夕暮れ時の大本営本部。
人工島に打ち寄せる波の音だけが、静かに辺りを満たしていた。
艦娘・曙は、出撃デッキを経由せず、島内公園の低所――海面に近い先端から直接陸へと上がった。
潮の匂いと、濡れた靴底の感触が、戦闘が終わったことを否応なく実感させる。
その曙を迎える影があった。提督だ。
遠方から彼女の帰還を確認し、わざわざここまで降りてきたのだろう。
それが分かった瞬間、曙の胸に、説明のつかない苛立ちが生まれた。
「お帰り。よく頑張ったな」
「頑張った……? ロ級は逃がしたのよ!? あたしは何の成果も上げられなかった!
あたしは、あんたの初陣に恥をかかせたの!!」
悔しさを押し殺しきれず、曙は提督に噛みつく。
目尻に滲む涙は、彼への申し訳なさではない。
――自分自身への失望。
そして、この後待ち受ける処分への恐怖。
提督は、ただ純粋に彼女を労っただけだった。
だが、その言葉は、今の曙にはあまりにも軽く、空虚に響いた。
訳が分からないと言いたげに眉をひそめながら、提督はひとまず彼女を落ち着かせようとする。
「どうしてそんな事を気にするのか分からないが……慢心は褒められたことでは無かったが、見事な戦いだったと思うぞ?」
「は……? なんで。あたし、敵を全滅出来てない」
「確かに、逃がしたロ級がまた人を襲うかもしれない。そこは早く対処しないとな」
「ちが、そうじゃなくて」
曙は混乱していた。
目の前の提督候補生は、彼女が知る【提督】という存在の枠から、明らかに外れている。
――コイツは、一体何者なのか。
その時、公園の入り口の方から足音が近づいてきた。
二人の男。
一人は朝に見た若い漁師、そしてもう一人は――先ほど曙が投げ飛ばして救助した初老の漁師だ。
おそらく、親子。
父親の方が曙の姿を認めるや否や、掴みかからんばかりの勢いで駆け出した。
「テメェこの野郎! さっきはよくも──」
「やめろ親父! ……その、あんた」
若い漁師が父親を押さえ、深く頭を下げる。
朝の荒々しさからは想像もつかないほど、誠実な態度だった。
「あんたのお陰で、親父はアイツらの餌にならずにすんだ。その、ありがとうな。
それから……朝は、すまなかった」
それだけ告げると、二人は公園を後にした。
呆然と、その背中を見送る曙。
胸の奥に、何かが引っかかる。
「あれが、お前自身が勝ち取った未来だ。これが恥なものか」
提督はそう言って、曙の頭を優しく撫でた。
無事を祝い、健闘を称え、努力を理解する――そんな思いが、確かに込められていた。
だが曙は、数瞬の沈黙の後、歯を食いしばり、乱暴にその手を払い除けた。
そして、走り出す。
「あっ、おい曙!」
制止の声も届かず、曙は駆ける。
――が、一度だけ足を止めた。
ゆっくりと振り返り、静かに口を開く。
「そんなもの勝ち取ったって、もう遅いから。あたしは明日、処分される」
ぽそりと。
まるで他人事のように。
ほんの少しだけ横を向き、
「お礼は言わないけど、あんたの諦めるなって言葉、悪くなかったわ」
それだけ告げ、曙は去っていった。
残された提督の元へ、いつの間にか大淀が歩み寄ってくる。
「お疲れ様です。イレギュラーな初陣でしたが、お見事でした。そのせいで貴方の手続きは、後日に伸びてしまいましたが」
大淀もまた、曙の後ろ姿を静かに見つめていた。
「曙はああ言っていましたが、きっと最後に貴方のような方と戦えて良かったなと思っていますよ」
淡々とした口調とは裏腹に、その表情にはわずかな憂いが滲んでいる。
舞い落ちる桜の花びらが、曙の運命を嘆くかのように、静かに宙を舞った。
「……あの、大淀さん」
