「おはよう、中里さん」
朝から硬い表情をしている彼女に向けて声をかける。いつも通り返事はない。視線を合わせる事なく隣を通り過ぎ、登校班の集合場所へと淡々と足を進めていく。
「ごめんなさいね。あの子最近無愛想になっちゃって…」
玄関のドアから顔を覗かせて中里の母親が申し訳なさそうに謝る。化粧気の無い寝起きの顔が目の下のクマでより目立っている。
「大丈夫です、気にしてませんから。行ってきます!」
中里の母親に頭を下げて彼女の後ろ姿を追う。この間にも早歩きをしたのだろうか、距離が空いている。
赤いランドセルを背負った1人の小さな背中は朝日を浴びて小さな影を作っていた。それは照らされたコンクリートの道に際立って写る。本当に小さなただの影。中里に話しかけたあの日と何一つ変わらない彼女の姿だ。
結局何も変わらなかった。あれから毎日話しかけた。しかし彼女が反応してくれることは無かった。ただ時間だけが過ぎ、タイムリミットまで迫ってくる。
父さんが亡くなってしまうまで時間があまりない。それを認識出来たのは母さんと父さんのお見舞いに行ったからだ。
田舎に不釣り合いな大きな病院。父さんが入院したての頃にはしゃぎながら入っていた建物も、もはや監獄の様にさえ思えた。
母さんが病室の扉を開けると迎え入れたのは呼吸器とチューブに繋がれた人の姿。
ただ生かされているだけの父さんの姿。
それは人なのか人形なのか分からなくなる程だ。息がつまる感覚を確かに感じた。
以前の自分は目を背けて、まともに見ようともしなかった姿を初めて目にした。
今にして思えば本当に酷いものだ。自分が信じるといった相手の姿から目を背けるなんて、信じていないのと変わらない。
そんな父さんの手足は全く動かず、声を聞くことも叶わない。目だけが僅かに動き、自分を認識してくれただけでも嬉しかった。
「おはよう、お父さん。今日もたくさんお話ししたいことがあるのよ。眠らずにちゃんと聞いてね?」
母さんが父さんに寄り添いながら僕たち家族の話なんかをし始める。僅かに父さんの目尻が上がったのは僕の気のせいなのかもしれない。
話しかける言葉が見つからず僕は病室を出た。もう父さんとの会話はあの守れなかった約束で充分だった。
重いドアを開けると担当医の倉持さんがドアの前に立っていた。いつも父さんの話し相手をしてくれた。不安になった僕を慰めてくれた。
そんな少し痩せ過ぎで不健康そうに見える彼は僕を見ると体を屈ませて目線を合わせてくる。
「ちゃんとお父さんのこと見てくれるようになったんだね。君は…偉いよ」
少し笑って薬品の匂いのする手で頭を撫でてくる。その手つきは不慣れなもので子供慣れしていないことが見て取れた。今まで勉強しかしてこなかったと自分で嘆いていた。だから子供への接し方があまり分からないらしい。
けど僕はこの不器用な優しさが嫌いではなかった。
そんな手が不意に止まる。目を向けると彼は頭を下げ、涙目になっていた。
「ごめんね…君のお父さんの力になれなくて…」
小さな声で彼は呟いた。
誰が悪いなんてことはない。ただ今回は父さんの運が無かっただけの話だ。だから誰が責められる訳でもないのに彼は小さな子供に対して謝ってきた。
「先生は悪くありません。そう思ってくれるだけで嬉しいです」
失礼します。と頭を下げて僕は彼の横を通り過ぎる。
後ろから声をかけられることなく廊下を歩く。お年寄りの移動を手伝う看護婦、車椅子に座ったおばあちゃんを押してあげる少女。すれ違う人たちを横目に見て真っ直ぐ進む。
誰だっていつ死ぬかなんてわからない。お年寄りよりも先に看護婦が、少女が先立つ可能性だってある。
廊下を抜けて受付近くにあるソファーに座る。既に周りには診察を待つ人達が座っていた。貧乏揺りの激しい人やマスクをして頬の紅潮している人が咳をする。これから言い渡される診察結果によっては死が自分に近づいていると分かる人もいるだろう。
そう、今回はただ父さんの死が明確に近づいていると分かっただけだ。そう思っているのに胸が詰まる。
こんな事なら何も知らず、何も理解できず、突然父さんが死ぬ方が良かったのではないか。
そんなことを考えている頭の隅で、もう一つの考えが残っていた。それは何よりも怖かった。
(父さんの死が近いということは中里の母親も、もうすぐ自殺するのだろう)
父さんの死を一度受け入れたからなのか、自分の頭にある冷静な考えがとても怖かった。
父さんの死後、あれほど何も考えられなかった頭は既に先の未来について考えていた。
時間の経過と共に近づく父の死をただの通過点の一つのように考えていた。
ただ時間が過ぎていくことに悲しみや恐怖よりも焦りが生じている。そんな自分が何よりも怖かった。
