たった一人の天文部に所属している高校生清水要は、星について知識や熱意の無い、言わばサボり目的の部員兼部長、平凡で人並みに自分を誤魔化している。しかし、新入部員、帰国子女の北村忠雄は、清水の誤魔化しを少しづつ指摘していって。

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俺達はきっと、同じ星空を見上げて

 カタン。カタン。遠くで鉄橋を叩く電車の音。風は吹かず、電車が鉄橋を渡り終えてしまえば、二つの影と、沈黙。

 

「もし、この電話が繋がらなかったら、お前は俺を軽蔑するだろう?」

 

 震える右手でなんとかボタンを押しながら、片方の影は言った。それは怯えているようにも、開き直っているようにも聞こえる奇妙な口調だった。

 

 もう片方の影は落ち着き払って言った。

 

「もしあなたが電話をしなかったら、私はもっと軽蔑する」

 

 ぶるり、と影が震えた。意を決し、影は携帯電話を耳に当てる。

 

 電車は鉄橋を通っていない。虫も鳴いていなければ、誰かの話し声も聞こえない。

 

 呼び出し音。

 

 呼び出し音。

 

 

 埃をかぶっていた双眼鏡のレンズを、不器用に眼鏡用の拭き布で撫でながら、清水要――しみずかなめ――は部室の扉が開くのを待っていた。

 

 九月、高校の二学期が始まると同時に、一年生の転校生が転入してきた事は話題として知っていた。

 

 しかしまさか、その転校生が自分の所属する天文部に入部を希望するなんて考えてもいなかった事だった。

 

 寝癖をつけたままの化学教師から、転校生徒の顔合わせを部室で予約したと聞いた時、清水は何よりも先に、めんどくせえなと心の中で毒づいた。

 

 そもそも天文部の部員は清水たった一人であり、顧問の化学教師は名ばかりの存在、本当ならば愛好会を名乗らなければならないところを、グダグダの生徒会のおかげで事なきを得ているという状態のどうしようもない部なのだ。

 

 部長と言う役職についているとはいえ、清水にとって天文学部は気楽な城であり、その城に侵入者、しかも九月からの転校生と言う扱いづらい事この上ない存在が現れるとなると、気が気では無い。

 

 清水が雑に磨かれた双眼鏡の隙間にこびりついた埃を取り除こうと、唇を尖らせて無理に息を吹きかけた頃、立て付けの悪い引き戸のサッシが二重三重に音を上げた。

 

 清水が扉に目線を向けると、擦りガラスの向こう側に男の影が見える。今日この部室を訪れるのは、件の転校生しかいないだろう。

 

 どうせ後輩だからと、清水は軽く「開いてるぞ」と答えた。

 

「失礼します」

 

 よく通る声だった。不気味な音を上げる引き戸を開けて目の前に現れた転校生に、清水は面食らった。

 

 転校生はスラリと背の高い端麗な男だった。テレビや雑誌などでよく見る少年アイドルの様なキラキラとした物とはまた異質の、まるで芸術品のような美しさ、要するに、そこに無理や偽りのような物を感じさせないのだ。今この時こそがこの男の自然体であり、まるでそこに演出のようなものが含まれていない。

 

「天文部入部希望の北村忠雄――きたむらただお――です。部長の清水要先輩でしょうか?」

 

 頭を下げた北村に、清水は言葉をつまらせた。

 

 クラスメイトの女子達が転校生についてあれやこれやと噂していたのは知っていたが、北村を見てなるほどと思った。確かに、こういう存在が転校してきたとなると、騒ぎの一つや二つも起きる。

 

「ああ、俺が部長の清水だ。別にそんな改まる必要なんて無いぜ、まあ座れよ」

 

 二つ並べられた長机を挟んで、北村は清水の正面のパイプ椅子に腰掛ける。元々だろうか、色素が薄く茶色がかった髪の毛が揺れた。

 

 清水は部長、先輩として何とか対面を取り繕うと背筋を伸ばした。

 

