"聴いたな? 二人とも。上空に十分警戒をしろ。霞と朧も可能な限り二人に合流してくれ"
通信機越しに提督の声が響く。その指示を聞きながら、曙は上空へと意識を向けた。どうやら、漣と響の班が接敵したらしい。となれば、もう間もなく、件の艦載機がこちら側に向かってくるのだろう。あるいは、この海域に艦載機を発艦させた《本体》がいるのかもしれない。
どちらにせよ、気を抜いていい状況ではなかった。曙は気を引き締め、隣にいる僚艦へと視線を移す。
「曙ちゃん、敵が来るみたいです。頑張りましょう!」
主砲を構え、上空を警戒する潮。表情には緊張が浮かんでいるものの、その姿勢に迷いはない。こうして見れば、彼女も立派な艦娘なのだが。
……この鎮守府に来て、しばらくが経った。潮は幾分か、まともに動けるようになっていた。少なくとも、以前のように何もできず立ち尽くすばかりではない。訓練の成果もあってか、艦娘としての実力を発揮できる場面も増えている。
もっとも、それはあくまで《曙が隣にいる》という前提での話だった。
他の艦娘とは、もちろん提督とさえも、潮は未だに心を開いていない。曙が傍にいなければ、途端に不安定になる。その様子を思い返すたび、曙の胸には何とも言えない重苦しさが広がった。
このままでは、また皆に迷惑がかかるだろう。
潮は、曙の想像以上に盲目的になってしまっていた。
自分さえ傍にいればいい。自分の言葉さえ届けばいい。そんな状態が続く限り、潮はいつまで経っても自分の足で立てない。曙にはそう思えてならなかった。
曙としても、潮とのイザコザがここまで大事になるとは予想外だった。
最初は、ほんの些細なすれ違いだったはずだ。少なくとも、ここまで多くの者を巻き込み、誰かに負担を強いるような事態になるとは思っていなかった。
意地を張ったところで、事態は好転するようには見えなかった。むしろ、自分が意固地になればなるほど、潮も周囲も苦しむばかりだ。そう理解しているからこそ、曙は自分の中にある感情をどう扱えばいいのか、決めかねていた。
「曙ちゃん」
不意に、潮が曙に向き直る。
呼びかけられた曙は、わずかに眉を動かした。潮の声には、いつものような遠慮がちな響きだけではなく、どこか空回り気味な凜々しさが混じっていた。何かを決意したような、けれど、その決意が正しい方向を向いているのかは分からない。そんな危うさを感じさせる声だった。
潮は、言葉を続けた。
「潮、あの日からいっぱい訓練しました。この鎮守府に異動になってからも、ずっと。もう足手まといにはなりません。だから──」
「潮」
「ひゃっ!?」
潮の言葉を遮るように、曙がピシャリと言い放つ。
自分でも、思った以上にきつい声が出たと感じた。けれど、ここで最後まで言わせてしまえば、また同じ話の繰り返しになる。潮が何を伝えたいのか、曙には分かっていた。だからこそ、これ以上は聞いていられなかった。
もうウンザリだと言わんばかりに、曙は潮の言葉を拒絶する。
「……あたしはこれ以上、アンタの事でクソ提督や朧達を巻き込みたくない。だからもうハッキリ言うわ」
「い、言うとは?」
不安と困惑の入り混じった表情を向ける潮。その顔を見て、曙の胸の奥がわずかに痛んだ。
潮は、これから告げられる言葉を恐れているのだろう。それでも、曙の言葉を聞こうとしている。そんな彼女の姿が、曙にはひどく危なっかしく見えた。
だからこそ、今度こそ伝えなければならない。
「あたしは、あんたの実力に興味は無いし強くなって欲しいとか、そう言う事を望んでるんじゃない。あたしがあんたに言いたかったのは──」
勢いが乗り、曙が真意を語る。
ようやく、ここまで来た。言葉を選びながら、ずっと胸の奥に押し込めていたもの。これさえ伝えられれば、少なくとも今のような状態は終わらせられるはずだった。
それで、この話は片付く筈だった。
だが、上空から鳴り響く不快なエンジン音が、その先を遮った。
「チッ、空気読みなさいよ!」
思わず舌打ちが漏れる。
せっかく腹を決めたというのに、間の悪いことこの上ない。曙はすぐに思考を切り替え、主砲を上空へと向けた。
エンジン音は次第に大きくなっていく。耳障りな唸りが海風を切り裂き、頭上から迫ってくる。やがて、視界の中に標的の白い影が映った。
曙は間髪入れずに砲を撃つ。
しかし、砲弾は艦載機を捉えられなかった。白影は嘲笑うかのような咆哮を上げ、空を駆ける。
舌打ちしたい気分だったが、今はそれどころではない。曙は通信機を通じて、提督に報告する。
「クソ提督! 曙潮班、接敵したわ!」
"敵の数は?"
