今日も今日とて世間はせわしなく、日常と呼ぶにふさわしい時間が流れている。
とても大きなニュースがあった場合でさえ、それで日常が崩れることはそうそうない。せいぜいが家族や友人との会話の内容が変化する、あるいはふとしたときのテレビのニュース番組の内容が様変わりする程度である。まして他人と関わることの少ない俺ではなおさらである。ただし、その大きなニュースが、自分にとてもかかわりのあるものであれば例外である。校門にはいつもの何倍もの教師、遠巻きに、エンジンをかけたままのバン。暗い顔の生徒たち。それらを華麗にスルーして、教室に向かう。あれ、やっぱりあんまり変わってないかもしれませんね。ニヤケながら携帯の画面を見ていると、冷たい視線とひそひそとした声がこちらに向けられているのに気が付く。憮然としながら教室の扉を開けると、明るい声が響いた。
「八幡!」戸塚は満面の笑みでとたとたと走り寄る。「おはよう!」
この名前を呼ぶのにもはばかられる神聖な存在は、毎朝挨拶をしてくれるのだが、その声の大きさや表情の明るさは、月曜が最も大きい。もしかしてだが、土曜と日曜にこの俺に会えなかったからなのか。ようやくこの俺に会えたからうれしいのか。そうなのか。そうに違いない。そうかあ、俺に会いたいのかあ。じゃあ一緒に住めばいいんじゃないかな。よし、早速両親に相談してみよう。戸塚の部屋と、あと戸塚専用のトイレとお風呂。
「おはよう、戸塚。今日もかわいいよ。部屋は俺の隣でいいか?」
部屋?と首をかしげる彼は、珍しく制服を着ている。しばらく部活は休みにしようという、部活顧問の判断である。部活のあとに無茶な取材をされるケースが少なくないからだ。そういう点では、制服を着ている戸塚を見ることができたという点では、この事態も悪くはない、と一瞬だけ考えたが、しかしそれは不謹慎というものだろう。
ボッチ特有のセンサーを働かせる。
やはり教室の空気は重い。
「ところで、八幡が言っていた写真、今あげていい?」戸塚はポケットから携帯を取り出して、両手で持つ。え、どうして所作のひとつひとつがそんなに愛らしいのですか?
「ああ、じゃあ頼む」少し待つと、ラインにいくつかの画像が映し出された。
今朝もわからないように写真を撮ることができた。結構たまったから、あとはこれを匿名の協力者として(実際、そうなのだが)投稿するだけだ。うまくいけばあのあたりの車を一掃できるだろう。
戸塚に軽快なジョークを飛ばしていると、由比ヶ浜がこちらの様子をうかがっているのが視界の端に入った。目くばせすると、とことこと近づいてくる。
「やっはろー」両手をひらひらと左右に動かすが、少し疲れが表情に浮いている。
「どした」
「いろいろ調べてきたよ。今日、部活でね」同じ挨拶を戸塚にもすると、彼女は言った。釘を刺したつもりだろう。
「んなこと言わなくても、ちゃんと行くよ」
「だといいけど」快活な笑顔のまま振り返り、グループに戻っていった。
「八幡、ほどほどにね」戸塚は心配そうに、俺の両目をのぞき込む。
「これは戸塚のためでもあるんだ」今日イチのイケボで囁こうとしたところで、前の扉が開いた。HRの時間だ。
雪ノ下雪乃は姿勢よく座っていた。両手で文庫本を開いているが、目の前の机にはいくつかの紙があり、準備は万端という様相だった。こちらをちらりと見ると、こんにちは、と挨拶する。
「由比ヶ浜はまだか」
「相変わらず同じクラスだというのに、把握していないのね」
「別に話すわけじゃないからな」定位置につき、かばんを置く。
「部活が同じだというのに教室で話さないというのは、不自然ではないのかしら」文庫本から目を離さず彼女は尋ねる。
「どうせここで話すなら、教室で話す必要はない」
「あなたはそうでも、由比ヶ浜さんはあなたと話したいのではないかしら」
「今日はずいぶん突っかかるな」
「誤魔化しているのは見逃すとして」一瞬だけ目をこちらに向ける。手元の文庫本から目を動かしているわけだから、上目遣いになるわけだが、しかし、どうしてこの人の視線はこんなに攻撃力があるんですかね。防御力が下がるどころか心臓貫かれちゃいますよ。「あなたもそろそろ、無理な自虐をすることはないんじゃないかしら。今では友人と呼べるひともそれなりにいるのでしょう」
思わず口ごもると、意外な言葉が飛んできた。
「今回の事件。私には関係がないと思っていたけれど」彼女の声音が少し変わったのを見逃さなかった。「もしも、もしもあなたや由比ヶ浜さんにと思うと、とても不安だわ。ちょっと心配が過ぎたかもしれないわね。ごめんなさい」
「おい、偽物。本物の雪ノ下をどこにやった」
「まあ、いいわ」微笑すると、彼女は今度はまっすぐにこちらを見た。「本物の私を心配してくれるのね? ありがとう」
彼女は変わった。
あの日、あの場所で、俺と由比ヶ浜に依頼をしたときから。
未だあの依頼は解決していないが、彼女は変わった。変わろうとしている。
無理に孤独で歩むでもなく。かといって心を許した相手に依存するでもなく。
適度な距離間で、適切な関係で、やっていこうとしている。
扉が開き、三人目の部員が入ってきた。不思議な空気が、いつもの空気に戻ったのに安心して、俺は鞄からノートを取り出した。