「しかしまた、どうして天文部なんかに」

 

 北村は少しはにかんで答えた。

 

「私は人と競うのがどうも性に合わないところがあるので、できれば文化系で人の少ない部があればと」

 

「へえ、確かにウチはそうだな」

 

 少し大げさに笑い声を上げる清水に、北村は慌てたふうに「すみません決して悪い意味では、気に障ったのなら謝ります」

 

「いやいや、好きでやってるんだから仕方がない。別にそれが気に障るほど歴史のある部じゃないさ」

 

 生真面目な奴だ、清水は北村の精神的な第一印象をそう捉えて、少し安心した。

 

「転校してきたんだろ? 一体どこから?」

 

「父の都合で海外から越してきたんです。だからこんなに半端な時期に」

 

「ああ」清水は納得して「だからそんなに生真面目な喋り方なのか」

 

「ごめんなさい、勉強はしていたんですがどうも教材が少し古かったらしく、まだ砕けた会話をあまりできないんです。意味は大体わかるのですが」

 

「なるほどね。まあ、少しづつ慣れていけばいいんじゃないか」

 

 照れているのだろうか、少し頬を染めている北村に清水は表面上は取り繕いつつも、激しく動揺していた。清水にとって北村はあまりにも非日常的な存在だった。

 

 清水は北村ほど容姿の整った男は日常では目にしたことはないし、そんな男が生真面目でましてや海外からの帰国子女だなんて、スポットライトを浴び続けているようだ。

 

 清水はもともと後ろ向きな考え方をするタイプだったが、彼は北村と自分を比較して、更にネガティブになった。自分がこの男より優れているものなんて一年先に生まれたことぐらいなのではなかろうかと気を落とした。

 

 ふぅ、と溜息をごまかした清水は、無性に北村の非日常的な部分に興味が湧いてきた。

 

「新しいクラスでは、随分ともてただろう? 女子は君をほっとかないだろうから」

 

「クラスメイトはみんな良くしてくれますよ、物珍しいのもあるのでしょうが」

 

 ニッコリと笑う北村に、ああそうかこいつには自覚がないのかと、清水は話題を引き上げた。

 

「星についてはどのくらいの知識があるの?」

 

「それが、ほとんど知識のない状態でして」

 

 北村は申し訳無さそうに目を伏せたが、清水は気にせず答えた。

 

「ああ、大丈夫大丈夫、俺もだから」

 

 え。と不思議そうに清水を見つめる北村に、清水は手を振りながら「前の部長は熱心な人だったけど、俺は活動日の少なさでこの部選んだから、似たよなもんだよ。むしろそのくらいバランスが取れてたほうが気を使わないで済みそうだ。活動したければ活動すればいいし、したくなければしなくてもいい。気楽なものだろう?」

 

 北村は戸惑った風に頬を掻く。

 

「はあ、そういうものですか。部としての活動はなにかあるのですか?」

 

「そうだなあ、合宿や郊外活動は君が希望するのならば何とか出来るかもしれないな。後はそうだな、毎週土曜日の夜に雨が降ってなければ、ちょっと外れたところの河川敷で星を見てるよ。前の部長がやり始めてね」

 

「私もそれに参加してもよろしいでしょうか?」

 

「ああ、構わないよ。現地集合でいいなら明日地図を渡すよ」

 

 ああ、そうだ。と清水は二年生にしては随分とヨレヨレの学生カバンから双眼鏡を取り出し、机の上に置いた。

 

「これを携帯すると良い、双眼鏡で星を見るのも、結構いいもんだよ。うちの部で備品はこれだけじゃないかな」

 

「ありがとうございます。しかし、私はそっちの汚れている方でいいのですが」

 

 北村は清水が磨いていた双眼鏡を指さした。彼の言うとおり、清水は今まで自分が使っていた双眼鏡のまま、北村にその双眼鏡を手渡したほうが理に適っているように思えるが、清水は少し言葉に詰まりながらも笑ってそれを否定した。

 

