただ時計の形をしているわけではなさそうだった。
……時計の針が動き、ひとりでに回っているのだ。
ぐるぐるぐるぐる……左目の時計は
彼女の左目の時計は、
……これは時間。彼女の命を計る天秤であり、逆回りは即ち〝時間の補充〟に他ならなかった。
日が落ちると共に日差しが角度を変え、彼女を明るく照らし、彼女の影を濃く長くする。陽を背後に控えさせることによって見えなくなる彼女の素顔は、光りが眩しいから見えないのか、闇が深くて何も写さないのか。
それとも、哀傷に暮れる彼女の俯き加減の表情が、あまりに憐憫すぎて目も当てられないからか。
―――二度目だが、彼女の左目の時計は見世物ではない
時間とはなんだろうか?
過去の歴史と記憶を蓄積するもの。
現在の営みと財産を浪費するもの。
未来の夢と希望を樹立させるもの。
実に様々な意味を持ち、区区たる側面を持つ時間ではあるが、そんな時間でも意味と側面を一纏めにした象徴がある。
それは、
時間とは、不変であり、不可逆であり、絶えないもの。
朝に始まり昼が過ぎ夜に終わる。
子供は時間を重ねる毎に大人へ成長していき、老人へと衰退する。
人は時間に縛られる運命にあり、それと上手く付き合っていかなければならない。誰も時間の主導権は握れないのだ。
間に合わなかったら置いていかれる。時間は待ってはくれないからだ。
前もって準備しても先になにが起こるか分からない。時間は追い越せないからだ。
始めてしまったらもう取り消せない……時間は巻き戻らないからだ。
「ああ、ああ―――」
だからこそ、人生に挫折すれば誰もが口にするのだ。ああすればよかった、こうすればよかったと、後悔に塗れながら口にするのだ。
そして誰もが思うのだ――――時間を自由に操れたらいいのに、と。
「これでやっと〝一年分〟でしょうか?
故に彼女は………時崎狂三は時間を補充する。
例えそれが、幾人の命を奪うことであろうと。
例えそれが、永劫叶わぬものであったとしても、狂三は時間を求めるのだ。
「足りませんわ、足りませんわ。こんなのじゃ、ちっとも足りませんわ。
ああ、ああ、いつまで続ければいいのでしょう? まるで従僕。まるで輪廻。これだけでは直ぐに〝他の弾〟で使い捨ててしまいますわ」
―――時崎狂三は精霊である。
識別名・<ナイトメア>――――〝悪夢〟を冠する仰々しい名を付けられた彼女は、そんなものをおくびにも出さず、独り寂しく落ち込んでいた。一人
……このビルの中に居る人間全てを
精霊が空間震の発生源なのは世間の常識ではないが、世情と関わっている人間にとっては常識の事象である。被害と規模は精霊の個体によって異なり、昨今の空間震被害でユーラシア級の災禍は起こっていない。三十年を経てシェルター普及率が上がり、
<ナイトメア>と呼ばれている狂三もそうだ。空間震規模は標準程度。小さくもないが大きくもない基準点の領域で、悪夢と呼ばれる程の危険なものではなかった。
狂三の名が<
その人数は判明されているだけでも一万人以上。判明されてない者を加えればもっと増えると言われている。
そして狂三がこの超高層ビルに居る理由。そう、〝時間の補充〟とは、人間から時間という寿命を奪うことを意味しているのだ。
狂三の持つ天使―――<
有する能力は〝時間〟に関するもの。……圧倒的で絶対な概念操作が可能なのがこの天使の特異性である。
時を止め、時を速め、時を巻き戻す。そういった考えうるかぎり最強無敵の効果を持つ
ただし、そのハイスペックの力を使うには往々にしてハイリスクを背負うものである。
<
だから今日も狂三は命を喰らった。<
しかし悪魔の所業を犯しても、狂三が悲嘆しているのは殺人まがいをした自分に対するものではない。人間に対する哀れの手向けもしていない。
狂三は恋に散る少女のように、純粋に、悲しんでいた。
「………<
静かな呼び声に、狂三の影が歪み、湧き出るように固まり、彼女の身長を超える巨大な時計が現れた。
西洋風のアンティーク時計は、大きさを除いても奇妙な点があった。長針と短針が銃になっている点と、文字盤の『Ⅵ』の数字が白く色を失っている点だが、そうなっているのを知っている狂三は違和感を抱いてはいなかった。
時の力のシンボルに基づく形をしている<
「……
あなたは光。あなたは希望。あなた無くして、わたくしの見果てぬ夢を叶えることはできませんわ」
―――なのにあなたは、わたくしのやるべきことを指し示しても、わたくしを導いてはくれないのですね。
そっと目を閉じ、狂三は物思いに耽る。
時崎狂三には、どうしても叶えたい夢があった。
