転生した者は喜びの声を上げ   作:ガビアル

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王様も悦びの声を上げ(上)

 紅葉のような手。

 少しくせのかかった、絹糸のようなふわふわの髪。

 丸い、ふくふくと柔らかい頬は一生懸命にその生を訴え、生きるために、大きくなるために、胸にしがみつき、最も効率の良い食料をこくこくと飲んでいる。

 赤子だった。

 義理の兄との不義の子。

 生まれながらにして人である事の許されない子。

 魔道に身を染め、魔道を引き継ぎ、魔道の生贄となることが生まれる前より決定された子。

 感慨はある。

 この子が生まれてから、蟲倉での調教などとは比べものにならない程に揺らいでいた。

 私の行き先は地獄しかないだろう。

 子への人としての愛情を感じながら、しかしなお諦念を破れず、この子を魔術へ差し出すのだから。

 

 聖杯戦争が始まるより早く、私は間桐の胎盤として完成したらしい。義理の兄との交配による後継者を作るよう臓硯に命令された。

 嫌も応もない。応じなければ暗示で操られた義理の兄が蟲倉に訪れるようになるだけだ。

 義理の兄は私の鍛錬風景を見て以来、魔術への傾倒を捨て、マキリの胎む薄暗い香りから逃れたく思っているらしい。私の精神疾患を思わせる無表情、無感動もまたそれを助長したようだ。より判りやすい形だったがために理解してくれたのだろう、魔術というもの──人には毒でしかない、醜悪な歪みでしかない。そう思ってくれたのだろう。

 鶴野さんの息子である義兄、慎二は人間らしい人間と言えるかもしれない。幼少期に親元から引き離されて遊学させられていたせいか、必要以上に自分を認めさせようというきらいはあったものの。やはりそれはとても生々しく、人間らしく、生きるという事を堪能していて、私は見ているだけでもほっとした気分になったものだった。

 一つだけ臓硯に条件をつけた。何の事はない、ただの方法の変更。

 魔術を用い、眠っている間に精を貰う。私のような人か蟲か定かならぬモノを抱けばこの人も戻れなくなる。そんな気がした。

 男に跨り精を受ける時は嫌でもかつての私を思い出してしまう。

 ロアとなり、親友であった人を愉悦のままに嬲り殺した時の事。

 その愉悦、その喜悦、それだけは私は自分を騙せない、あれは本物の感情だった。だからこそ許せなくもある。

 幾度かの交配の末、命が宿っていた。

 世間体を繕うために通っていた学校は精神病の病状が悪化したため通信制に切り替える、なんて形にされたらしい。そして出産までの十ヶ月は蟲倉で体内の赤子の調整のために過ごす。

 多分それは異様な光景だったのだろう。

 呻き声一つ立てない幼い妊婦、今か今かと待ちわび、きちきちと鳴く無数の蟲達。血と羊水と蟲の体液に塗れ、五百年を生きた蟲の翁の手によりその子はとりあげられた。

 こんな湿った、土臭く、蟲臭い部屋に、新たな命が己の存在を主張して、泣く。おぎゃあおぎゃあと。

 

「おうおう、元気な赤子じゃ。魔術の素養も申し分無し、純粋なマキリとは言えぬであろうが、枯れかけた根に水が通いおったわ。ようやった、ようやったのう茜や」

 

 呵々と喜ぶ、魔術師としての喜び。

 川筋を変える事で再びマキリに魔道を戻す。それがこの蟲の翁の選択だった。

 多分この老魔術師の中にはもう二つしか重要な事が残っていない。

 自らの延命と魔術師の執着。

 特殊な素材である私を律する実験だろう。幾度か支配を受けた。その関係は聖杯戦争中のマスターとサーヴァントに近い。マキリ・ゾォルケンという魔術師の五百年に及ぶ膨大な記憶の一端を夢の形で見る事もあった。一応流入しないようにカットすることも可能なはずだが、それもしないのは、多分もう私が既に使い魔のような扱いだからだろう。

 ユスティーツァへの思いも、当時抱いた願いも見た。ここまで変質すればもうどうしようもないモノでもあるのだろうが。

 私は黙って瞑目する。胎盤としての役割を果たした今となっては、もういつお役御免になってもおかしくはない。マキリの聖杯がどう変化を遂げるか、その実験台ではあろうものの、そこに心はいらないだろう。これからはこの翁の気紛れの上に生きる事になる。

 臓硯の気分次第ではただ蟲の苗床ともなってしまうかもしれない。少し考え、何も感じなくなるならそれもまた良いかと思う。ただ、残される事になる子が、少し哀れだった。

 

 最近、一日の時間が長い。

 こんなに時間は長いものだっただろうか。

 やっている事といえばただ子供に乳をやるか、寝ている子供の傍でぼうっとしているだけ。

 子供の世話は雇われの家政婦が全てやっている。知的障害の少女がどこかで性的被害を受けたと説明されているらしい、家政婦が私を見詰める目はひたすらに憐れみの篭もったものだ。

 子の名前は鶚と名付けられた。難しい漢字だがミサゴ、と読むらしい。臓硯は鳥類に思い入れでもあるのかもしれない。

 蟲倉での鍛錬は精々が三日に一度程度となった。遠坂との魔術的な約定を破らぬための形式的なもの。おざなりに蟲を操る鶴野さんとのまるで何の役にも立たない鍛錬。臓硯はあちこちの霊地を管理するか、蟲倉に篭もりきっている。週に一度、埋め込まれた聖杯の様子を観察するだけだった。

 一年が経つ頃、鶴野さんが亡くなった。ひっそりとした死、肝臓を病んでいたのだろう。黄疸で染まった手でミサゴの頭を撫で、孫が見れるとは思わなかった、と呟いていた。

 その鶴野さんの息子の慎二と言えば、丁度、穂群原学園に進学している。性格的なものが噛み合うのか、衛宮士郎とは仲が良いようだ。うん、かすれた知識でも少しは覚えている。いずれ彼が事件の中心になるのだった、だろうか? 弓道部にそろって所属したらしく練習で着る袴がよく干されている。友人を魔術などに近づけたくないようで、間桐邸には一度も招いた事がないが、私や、ミサゴの存在もあるので、招こうと思っても臓硯に止められるだろう。