「報告と変わらず、一機だけよ」
"よし、ひとまずは交戦を続けてくれ。潮は曙の援護を頼む"
「ふぇっ! えと、あの」
「……クソ提督、潮はあたしに任せて貰っても良い? あたしの言葉なら、多分動けるから」
通信機の向こうで、可香谷提督が息を呑んだのが分かった気がした。
彼にとっても、曙からの提案は予想外だったのだろう。これまでの言動から、曙が潮と組むことを嫌がっているのは明らかだった。少なくとも、積極的に自分から面倒を引き受けようとするとは思っていなかったはずだ。
曙自身、提案した瞬間になって、胸の内に小さな戸惑いが生まれていた。
それでも、今の潮を動かせるのは自分だけだ。戦闘中にまで彼女を不安定なまま放置するわけにはいかない。だからこそ、曙は自分から申し出た。
可香谷提督としても、出来ることなら曙に負担をかけたくはなかった。
しかし、自分の声が潮に届かないことも、提督は理解してしまっていた。ここで無理に自分の指示を通そうとしても、潮の混乱を深めるだけだろう。
ならば、今は彼女の提案を受けるのが最善だ。
そう判断しかけたところで、通信機から思いがけない声が聞こえてきた。
「……やっぱり、部下が勝手な意見具申をするのは、駄目?」
曙らしからぬ、不安の混じった声だった。
その一言に、提督は我に返る。
曙が自分の判断を疑っている。あるいは、提案を拒まれることを恐れているのかもしれない。これまでの彼女なら、こんなふうに伺いを立てることさえせず、勝手に動いていたのではないだろうか。
提督は、すぐに判断を固めた。
「い、いや! 少し考えていただけだ……むしろそうしてくれると助かる」
「うん、分かった……潮!」
「は、はい!」
「あんたはあたしの言う通りに動いて。大丈夫だから」
「え……!? は、はいっ! 潮、頑張ります!!」
潮の表情が、目に見えて明るくなる。
曙の言葉を受けた途端、それまでの不安が嘘のように薄れ、期待に満ちた眼差しが彼女へと向けられた。その変化はあまりにも分かりやすく、曙の言葉が潮にとってどれほど大きな意味を持っているのかを、嫌でも思い知らされる。
曙はそんな潮を見つめ、少しだけ、悲しげな顔をする。
そしてすぐに表情を引き締め、上空から迫る艦載機を睨みつけた。今は戦闘に集中するべきだ。余計なことを考えている暇はない。
敵艦載機が凶悪な口を開き、機銃掃射を開始した。
「右!」
曙の言葉とほぼ同時に、潮が右へと跳ぶ。
直後、敵の機銃が海面を叩いた。無数の弾丸が水面を穿ち、激しい飛沫を上げる。あと一瞬でも反応が遅れていれば、潮の身体はあの弾幕に呑まれていたかもしれない。
だが、潮は迷わなかった。
曙の指示を疑うことなく、次の動作へと移る。
「今度は左、回避と同時に振り向いて砲撃!」
潮は阿吽の呼吸で左に転がるように移動し、回避と同時に振り向いて砲撃の構えを取った。
その動きに合わせ、曙も艦載機へと砲撃する。
しかし、砲弾は見透かされたかのように避けられた。敵艦載機は曙の砲撃を紙一重でかわし、空中で身を翻す。
普通ならば、外したことを悔やむ場面だろう。
だが、曙の口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
それこそが、狙い通りだったのだ。
艦載機が回避した先は、潮が構える砲の射線上──!
「え、えいっ!」
「……よし!」
曙の狙い通り、敵艦載機は潮が放った主砲の直撃を受けた。爆煙が白い機体を包み込み、その姿を覆い隠す。
何とか潮を上手く誘導できた。そう実感した途端、曙はホッと胸をなで下ろした。戦闘中だというのに、知らず知らずのうちに肩に力が入っていたらしい。短く息を吐き、曙は煙の向こうを警戒する。
「やりました、曙ちゃん! やっぱり、曙ちゃんがいれば潮は何だって出来ます」
潮が、盲目的な笑顔を向けてくる。
まるで、今の戦果さえも曙がいてくれたからこそ得られたものだと、疑いもなく信じているような笑顔だった。
曙は、そんな潮を複雑な表情で見つめた。
二人の間に何もなければ、曙だって素直に彼女の健闘を称えることができたはずだ。今の動きは決して悪くなかった。指示を受けてからの反応も、砲撃のタイミングも、十分に評価できるものだった。
それなのに、素直に喜べない。
潮が笑顔を向けてくるたび、曙の胸の奥には、言葉にできない感情が沈んでいくのだった。
*
モニターを見つめていた提督は、予想外の潮の動きに驚愕していた。
映像の中で、潮は曙の指示に即座に反応し、敵艦載機の攻撃を回避していた。それだけではない。曙の砲撃に合わせて敵の動きを誘導し、確実に命中させるための連携まで成立させている。
素早い反応速度。的確な命中率。
どれも、これまで提督が知っていた潮の姿からは想像しがたいものだった。モニターに映っているのは、本当にこれまで共に戦ってきた潮なのか? 提督は思わず目を凝らした。
これまでの潮は、曙以外の艦娘とは意思疎通が上手くいかず、度々窮地を招いていた。指示を受けても反応が遅れ、周囲との連携が崩れ、結果として仲間に負担をかけてしまう。そんな場面を、提督は何度も目にしてきた。
それが、今はどうだ。
曙の言葉ひとつで、潮はここまで動ける。
まるで、今まで覆い隠されていた実力が、一気に表へと引き出されたかのようだった。
「凄い。これが本来の潮なのか……?」
だからこそ、提督は疑問を抱く。
これほどの素質を秘めながら、何故彼女は心を病んでしまったのか。
単に訓練が足りなかったわけではない。能力が低かったわけでもない。少なくとも、今の戦闘を見る限り、潮には十分な実力がある。