叶えるには気が狂うほどの時間が必要で、夢と言うには歪すぎる悲願。それでも諦めきれずに自らの為に人を殺し、
人間は狂三を忌み嫌い、魔女狩りの如く火炙りとするのを躊躇わないだろう。精霊を識る組織の一部からは〝最悪の精霊〟としてこの身を追われている。狂三はそれを五月蠅く思ってはいても、受け入れてもいた。それだけの狼藉をしたという自覚はあるし、そうなるだろうという〝覚悟〟と、そうするだけの〝覚悟〟もしていたからだ。そうでもしなければ、到底辿りつけない夢なのだ。
でも……、狂三の願いは遠すぎた。
〝覚悟〟が足りても、〝時間〟が絶望的に足りなかった。時間を操るはずの自分が時間に悩まされるなんて、結局狂三も時の囚われ人なのだ。人間と同じく等価交換に則らなければ何もなす事が出来ず、むしろなまじ時を操る力を持っている分、時間にいい様にされている気がしてならなかった。
皮肉と滑稽がいやが上にも狂三をセンチメンタルな気分に盛り上がらせる。
進む道には闇ばかり。炎のランプにも満たない脆弱なライターの火では足元も見えず、狂三は思わずたたらを踏んでしまった。
このビルに居る人間全員を殺してはいない。いかに時間が必要とはいえ人間の大量死を引き起こせば大騒ぎになる……それが分かっていながら、狂三はこんな大企業丸出しの超高層ビルに目を付け人間から時間を奪ってしまった。
多くの人間が居るという理由だけで、所構わず闇雲に時間を奪うのは浅はかだ。人間に社会という枠組みがある以上、異変があれば直ぐではなくても警察機関が動き出し、ASTの耳にも入ることになる。こんな目立つビルなら、もう入っていても可笑しくない。
戦闘になっても狂三は負けはしないが、それは目標ではない。相対するのは
焦らずじっくり。それが狂三の専らの方針であったが、狂三は時折自分を抑えきれなくなる時がある。焦がれる思いが狂三を無鉄砲にしてしまい、その頻度は日に日に増えていき、比例して多くの人間を手に掛けてしまっていた。殺す
「〝彼女〟以外にも、わたくしを追う
自分の短慮に溜息を吐きながら、狂三は閉じていた目を開け、黙って顕現している<
「……あなたを衆目に曝さなければいけなくなるかもしれませんわ。本意ではありませんが、いずれやってくる宿命が早まっただけのことですし、……頃合い、でしょうね」
上策ではないと分かっていながら、狂三は魔術師との戦いを視野に入れて今後の動きを変更することにした。
守勢を攻勢に、大胆不敵に〝彼女〟を挑発するように時間を溜めていく……戦う時間を増やすのもあるが、そう指針を変えると誓わなければ心身とのズレがいざという時に力を発揮できなくさせるかもしれない。
決して自棄になってはいけない。自分が招いた結果として厳粛に受け止め、その時その時の的確な対処をする。そして安全圏からは見えなかった光明を探り出し、目的に一歩でも近づける道を見つけるのだ。
「であれば、わたくしは革めて〝覚悟〟を決めましょう。人を殺し、殺される〝覚悟〟を、革めて誓いましょう。
そしてもっともっと増やしましょう。より多くの殺戮を、より多くの搾取を行使致しましょう。
元より邪念の化身たる我が身。後戻りできないのなら進むのみ。闇で先が不明瞭ならば血の通り道を創り上げましょう」
バックステップを踏むように<
「さあ、始めましょう。救いようのない惨劇の、その前奏を奏でましょう。
……さようなら、可愛い哀れな人間の皆さん。せめて言葉だけでも贈って差し上げますわ。
あなた方の時間は、わたくしのために遣わせて戴きますわ」
――――彼女は夕陽が擬人化した存在なのかもしれない。
温かさのない、血の通わぬ哀悼を述べ立てる狂三。なのに、その顔はどこか誇りのような崇高さすら感じてしまう。
なにが何でもやってやるという強い意志。貴賎なき陽の部分と身震い止まらぬ殺意の影が織りなす景色。格好だけでなく、その精神も狂三は夕陽のような少女だった。
だが、狂三のこんな姿を見えるのはこの時しかないだろう。
〝覚悟〟を新たに決めた彼女の前に、人は影しか見なくなる。許されざる罪過に誰も陽の光りを見ようとはしない。その輝きの中にある〝意外な優しさ〟を知り得ることはなく、完全な影が狂三自身を覆い尽くす。
間違っていた。どちらがいいとかの話ではなかった。どちらも必要だったのだ。
光ではないが闇だけでもない相互扶助な精霊、時崎狂三。
陽を浴びすぎたら人は干乾びる。影に取り囲まれたら人は沈下する。そんな混沌でありながら奇妙な調和を保っていた彼女が陰のみとなる……もったいないと思わないだろうか?