 勿論、ミサゴが自分の子であるなんて事はまず慎二は知らない。私が何か外法を以て生んだ存在のように思い込んでいるらしい。ある意味当たっているが。

 

 赤ん坊の成長は驚く程早い。

 半年前には這う事しかできなかったのが1歳にもなると、活発に動き始め、はいはいどころか、立って歩く事も覚えた。さらに半年も過ぎれば単語を二つ繋げる事ができるようになり、活発どころがやんちゃが過ぎて、家政婦を困らす事も多い。私はあまり手をかけていないはずなのだが、それでも「まま、まま」と呼びかけてくる。慎二も、そのあまりに普通な子供っぷりからいつしか警戒を解き「にいちゃ」と呼ばせているようだった。たまにその様子を臓硯がニタニタ見ているので、いずれネタを明かして慎二を愕然とさせるつもりなのかもしれない。

 さらに一年が経つと、性格も段々表に出るようになってきた。活発な人見知り、と言えばいいのだろうか。頭が良く飲み込みは良いようで、箸の使い方や言葉の使い方、文字や算数など面白がって慎二が教え込んでいた。彼には案外何かを教えるという所に適正があるのかもしれない。

 

 ちくりと、手の甲に痺れが走った。見ればみみず腫れのような痣。のたうつ蛇のような模様。

 窓から空を見上げる。

 ちらほらと寒空から雪が舞っている。

 私は久しぶりに、本当に久しぶりに溜息を一つ吐いた。それは安堵だったのか、諦念だったのか、疲れだったのか。どうしよう、もういろいろ記憶もすり切れている。まあ、いいか。

 蟲倉に向かう。

 令呪の顕れ、聖杯戦争の訪れを間桐臓硯に告げるために。

 

   ◇

 

「──Je suis ici(魔術はここに)」

 

 自己暗示。魔法陣の前に立ち、我が身の魔術回路を励起状態に。闇空に蛍が乱舞する。

 触媒はエルトリアで発掘されたという鏡。意外な事に臓硯は手に入れた遺物を見せ、私に選ばせた。こういう物は相性が大切だそうで、直感で選べという。いずれにせよ、私の手は引きつけられるように、鏡を手にしていたのだが。

 

「──告げる」

 

 召喚の呪文。肉体のことごとくに浸透している蟲共が術式を補佐し、蠢き、這いずり回る。いつもの痛み。全身の神経に万遍なく絡みつく幾億の虫の胎動。マキリの楔。霊脈の大量のマナを吸い上げ、吸い上げ、魔術回路に汲み取り、力とする。

 

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に──」

 

 詠唱を唱え終えぬ間にも、目前の魔法陣に感覚器を潰すがごとく、災害のごとき魔力が集約し、エーテルが実体を取ろうとする。目を閉じ、集中。

 

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──」

 

 しん、とそれまでの暴圧的なまでの魔力が静まるのを感じた。目を開ければ、目前には長身の美影、紫のしなやかな髪がふわりとゆれる。予想通りの結果にどこか安堵を感じた。何となくこのひとに会いたくて、ここまで生きのびたような気もする。

 

「──あなたが、私のマスターですか?」

 

 どこか気品を漂わせる佇まいで、彼女は私にそう声をかけた。

 

 彼女を召喚してから一日が経った。

 緊張しているらしい慎二と、その膝の上できょとんとしているミサゴを前に、臓硯が聖杯戦争が始まった事を説明する。かつて鶴野の右手が義手だった理由や十年前に間桐邸が一人の魔術師に侵入されたことも交え。

 

「とはいえ、ワシがこの家におる限りはそうそう結界も破らせるつもりはないがのう、それにアレは魔術師殺しならではの荒技よ。あれほどの手腕を持つものはそうおるまいて。まあ、念のためというものじゃ、ワシも可愛い孫達に死んでほしくはないでな、しばらくは大人しくしておるとよい」

「せーはい?」

「うむ、ミサゴにはまだ難しかろうの。いずれこの爺が教えてやるでな」

 

 まだ体が出来ていないため、魔術の教養の無いミサゴが不思議そうに首を傾げる。この後継者に対しては私のような扱いはしないらしい、壊さないように慎重に慎重に、魔術の知識から教え込んでいきたいようだ。割と真っ当な扱いなので少し驚いた覚えがあった。

 慎二は私とは話さない。鶴野さんと同じように意図的に無視している。私もこれ以上特に話す事もなかった。席を立ち、自室へ。黒のシンプルなワンピース、それに何の変哲もないコートを着込み、外へ出向く。

 

 霊体化しているライダーを背に冬の街を歩く。久しぶりの自由を感じていた。

 臓硯の脳虫は既に私の体には存在しない。聖杯戦争で一番厄介なマスター殺し、それがほぼ不可能な私の不死の特性を存分に利用し、戦う方針だからだ。私に組み込まれている虫ならともかく、臓硯の移し身とも言うべき脳虫は共には再生できない。それはどんなに神経に紛れ込んだとしても無理だったのだ。

 無駄に脳虫を潰されたくもなかったのだろう。その方針で行く事を決めると、すぐに蟲倉で施術し、私の心臓から這いだしてきた。

 ある意味での全幅の信頼──というより道具に対する信用なのだろう。この十一年、一切の反抗もせず、従順であった道具への。

 少なくとも私自身も、汚れていたとしても聖杯に漠然とした用事はあるし、臓硯が何を考えているかはともかく、マキリの魔術師として聖杯戦争に参加するのは決めていた事だった。ただやはり、ふと子の顔を思い出してしまう。十一年も前から、ぼんやりとしたものであろうと、聖杯取ろうなんて考えていたというのに、一人の子供に揺さぶられてしまう。精神は相変わらず一般人の感性を引きずっているのだろう。魔術師の饗宴に身を任せ、英霊達の戦いに首を突っ込むには脆弱すぎる精神。雁夜さんの事を笑えない。

 