「いやいや、これは前の部長が使ってたやつで、言わば部長専用ってやつなんだよ。それにようやく入った新入部員に、汚いやつを使わせる訳にはいかないよ」

 

 

 住宅街を抜けて、街を二分する大きな河原を上流に向かって数十分ほど自転車を漕げば、県営のゴルフ場が現れる。そのすぐ隣には、ゴルフ場を建設するついでに整地された公園がある。夜になれば川のせせらぎと時折鉄橋を走る電車の音以外は何も聞こえなくなるそこは、静かに星を見るにはうってつけの場所だった。

 

 待ち合わせ場所の駐輪所に予定していた時間よりも三十分ほど早くその場所についた清水は、電灯の下にすでに北村が居たことに驚いた。

 

「随分と早いな」

 

「いえ、私も今来たところですよ」

 

「自転車が見当たらないけど」

 

「ええ、歩いてきたので」

 

「そりゃ大変だったな、帰りは付き合ってやるよ」

 

 清水は自転車を止め、前かごに乗っていた少し大きめのリュックサックに手をかける。

 

「双眼鏡は持ってきたんだろ?」

 

「ええ、ちゃんとここに」

 

 北村がショルダーバックを指さす「ちょっとした物も少し」

 

 そうか、と清水はリュックサックからランタン型の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。青白い光が電灯のオレンジとまじわる。

 

「それじゃ、降りようぜ」

 

 

「ここが一番良く見えるんだよ」

 

 芝生の上に懐中電灯を置いた清水は、リュックサックからブルーシートを取り出しそこ広げた。

 

「寝そべりたかったら寝そべってもいい、要は星を見ることが大事なんだってさ」

 

「それは、前任の部長さんの言葉ですか?」

 

「ああ、最も、あの人はそんなに簡単には考えていなかったかもしれないけどな」

 

 清水は設置型の虫除けを重石代わりにブルーシートに置き、北村に構わず横向きに寝転がった。それは後輩の北村に対する気遣いでもあった。北村も靴を脱ぎ、清水の横に腰を下ろす。

 

「極力、最後の最後まで空を見上げないようにするんだ。見るときは一気に見上げる」

 

「それも、前任の部長が?」

 

 清水は少しだけ答えに詰まったが、考えを整理するように「んー」と唸った。

 

「いいや、これは俺が思ったことだ。急に星空を見ると、いつも予想以上に綺麗で、俺みたいに、星に興味のないやつでも、一瞬だけすげーと思うんだ。それ、イチ、ニの」

 

 サン、と清水が言うのと同時に、二人は夜空を見上げた。街灯が少なく、街の光が届いていないからだろう。星の光は強く、一面に散らばっていた。

 

「今日は晴れてたから、天の川もきっちり見えるな」

 

 はー、と北村は感嘆の声をあげる。

 

「輝きが強い星がいくつかあるのはわかりますが、どれがなんという名前で、どの星とどの星を結べば星座になるのかはわかりませんねえ」

 

 その言葉を聞いて、清水は右手で二つの星を指した。

 

「天の川を挟むように二つ強い星があるだろ?」

 

 北村が清水の指先を目で追って「ええ」と答える。

 

「アレが有名な織姫と彦星だよ。ああ、七夕の伝説については知ってる?」

 

「ええ、話だけなら」

 

「織姫は、こと座のベガって星だ。彦星はわし座のアルタイル。あそこにあるはくちょう座のデネブと三つ結んで、有名な夏の大三角形だよ。さて、俺がソラで言えるのはここまでで、後は本を見るしか無いな」

 

 清水は再びリュックサックから分厚い本を取り出し、それをランタン型の懐中電灯の傍に置いた。それは随分と古い本で、表紙は日に焼け色がくすんでいる。星図についての本であろうことが、題名から見て取れた。

 

 珍しそうにそれを覗きこんで「随分と、年季の入った本ですねえ」と北村。

 

「ああ、何年も前のものらしいからな」

 

「先輩の物ではないのですか?」

 

