撤退から数刻後、曙たちは、まさに命からがらという言葉が相応しい状態で鎮守府へと帰還した。夜気を孕んだ海の匂いが、まだ身体にまとわりついている気がする。潮を抱える左腕には、ずしりとした重みと、冷えきった感触が残っていた。
曙の腕の中で、潮は未だ意識を取り戻していない。呼吸はある。脈もある。致命傷ではないと判断されたとはいえ、その損傷は軽いものではなく、長時間の入渠が必要なのは明らかだった。
「貴方、明らかに私怨入ってたわよね。指揮官としての自覚あるの!? 本当に迷惑だわ!!」
鋭く張り詰めた声が、帰還直後の空気を切り裂いた。
視線を向けると、顔面蒼白で慌てて出迎えに現れた可香谷提督の胸ぐらを、霞が掴み上げていた。その瞳には激しい怒りが宿っている。無理もない、と曙は思った。
深海棲艦によって蹂躙された現場。瓦礫と化した船体、引き裂かれた人影。血の匂いと、静まり返った海。その惨状を目の当たりにした瞬間、提督の様子は明らかに変わった。
生存者の捜索よりも敵の殲滅を優先したその判断は、冷静さを欠いていたと言わざるを得ない。いや、曙の中では、もはや“乱心”と呼ぶほかないものだった。結果として、潮は大破し、他の艦娘たちも一歩間違えれば轟沈していたかもしれない。
「……すまない」
提督は小さく、覇気の抜けた声でそう言い、頭を下げた。だが、それだけで収まる怒りではない。謝罪の軽さに、霞の手に込められた力が一瞬だけ強まるのを、曙は見逃さなかった。
やがて提督は、足早に曙の方へ歩み寄ってくる。視線は曙ではなく、その腕の中の潮に向けられていた。躊躇いがちな手が、潮へと伸びる。
「──触んな、クソ提督」
その手が届く前に、曙は無言で叩き落とした。乾いた音が、やけに大きく響く。
提督の手は宙で止まり、そのまま力なく下ろされた。誰も何も言わない。ただ、周囲の艦娘たちの表情には、言葉にしない不信と距離がありありと浮かんでいた。
やがて一人、また一人と、その場を離れていく。行き先は浴場だろう。戦闘の疲労と汚れを落とすため──そして何より、この重苦しい空気から逃れるために。
曙は一度だけ、背後を振り返った。提督はその場に立ち尽くしたまま、まるで時が止まったかのように微動だにしていなかった。
*
浴場は、湯気と水音に満ちていた。重傷の潮を、専用の浴槽へと静かに沈める。水面がわずかに揺れ、淡い光がその輪郭を曖昧にした。
曙は仲間たちのいる大きな浴槽から少し距離を取り、端の方へと移動して腰を下ろした。湯の温かさが肌に染み込んでくるはずなのに、身体の芯はどこか冷えたままだった。
「提督、どうしちゃったんだろう」
朧の不安げな声が、水面を揺らす音に重なって広がる。曙は視線を落としたまま、その会話をぼんやりと聞いていた。
「どうもこうも無いわ。あの司令官は、個人の感情で指揮を乱した。それだけよ」
「かすみんは厳しいですな。ご主人様があんな風になった事なんて、これまでありませんでしたぞ?」
非難と擁護。互いに相容れない言葉が交錯しながらも、どちらも間違ってはいない──そんな曖昧な正しさが、その場を満たしていた。
「提督、犠牲者の姿を見てから様子がおかしかった」
「確かに、あんなものを見せられたら冷静ではいられないかもしれないわね。でも、それと怒りに縛られて艦隊を危険に晒す事は別の問題よ」
「私も霞と同意見だ。私達は彼に命を預けている。それがこれでは、信頼も出来やしない」
議論は熱を帯びていく。湯気の中で、言葉だけがやけに鮮明に耳に届いた。
──うるさい。
曙の胸の奥で、苛立ちがじわじわと膨らんでいく。