 坂を下り、冬木大橋を渡り、新都の方へ。バスやタクシーを使っても良かったのだが、時間もあった事だし、久しぶりに自分の足で歩いてみようと思ったのだ。

 

「やっぱり運動不足だった」

「のんきですねアカネ」

 

 途中でベンチに座って足を休めていると、どこか呆れたような様子を漂わせながらそう声をかけてくる。霊体化しながらでも話すことができるらしい。私が声を返すと独り言を話しているように見えてしまうのかもしれない。

 

「私自身、遠出するのが久しぶりだし、ね」

 

 体の調子を理解しておかないといけない。魔術で底上げするにしても自分の体の隅々まで把握しているのと把握していないのではかなりの違いが出てしまう。かつてミュリエルであり、代行者もどきだった頃とは全く勝手が違うのだ。

 

「貧弱なマスターでごめんね」

「いえ、あなたの場合は可愛いと言うのです、貧弱などと言わないで下さい」

 

 ……何か認識のずれを感じてならない。

 

 どうにかこうにか川向こうの冬木の教会にたどり着いた時は既に日も暮れかけていた。

 豪奢な作りの教会、広場を抜け、階段を昇り、扉を開ける。

 礼拝堂は薄暗く、ぼんやりとした明かりが点っていた。

 人影は無く、しんとした静けさに包まれた気がする。

 教会を見るのもひどく久しぶりな気がした。実際久しぶりか。どのみち私には悪い思い出が圧倒的に多すぎる。

 

「──ようこそ、祈りの家へ」

 

 まるで私が来るのを待っていたかのように、バリトンの声が礼拝堂に響き渡った。

 しかし持って回った言い回しをする。マタイによる福音書でも読んでいたのか。

 言峰綺礼は悠々とした体格のままに両手を広げ、歓迎するとでも言わんばかりの笑みを浮かべている。

 私は数秒その、いかにも取り繕った事を隠そうともしない笑みを見つめた。無言で右手の令呪を見せると、言峰は真面目な顔に戻し厳かに言う。

 

「なるほど。聖杯戦争へ参加の意思を示しに来た──という事で間違いないな?」

 

 私は無言で肯定の頷きを返す。

 

「私の名は言峰綺礼、この教会を預かり、此度の聖杯戦争の監督役を任されている。君の名は何と言うのかな?」

「間桐茜です。サーヴァントクラスも必要?」

 

 言峰の唇がきゅっと吊り上がった。

 

「──いや、それは結構。しかし、間桐、茜か。覚えていないかもしれないが、私は君の父上の弟子だった時がある。時臣師が見たら大層喜ばれよう。よくぞそこまで間桐の者として仕上がったものだ」

 

 嘆くに決まっている。胎盤としてのみ扱われ、間桐の魔術継承と言いつつ魔術刻印代わりの虫を入れられる。知識がなければ扱えるものでは無い。人の親でなく魔術師としてあったあの人とて嘆くに違いない。

 

「一つ教えておこう、三人目のマスターよ。遠坂凛、私の弟子でもあるが、こちらも素晴らしい仕上がりと言える。未だ召喚はしておらんが優勝候補と言っても良かろう、夢気を抜かず、戦い抜く事だな」

「……情報はありがとう神父さん」

 

 まだ私は三人目だったらしい。かなり初期に令呪が顕れたようだ。もっとも言ってる人そのものが信用できないのでどうだか判らないが。

 あまりねちねち苛められていても仕方無いのでさっさと教会を後にした。

 わざわざ来たのは形式的な申請とどれだけ既にサーヴァントが召喚されているかの確認。

 そして一応自分の目で言峰綺礼という人を見ておきたかったというのもある。

 なんとも埋葬機関の連中ほどではないにしろ、化け物じみている。今でも代行者務まるんじゃないだろうか。

 戦闘者としては衰えているはずだが、なお健在。もし敵にするならサーヴァントか、魔術礼装でも作らない限り難しい。そもマキリの魔術がさほど戦いなどに向いたものでもない。アインツベルンと同じで、研究主体のものなのだろう。多分。方法論を教えられてないので、ロアの知識での独自解釈でしかないが。

 

 そして教会からの帰り道、それは出会ってしまったとしか言いようがない。

 

「ほう……あれを加工したか。くく、馴染む前に死んでおく事よ、女──いや、貴様。中々に面白いな」

 

 どこまでも傲岸不遜、唯我独尊を姿形にしたような男が私を一目見、そう言った。前回の生き残り、十年前に見た姿そのままだ。うん、知っている。英雄王。臓硯が言峰綺礼を厄介だと思いながらも手を出せずにいた要因。

 しかし、死んでおけ……とはまた。私は内心溜息を吐く。

 

「痛み入ります、いずれ、また」

 

 何となく全て見抜かれている気がしたので、さらりと流して去ろうとしたのだが、まあ、待てと腕を掴まれる。受肉しているとはいえ、英霊の力、とてももぎはなせない。ライダーが助けようと実体化をしかけたので急いで止める。

 長身の、王様としか言いようの無い傲岸な男は私の目を、いや、これは、その奥、魂そのものを覗き込み──

 

「ぶッ、は、ハッハハハハハ! 何だ貴様! そんななりをして元はそのような雑種か! いかなる道化だ、いかなる笑劇だ、この我を笑い殺す気か! しかも英雄たる存在として在れるだけの力を手に入れながらあの末路、さらには蟲か! これほど滑稽な者は古今おるまい! なんたる道化! なんたる神の玩具よ!」

 

 盛大に笑い出した。

 まさか。

 見られたのか。因果でもたどられたのか。そこまで眼力があるのか。前の前の自分。そこまで見通せるのか。

 

「ぅ……」

 

 さすがに謎の恥ずかしさがこみ上げてくる。顔を地に向けた。

 しかしそうか、この王にかかれば私の煩悶などそれこそ道化じみたものか。いや、そうかもしれない。

 道行く人も怪訝な顔でこちらを見る。そんな事をお構いなしに往来で笑い続ける英雄王。

 一幕の笑劇のようなものなのだろう。私のような凡人でなく、英雄の一人であれば、私が通って来た苦境なんてものともしないだろう。どんな些末の英雄であろうと、笑って切り抜けられただろう。たやすく諦め、自滅を願うような脆い英雄など存在しない。判っている。判っているけども。

 諦念ばかりが身を包む。沈んでいた心がなお深く、地の底まで突き抜けてしまいそうだ。

 やがて笑いの衝動が収まったのか、英雄王はその輝く髪をかき上げ、私を見下ろし言った。

 

「良い見せ物であった。道化。褒美に真知をとらしてやるとしよう。この地のアレは、招く事に限定すればその造りはもはや神域と呼べるものよ。故に、到る事があれば貴様の望みもまた叶うかもしれぬ」

 

 招く事に?