ならば、何が彼女をここまで追い詰めたのだろう。
彼女の、彼女と曙に一体何があったというのか。
モニターの向こうでは、曙と潮が並んで戦っている。
けれど、提督には、その二人の間にあるものが見えなかった。
*
「最初から、こうすれば良かった」
喜ぶ潮の横で、曙がポツリと呟いた。
自分でも聞き取れるかどうかというほど、小さな声だった。
潮は万全のポテンシャルで動く。仲間も提督も困らない。曙が指示を出し、潮がそれに従えば、戦闘は円滑に進む。少なくとも、今の結果だけを見れば、何も問題はない。
何一つ非のない、最善の選択のように見える。
だが、零れた言葉とは裏腹に、曙の表情は晴れやかではなかった。むしろ、胸の内に広がるのは、言いようのない苦さだった。
これでいいのだろうか。
これで、本当に。
潮は笑っている。曙の言葉を信じ、曙が傍にいることを喜んでいる。周囲にとっても、今の状態は都合がいいはずだ。潮は戦力として機能し、仲間に余計な負担をかけることもない。
それなのに、曙の心は少しも軽くならなかった。
「これじゃ、あたし一人が我儘言ってるだけじゃん」
ギリ、と唇を噛みしめる。口の中に、わずかな痛みが走った。
曙の顔に宿るのは、悔しさとやるせなさだ。
自分が意地を張っているせいで、潮も周囲も苦しんでいる。そう考えれば、今のやり方こそが正しいのかもしれない。潮を受け入れ、自分が支えになってやれば、少なくとも表面上はすべてが上手く回るのだから。
けれど、それでは駄目なのだ。
本当は潮を、何のわだかまりもなく褒めてあげたい。今の動きを見て、よく頑張ったと。立派だったと。そう言って、素直に笑いかけてやりたい。そんな当たり前のことができれば、どれだけ楽だろう。
だが、それをやれば、曙は自分を許せなくなるのだ。
潮を認めてしまえば、まるで何もかも水に流してしまうようで。自分の中に残っているものまで、なかったことにしてしまうようで。それだけは、どうしてもできなかった。
「じゃあ誰が、アイツらを慰めるのよ……!」
行き場のない感情を押し殺すように、曙は拳を握り締めた。指先に力がこもり、掌に爪が食い込む。そうでもしなければ、胸の内に渦巻くものをどうにか抑え込めそうになかった。
次の瞬間。
未だ晴れぬ爆煙の中から、咆哮が響いた。
「!?」
曙は弾かれたように顔を上げる。敵艦載機は、まだ健在だった。
煙の奥から現れた白い影は、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。傷を負った獣のように、獰猛な殺意をむき出しにしている。咆哮には怒りが滲み、その銃口は、自身に傷を負わせた張本人へと向けられていた。
潮だ。
曙がそう認識した時には、すでに敵艦載機が攻撃態勢に入っていた。もはや言葉では間に合わない。
「潮!!」
声を発するのとほぼ同じタイミングで、曙は跳躍した。潮に飛び込むように体当たりし、その身体を押し退ける。
直後、機銃の雨が降り注いだ。
曙は何とか体を捻り、回避を試みる。だが、完全には避けきれなかった。鋭い衝撃が頭部をかすめ、髪飾りが砕け散る。続いて左肩を抉るような痛みが走った。
思わず顔が歪む。
熱い。肩の奥が焼けるように痛む。
それでも、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「曙ちゃん、何を……曙ちゃん!?」
"大丈夫か、曙!"
「こんなの、かすり傷よ! それより潮、アイツはまだ倒れてない。構えろ!」
「で、でも曙ちゃん、肩が」
「いいから!!」
狼狽える潮に、曙は激を飛ばした。
かすり傷だと強がってみせたものの、肩からは血が出ている。痛みも、決して無視できるものではなかった。動かすたびに傷口が疼き、肩を伝う熱が戦闘中であることを忘れさせない。
それでも、曙は歯を食いしばった。ここで潮が動けなくなれば、今度こそ取り返しがつかなくなる。
敵艦載機が、そんな隙を逃す選択などある筈がなかった。
再び銃口が二人を捕らえる。
照準がこちらに向けられたことを認識した瞬間、曙の背筋に冷たいものが走った。
避けるか。反撃するか。
だが、今の潮は動けない。曙も負傷している。このままでは、二人とも機銃掃射をまともに受けることになる。
絶体絶命か。
そう思った、その時だった。
突如、艦載機が攻撃を止め、回避動作に入った。
直後、砲弾が艦載機の脇を通り過ぎる。
「戦場で何言い争ってるの、死にたいの!?」
「ごめん、遅くなった!」
間一髪、霞と朧が駆け付けたのだ。
二人の姿を認めた途端、曙の胸を締めつけていた緊張がわずかに緩んだ。どうにか間に合った。そんな安堵が、ほんの一瞬だけ表情に浮かぶ。
もちろん、戦闘はまだ終わっていない。曙はすぐに気を引き締め直し、忌々しげに唸り声を上げる艦載機を上空に見据えた。
霞と朧も加わり、四人は陣形を構える。
"みんな、敵は手負いだ。最後まで油断するなよ"
提督の言葉を合図に、まずは曙が動いた。艦載機を正面に捉えながら、水平移動を行う。砲を構え、敵の動きを見極めようと視線を凝らした。
だが、敵艦載機の動きは先ほどまでとは違っていた。より不規則に、より高速に。何より、攻撃性が増している。
先ほどまでなら回避を優先していた場面でも、今の艦載機は被弾のリスクを冒しながら機銃掃射を放ってくる。自分が傷つくことも構わず、ただ相手を仕留めることだけに執着しているかのようだった。
曙は敵の動きを読み切れなかった。
予想外の苛烈さに判断が遅れ、回避が間に合わない。機銃の一部を浴び、身体に新たな衝撃が走る。
「ぐぅ……そっちがその気なら!」