「今はそうだけどさ、それも元々は前の部長のもんだよ。引退するときに俺にくれたんだ、まあ、あの人は殆ど記憶していたようなものだったけどな」

 

 北村はそれを手にとって、ランタン型の懐中電灯に照らしながらパラパラとめくった、そして夏から秋にかけての星図の部分でそれの手を止め、夜空と照らし合わせ始める。

 

「前の部長のお名前は?」

 

「名前? カンノだよ、神様の神に、野原の野だ」

 

「話を聞く限り、神野先輩は随分と熱心な人だったんでしょうね」

 

「ああ、あの人はすごい人だったよ」

 

 感慨深そうに清水が答える。

 

「もともとうちの高校には天文部なんてなかったらしいが、神野さんが入学してすぐに、友達の名前をいくつか借りて創部したらしい、何でも一人でやる人だったから手がかからなくて楽ちんだったと、顧問も言っていたよ」

 

「彼は今何を?」

 

 ん、と清水は考えこむ。

 

「さあ、分からないなあ。かなりいい大学に進んだのは間違いないし、留学制度を利用して馬鹿でかい望遠鏡のある何とかって大学に行くとは聞いたけど」

 

「きっと、うまくやるんでしょうね」

 

「だろうな、神野さんほど熱意と努力がある人を俺は見たことがない。俺が入部するまでは、たった一人でここに来て、たった一人で夜空を眺めてたってんだからな」

 

「清水先輩もそれに付き合っていのでしょう?」

 

 清水はアハハと笑う。

 

「俺は別に熱意が合って付き合ってたわけじゃないさ。前にも言ったように俺は元々サボり目的でこの部に入ったんだが、流石に最初の活動日には顔を出さないとマズイだろうと思ってな、俺は星のことなんてなんにも知らなかったからテキトーに扱われると思ってたんだが、ちょっとここに来てみたら、そりゃもうえらく歓迎されて、あの人があまりにも嬉しそうに星の事を教えてくれるもんだから、そのままズルズルだよ」

 

 北村は「はあ、そんなもんですか」と曖昧に相槌を打って、双眼鏡を手にとった。双眼鏡と星図を往復する北村につられて、清水も双眼鏡を手にとった。

 

 今日は特別天の川が澄んで見えるような気がした。わし座とはくちょう座は星をつなぐことができるが、こと座は未だによくわかっていない。

 

 遠くで、カタン。カタン。と電車の音。

 

「それなら」と、北村。

 

「それなら、なぜ清水先輩はこの活動を続けているのですか?」

 

 一瞬沈黙、清水はその質問の意図を掴めないでいた。

 

「ん? どういうことだ?」

 

「神野さんが卒業して、部員はあなただけになったのでしょう? この活動を続けるかどうかはあなたが決められるはずじゃないですか。それでも今日まで、毎週土曜日にここに来ていたのは、一体どうしてなんです?」

 

 清水は答えに詰まった。

 

「うーん、なんでだろうな。俺もよくわからん」

 

「わからない、と言うことはないでしょう」

 

「どうだって良いじゃないか」

 

「いえ、とても興味があります」

 

 清水はうーん、と再び唸る。

 

 少しばかり沈黙が続いた後「はっきりとはいえないが」と清水。

 

「やっぱり神野さんの存在が、俺にとって衝撃的なものだったんだろう」

 

「衝撃的、ですか」

 

「うん、あの人ほど何かに熱意を持って、それでいて努力をしている人をそれまで見たことがなかったし、だから、俺は神野さんをとても尊敬しているんだろう。だから、この行動に疑問を持っていないというか、辞める理由がなかったというか」

 

「辞める理由がない、なるほど」

 

 もっともらしく、北村が頷いた。

 

「この星空を、神野先輩も眺めているのでしょうか?」

 

「屋内に居なけりゃ、俺達よりも熱心の眺めているだろうな、この活動の帰り道でも空を見上げながら歩く人だったよ。まあ、もういいじゃねえか、居ない人間の事を話しても仕方ねえ」

 