 謎かけのようなその言葉を残し、金色の英雄王は去っていく。時折思い出し笑いをしながら。

 残されたのは何だかもう早々に離脱したくなってきた疲れた私と、いつの間にか実体化してただ傍にいてくれるライダー。心遣いが嬉しい。

 

「ごめんなさいライダー。ただアレとだけは戦っちゃ駄目だったから」

「いえ、ただ説明を頂ければ」

 

 私が笑われて沈んでしまった時、ライダーが英雄王に何かしそうになっていたので、それもまた慌てて止めたのだった。私は臓硯から聞かされている情報、前回の聖杯戦争で圧倒的な力を見せたサーヴァントの話をライダーにし、少なくとも真っ正面からは当たったりしないようにと言っておく。

 

「受肉した最古の英雄王……ですか。まさかそんな事になっているとは。それとそのアカネ、聖杯を加工した、という事についてですが」

「あ……」

 

 あの王様、眼力も凄いけど口の軽さも世界一かもしれない。

 少し考え、嘘をついて信頼関係を損なっても本末転倒なので、話してしまう事にした。どのみちいずれは話すつもりであったのだけど。

 幸い人気はない。歩いているうちにかつての市民会館、新都の中央公園、かつての聖杯の降臨した場所にたどり着いていたのだ。それを話すには一番縁の深い場所だろう。しかし相変わらずここはそう、怨念に満ちている。以前ここに来たのは何年前だったか忘れたが、やはり人気の無い、寂しい公園だった。

 

「ん、十年前、ここの霊脈上に顕現した聖杯の欠片、お爺さまが私の中に埋め込んで定着させてみたんだ」

「前回、ですか。余程破滅的な願いを叶えたのでしょうね。ここまで淀んでいるとは」

「何を願ったかは知らない、ただ、ここの聖杯は汚されてしまっているから」

 

 この世全ての悪であれ、そう望まれ、生まれた英霊、その呪いによって本来無色であるはずの聖杯が変質している事、ここの聖杯による願いは全て殺すという事のみにしか発現しないという事を話す。

 

「だから、ライダー。私はあなたに謝らないといけない。あなたの願いがどんなものだったかは判らない、でもここの聖杯では願いを叶えられない、と思う」

 

 私はライダーを見上げ、その静謐で美しい顔を見ながら言う。私はメドゥーサが何を望んだのか判らない、判りようもない。ただ聖杯に応えたのならきっと願いがあったのだろう。それが何かを殺すという事ならともかく、それ以外であったなら、ここの聖杯で叶えさせる事はできないのだ。だからもし、それを嫌って私から離れるなら、それもまた仕方無いだろうと思っていた。

 

「この世全ての悪(アンリマユ)により呪われた聖杯……ですか」

 

 ライダーは静かな表情のまま、私に手を伸ばし、髪を梳った。

 

「アカネ、その話通りであるなら聖杯の欠片は、紛れもなく呪いを持った異物、あなたにとって影響はないのですか?」

 

 予想外の答えに、私は首を傾げる。ひとまず問題は無いと答えておいた。

 ライダーはわずかに口を緩ませる。

 

「私が聖杯の呼びかけに応えたのは、ただ自らに似た存在を助けるためです。さほど明確な願いを持っているわけではありません。いえ……あるいはその望みを持ったのも、もしかしたら私がかつて救われる事の無い存在だったから、かもしれませんが」

 

 まばたきを二度、三度。その答えを理解するにつれ、何かが心に染みわたるような感覚を覚えた。安堵、かもしれない。そして罪悪感、かもしれない。ただ、これだけは言わないといけない。

 

「ありがとう、ライダー、応えてくれて」

 

   ◇

 

 目を向ければ石に。

 目を向ければ石に。

 幾多の戦場をくぐり抜けた歴戦の戦士も。

 悲運の王女を救い、数多の冒険譚をくぐり抜けた王子も。

 不死に限りなく近づいた、己以外の全てを魔術に捧げた魔法使いも。

 ライオンを射止めた勇者も。世界を股にし無数の鍛冶師から剣を奪う蒐集者も。七度の戦争を戦い抜き傷一つついたことのない戦士も。

 みんなみんな石になった。

 潮騒に揺られる島に、相も変わらず人は来る。馬鹿な者たち。愚かな者たち。

 来ないでほしい。恐れ、恐れ、恐れればいいのに。

 待ち遠しい。私の手が戦士の腸を引きずり出し、真っ赤な真っ赤なキレイな色に彩られるのが。

 一艘船が近づいた。

 きっとまた名のある英雄なのだろう。勇者なのだろう。戦士なのだろう。

 アテネに唆された愚かな男達。

 この島は侵させない。

 私は身をもたげて冷たい息を吐く。

 砂粒のような疑問、いつから私はこんなに大きくなっていたのだろう。いつから私はこんなに長くて大きな体をしていたのだろう。

 まあいいか。

 お姉さま、お姉さま、最近この人間達で遊ぶ事がめっきりなくなりましたね。

 飽きたのですか。私が石にしすぎているのですか。

 いらえはない。

 きっと飽きちゃったのだろう。飽きっぽいお姉さまだ。

 生贄が神殿に上がってくる。イケニエは私だっただろうか。でもそれは生贄で。

 ああ、美形な男だ。

 きっと石にすればお姉さまの好みだろう。

 でもその前に××を、少しだけ。

 

 ──意識が水面より上がる。

 たゆたう夢から引き上げられる。

 目を開ければ一筋の細い明かりが差し込む自室。飾り気の無い部屋。

 ああ、そうか。メドゥーサの夢。怪物になりかけている夢。

 主観が私に入れ替わるとああなるのか。

 