痛みに顔をしかめながらも、曙は周囲を見渡した。潮は、曙の現状を見てすっかり錯乱状態となってしまっている。
先ほどまでの動きが嘘のように、こちらの指示を待つことさえできていない。曙が傷ついたことに動揺し、何をすべきか分からなくなっているのだ。これでは、先程の様にはいかないだろう。
曙は奥歯を噛みしめた。
自分が指示を出せば、潮は動く。けれど、その自分が負傷し、まともに動けなくなればどうなる。潮はまた、曙の傍で立ち尽くすだけになってしまうのではないか。
ならば──。
曙は賭けに出ることにした。
「こっちよ!」
何を思ったか、曙は単身、仲間達から離れて旋回した。その動きを見た艦載機が、逃がすものかとばかりに後を追う。曙に狙いを定めた敵の動きは、あからさまなほどに執拗だった。
「曙!? 何考えてるの!」
"霞、曙を信じてやってくれないか"
「司令官!?」
"今の曙はもう、独り善がりな行動はしない。きっと何か考えがあると思うんだ"
霞は驚きの声を上げたものの、提督の言葉にすぐには反論しなかった。曙の行動は、傍から見れば無謀そのものだ。負傷した状態で単身敵を引きつけるなど、危険を承知の上で飛び込んでいるようにしか見えない。
それでも、提督は曙を信じていた。
その言葉を聞いた霞は、数秒の間、曙の動きを見極めるように目を細めた。
やがて、提督の言葉に従い、動きを止める。朧も同様に、曙の次の行動を待った。その間にも、曙は敵艦載機を引きつけ続けていた。
負傷した肩が疼く。機銃の射線を見極め、身体を捻り、最小限の動きで回避する。余計な動きをすれば、たちまち隙を晒すことになる。今は一発でも被弾するわけにはいかなかった。
それでも、曙は構えを崩さない。
「来なさい、もっと近く──」
敵艦載機が、さらに距離を詰めてくる。
曙の挑発に応じるかのように、白い影が迫る。やがて必殺の射程に入った艦載機は、口から銃口を伸ばし、曙へと向けた。
曙は、その瞬間を待っていた。
敵の意識は、完全に自分へと向いている。周囲の仲間など、もはや眼中にない。負傷させた相手を仕留めることだけに執着しているのだ。
だからこそ、今なら──。
「──今よ、皆!」
曙の合図と同時に、待機していた朧と霞、そして我に返った潮が、遅れて砲撃の雨を放った。
四方から迫る砲弾。
艦載機は完全に曙へと執念を向けていたため、横からの砲撃に対処しきれなかった。砲弾が次々と命中し、白い機体を穿つ。断末魔の咆哮が海上に響き渡った。
そして、深海艦載機は空中で大爆発を起こした。
"よくやってくれた、曙!"
通信機越しに届いた提督の労いを聞きながら、曙は仲間たちの元へと戻っていく。
戦闘を終えた安堵はあった。けれど、肩の傷はまだ疼いているし、先ほどの戦闘で消耗した身体も重い。何より、胸の内にわだかまるものは少しも晴れていなかった。
視線を横に向ければ、潮がいる。彼女は未だ不安を拭いきれていない様子だったが、先ほどよりは落ち着きを取り戻しているようだった。
曙は小さく息を吐く。ひとまず、戦闘は乗り切った。今はそれで十分だと、自分に言い聞かせる。
「曙、お疲れ様」
「うん……皆も、あたしに合わせてくれてありがとう」
「危険を冒したのは褒められたものじゃないけれど……まあ、良い作戦だったんじゃない?」
それぞれが互いの健闘を称え合う。戦闘中は張り詰めていた空気も、ひとまずの勝利を経て少しずつ和らいでいた。そんな輪の中で、曙は仲間たちの顔を見渡す。無事に戦いを終えられたことへの安堵と、協力してくれたことへの感謝が、胸の内にじんわりと広がっていった。
ただ一人、潮だけがその輪に入れずにいた。
皆の会話に加わろうともせず、どこか所在なさげに立ち尽くしている。先ほどの戦闘では、曙の指示に従って見事に敵を撃破した。それでも、曙が負傷した途端に動揺し、再び身動きが取れなくなってしまった。
そのことを気にしているのか。それとも、曙の様子を窺っているのか。
いずれにせよ、潮が皆の輪に加われない理由には、曙自身も関係しているのだろう。曙は彼女の元へと進んだ。
「潮」
「はっ、はい!」
「……ここはもう、あの鎮守府とは違う。もっと力を抜いても良いと思う。少しずつで良いから、余裕を持てる様になって、そしたら──」
そこまで言って、曙は押し黙った。
口にしかけた言葉が、喉の奥でつかえる。
もっと力を抜いていい。周囲を見て、仲間を信じて、自分の判断で動けるようになってほしい。ここは以前の鎮守府とは違うのだから、過去に囚われ続ける必要はない。
伝えたいことはいくらでもあった。
けれど、その先にある言葉だけは、そう簡単に口にしたくなかった。それを言ってしまえば、今まで自分が抱えてきたものまで、何か別の形に変わってしまいそうだったからだ。
曙は視線を逸らした。
「……何でもない」
結局、首を傾げる潮を前に、曙は吐き出そうとしたものを飲み込んでしまった。
潮は何かを言いたそうにしていたが、曙がそれ以上話そうとしない以上、追及することもできなかった。
再び、二人の間に微妙な空気が流れる。
"皆、よく頑張ってくれたな。漣と響も既に帰還している。皆も気を付けて──"
提督の通信がそこまで聞こえた、その時。
海域に、不気味な唸り声が響き渡った。
それは、先ほどの艦載機が上げていた咆哮とは明らかに異なるものだった。腹の底に響くような低い音が海面を伝い、周囲の空気を震わせる。耳にした瞬間、曙の背筋にぞくりと冷たいものが走った。
終わっていない。
そう直感するには、十分すぎるほどの異様な響きだった。
「な、何!?」
"曙、今の音……いや、声か?"