 清水は再び双眼鏡を覗きこんだ。北村も星空と星図の往復を再開する。

 

 しばらくして、少し強めの風が川側から吹き込んできた。シートの端が少しめくれ、北村の手にあった星図は、バラリと裏表紙の見返しまで捲れた。

 

 星空に意識があった北村は、ん。と声を漏らし、先ほどのページ番号を思い出しながら見返しに目をやり、おや。とそれに気づいた。

 

 それは、ゼロ、ナナ、ゼロ、から始まる電話番号だった。真新しいインクではっきりと書かれたそれは、消えるのを防ぐためだろうか、透明なテープを上から貼り付けられていた。

 

「先輩は、ピーエイチエスなんですね」

 

「いいや、違うぞ?」

 

 突然の質問に反射的に答えた清水は、何事かと体を起こし、北村が指差す電話番号を確認して「ああ」と苦笑いした。

 

「これは神野さんの番号だよ、あの人ピーエイチエスだったし」

 

「なんでこんな場所に? インクは新しいですよ」

 

「知らねーよ、自分の持ち物にそういうの書くのは普通だろうよ」

 

 ぶっきらぼうにそう言い切って、清水は再び体勢を元に戻した。明らかに先ほどまでと態度が違っていた。

 

 北村は星図を閉じて、裏表紙をぼうっと眺めた。すると、下の方に小さく、うっすらと何かが書かれているのに気づいた。

 

 懐中電灯のおぼろな光にそれを照らすと、かすれて消えかかった幼さが見て取れる鉛筆の字で『かんの』と書かれていた。それを追うように「か、ん、の」とつぶやく。

 

 なんだ名前か、と、一瞬は思ったが、その続きもかろうじて読めそうだと目を凝らす。

 

「あ、か、り。神野あかり」

 

 北村は続きがないことを確認すると「てっきり、神野先輩は男性かと」

 

「別に見た目は普通だよ、お前が思っているようなもんじゃない。星にしか興味が無い人だ」

 

「そんなこと思ってませんよ」

 

 北村は再び先ほどのページを開いた。

 

 カタン。カタン。電車の音。

 

「神野先輩とは、今でも連絡を?」

 

「いいや、もうとってない」

 

「何故です?」

 

「連絡を取り合うほどの仲じゃないさ。それに、俺よりも話すべき人間が一杯いるだろうから」

 

 自嘲気味に笑う清水に、北村は何かを言おうとしたが、それにかぶせるように清水が続ける。

 

「星の事を学ぶために、わざわざ難関大学に入ったんだ。俺なんかよりも星に詳しい奴は幾らでもいるだろうし、そういうサークルだってあるだろう。同じレベルのやつと話したほうが、神野さんも楽しいさ」

 

「神野先輩が、そう?」

 

「まさか、あの人がそんな事言うわけ無いだろう。俺はそもそも不真面目な動機からこの部に入ったんだ、あの人とは、そもそも住む世界が違うんだよ」

 

 その卑屈な考えは、北村の頭の中には無い事だった。何か否定しようと北村の頭のなかを言葉が回ったが、清水の考えに理解が至らず、口ごもる。

 

 北村は、もっと直接的にこの問題を解決しようとした。ショルダーバックから、携帯電話を取り出し、開く。

 

「この番号に、かけてみます」

 

 その言葉に反応し、清水は痙攣のように跳ね上がると、北村の右腕を掴んだ。

 

「やめろ」

 

 その手には、力が篭っていた。

 

「別に清水先輩の事を聞くわけではありません。ただ、私個人が、神野先輩に興味があるだけです。あなたが尊敬する神野先輩と、ぜひとも話がしてみたい」

 

「もう夜だぜ、非常識だ」

 

「まだギリギリ大丈夫でしょう?」

 

「なら本を返せ、俺のもんだ」

 

「構いませんが、私は番号を覚えていますよ。記憶力は良いほうです」

 

 差し出された星図本を、清水はため息を付きながらも慎重に受け取った。

 

「わかった、だが、今ここでかけるのだけは止めてくれ」

 