人間は変化を恐れる。突然の選択と急激な遷移が心を圧迫する。永久といえるだけの時間だけで、永遠と言えるだけのモノは築けない。そんなのは無理だ。時間は動き、無慈悲に何もかもを過ぎ去る〝過去〟を仕上げるのだ。<
太陽が沈むのは止められない。沈むにつれて闇夜を待つしかないように、狂三の凶行も止められない。徐々に陽が無くなるように、狂三の陽も無くなろうとしている。
……それは
あと少し、あと少しで、夜となり、殺人劇が始まる。
人間に、時間は、どうしようもできない。
狂三の動機がわからない以上、説得もままならない。
ああ、ああ、時間がない。時間がない。
もう少し、もう少しだけ、この黄昏色を見ていたい。
夕陽のような狂三を、綺麗で残酷な美しさを持つ狂三を……ずっと見ていたい。
どうにもできないが、実現不可能と知ってるが、それを見ている自分の衝動を声に出したくて、人は言葉を使う。
想いを出さずにはいられないから、人は言うのだ。言葉だけにでも留めておきたくて、言うのだ。
時よ止まれ――――――
――――――おまえは美しい。
と。
「………………………」
右手を上げたままの狂三の
狂三はそのまま動かずジッとしていた。
なにかをするための準備が長いのか、既に何かが始まっているのか、安定した状態維持を
……それにしても、動かない。
狂三は人を殺すと言っていたのに、武器を持たずに命を奪えるというのか? 長針と短針の銃は唯の飾りなのか? 正確には〝時間〟を戴くとのことだが、何か別の手法あるというのか? 動いたら奪えないなどの制約があるのか? そう事情を汲まなければ解説できないほど、動かない。
「…………………? ………っ、………………!? ……………?! ッ……!??」
あるいは――――狂三は、普通に動けなくなっているのか。
(身体が……っ、!? 手が、…足も、っ、 声も、出ない……?!)
動けないようだ。石になったわけでもないのに、動けずにいるみたいだった。狂三は徐徐に額から汗を垂らし、焦りと驚きに揺さぶられていた。
もう騒ぎが起きて精霊の仕業と看破されたのか…混乱のなかで一番可能性のあるASTの襲撃を狂三は考え浮かぶが、違うと思い直す。
魔術師が精霊に対抗する唯一の力である
(<
そんなっ……何がおきましたの!?)
しかも動けないのは、動かせないのは狂三の<
ありとあらゆる権利を剥奪された奴隷のような気分に、狂三は戦慄を禁じ得なかった。
彼女にできるのは意識を保ち、汗を流しながら思考を巡らすのみだった。
随意領域の拘束ではない。ましてや精霊による天使の拘束などもっとない。魔術師よりも同族の気配と匂いの方が馴染み深い狂三が接近を見逃すなんて、そんなヘマはしない。遠距離からの発動にしたって今の隙だらけの狂三に手を出さないのはおかしい。
一体何者だ?
随意領域でないなら、新型兵器を開発し装備した魔術師―――考えられるのはDEMインダストリー社の人間くらいのものだ。
魔術師の主装である
〝機械仕掛けの神〟などと大それた名前を掲げる表向きは知る人ぞ知る大企業。裏では非人道の限りを尽くす…など、今時流行らない、珍しいくらい悪の組織と言って過言ではない
同じ穴のムジナとして、そして自分の悲願を阻んでいる集団として何かと係わっているがDEM社だが、目的がわからない。
自分を止めているだけで何がしたいのか、狂三は動かせない目に見える視界から情報を得ようとし、今になって気付いた。
遠い地平線。陽の光と雲の流れ。ビルから辛うじて見下ろせる街の人々、車の動きが、写真でも見てるように止まっていたのだ。
豆粒程度にしか見えない位置でも〝止まっている〟と、
それだけではない。高所故の肌寒い風が、風切り音と共に制止していた。匂いも無くなり、夕陽から送られた熱も途絶えたが、寒くなってもない。
狂三は
それなのに「なにが起きた?」「なんだこれは?」と言ったのは、解らないからではなく、信じられない思いだったからだ。
狂三は、
(…………ありえませんっ、………ありえませんわ?! 止められたのはわたくしじゃないっ………………止められているのは、世界……………止まっているのは、〝時間〟!?)