「分からない。敵の姿は見えないわ」
周囲を警戒する一同。
曙もすぐさま気を引き締め、海面と上空に視線を走らせた。先ほどの戦闘で消耗した身体は休息を求めていたが、今はそんなことを言っていられない。敵がどこに潜んでいるのかも分からない以上、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかなかった。
やがて、曙から見て二時の方向で、海面が泡立ち始める。
水面の下で何かが蠢いている。
泡は次第に広がり、その中心から大きな影が浮かび上がろうとしていた。
「まぁそうよね、艦載機だけで終わる訳無い……来るわよ、全員構えなさいな!」
霞の一声で、艦娘たちは泡立つ方角へと向き直る。それぞれが主砲を構え、いつでも攻撃できるよう身構えた。曙もまた、先ほどまでの疲労を押し殺し、敵の出現に備える。
やがて、海面がせり上がった。
盛り上がった水が崩れ落ち、その下から異形の怪物が姿を現す。丸いレンズのような左目。不揃いで大きな臼歯。それらを構成するドーム状の身体から、人のような手と下半身が生えていた。
その姿を目にした曙は、思わず息を呑んだ。
深海棲艦。
それも、ただの一個体ではない。
"あれは……《空母ヌ級》! こいつが失踪事件の原因か!"
「何かアイツ、赤く光ってる!」
「Eliteカテゴリの個体ね。それなりに戦闘を生き抜いて来た奴よ、油断は──曙?」
異変に最初に気付いたのは霞だった。
曙は、件の深海棲艦の姿を捉えたまま動かなかった。
いや、動けなかった。
目の前にいる敵の姿を認識しているはずなのに、頭がそれを受け入れようとしない。視線を逸らすことも、主砲を構え直すこともできなかった。
ただ、目の前の、
「……んで」
「曙、どうしたの? 何か顔色が」
「何で、
突然、曙が取り乱した。
自分でも抑えきれないほどの声が出た。
霞たちは、いきなりのことに何が起きたのか分からない。つい先ほどまで戦闘を指揮していた曙が、敵の姿を見た途端、別人のように動揺しているのだ。
よく見れば、潮まで顔を青ざめさせていた。
その様子に、曙は気付く余裕すらなかった。
「あ……あぁ……"
"潮まで一体どうしたんだ! 曙、お前達はあの深海棲艦を知っているのか?"
「……良く知ってるわよ。アイツは、あの深海棲艦は!!」
通信機から届く提督の問いかけに、曙はどうにか言葉を返す。
よく知っている。
そう、よく知っているのだ。
忘れられるはずがない。忘れたくても忘れられない。目の前にいる深海棲艦は、曙の中に押し込めていた何かを、無理やり引きずり出そうとしていた。
パニックから立ち直った曙は、反射的に砲を構え、撃つ。
だが、不意打ち気味に放たれた砲撃は狙いが定まっていなかった。砲弾はヌ級の少し横に着弾し、海面に大きな水柱を起こす。
その一撃を合図に、ヌ級が攻撃を開始した。
大型草食獣の欠伸のように、ゆっくりと口が開く。
その口内から、白い艦載機が発艦した。
三機。
放たれた艦載機は、飛翔と同時にそれぞれが疎らに動き始める。互いに異なる軌道を描きながら、艦娘たちの視界を撹乱し、狙いを定めさせないように飛び回った。
曙は舌打ちする。
まずい。このままでは、敵の動きに対応できない。
だが、そんな状況であっても、潮はまだ恐慌から立ち直れていなかった。
「潮!!」
曙は潮の手を強引に引き寄せ、その場から離脱する。
直後、二人がいた場所を機銃掃射が通り過ぎた。海面が弾け、飛沫が頬を打つ。あと一瞬でも反応が遅れていれば、二人とも無事では済まなかっただろう。
曙は潮の両頬を軽く叩いた。
目を覚ませ。
今は、怯えている場合じゃない。
そう言い聞かせるように、曙は潮の顔を覗き込む。
「大丈夫、あたしの言う通りに動け。沈ませないから!」
「あ……は、はいっ!」
ようやく返事をした潮を見て、曙はわずかに安堵した。
今は、自分がしっかりしなければならない。
自分まで恐怖に呑まれてしまえば、潮を守ることも、仲間たちを助けることもできなくなる。
曙は改めて敵を見据えた。
その表情には、いつも以上に余裕が感じられなかった。
「曙、どうしたの? あのヌ級は、そんなに危険な相手なの……?」
朧の言葉に、曙は何も答えなかった。
ただ、艦載機たちを睨みつける。
頬には、一雫の汗が流れていた。
それは戦闘による疲労だけが理由ではなかった。目の前の敵を見ているだけで、身体の奥底から恐怖が込み上げてくる。どうにか押さえ込もうとしても、呼吸は浅くなり、指先に余計な力が入る。
こんな姿を仲間に見せるわけにはいかない。そう思うほど、平静を装うことが難しくなっていく。
「貴方、あの深海棲艦が
核心を突いた一言を、霞が放った。
曙は答えない。
普段なら、真っ先に否定していたはずだった。相手が霞ならなおさら、そんなことあるわけないでしょうと噛みついていたかもしれない。
それなのに、今の曙は沈黙を貫いていた。
それだけで、問いへの答えは十分だった。
霞は曙の様子を一瞥し、すぐに通信機へと向き直った。
「……司令官、この状況での戦闘続行は危険よ。隙を見て撤退するで構わないかしら?」
"そうだな。ヌ級の得体は知れないが、我々が全滅しては元も子もない"
「了解。曙もそれで良いわね?」
「……感謝するわ」
歯を食いしばりながら、曙はそう言った。