気を紛らわせるどころか、逆に思考がかき乱されていく。潮のこと、提督のこと、戦場の光景。それらが断片的に浮かんでは消え、まとまることなく渦を巻いていた。
「そのー、ぼのちゃん大丈夫?」
遠慮がちな声が、少し離れた場所から届く。漣だった。
やっぱり来た、と曙は内心で舌打ちする。わざと距離を取っていたのに、結局は無駄だったらしい。眉間に皺を寄せたまま、短く返す。
「何がよ」
「その、うっしー元気になると良いね」
「……あれはアイツが、周りを見ていなかったから負った怪我よ。自業自得って奴だわ」
「曙、あんたまたそんな言い方。漣だって心配して──」
「うっさいなぁ!! 何も知らないくせに首突っ込んでくんな!!」
言葉が、制御を失ったまま飛び出した。一瞬で、浴場の空気が凍り付く。
湯気の向こうで、誰もが息を呑んだのが分かった。水滴が天井から落ちる音だけが、不自然なほど大きく響く。曙はその視線に気付き、はっと我に返る。
「ごめん」
小さく、それだけを呟いて、視線を逸らした。だが、もう遅い。崩れた空気は戻らない。どこにいても居心地が悪い。
曙は立ち上がり、まだ目を覚まさない潮を抱き上げる。そのまま、誰とも目を合わせずに浴場を後にした。桶の縁でくつろいでいた曙妖精が、慌てて立ち上がり、ぺこりと一礼してから煙のように消えて追いかけてくる。
背後で、霞が深くため息をついた気配だけが、かすかに届いた。
更衣室で手早く着替えを済ませ、潮を背負う。細い身体の重みが、今はやけに堪えた。廊下に出ると、夜の静けさが広がっている。足音だけがやけに響いた。
──やってしまった。
後悔が、遅れて胸を締め付ける。
分かっている。あんな言い方をする必要なんてなかった。漣はただ心配していただけだ。それなのに、八つ当たりのように怒鳴りつけた。
自分が嫌になる。
「はぁ……」
深いため息が、どこからともなく聞こえてきた。視線を上げると、それは執務室の扉の向こうからだった。
曙は足を止める。胸の奥に引っかかるものがあった。ほんの一瞬迷った後、潮を背負ったまま、そっと扉の近くへと歩み寄る。気配を殺し、耳を澄ませた。
「どうしたの提督さん、ため息なんか吐いて……やっぱり、さっきの事?」
「すいません、お見苦しい姿を見せて……俺は、提督としてやってはいけない事をやってしまいました。深海棲艦への怒りから我を忘れ、艦娘達を窮地に立たせてしまった。自分は、指揮艦として失格です」
提督の声は、先ほどよりもさらに沈んでいた。その響きには、取り繕いではない本物の後悔が滲んでいる。曙は、無意識に息を止めていた。
あんな奴じゃなかったはずだ。これまでの提督の姿が、脳裏に浮かぶ。冷静で、時に厳しく、だが決して感情に流されるような人間ではなかった。それなのに、なぜ。
「俺は、幼少期に両親をある深海棲艦に殺されたんです」
その言葉に、曙の思考が一瞬止まる。提督の声は、静かだった。淡々としているのに、どこか深く沈んでいる。
彼は語り始める。かつて、艦娘たちの活躍によって日本近海が一時的な平和を取り戻した時代。人々は海へと戻り、観光業は活気を取り戻した。遊覧船によるクルージングも、その一つだった。
「俺の家族も、そんな一人でした。楽しい旅行になる筈だった」
その“筈だった”という言葉が、妙に重く響く。曙は、背中の潮の重みを感じながら、じっと耳を澄ませた。その船は、夜の海で襲撃されたという。
一体の深海棲艦によって──そして、生き残ったのは、たった一人。
「もしかして、マウンテンガリバー号事件?」
「ご存じなんですか?」
「当時ニュースにもなった有名な話だからね。そっか、提督さんが……」
重苦しい空気が流れる中、それでもと提督は言葉を続ける。