「大淀で結構です。私は艦娘ですから」
「では大淀、頼みがある」
提督は、意を決したように大淀へと向き直った。
*
──翌日。
鬱蒼とした木々に囲まれながらも、不思議なほど静寂に満ちた場所。
大本営内、公園の外れにある艦娘専用墓地。戦いで殉死した艦娘の魂を鎮めるために設けられた場所だ。
多くの場合、艤装も肉体も海に沈む。
ここに「眠れる」艦娘は、決して多くはない。それでも、戦友の魂に祈りを捧げるため、足を運ぶ者は確かに存在する。
曙も、その一人だった。
並ぶ墓標を前に、彼女の表情はどこか寂しげだ。
過去に弔った艦娘がいるのかもしれない。
だが――この日課も、今日で終わる。
腕の通信端末が鳴る。
応答すると、大淀の声が響いた。
"駆逐艦曙。貴方の処遇が決定しました。駐車場へと向かって下さい……貴方を待っている人が居ます"
「了解……じゃ、行くね。あたしもすぐにそっちに行くから」
二つ並んだ墓標にそう告げ、曙は踵を返す。
添えられたピンクと白の花が、まるで見送るかのように静かに揺れていた。
大本営の屋外駐車場へ向かう道すがら、曙は拭いきれない違和感を覚えていた。
本日付で処分――それが大本営の判断だったはずだ。
ならば向かう先は工廠のはず。なのに、大淀は「駐車場へ向かえ」と言った。
「訳がわかんないわ」
思考を巡らせる曙の髪を、妖精が引っ張る。
促されるまま視線を向けると、一人の女性がこちらに手を振っていた。
三十代前半ほどだろうか。
ラフな服装に長い黒髪、眼鏡をかけたその女性は、軽やかに走り寄ってくる。
「駆逐艦曙……で、間違いないわね」
「……そうだけど」
警戒を解かず観察する。
死神にしては、あまりにも生活感のある姿だ。
差し出された手。
「それじゃ、早速行こうか」
「は? どこへ」
車で数時間。
曙は為すがまま、女──
疑念は消えない。
艦娘学校時代に聞いた、都市伝説が脳裏をよぎる。
人知れず艦娘が誘拐され、人体実験に使われるという噂。
まさか、自分が――。
妖精が肩の上で震えている。
「長旅ご苦労。足痙ってない?」
車を降ろされる曙。
まるで出荷前の子牛のような扱いに、警戒心は最高潮だった。
不安が膨らみかけた、その時。
「さ、中に入って。提督さんがお待ちだから」
――終わりだ。
恐ろしい提督の元で、被検体として……。
「……へ?」
思考が現実に引き戻される。
今、提督と言った?
「枕崎さん、帰っていたんですか?」
「今帰った所よ。曙もバッチリ連れてきた」
足音。
どこか聞き覚えのある声。
現れた男を見た瞬間、曙の思考は停止した。
「あ……あんた、昨日の!!」
「やぁ曙。一日ぶりだな──改めて、本日付で提督となり、この鎮守府に配属となった
「あ、うん。よろしく……じゃない! どう言う事よ!」
処分ではない?
新人提督の初期艦?
しかも相手は、あのクソ提督?
理解が追いつかない。
「えーっと……あれ。大淀から何も聴いていないのか?」
「どうやら、話し合いに齟齬があったみたいね」
枕崎が、面白そうに笑う。
「昨日の戦いを見ていて思ったんだ。お前は、まだ人間の為に戦える。こんな所で処分されるべき艦娘ではないって。だから俺が大本営に頼んで、俺の初期艦として配属させるという条件付きで処分を保留してもらった」
「……は? え??」
「詳しくは知らないけれど、よかったわね曙。ちなみに、お姉さんはこの鎮守府に雇われたお手伝い。よろしくね」
「えぇーーーーッ!!?」
混乱と驚愕の叫びが、海風に溶けていった。
これは、一人の艦娘の再起の物語である。
to be continued...
次回【初陣―カルテット―】