撤退の判断を受け入れることは、決して簡単ではなかった。自分が怯えているせいで、仲間たちに撤退を選ばせている。そんな思いが胸を刺す。
けれど、霞は曙を責めなかった。
提督も、無理に戦闘を続けろとは言わなかった。
今は、それがありがたかった。
曙は顔を上げ、潮に向き直る。
表情にはまだ不安が残っていた。けれど、その目には、現状を打破しようという強い意志が宿っていた。
怖い。それでも、戦わなければならない。少なくとも、潮と仲間たちを無事に帰すまでは。
「潮、狙いは一機に絞って、相手の動きに惑わされるな!」
「はいっ!」
曙の指示を受け、潮は艦載機を見据えた。
先ほどまでの恐怖は、完全に消えたわけではない。それでも、曙の言葉に従って意識を集中させる。撹乱目的で出鱈目な動きをする敵に惑わされず、一機だけに狙いを定めた。
敵の動きを追う。
照準を合わせる。
そして──放つ。
砲弾が艦載機を捉えた。
被弾した一機が、悲鳴を上げながら体勢を崩す。
「よしっ!」
潮の戦果を、曙は自分のことのように喜んだ。
思わず声が弾む。
今の一撃は、潮自身が敵を見極め、狙いを定めて放ったものだ。曙が手取り足取り指示を出したわけではない。潮が自分で考え、動き、成果を上げたのだ。
それが、曙には嬉しかった。
しかし、驚いたのは朧と霞だった。
いつも険悪な感情を潮に向けている曙からは、想像もつかない表情だったからだ。
特に霞は、曙の様子に何かを感じ取ったようだった。
彼女は、じっと曙を見据える。
「曙、貴方は……」
「な、何よ?」
「……いえ、今は戦いに集中。来るわよ!」
霞は何かを言いかけたものの、結局は口を閉ざした。今は戦闘中だ。目の前の敵に集中しなければならない。そう自分に言い聞かせるように、霞は再び艦載機へと視線を向けた。戦況が好転し、艦娘たちの士気が上がる。
敵の艦載機は三機。そのうち一機には、すでに損傷を与えている。こちらには四人の艦娘がいるのだ。連携を維持できれば、十分に勝機はある。
これなら勝てる。そんな淡い期待が、戦場を包み始めた。
その時だった。
残りの艦載機のうち一機が、朧に向けて急降下を開始した。怒りか、焦りか。まるで他のことなど考えていないかのような、愚直なまでの急降下だった。
朧は砲を構え、狙いを定める。
「やらせない、迎撃──」
「──朧、避けなさい!」
「え? あぁっ!?」
突然、霞の声が響いた。
朧がその意味を考えるよりも早く、身体に衝撃と激痛が走った。
砲撃は、まだ行われていない。目の前の艦載機は、攻撃を開始していないのだ。ならば、いったい何が──。
朧は、ようやくその意味を理解した。
「ぐ……しまった、囮」
朧の背後上空に回り込んでいたもう一機の艦載機が、してやったりと言わんばかりの咆哮を上げる。急降下してきた一機に意識を向けた隙を突かれたのだ。
完全に油断していた朧は、大破レベルのダメージを負ってしまった。このままでは危ない。
「朧……!? 今行くから!」
曙は、すぐさま朧の元へ向かおうとした。
エンジンを吹かし、加速しようとする。
しかし、思うように動かない。
いつもなら即座に反応するはずの艤装が、ひどく鈍く感じられた。出力が上がらず、身体が前へと進まない。
何が起きているのか。
焦りながらも、曙は原因に思い当たった。
「まさか……さっきのダメージでやられた!?」
よりにもよって、こんな時に。
忌々しげに舌打ちする。
今すぐにでも朧の元へ駆けつけたいのに、身体が言うことを聞かない。負傷した肩の痛みが、さらに焦燥を煽った。
曙は潮の方を見た。
案の定、潮は突如起きた曙の不調に慌てふためいていた。どうすればいいのか分からないという顔で、曙と朧を交互に見ている。
こうなることは、分かっていたはずだった。曙が動けなくなれば、潮は判断できなくなる。それでも、今は彼女に頼るしかない。曙は、ためらいを振り切るように声を張り上げた。
「潮、朧の援護に向かって。霞だけじゃ守りきれない!」
「え、でも曙ちゃんが……」
「あたしより朧の方が重傷でしょうが!」
思わず声が荒くなる。
言い争いを始めている場合ではない。曙自身、それは分かっていた。潮が自分を心配していることも、今の彼女にとって曙がどれほど大きな存在なのかも。
けれど、だからこそ腹立たしかった。
目の前で仲間が傷ついているのに、まだ自分のことを優先しようとする。その姿は、曙が何よりも恐れていたものを思い起こさせた。
そうこうしている間にも、霞は朧を守りながら二機の艦載機を相手取っていた。片方の動きを牽制しながら、もう片方の攻撃を捌く。負傷した朧を庇っている以上、自由に動くこともできない。それでも、霞は必死に持ちこたえていた。しかし、徐々にその対処にも限界が訪れようとしていた。
「ぐっ、駄目……捌ききれない」
霞の援護射撃にも限界がある。一刻も早く朧を助けなければならない。このままでは、朧が──。
曙の視界に、
今、目の前にいるのは朧だ。守らなければならない仲間が、すぐそこにいる。けれど、その姿に別の日の光景が重なる。あの時も、自分はこうして目の前の出来事を見つめていたのだろうか。もう二度と繰り返したくないはずの光景が、否応なしに脳裏をよぎる。
呼吸が乱れる。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
また、自分は失うのか?