「お姉さま……お姉さまか」

 

 ぺたりと、自分の手を瞼に置く。ひんやりしている手。耳を澄ませばこの手の中にすら無数の神経に混じった蟲の音色が聞こえてきそうだ。一つ上の姉、一番上の姉、最後に見かけたのはいつだっただろう。

 学校に行っている時は何度か見かけた気もした、見られていた時もあった。子供が出来てからはほとんど引き籠もるようになってしまい、それ以後は見かけた覚えがない。

 楽しく学園生活を堪能しているだろうか。幸せだと良いなとぼんやり思う。

 体を伸ばし、血流を整える。ベッドから下り、時間を見る。お昼になっていた。いそいそと着替え始める。相変わらずの黒のワンピースに飾り気の無いコート。

 子供の面倒をずっと見てもらっている馴染みの家政婦さんに挨拶をし、病院に行ってきますと言って家を出る。少々お腹も減ったので、パン屋で遅い朝食を買いこみ、いつも静かで人のいない、小さな寂れた公園に行き、紙袋から買ったものをごそごそと出して言った。

 

「ライダーもどうぞ」

「アカネ……私はそのような食事はせずとも」

 

 実体化し、少し困ったような仕草を見せる。どこか可愛い仕草。

 

「ライダーもどうぞ」

 

 続けて念押しすると、折れてくれた。私の隣に座り、トマトとオリーブの入った生ハムサンドを手にとり、割と豪快に食べ出した。

 私自身あまり喋る方でもなくなっていたが、ライダーもまた必要の無い事を話す方ではないのかもしれない。あるいは食事中は一切喋らないタイプなのか。二人して黙々と食べ終え、ゴミを紙袋に入れる。一緒に買った紅茶のキャップをとって渡し、自分もまたミルクティーを含む。

 紅茶を飲んでベンチでライダーに寄り掛かりぼうっとしていると、冬にしては陽気がいいこともあって、眠気も感じてきてしまう。こんなにおだやかな日を送ったのはいつぶりだったろうか。

 ──と、もう少しぼんやりしていたかったのだが、令呪の反応があった。隠そうとしていない、近くにマスターが居るようだ。誰だろう。

 

「ライダー、マスターが近くにいるみたい。周囲を探って、この辺人は少ないと思うけど、何か異常があったら一般人を避難させて」

 

 霊体化させる、ライダーが離れる感覚がし、間を置かず、姿を隠す魔術でも使っていたのか、私の座っているベンチの後ろで魔力の霧散する流れを感じた。

 

「呆れた、マスターの存在を感じ取りながら霊体化させるなんて」

 

 雪の中に鈴が響くような声が私に届く。もっともな話だ、ライダーも私が基本的に死なないという事を知らなければまず従ってくれなかっただろう。

 ゆっくり後ろに振り返ると、赤い目をした少女が心底呆れた目をしてこちらを見ていた。

 

「まだ、魔術師の時間じゃないですから」

「そう……ふふ、そうね、七体はまだ揃ってない。でも気の早い人も居るかもしれないわ」

 

 銀色の髪の少女は上品に笑った。ふとそのスカートをつまんで持ち上げ、演技めいた会釈をしてみせる。

 

「初めましてアカネ、わたしはイリヤ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ」

「カーテシー、生で見たのは初めてです」

「あら、このくらいは淑女の嗜みよ?」

 

 くすくすと笑っている。妖精のような笑みだ。

 きっとやる気になれば、この笑みのまま、殺せとサーヴァントに命ずるのだろう。

 

「では、調べてきているようですが、初めましてイリヤ。間桐茜です。今日は下見ですか?」

「そんなところね、でもあなたはちょっと見過ごせなかったから」

 

 そして目を細める。私の中身に何かがあるかのように。

 

「──ねえ、何でアカネがそれを持っているの?」

「……お爺さまがいろいろ弄りまわした結果です」

 

 実際こちらの仕上がりもかなり良い具合らしい。ただ、勿論の事、私にアインツベルンのようにそれを制御する術など存在しない。溜め込むだけ溜め込む魂の容器。ただの実験作。

 

「そう、マキリも無茶するわね。最初からそれ用に作られたわけでもないのに」

「まったくです」

 

 術式の違うそれを無理やり虫にしたせいか、西瓜大の大きさになってしまったあれを埋め込まれた時は、まあ色々アレだった。イリヤの言う無茶とは違う意味で無茶だったかもしれない。日常茶飯事でもあったけど。それでも移植の過程で十回以上死なせるのはどうかと思わないでもない。分割すれば良かったのに。

 興味を失ったのか、イリヤは「それじゃあ、失礼するわね」と言って、去って行く。アインツベルンとしてはかなりの問題だと思うのだけど、彼女にとっては割とどうでも良い事なのか。もっとも、聖杯戦争が始まればアインツベルンとして真っ先に制裁しに来るかもしれないが。

 それを見送り、既に戻って来ているライダーに声をかけた。

 

「付近に魔術の痕跡などはありません、一般人は二人、操られているという事もないでしょう」

「そっか、少し安心した。アインツベルンがそうそう変な存在を育てるわけもないけど」

 

 前回のアインツベルン、魔術師殺しの衛宮切嗣は凄かったらしい。とはいえ、私が知っているのは一部の話だけだけども。結界破りの技がとんでもなかった印象が強すぎて、こう、イメージが掴みにくいものがある。名前の通り魔術の構成を切って、絶妙なところに嗣ぎなおし、自壊させるのだ。普通はあんな力技を結界にかまそうものなら、トラップが発動するか、暴走した魔力が逆流して自分の魔術回路を壊す。ある意味で神技だったと今でも思う。

 

 そろそろ移動しようかと腰をあげ、公園を背に。やがて深山町の交差点に歩いていくと、先程別れたばかりの銀色の幼い姿が地図を片手にきょろきょろとあっちを見てこっちを見て、と、挙動不審な姿を見せていた。昼過ぎなので通る人もそう多くはない、ただ皆無でもない。迷っているなら素直に聞けばいいのに、とも思うが、そういう発想は無いらしい。バス停のベンチに座って目を瞑り集中を始めた。

