五月十日。千葉県の進学校の男子高校生が行方不明になってから数日。千葉県警は他県との協力のもと、捜査範囲を拡張することを計画していた。通常、高校生の行方不明時には学生本人の性格や家庭環境が重要視される。よくあるケースは、ほとんど家にも学校にもよりつかなかった女子高生が、他校の友人あるいは恋人の自宅に転がり込んでいるケースだ。あるいは援助交際などのケースも多い。しかし総武高校の件の生徒には素行の悪い点は見うけられなかった。一方、過去にも一人旅が長引いて予定よりも三日ほど遅く帰宅したことはあった。しかしいずれにしろ、それは夏休み期間でのことであり、つまり無断で学校を欠席するということはなかった。警察はまず事故を疑った。自転車による不慮の接触事故、ひき逃げ等の被害者。しかし事故情報をかき集めても、彼の足取りは掴めなかった。次に自転車に乗った男子高校生の目撃情報を収集したが、これは選別に困難を極めた。事件当初、彼の服装はジーンズにわずかに柄の入った白いTシャツ。水色のウィンドブレーカ。黒いスニーカー。中肉中背、特徴のある顔をしていたわけでもない。そうして彼がどこで何をしていたのかについては、ほとんどわかっていなかった。少なくとも行方不明になってから数日は、同様の訴えが多かったこともあり、本腰を入れた捜査が始まってはいなかったからだ。
皮肉にも、彼について様々な調査が行われたのは、彼が無事ではないことが明らかになってからだった。
山梨県から東京に向かう三十代の夫婦は、県内の山道を走行していた。休憩がしたいという運転手がわずかに広い車道の左肩に停車し、懐からタバコとライターを取り出した。助手席の妻は、またか、と不機嫌そうにため息をついた。彼女はタバコが好きではないし、それは彼も理解しているはずだ。こういう身勝手なところが嫌いだ。そういえばこのあいだも・・・と、次々連想される嫌な感情に身を任せていると、彼女の鼻をいやな匂いがくすぐった。
「ちょっと・・。臭いんだけど」
「ごめんごめん」彼は笑う。
タバコのにおいが好きではない。アンモニア臭と、独特の草の燃える匂い。どうして喫煙者はこんな不快な匂いを我慢できるのか。あるいは嫌でないのか。いずれにしろ、周りからはいい迷惑だ。
「いつもよりくさい。外で吸ってよ」
「うん」彼はドアを開けた。そのとき、いやな匂いが強くなった。
「ちょっと!何これ」
何が、と彼が聞く。どうやら気が付いていないらしい。そういえばこの男は匂いにあまり敏感ではないのだった。それに、この匂い。これは。
「ちょっとタバコ消して」
「え、今つけたばっかり・・」言いながらこちらを見る彼は、しかしすぐに指示されたとおりにした。「何、どうしたの」
めいいっぱい空気を吸い込む。まだタバコのにおいは残っていたが、それでもわかった。強烈ではない、しかし独特のにおい。甘い匂い。わずかに香る程度だが、間違えようもない。こんなところで・・。
彼も隣で鼻をひくひくさせ始めたが、しかし首をひねるだけだった。
あまり言いたくはないが、仕方ない。無視できない。たぶん。
「運転変わってくれる?」
窓を開けて走り出す。風にはたしかに、それが混じっていた。
「何?なんの匂いなの?」彼が聞く。
「腐敗した人間の死体」私は簡潔に答えた。カーナビを拡大していく。このあたりに大きな農場はない。それに見るからに山道、そうしたものがあるとも思えない。ちらほらと民家や、打ち捨てられたような畑が見えるばかりだ。それに牛や豚ではないと、ある種の確信があった。
匂いが強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、少しずつ目標に近づいてる感覚があった。夫は黙っている。人間じゃないんじゃないかとか、あるいは逆に警察に連絡しようとか、そういうことは一切言わなかった。
車をとめた。においは酷くなっていた。
県道の脇を左に抜け、100メートルほど舗装のない農道を進んだ。左右には畑、しかし作物がある様子はない。一軒家、というには小さい建物は、生活をするためというよりも農具をしまうものに見える。小さな建物の正面にはすりガラスの安っぽい引き戸があり、まさしくプレハブという感じだった。
匂いがひどくなった。ここにきてようやく夫も感じたらしい、う、と小さくうめいた。
「わかる?」私は聞く。
「わかる」彼は答えた。「しかし、ここまで全然わかんなかったぞ」
「慣れてるから」私は答えた。子供のころから嗅覚は鋭かった。さらに司法解剖医になって8年。まったく自慢できることではないが、死体を嗅ぎ分けることに関しては自信がある。いまでは死体の性別、年齢、体格は当然として、出身地や職業まである程度は当てられるくらいになった。
ガラス戸に近づく。夫はプレハブの周囲をぐるりと回った。入口は一つ、特に目立ったところはない。古い、電気が通っていない。私は扉に手をつけた。開かない。すりガラスの向こうは真っ暗で、よく見えない。
「どうする?」夫が聞く。
「警察に連絡して、もう行こう」私は答えた。
「え、いいのかな」
「もうできることはないよ」
「人なんだな?」
「十中八九」私は答える。「しかも相当若いと思う。男の子。スポーツする子で、たぶん関東圏じゃないかな。近所の子かも。・・・ああ、いやだ」
「確認しなくていいのか?」
「腐乱臭がして、鍵がかかってる建物が出どころ」助手席に乗り込みながら、携帯電話を取り出す。「仮に動物だったとしても、通報しておかしいことは何もないでしょ。それにね、基本的に腐乱死体なんて触っちゃダメよ。本当は匂いを嗅ぐのだってよくない。知ってるでしょ」
「鼻に残るからか?」彼はおどけて聞く。私は少し笑った。いつもそういう愚痴を彼にしているからだ。「しかし、あんな甘い匂いなんだな。知らなかった」
110に電話をかける。「だからさ・・。私、いつも体に匂いが残ってるって言ってるでしょう。その匂いだよ」
「ああ、そうか。確かに似てるかも」彼は答えた。「シャンプーの匂いかと思ってたけど、死体のにおいだったのか」