折角、朧とも和解出来たのに──。
曙の心を、焦りと恐怖が支配していく。
朧が危ない。
霞だけでは守りきれない。
自分は動けない。
そして、潮は──。
「潮!!!!」
行き場のない怒りを、曙は叫びに変えた。その声に、潮の身体がびくりと震える。だが、曙はそれ以上、彼女を責める余裕もなかった。意を決したように、自身の妖精を呼び出す。
「エンジンの出力を上げて! 最大船速、早く!!」
危険の伴う行動に、妖精が躊躇いを見せる。
それも当然だった。
今の状態で無理に出力を上げれば、艤装に深刻な負荷がかかる。先ほどの損傷を考えれば、無茶をしていることは曙自身も理解していた。
だが、ここで躊躇している時間はない。曙は妖精を一喝し、艤装のエンジンを全開にする。
次の瞬間、異音が響いた。
耳障りな駆動音が唸りを上げ、艤装が限界を超えた出力を絞り出す。曙の身体に強烈な負荷がかかり、傷ついた肩が悲鳴を上げた。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
曙は、一気に朧の下まで駆けた。
「このおおっ!!」
朧の前に出た曙は、今まさに狙いを定めた艦載機へと先制して砲を放つ。朧に意識を向けていた艦載機は、曙の乱入に反応しきれなかった。
砲弾が直撃する。
機体が大きく揺らぎ、飛行能力を完全に失った艦載機は、断末魔の叫びを上げながら海面へと墜落した。
直後、爆発。
水面が激しく跳ね上がり、破片が飛び散った。
「ぐぁっ!」
その瞬間、曙のエンジンも限界を迎えた。異音が一際大きく響き、艤装が爆発する。強制的に出力を引き上げた反動が、一気に押し寄せたのだ。曙の身体から力が抜ける。
もう動けない。
朧も同じだった。負傷によって動きを封じられた二人に対し、最後の艦載機が襲いかかる。
「駄目、体が動かない……!」
曙は歯を食いしばった。何とかしなければ。
だが、身体が動かない。先ほどまで無理やり動かしていた艤装は沈黙し、負傷した身体はこれ以上の無茶を許してくれなかった。
艦載機が迫る。
「沈みなさい!」
あわや二人ともやられるかという、その瞬間。霞が二人を守るために援護射撃を放った。砲弾が艦載機を捉える。口惜しげな叫びとともに、敵機は空中で爆発した。
これで、放たれた艦載機は全て撃破した。
多勢に無勢となったヌ級は、悔しげな唸り声を上げる。自らの攻撃手段を失ったことを悟ったのか、やがて口から煙幕を吐きながら撤退を始めた。
「ま、待てこの」
曙は、反射的に追おうとした。しかし、もはや身体が動かなかった。追いたくても追えない。それに、元より撤退を前提に入れた戦いだ。誰も追撃など考えなかった。
ヌ級の気配が完全に消えたことを確認すると、霞は潮へと詰め寄った。
「潮貴方ね、いい加減に──」
そう抗議しかけた霞だったが、ふと視界の端に映った姿に言葉を止めた。
朧と肩を支え合っている曙。満身創痍の身体をどうにか支えながら、曙は朧の傍にいた。その眼差しは、暗い怒りに満ちていた。
*
満身創痍の中、艦娘たちは鎮守府へと帰投した。水平線には、既に日が沈みかかっていた。夕暮れの赤い光が海面を染め、傷ついた彼女たちに暗い影を落としている。戦闘を終えたはずなのに、誰も安堵の言葉を口にしなかった。
負傷の痛みと疲労。それ以上に、先ほどの戦闘で起きたことが、皆の心に重くのしかかっていた。
曙は潮に、朧は意識が薄れそうになりながらも霞に肩を貸され、陸地へと上がった。
朧の身体は、見ているだけでも危うかった。霞は彼女の様子を確かめながら、すぐに治療を受けさせなければならないと判断する。
「朧、少し揺れるけど我慢しなさい」
霞は朧を背中に負ぶさり、急ぎ足で鎮守府へと向かう。重傷の朧を一刻も早く治療させるためではある。だが、それだけではなかった。
曙と潮を、二人きりにするためでもある。
今の曙が何を考えているのか、霞には分からなかった。けれど、先ほどの戦闘中から、曙の様子が明らかにおかしかったことは確かだ。そして、その原因に潮が深く関わっていることも。
今は余計な口出しをするより、二人だけで話す時間を作るべきなのかもしれない。そう判断した霞は、朧を背負ったまま足を速めた。
上陸と同時に、曙は潮の手を払い、早歩きで先へ進んだ。突然手を振り払われた潮は、驚いたようにその場で立ち止まる。けれど、すぐに曙の後を追いかけた。
「曙ちゃん、そんなに早く歩くと」
「何でよ」
「え……?」
潮の言葉を遮って放たれた曙の声は、驚くほど冷たかった。それまで何とか抑え込んでいた感情が、少しずつ表面へと滲み出している。
曙自身、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。ただ、潮の声を聞くたび、胸の奥に押し込めていたものが膨れ上がっていく。
もう、我慢できそうになかった。
「曙、ちゃん……?」
「あたしよりも朧の方が危険な状況だったでしょ? もう少し遅かったら、朧は轟沈してたのよ? 何で、あんたはいつも、
「う、潮はそんな事」
「じゃあどうして!! 薄雲と不知火を見殺しにしたの!!」
「──え?」
落雷が如く、曙が吼えた。
その瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出す。