 誰かと交信でも行っているのかもしれない。私は小さく溜息をついて、彼女に近づく。

 

「イリヤ」

「──あ、良かった、アカネだ。ねえねえ、キリツグの家に行きたいのだけど、地図が古くて道が違うみたいなの」

 

 どっちに行けばいいのかなと、ごそごそベンチに地図を広げる。

 地図の発行年を見ればどうも古い。前回の時にアインツベルンが入手した地図をそのまま持ってきてしまっているのかもしれない。

 

「道幅が拡幅されただけで、この地図にある細い道が住宅地に続く……ええと、この道です。その丸印がついている家に行くなら……ん、少し住宅地に家も増えたので大分違うかもしれません、ただ、その太い道を道なりに坂を上っていけば着けると思います」

「こっちだったんだ、ありがとうアカネ!」

 

 何ともいきなり親しみを持たれているような感じなのだが。私は心を許すような事をしたのだろうか。

 不思議に思っていると、イリヤが判ってるぞー、などと言いたげな顔をした。

 

「不思議に思ってるでしょ、やっぱりあなたリズにそっくり」

「リズ?」

「リーゼリット、わたしの世話役の一人よ」

「似てましたか」

 

 んー、とイリヤが小首を傾げて考え込む。銀色の長い髪が揺れた。

 

「無感動そうに見えて、その実、色々頭の中で喋ってるの」

 

 そこがなぜかセラには微妙に伝わらないのよね、などと言って笑っている。

 多分、外に出て、こうして歩くだけでも楽しいのだろう。彼女の存在を考えればどんな環境だったかは想像がつく。それでもこれだけ笑えるのは、やはりそれだけ彼女の魂も特別だって事なのだろう。私には眩しくも感じた。

 住宅街の方に消えるイリヤを何となく見送った後、私もまた、ようやく来たバスに乗り移動をはじめる。時間帯もあり、乗客はお年寄りが多く、それも片手で数えられる程度だ。一番後ろの席に座り、流れる景色をぼんやり見ていると、ライダーがぽつりと漏らした。

 

「どうもその、もう少し上手く走れるのでは」

「……ライダー、もしかしてこんな物まで乗りこなせるの?」

「はい、恐らく」

 

 サーヴァント恐るべし。まさかバスも乗りこなしてみせようとは。

 いや──考えてみれば十年前は戦闘機が操られていたような。もう、サーヴァントのやる事を魔術の概念に当てはめてあれはおかしいとかおかしくないとか考える方が馬鹿なようだ。

 隣町で降り、指定の場所、駅前通りの喫茶店へ行く、個室が多く、打ち合わせなどに用いられる事が多いのかもしれない。価格表を見るとかなりお高いようだが、それなりに繁盛しているようで、ちらりと見えた予約表はかなり埋まっている。入店し、店員に名前を告げると、お待ちしておりました、と行き届いた仕草で一室に案内された。

 四畳ほどの個室にはテーブルが置かれ、壁際に革張りのソファが置かれ、先に来ていた男性が私を見て、言葉を出そうとし、失敗したかのように口がわなないていた。

 総白髪はもう治らなかったらしい。いや、もう早い人ならそうなっていてもおかしくない年齢か。さすがに皺は増えている。とはいえ体調は悪くないようだ。体のどこにも滞っている妙な流れなどはない。

 案内してくれたウエイトレスが去るのを背中で感じ、私は十年ぶりに会ったその人に軽く会釈をした。

 

「久しぶりです、雁夜おじさん」

 

 一体どこから情報を嗅ぎつけてきたのか、ライダーを召喚し、教会に一応の届けを出した翌日の事だった。間桐の家にその電話がかかってきたのは。

 臓硯が出たらどうするつもりだったのか……いや、その時は普通に切れば良いだけか。大昔の電話機だったら魔術でトレースする事も出来たろうが、今の世となっては無理な事だ。

 ともあれ、会ってほしいと頼まれたのだ。もの凄い罪悪感に満ちた声で。

 本当に、つくづく、思ったように行かない。

 私には絶対に雁夜さんの心を助けられないから記憶を操ったのに。

 短い時間とはいえあんな記憶を残したままで健常人に戻れるほど、人は強くない。そんなのは私自身が身を以て知っていたから引きずられる事の無いよう処置したのに。

 私には一人を助ける事すら荷が重いらしい。

 対面に座り、コーヒーが運ばれてきてなお、雁夜さんは黙ったままだった。何から話していいのか、何を話すべきなのか、そんな事を考えているのかもしれない。人間らしいところは本当に変わらない。何度か言葉を出そうとして、その都度失敗している。仕方無いので私から切り出した。

 

「雁夜おじさんはあの後、大丈夫でした?」

「──あ、ああ。あの後は……そうだな、ぼろぼろになりながら何とか生きていたんだ」

 

 一度言葉にしたら、堰を切ったように話し始めた。

 何故か「嫌な」感じを覚える冬木市を背にヒッチハイクで離れようとし、気付いたら病院に担ぎ込まれていた事。

 体そのものはしっかり治っていたらしく、検査入院のみで退院できたこと。

 遠坂時臣と大切な幼馴染みは子供達と幸せそうにしており、野暮を感じて、しばらく日本から遠い場所を中心に取材を続けていたこと。

 久しぶりに日本の事件を追ってみようと、三咲町で起こった連続猟奇殺人事件を追っていたこと。

 そして、そのオカルト中のオカルト、仮初めとはいえ存在した魔術の知識によって──死徒二七祖が一柱、ネロ・カオスと真祖の姫、アルクェイド・ブリュンスタッド、転生無限者、ロア、さらには混血の一族、遠野家、そして聖堂教会の代行者が入り交じった凄まじい事件の真相に近づきすぎてしまったこと。