「何故です」

 

「そんなもん」

 

 清水は口ごもった。頭の中で単語を幾つか並べ、取り繕うとしている。しかし、どの言葉を使おうとも、誤魔化しきれないと悟ったのか、顔を赤くして言った。

 

「恥ずかしいからに決まってるだろう」

 

 それを聞いて、北村は携帯電話を閉じた。

 

「好きなのですね」

 

 清水は観念したように項垂れて「ああ、堪らなく好きだよ」

 

「それならなおさら、どうして連絡しないんです」

 

 清水は懐中電灯の光を落とした。電灯のないそのポイントは暗闇となった。それは清水がこれ以上醜態を見られないように苦心した結果だった。

 

「お前はそう思うだろう、見た目がいい、性格だって良さそうだし、帰国子女で外国語にも強い。父親の職業は何だ?」

 

 北村は少し押し黙って「医者です」

 

 ハハッと乾いた笑い声「そらみろ、まるで漫画の登場人物、お前みたいな奴は交友関係に困らないだろう。そして、それは男女関係も変わらない」

 

 北村はそれに言い返すことができない。清水はまだ続ける。

 

「俺は見た目も良い訳じゃない、性格だって悲観的だ。誰がこんな俺を好きになるんだ? え?」

 

 それは違うと北村は分かっていた、強く答える「神野さんは、あなたを嫌いではないはずだ」

 

「はっ、どうしてそんなことが分かる?」

 

「人は、嫌いな人間に携帯番号を書いた本を渡しはしません」

 

 それは、正論のように聞こえる。

 

「嫌いな人間と一緒に、こんな夜の河川敷で星なんて見ないし、帰り道で目線を話して夜空を眺められるほど気を許しもしない。何より、あんなに星を好きな人が、星を見ると言う行為に嫌いな人間を引きずり込まないはずだ」

 

 清水と思わしき影は、神経質に頭を掻いた。

 

「そんなもの、楽観的なだけだ。俺がそれを思えば、ただの思いあがりだぜ」

 

「本当にそう思っているのですか? 神野先輩はあなたを嫌っていると? すべての行為はただの偶然で、本当は清水先輩と喋ることすら苦痛だったと?」

 

 北村は清水に問うた。清水は、答えに詰まった。他人からの意見をねじ曲げて解釈し、自分の中で否定することには慣れていたが、自らの意見そのものをねじ曲げるのは、今この男にはできない。

 

 もし懐中電灯の光があれば、清水は北村の言葉を肯定したかもしれない。しかし、暗闇は清水の涙ぐんだ目を巧みに隠していた。

 

「その質問は残酷だ、残酷すぎる。どう答えたって、どう答えたって」

 

「答えずとも、先輩なら分かるでしょう? 何故、それを否定するのですか」

 

「馬鹿みたいだからに決まってるだろう、誤魔化せば、俺は何もしなくていい。好意を尊敬にで塗りつぶせば、自分を卑下して謙遜している風に見せれば、事実から目を逸らせば、俺は何も行動しなくていい。何も行動しなくても、一歩引いている自分に満足できる。それを全部受け入れてみろ、行動しない自分がまるで馬鹿じゃないか」

 

 それは清水の防御反応に近い、全てを否定し、目をそらせば、少なくとも失うことはない。

 

「今でも、まだ連絡出来ませんか」

 

 清水は何かを堪え、絞りだすように「出来ねえ、怖くて怖くて堪らないから。考えても見ろよ、もし拒絶されたら、一体俺はどうすればいいんだ」

 

「もし、神野先輩があなたからの電話を待ち続けているとしたらどうするんです?」

 

「え?」

 

 考えても居なかったと言わんばかりのマヌケな声。

 

「あなたは」北村にも力がこもる。

 

「あなたは世界でただ一人、自分だけが特別悩んでいると思っている。でも悩んでいるのはあなただけじゃ無い。もし、もしですよ、神野先輩も行動を起こせなかったのだとしたら? 神野先輩の精一杯の行動が、本に携帯番号を書くことだったとしたら、どうするんです?」