「いかなる理由があろうと、俺は艦娘達の命を預かる身としてやってはいけない事をやってしまった。その結果、彼女達の信頼を失い、潮が──」
言葉が、途中で途切れる。提督は頭を抱えたのだろう。声が、わずかに震えた。どうすればよかったのか。その問いが、言葉にならないまま滲み出ているようだった。
扉の外で、曙はじっと立ち尽くす。怒りとも、呆れとも違う、言いようのない感情が胸の奥で渦巻いていた。
*
潮を部屋のベッドに静かに寝かせたあと、曙は自室へと戻るなり、そのまま自分のベッドへとうつ伏せに倒れ込んだ。身体が沈み込む感覚と同時に、全身から力が抜けていく。
薄紫の髪がシーツの上に広がる。呼吸だけが、かすかに上下を繰り返している。傍らでは、曙妖精が心配そうに彼女の髪をつついていた。
「もうやだ」
枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。新しい鎮守府。馴染めない環境。それでも、ここまでやってこられたのは、惰性だけではなかった。確かに、流されるままの部分はあったのかもしれない。けれど、その根底には、あの言葉があった。
『あれが、お前自身が勝ち取った未来だ。これが恥なものか』
あの時の感情は、本物だった。曙がこれまで知っていた“提督”という存在からは、決して与えられなかった言葉。人間に向けて、ずっと求めていた言葉。それを、あの提督は何の含みもなく、ただまっすぐに口にした。
だから、ほんの少しだけ。もう一度だけ、
──それなのに。現実は、この有様だった。
事情があったのかもしれない。理由も、今なら少しは理解できる。だが、それでも結果として──提督は、曙の心を裏切った。
「偉そうな事言って、結局アイツも同じだったんじゃん」
枕に顔を押し付けたまま、吐き捨てるように呟く。その瞳には、消えかけながらも確かに残る、オレンジ色の炎が灯っていた。
「曙、居る? 入っても良いかしら」
扉越しに聞こえてきたのは、霞の声だった。
正直、誰かと会話をする余裕はない。だが、拒絶するほどでもなかった。曙は短く返事をして、彼女を招き入れた。
「って、なんて格好で寝てるのよ!だらしないったら」
「自分の部屋なんだし、良いでしょ」
「日頃から態度には気をつけなさいな……って、そう言う事を言いに来たんじゃ無いわ」
霞は部屋に入ると、ため息混じりにそう言いながら、ベッドの縁に腰掛けた。曙は相変わらず顔を伏せたまま、動こうとしない。その様子を一瞥し、霞は淡々と話を続けた。
「朧と漣が気にしてたわよ」
「アイツら、怒ってたでしょ」
「いいえ、心配してた……貴方、何を悩んでるの?」
「アンタには関係ない」
ぶっきらぼうな返答。だがそれは、拒絶というよりも、余裕の無さの表れだった。霞はそれを理解した上で、あえて言葉を止めない。視線を天井へと向け、独り言のように語り始める。
「そ。なら今から話す内容は、口うるさい艦娘の独り言として聞き流しなさい……正直、私個人は今回の司令官の行いについて大きな失望を感じているわ。多分、貴方を含めたこの鎮守府の誰よりもね」
曙は顔を上げないまま、それでも耳だけは確かにその言葉を追っていた。
「でも、私は今日ここに着任したばかり。第一印象だけで司令官を量るのは間違っていると思う。現に、ある程度の日数を共に居た朧と漣は、司令官を擁護していたしね」
「……何が言いたいのよ」
「貴方も、本当は司令官をまだ見限りたくないんでしょう? それで良いと思うって言いたかっただけよ」
その言葉に、曙の呼吸がわずかに止まる。否定したい。だが、言葉が出ない。答えは、もう自分の中にある。だが、それを認めるには、まだ感情が整理できていなかった。