 私の作った礼装はそのままでも一種の護符にはなる。それで埋葬機関の女性が暗示が効いていない事に疑いを持ち、接触──記憶の操作に気付いて、解いてしまったものらしい。

 善意だったのだろう、あまりに妙な術式、普通の魔術師は絶対に作らないであろう、他流派の技を混合させた限定礼装。そんなものを持ち歩いているなら、しかもその術式が一目でどういう働きをするものなのか理解できてしまえば、心配にもなるだろう。

 

「……どうしてそんな事になったのか、いや。言い訳にもならない。記憶が解放されてから……何度様子を伺いに行こうと思ったか判らない。ただ俺は……」

 

 苦しそうだ。それもそうだろう。雁夜さんからすれば、助けようと思っていた相手を蟲倉に残し、一人、ただ忘れて過ごしてしまったのだから。そんな罪の意識などいらないのに。本当にままならない。

 やはり、暗示をかけ直すべき、なのだろうか。しかし二度同じ暗示をかけるのは違和感を持ってしまう。特に弱まったとは言え魔術回路の残る雁夜さんだ。難しいものがある。

 その雁夜さんは全ての感情を押し込めるように大きく息を吸い、吐いた。こちらにしかと目を向け言う。

 

「本来六十年であるはずが十年というピッチで行われる事になった今回の聖杯戦争。茜ちゃんは参加するのかい?」

「……出ません。今回間桐は見に徹するとお爺さまは言っていました」

 

 嘘を吐く。このただ人の良いだけの男を安心させるだけの嘘。

 情報の出所が気になっていたが、どうもこれは教会つながりかもしれない。

 雁夜さんは露骨な安堵を顔に浮かべた。正直に言ってしまえばまた飛び込んできてしまうかもしれない。力足らずと知りながらも。

 前回のおり、使い魔を通して聞いていたのだ。この人は私と姉が相争う事を良しとしない。

 その後は他愛もない話をして別れる。雁夜さんは最後まで私に対して深い言葉を言わなかった。言えば気持ちを軽くする事も出来ただろうに。全てを自分で引き受け飲み込み、それもまた自分と割り切ったようだった。

 別れ際に一つだけ言っておく。私の本心。

 

「魔術師の事なんて忘れ、関わらないでください、雁夜おじさんには似合いません」

「茜ちゃん、君もまた──いや」

 

 何かを言いかけ、唇を噛み、目を地面に落とす。

 雁夜さんは去っていった。しかし、気がついていなかったのだろうか。私に会うということは例え冬木市の外であろうと、臓硯にまだ生きている事が知れてしまう、その確率が高いということに。それとも気付いていながらなお、聞かずにはおれなかったのか。

 もっとも、臓硯からすれば、雁夜さんの事は既に終わった事になっている。知られたところで積極的に殺しにかかることはないかもしれないが。

 

   ◇

 

 正直に言って、聖杯を取ろうという気持ちは数日で萎えていた。

 ゼンマイ仕掛けのおもちゃの人形。途中で止まっても、少し指で押せばちょっとだけ動く事がよくある。そんなものだったのだろう。

 強い動機もなく、強い望みもなく、強い願いもない。聖杯もこれは人選を失敗したかと今頃慌てているかもしれない。

 ただ、少し悩みがあった。

 未だに揺さぶり続けるもの。

 不義の子がいる。魔道の中に生まれつき墜ちていた子がいる。きっと間桐の業の継承者としてみっちり仕込まれ、人の生というものとは縁薄く育つのだろう。いずれ子を成したら臓硯の肉として使われるのだろう。そういうものだ。マキリから変質した間桐の魔術は親蟲のために子蟲が生まれ死ぬ。

 冬木市の新都と深山町を分ける未遠川、そこにかかる冬木大橋のアーチの上で寝そべり、私はぼんやりしていた。空は一面の星空、欠けた月、川に沿って吹く風は一際涼しい。涼しいというより寒い。体を生かそうとする虫の動きを止めれば一夜で死ぬだろう。ぼうっとしているには良い環境だ。

 惰性で聖杯戦争の参加者らしく、夜歩きをしているものの、歩き疲れて寝転がっている。

 

「ねえ、ライダー」

 

 いつも傍にいてくれる霊体、彼女が呼びかけに応えて身じろぎした気がした。

 

「子にはやっぱり何か残した方がいいのかな」

「……私には解りかねます」

「神話だと、海神との間に子供いなかったっけ」

「その……聞かないでください、アカネ」

 

 不思議な反応をされた。どうも踏みこんでほしくない話らしい。

 

「俺が言えるこっちゃないが──何かしてやれるならしてやった方が良いぜ」

 

 応えがあった。

 ライダーは既に実体化し、私を守るように身構えている。

 どうも聞かれていたらしい、ライダーのサーヴァント感知能力はさほど広いものではないのか、あるいはこの青い装束の槍兵が気配を隠す事に長けているのか。

 ああ、まあ仕方無い。一応聖杯戦争参加している身だ。のっそりと立ち上がり、反対側のアーチの上に立ち、肩に槍を乗せている男を見る。

 男は私に目を移すと、ひどくげんなりした顔になり、大きく溜息を吐いた。

 

「なんだ、おい。えらくやる気のないマスターだな。お嬢ちゃん、あんたも魔術師なんだろう?」

「……はい、一応」

「何とも暗い嬢ちゃんだな、全く、調子が狂っちまうぜ。しかし、まあ、こうして出会ったからにはヤることは一つだよな」

 

 獣のように笑い、青い槍兵は己の色と正逆の、禍々しいまでに赤い槍を構えた。その一動作にすら無駄がない。

 ライダーはいつしか鎖のついた杭のような短剣を手に構えている。

 ランサーはその豊満な肢体に目を留めたのか、笑みを深くした。

 

「ハッ、マスターの方はまだまだだが、サーヴァントの方はなかなかイイ女じゃねえか」

「私はあなたのような男は願い下げです」

 

 ライダーは一考の考慮もなしとばかりに切り捨てる。

 

「へえ、ならば、戦場の習いに従ってねじ伏せるか。無理やりってのも嫌いじゃねえ」

 

 ライダーの持つ独特の冷えた空気がさらに冷えた気がした。

 

「アカネ」

「うん、前言った通り私は気にしなくていい。存分に」

 

「Schleichen den Himmel(空に這うものたちよ)」

 