▽ ▽ ▽
昼休みになり、校庭でドッジボールを楽しむ声が響き、教室内での話し声も大きくなっていく。活気に溢れた教室で僕と中里だけは自分の席にただ座っていた。
いつもなら中里を遊びに誘ったり、話をしようとするが今日は違う。
中里の母親の自殺をどうやって止めるのかを落ち着いて考えたいと思い、席を立つと自然と足は図書室へと進んでいた。
図書室に入ると数人が本を読んだり、用意された机で眠っている。
この学校の図書室はこじんまりとしている。置いている本も古いものが多い。他には貸し出し不可の漫画が少ししか置かれていないくらいの特徴しかない。
漫画が少ないという事もあってか人気がなく、あまり人が寄り付かない。図書室に行くくらいなら外で遊ぶという子供も多いからだ。
「図書室で鬼ごっこしちゃダメだよ?」
「はーい」
そんな話し声の後、低学年の男子が走って図書室から出ていく。その後ろ姿に声をかけるのは久しぶりに会う見慣れた顔だった。
「走っちゃダメだよ〜」
長い黒髪を揺らしながら舞が少し怒った風に言うが全く怖くなかった。ルックスがあっても舞が女優になるのは無理そうだ。
「図書委員って意外に大変だね」
「貸し借りの管理なんかは先生がしてくれるから楽だよって言ってのに…酷いです。本が好きだからいいんですけど…」
彼女は机に座ってため息をついた。向かいの席に座ると自然とこちらもため息が出た。
「なんで今日は図書室に来たの? 優人君って本とか読まないよね?」
小さな目を向けて彼女は不思議そうに訪ねてくる。少し迷ってから口を開ける。
「少し考え事をしたかったから」
そう言うと彼女は少し身を乗り出して顔を近づけてきた。
「どんな事なんです? 何か困ったことがあれば協力しますよ!」
普段は落ち着いた物腰をしている彼女が何故かすごく乗り気になっているようだ。
「あ、あんまり言えないんだけど、困っている人がいるから解決してあげたいな〜みたいな感じで…」
「なるほど、人助けですね。因みにその人はなにで困ってるんですか?」
彼女の勢いに負けて言ったが、本格的に手伝ってもらうことになってしまった…
けれど1人で考えても解決しなかったので少し協力してもらうのはいいかもしれない。そう思うと気が軽くなってきた。
「よくは分からないけど疲れてるんだとおもう。目の下にクマとか出来てて…このままだと自殺する可能性だってあるかもしれない」
「じ、自殺ですか?」
舞は目を大きく見開き驚く。図書室にその不謹慎な言葉が響き、口に小さな手を当てて抑える様子は少し可愛かった。
けれど本当のことだ。自分でも中里の母親が何故自殺したのかは分からない。だから可能性の話として自殺があるかもしれないとして考えをして欲しかった。
舞は手をそのまま顎に手を当てて頭を悩ませる。少し静かな時が流れ、こちらに目を向けて口を開いた。
「ならその人は鬱なんじゃないですか?」
舞の考えは的を得ている。確かに鬱の人が自殺した、なんて話をよく聞いたりする。鬱の定義などは知らないが充分に中里の母親はその可能性があるだろう。
「鬱についての本とかあるかな?」
「ん〜確か道徳関係の本のところにあったと思います。探してみましょう」
舞と手分けをして道徳関係の本棚を探り始める。図書の担当者がよく働いてくれているのか、綺麗に整理された本棚から見つけ出すのは容易だった。
鬱関係の本を数冊持って机に戻ると舞が隣に座ってきた。
「一緒に読みません?」
少し頬を赤くした舞は恥ずかしそうに両手で抱えた本で口を隠して尋ねてくる。
少し戸惑いながらも頷いて舞と一緒に子供に対しては大きな本を机に開けて読む。2人でドギマギしながら意見を交わし合って読み進める。そうしていると少しずつ分かってくる。
やはり仕事のストレスというのはかなり負担になり、鬱に陥りやすいようだ。中里の母親が山中スーパーで働いているのは見たことがある。けれど目の下のクマや夜に時々聞こえる隣のドアの音から考えて、他の仕事で夜遅くまで働いているのだろう。その負担が大きいのかもしれない。
けれどそれが分かったところでどうすればいいのか分からない。そう悩んでいると舞が肩を叩いてくる。
「何を悩んでいるんですか?」
「仕事の事だけど…どうしたらいいのか分からないんだよ…」
そう言うと舞は少し唸り声を出して考え始める。小学5年生が口出ししていいような事でもないので舞にも考えつかないだろうと思っていると、そうだ。と声をあげた。
「実際にその人に会いに行きませんか?」
今まで登場人物が小学生ということもあり、平仮名を多用してきたのですが読みにくいと思い漢字主体に変更しました。
適時、過去投稿の文も修正したいと思います。
これからもよろしくお願いします。