誰にも分からなくても狂三には解った。時間を操る狂三が持つ体感時間、時間感覚等といった時間の動き、流れ、長さ、向きなどに対する第六感が、今この時、狂三が手を下そうとした瞬間、時間が止まったのだということを直感で理解させた。
これを認識しているのは、恐らく狂三だけ。人間も動物も魔術師も、精霊も、自分たちに何が起こっているのか分かっていないだろう。狂三が意識を持っているのは時を司る<
これはもうDEM社の仕業云々の次元ではなかった。魔術師にこんなことはできない。
精霊でも説明しようのない〝ナニか〟が世界の時間を止めたのだ。
(くっ?! ぁぁ……ッ!?)
その時―――
顔を動かし表情も作れない狂三が、精神の内側で苦悶した。
疑問に答えるように響く
(……っ!?)
目を引いたのは血だった。
広がる水溜まりと見紛う血の池は、胸に穴が空いている少女から流れているものだった。
(これは………………なん、ですの……? なにが……っ?)
突然の変化、いきなりの場面転換、突拍子もない事態に、身体と天使だけじゃなく心までも動かなくなっていき、狂三はされるがままに鑑賞するしかなかった。
どこかの公園。血の池があるのは子供が遊び、大人は休むといった日常を贈るための場所。
血の発生原因は横たわっている少女。闇色の髪をした綺麗な少女………死に顔でもそう言えるほどの美少女だった。
近くにいるのは魔術師二人だ。白い髪の少女と長身の女。上空にも複数の魔術師―――ASTがいた。
これは、精霊が討たれた場面?
狂三はASTは当然、横たわっている少女が精霊であることを看破していた。精霊の要塞たる霊装が装備されていないのを見るに、油断して人間生活に紛れた精霊の隙をついて殺した、といったところか。
自分以外に精霊が殺されるなんて珍しい。〝彼女〟クラスの魔術師がこの中に居るのか、討たれた精霊が余程弱い精霊だったからか、
――――それとも、精霊に寄り添っている人間が災難の原因になったのか?
十六くらいの少年だった。学校のブレザーを着ている極普通の学生……血塗れになっているところ以外はと付くが。
彼の顔は暗く白い、青褪めた貌
(…………………………)
血の池地獄などに、狂三は吐き気など催さない。現実を認めない甘ちゃんではない。
……彼も、同じだった。
吐き気を催さず、現実を認め、現実が過去となり、どうしようもできないと、絶望に染まっているのだ。
(…………………あなた)
唇は動かせないが、狂三は彼に話しかけた。
聞こえないのは承知済みで、無表情な彼に心の裡でも声を掛けた。
夢なのかも判らない光景に、なぜだかわからないが狂三はコレが今起きている現実であることに確信を持っていた。
そして、彼が、時間を止めていることも。
時間を計り続けた時計を止めたのが彼と、持ち前の感覚から、狂三は見ただけで感知した。
(あなたが、世界を……時を止めましたの?)
人間が時間を止めた……しかも自分どころか世界を止める程の力が有るなんて、驚愕の他になにを現せばいいのか。
身体が動かないから頭を動かし、冷静に考える。
本当に、本当に、自分の目を疑わないなら……一陽来復が訪れたのではないか? と、打算が狂三の脳を埋める。
目に映る彼が時を止めたというのなら、<
理屈・常識を無視した、新しい恋に出会えた乙女の高揚が、狂三を昂らせる。
闇夜の道に、唐突に訪れた光。
心のどこかで諦めていた願いを照らす道標が、叱咤激励として現れた。
時間を操る自分が時間に止められる屈辱と恥辱は、自分では到底行使できない範囲の〝時間停止〟への興味と、必ず獲とくしてやるという野心に消えていった。
この人間を探し出し、時の力の真偽を確かめる。時間を集める傍らでも出来るのだから無駄な行為にはならない。
『十香。おれ言ったよな』
…、………でも
『すべての人間がおまえを否定しても、俺が肯定するって。否定してくる奴らの数倍以上に、おまえを肯定するって』
狂三は、…………
『俺は、おまえは死なせない。肯定ってそういうもんだ。おまえ自身が否定したって聞いてやらねえ。
今日は初デートなんだぞ? 一緒に楽しめてデートになったのに、こんなデッドエンドが罷り通るなんておかしいだろ』
それだけなら、なぜ狂三は………涙を流しているのだろうか?
(泣いてる……? わたくしは、………泣いていますの?)