 

 清水はその言葉に動揺し、考えを巡らせて、更に動揺した。

 

「そんな、ねえよ。あり得ない」その声は震えていた。

 

「今すぐに電話をかけるべきです、もしも逆の立場なら、耐えられないでしょう?」

 

 清水は震え、ポケットから携帯電話を取り出した。しかし、画面を開いたところでピタリと動きが止まる。液晶に照らされたその顔は不安に満ちていた。

 

「遅すぎだよ、半年経ってる、きっともう彼氏ができてる」

 

「星以外に興味が無い人なんでしょう?」

 

「周りの男がほっとくわけ無いさ、だって神野先輩は」そこまで言って清水は言葉を切った。言いかけた言葉が自分の発言と矛盾することに気づいたが、携帯を閉じて、再び暗闇を呼んだ。

 

「あの人は、美人なんだ。とんでもない美人なんだよ。テレビで見るどんなアイドルよりも美人だった。男がほっとくわけないよ」

 

「あなたも、それで好きに?」

 

「いいや、神野さんを始めてみた時。俺は逆に冷めていたんだ、こんな美人と俺なんか、一生交わることなんて無いんだろうと思ったからな、これは本当だ。だけど、ここで星について嬉しそうに喋ってる神野さんを見た時に、俺はもう夢中になったんだよ。見た目からは想像もできないほど無邪気で、真っ直ぐな人だった」

 

 清水は俯き、よく考えた、考えるというより、自分の中の偽りを、全て追い出しているといったほうが正しい。

 

「他の男がほっとかなくても関係ないな、俺が一番、彼女が好きなんだ」

 

 北村は何も言わなかった、そこまでの想いがあれば、もう自分が何も言う必要はないだろうと思っていた。

 

 再び携帯電話の画面を開いた清水は、あっ。と気づく。

 

「話題だ、話題がない」

 

「話題?」

 

「半年ぶりに連絡するんだぞ、何か、何か話題を、いや、話題なんて高尚なもんじゃなくても良い、何の話をすれば」

 

 北村は双眼鏡を掲げて言った「星空の話題を、もしかしたら神野先輩も、星空を見上げているかも」

 

「ああ、そうだ、それだ」慌てて答えた清水は、ふと考える。

 

「かに座の甲羅だ、蟹の甲羅の名前を」

 

「蟹の甲羅、ですか?」

 

「ああ、かに座の中央にある星団だ、俺も神野さんもかに座生まれだから、よく話題になったんだ。ヘラクレスに踏み潰されたて粉々になった哀れな蟹の甲羅だ、あれの名前は何だったか」

 

 ランタン型の懐中電灯に清水が手を伸ばす前に、北村が「プレセペ散開星団ですね」と答えた。

 

「ああ、そうだ、なんで知ってんだ?」

 

「記憶力はいいほうです。先ほど見ていた星図のかに座の部分に、小さくメモ書きが」

 

 覚えはないと、清水は首を傾げた。

 

 カタン。カタン。電車が鉄橋を叩く。電車が鉄橋を渡り終えてしまえば、清水と北村、そして沈黙。

 

「もし、この電話が繋がらなかったら、お前は俺を軽蔑するだろう?」

 

 震える右手でなんとかボタンを押しながら、清水は乾いた笑いを混じらせながら言った。それは彼の最後の、ほんとうに最後の小さな抵抗で、怯えているようにも、開き直っているようにも聞こえる奇妙な口調だった。

 

 もう一方の影は、落ち着き払って、言った。

 

「もしあなたが電話をしなかったら、私はもっと軽蔑する」

 

 もう、清水の嘘は全て剥がれ落ちていた。清水は意を決して、携帯電話を耳に当てる。

 

 川のせせらぎも、二人の耳には届いていなかった。

 

 呼び出し音。

 

 呼び出し音。

 

 呼び出し音。

 

 呼び出し音。

 

 呼び――そして、沈黙が訪れて。




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