薄雲と不知火。
その名前を口にした途端、胸の奥に押し込めていた記憶が一気に蘇った。
あの時も、そうだった。
目の前に守るべき仲間がいた。助けなければならない相手がいた。それなのに、潮は──。
曙は、潮の顔を睨みつける。
目の前の彼女は、何が起きているのか理解できないという顔をしていた。その表情を見れば、潮が今もなお、あの時のことを正しく理解できていないのだと分かってしまう。
それが、何よりも腹立たしかった。
「あの時もそうだった! 優先すべきはあたしじゃ無かった! あんたがあの時、マトモな判断が出来なかった事も分かってる。だからあの男から離れた今なら、やり直せると思ったのに! あんたは何も変わってない、また同じ事を繰り返そうとした! 期待したあたしが馬鹿だった!!」
言葉を吐き出すたび、胸の奥に溜まっていた感情が形を持っていく。
怒り。失望。悲しみ。
それらは決して、今この瞬間に生まれたものではなかった。
ずっと、ずっと抱えてきたものだった。
潮が苦しんでいることは分かっていた。過去に囚われ、周囲を見られなくなっていることも。あの男の影響から抜け出せば、少しずつでも変わっていけるのではないか。もう一度、仲間たちと向き合えるようになるのではないか。
曙は、そう期待していた。
だからこそ、今日の戦闘で潮が自分の指示に従って動けたことを、心のどこかで喜んでいたのだ。
けれど、朧が危機に陥った時、潮はまた同じように曙だけを見ていた。曙が傷つくことを恐れ、曙の傍を離れようとしなかった。仲間が危険に晒されているというのに。
その姿を見た瞬間、曙の中で何かが崩れた。
「ち、違、潮は」
潮は何かを言おうとした。
けれど、その言葉は曙に届かなかった。
届くはずもなかった。
曙は、もうずっと前から、潮に伝えたいことがあったのだから。
「あたしは、あんたの事足手まといとか思ってないし強くなって欲しいなんて願ってなんか無い! あたしは! アイツらの事を蔑ろにしたあんたが許せなかった!!」
声が震えた。
怒鳴っているはずなのに、喉の奥がひどく痛い。
これまでずっと、隠し通してきた本心だった。
潮に向けていた冷たい態度も、突き放すような言葉も、ただ彼女を嫌っていたからではない。どうしても許せないものがあった。なかったことにはできないものがあった。
それでも、潮が変わってくれることを、どこかで期待していたのだ。
自分のことだけではなく、周囲を見てほしかった。
自分以外の仲間にも目を向けてほしかった。
そして、薄雲と不知火のことを、忘れないでほしかった。
気がつけば、曙の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
頬を伝う雫が、夕暮れの風に冷やされる。
泣くつもりなどなかった。こんなところで感情をぶつけるつもりもなかった。
けれど、もう止められなかった。
このままずっと隠し通したかった本心が、決壊し、押し出されていく。
「あんたなんか、大っ嫌い!!!!」
決定的な一言を告げ、曙は鎮守府の方へと走り去っていった。
もう、潮の顔を見ていられなかった。
これ以上ここにいたら、まだ何かを言ってしまいそうだった。言わなくてもいいことまで、全部ぶつけてしまいそうだった。
だから、逃げるように走った。その目からこぼれた雫が、夕焼けに照らされ、物悲しく輝いていた。
しばらくの静寂が訪れた。波の音だけが、二人の間を流れていく。潮は、その場から動けなかった。曙が走り去った方向を見つめたまま、何も言えずに立ち尽くす。
先ほどまで、何が起きているのか分からなかった。
どうして曙があんなに怒っているのか。どうして、自分にあんな言葉をぶつけたのか。けれど、時間が経つにつれて、曙の言葉が少しずつ胸に染み込んでくる。
あの時、曙が何を見ていたのか。
自分が何をしてしまったのか。
そして、曙がずっと何を伝えようとしていたのか。
「潮は、何も見えてなかった。曙ちゃんの事しか……いいえ、曙ちゃんの事すら見えていなかった。潮は、自分自身しか見ていなかった」
そう呟いた途端、膝から力が抜けた。潮は、その場に崩れ落ちる。
曙のことだけを見ていたつもりだった。曙の傍にいたい。曙に認められたい。曙の役に立ちたい。その思いばかりが先走り、彼女が本当は何を考えているのか、何を苦しんでいるのか、考えようともしなかった。
曙が何度も言葉を飲み込んでいたことにも、仲間たちが危険に晒されていたことにも、きちんと目を向けていなかった。
自分は、曙のことを大切に思っていたはずだった。
それなのに。
その思いは、いつの間にか自分自身のためだけのものになっていたのかもしれない。
「潮は、とんでもない勘違いを……」
後悔が、胸の奥から込み上げる。今すぐ曙を追いかけたい。謝りたい。自分が間違っていたと伝えたい。
けれど、足が動かなかった。
何を言えばいいのかも分からない。謝れば済むことではない。曙が抱えてきたものを、今さら知ったところで、すぐに理解できるはずもなかった。
後に残された潮は、ただ後悔を胸に立ち尽くすことしかできなかった。
ドロドロした話を書くのはやっぱり苦手だわな。
しかし真の胸糞回は次だと言う……気が重いけど、大事な回だから頑張らないとね。