自分でも泣いている事に気付いていなかった狂三が疑問を零した。涙は拭き取れず、落ちていく。 そんな、青臭い感情はとっくのとうに捨て去ったはず。自分にならまだしも、他人にかける同情など、家畜にされる哀れな気持ちくらいなのに……狂三は、涙が止まらなかった。
『男に二言はないんだ。だから、生きてくれ、十香』
(…………ぁあ…………あぁ……………っ、あなたは………、あなたは………っ)
幻惑を見せられていると、見えぬ敵の罠の可能性も棄て切れないというのに、狂三は、動けていたのなら、泣き崩れていたかもしれない。
それぐらいに、非情の狂三が同情してしまくらい、
止まった時間が、止まった世界が、寂しくて、淋しくて、覚えがあって、力よりも、彼自身が気になってしまった。
(なぜ、なぜですの……? なぜ、あなたはそんなお顔をなさるの? あなたは………。
その精霊が死んでしまったから? あなたにとってその方は、大切な人ですの?
時を止めてしまうくらいの人だったんですの?)
見つめることしかできないもどかしさ。
〝手を差し伸べたい〟と、時崎狂三にあるまじき甘っチョロさが徐々に身体を動かしていく。せっかく溜めた時間を削りながらも、狂三は、手を必死に彼へと伸ばした。
届かない。でもこの手を伸ばしたい。
無駄と知りながら伸ばし、伸ばし、伸ばしたが……
「あっ……」
しかし、奮闘虚しく、視界は何時の間にかビルの屋上に戻り、足が縺れそうになり、指し伸ばした手は空を切っただけに終わった。
時は、再び動きだしていた。
人々は歩き、車は走り、夕陽が照らしながら沈んでいき、風が夜の冷たさに変わっていく。
何もかもが元通り、というのは可笑しいのだろう。人と世界は時は止まったことに気付いていないのだ。
どこの誰かが血塗れになろうが、それに絶望しようが関係なく、時は進み、各々の時間を歩んでいく。
……狂三を除いて。
「…………………………」
伸ばした手をそのままにして、狂三は動かないでいた。
身体も<
止まった世界を動こうとした代償として出費外の時間を使ってしまった。奪わなければ本当にただの無駄遣いとなってしまう……のに、
そんなのはどうでもいいと、狂三は想い…焦がれていた。
「…………………夢ではありませんわ…………あれは現実。………………彼は、紛れもなく実在する」
断定の声を吐いて、濡れた涙を拭う。枯れた砂漠に恵みの雨が降った居心地に、狂三は
「なんてことでしょう………。わたくしは、今の
全てにおいて
夕陽に当たり過ぎたのか、人を狂わすのは月の光と相場は決まっているのに……本当にこれが狂三の本心なのか。
わからない。
「ない」と、普段の時崎狂三なら断言するのに、……こんな感情も悪くないと考えていた。
……ほんとうに、らしくない。
「見つけなくては…………………………見つけなくてはいけませんわ。
わたくしの為に、わたくしの悲願の為に。【
彼を頂かなければいけませんわ」
見切りをつけるような言い草だが、狂三の心は決まっていた。
彼のことが気になって仕方がない。
力の有無は関係なしに、彼のことを知りたいと……、
狂三は、彼に会ってみたいと、思っていた。
「待っていてくださいまし、名も知らぬ御方。いま、会いに行きますわ。
確かめますわよ。
あなたが誰なのか、あなたが何者なのか、……あなたが、なぜ泣いていたのか。
必ず、必ず見つけ出しますわ」
ビルの人間たちをほったらかして、狂三は防柵棒を蹴って空へと身を投げた。摩天楼を飛び交い、迷うことなく方向を定めて進んでいく。
その進行先は東京都南部から神奈川県北部にかけての一帯―――――天宮市へと向かっていた。
時崎狂三。
他の精霊とは一線異なる精霊。
名前通りに狂っている彼女は、狂った現象をあっさり認めて、自分の目的の為に動き出した。
彼女の判断は大いに功を制していた。
彼女の見た光景は現実として起きたことで、時を止める力を持っているのも人間の少年である。
彼を喰らうことができれば莫大な霊力を、時間を獲得できる……その通りだ。
狂三は気付いていながら、気付いていないフリをしている。
あの少年をただの餌として見ることができないでいた。彼の
迷子になった子供の泣き声を聞いて馳せ参じようとする母親のような気持ちとなっているのに、気付いていないフリをしている。
しかし、どっちであろうと彼に会おうとする気持ちは同じ。
この瞬間から、狂三の運命は定まったのだった。
自身の目的が大きく狂う……この運命が。