怒りも、失望も、そして──わずかに残る期待も。霞はそんな曙の内面を見透かしたように、短く言い切った。
「後は、自分で考えなさいな」
それだけ言い残し、立ち上がる。扉が開き、そして静かに閉じられた。
部屋に、静寂が戻る。数秒。ほんの数秒の沈黙のあと──。
「ああもう!」
曙は勢いよく身体を起こした。
胸の奥で渦巻いていたものが、一気に弾ける。迷いはまだ消えていない。だが、じっとしていられるほど小さなものでもなかった。ベッドから飛び降り、そのまま扉へと向かう。
部屋を飛び出した時、彼女の瞳からは、先ほどまで燻っていた炎は消えていた。
*
「クソ提督!!」
執務室の扉が、乱暴に開かれる。乾いた音が室内に響き渡り、曙はそのまま一直線に提督の元へと歩み寄った。戸惑う間も与えず、胸ぐらを掴み上げる。
「な、何をするんだ曙!」
「いつまでウジウジしてんの? あんな失態犯しておいて、まさか自分にはもう指揮出来ないなんて言わないよね」
「そ、それは……」
「ふざけるんじゃ無いわよ。人の命を勝手に拾っておいて、自信が無くなったら止めるだなんて、無責任すぎんのよ!」
「曙……」
「あたしを処分取り消してまでして引き入れたんなら、最後まで責任取れこのクソ提督!!」
怒号と共に、ぐっと胸ぐらを引き寄せる。その表情は、まさしく鬼気迫るものだった。眉間に深い皺を刻み、鋭い眼光で提督を射抜く。
だがその奥にあるのは、単なる怒りではない。悲しみと、そして──叱咤。逃げることを許さない、強い意志。
騒ぎを聞きつけたのか、次々と艦娘たちが執務室へと集まってくる。まだ入渠中の潮を除き、全員がその場に揃った。大凡の状況を理解する数秒の後、その中から霞が一歩前に出る。
「司令官、私達は貴方を信頼し直すんじゃない。ただ、私達は艦娘よ。人類を護るために戦う、その使命を止めたくは無いの」
「みんな……」
「私達は覚悟を決めてる。司令官、貴方はどうするの?」
静かだが、揺るがない言葉だった。
提督は拳を握りしめる。指先が白くなるほど力を込め、そして──涙が零れた。
それが自分への悔しさなのか、彼女たちへの感謝なのか。曙には分からない。ただ、そのどちらも含まれているように見えた。
「提督さん、この子達は貴方に付いてきてくれると言ってるのよ? もうちょっとだけ、頑張ってみても良いんじゃ無い?」
枕崎の言葉が、静かに背中を押す。曙は胸ぐらから手を離した。自由になった提督は、ゆっくりと姿勢を正し、艦娘たちの方へ向き直る。
「みんなすまなかった。そして、ありがとう。俺はこの命が続く限り、みんなと共にこの海を護ると誓う。だから……もう一度だけ、俺に付いてきて欲しい」
その言葉に、誰も答えない。だがそれは拒絶ではなかった。むしろ、言葉など必要ないという意思表示。
提督は小さく頷き、覚悟を固めるように息を吐いた。再び、指揮官としての顔に戻る。
「敵深海艦隊は未だ動きが無い。これ以上の犠牲を出さない為にも、ここで叩く。だがその前に──」
提督が一度、言葉を切る。
全員の顔を見渡す。視線が交差し、その一つ一つに確かな意志が宿っているのを確認する。
「もう一度だけ、生存者の確認を優先する。もはや絶望的かも知れないが、最後まで希望を捨てないで行こう!」
その言葉に、艦娘たちの表情がわずかに緩む。誰もが、それを待っていたかのように。
提督は姿勢を正し、力強く号令を発した。
「──艦隊、抜錨!!」
曙たちは一斉に敬礼する。その動作には、迷いはなかった。
そして彼女たちは、再び海へと向かう。希望を、まだ手放さないまま。