 私は橋のアーチをとん、と蹴り、空に舞う。一小節で呼び出したのはただの大量の飛蟲、無論これだけでは体は支えられない。ただ空中にいる時間が少し長ければいい。もう一小節を唱えるだけ。

 

「Ich lade(私の洞より) Spinne auf wasser(水上の蜘蛛よ)」

 

 マキリの魔術がこれで正式なものなのかは知らないが、とりあえずロアの知識の解釈でも使えたもの。吸収した虫の特性、虫に人が抱く象徴そのものを神秘とし、我が身に移し替える。使い魔の機能を我がモノとする。

 憶測にすぎないけれども、マキリの魔術は動物の雛形を探す事で、原初の一、完全な生命から根源に至る、なんて事を考えていたんじゃないだろうか。使い魔に秀でたのも支配や吸収に長けたのも何となく副産物な気がする。

 水面に着水する。時期的なものか未遠川の流れは緩やか。

 もっと正統派のカバラや転換得意の宝石魔術だったら重力制御や重量軽減なんてのも出来たろうけど、私ではこんなものだ。

 先程招いた飛蟲を散らせて索敵、視界も聴覚も借りられない、無機質な魔力の網。そのうちまた梟でも捕まえて頼りにさせてもらおう。

 しばらく探るが周囲に人の気配はない? 川の両岸一帯にもいない。

 サーヴァントの単独行動? あるいは同盟などを組む前に単騎同士で相性のいいサーヴァントを狩りにきた?

 いや、あるいはもっと単純なのか。

 ああいう剽げた戦闘者は代行者もどきであった時にも見た覚えがある。

 私はパスを通じてライダーに伝える、相手は威力偵察の可能性も有りと。そして圧倒できないなら撤退するようにと。

 足を強化し水面を蹴る。冬木大橋の手すりに掴まり、戦いの様子を見て、固まった。

 ──この橋は巣だ。

 そんな思いを一瞬抱く。

 あの鎖はどこまで伸ばす事ができるのか私は知らない。宝具なのかも聞いてなかった。

 冬木大橋はアーチ状の鉄骨によって作られた橋だ、それは遠目にみると檻にも近いのかもしれなかったが、ライダーは文字どおりそこを鎖で上下左右全てを封じ獣の檻のごとく仕立て上げ、人では有り得ぬ立体的な軌道でランサーを攻め立てていた。

 速い、ただ速い。ランサーもライダーも動きが速すぎてとても介入するどころではない。

 そこそこ離れた場所から見ているので動きも見えるが、間近であんな動きをされたらきっと消えたようにしか見えない。

 まるで軽業師のように宙を舞い、変幻自在に襲いかかるライダー、張り巡らされた鎖を足場に罠にはまった獣を追い立てるがごとく、じりじりとランサーの逃げ場を無くしてゆく。

 ランサーもまたその口元は凄惨な笑みを浮かべ、目を爛々と光らせていた。地の利はライダーに占められ、なお浮かぶその獣の笑み、そう、解ってしまう、あれはただ躱し、防御しているのではない。狙っている。ランサーは狙っている。刺突にて殺そうと、斬打し殺そうと。一瞬の交錯を狙っている。

 宝具を出していない戦いでこれだ。

 かつては使い魔を通して見るだけだったが、本当にこの聖杯戦争という奴は馬鹿げている。死徒二七祖と真っ向から討ち合える様な連中を七体も戦わせるのだ。ルール無用で行ったらきっと一日で町が壊滅する。

 

「ふ──く、ははッ!」

 

 ランサーはライダーの攻撃を受け、流しながら笑いだした。

 

「くだらねえ縛りに、つまらん命令、なんて思っていたがなるほどこりゃ存外悪くねえ。まさかこの俺が弱者の戦いをするとは──」

 

 楽しそうに、傷つき血を流しながらそれはもう楽しそうにランサーは笑う。

 正面からライダーの杭剣を受け、その衝撃を利用して後ろに飛び、何時準備したものなのか、石片を無造作に放り投げた、刻まれ輝く文字は──ルーン?

 狙いを定めた蛇のごとく動きで追撃したライダーを瞬時湧き出た霧が覆い隠す。

 その全く見えない中で弾ける金属音、橋の上を行く風に霧が吹き散らかされ、視界が明瞭になったそこに見えたのは、肩口に傷を負い、距離を取るライダーと、傷だらけになりながらも、深手は一切負わず、壮絶な笑みを浮かべるランサーの姿だった。

 

「私に視界封じなど、と思わせてもう一枚ですか」

「クク、昔は大軍相手の一騎駆けなんぞもやっていてな、騙し合いも慣れたもんさ」

「霧に温度すら紛れ込ませての奇襲。私の知覚をこれほど早く看破するなど……全く、どこの戦神の子ですか」

「ふ、ははは、そうさなぁ──それを知ってみるか?」

 

 赤い槍を空気を裂くように震う。次の瞬間、世界は息を潜めた。その槍を恐れるように。その槍が持つ死を恐れるように。荒神が酒を浴びせ飲むがごとく貪欲に大気のマナを飲み込み──

 槍兵は何か酷いモノを食べさせられたような顔になり、槍を垂らす。

 

「さすがにまたあの麻婆地獄は御免だな、すまねえが続きはまた後だ、去らして貰うぜ」

 

 ライダーの動きが鈍い間にと思ったのか、ランサーは鉄橋を囲う鎖を切り開き、身軽に消えて行った。

 私はライダーの近くに行き、魔力を送って傷つけられた部分を補填する。ちょっとした呪い持ちの槍だったのかもしれない。呪詛が混じっているので、簡易的に私に呪詛を移し替える事で対処した。

 やがて治療が終わると、ライダーはどこかしゅんとした様子で項垂れ「すいませんアカネ」と言う。うん、やっぱりどうもライダーは美人なのにどこか可愛くて困る。

 

「ところで麻婆地獄とはなんだったのでしょう?」

「……さあ?」

 

 ランサーの最後の台詞に私とライダーはそろって首を傾げた。

 

   ◇

 

 間桐慎二という少年と最後に口を聞いたのは何年前だっただろうか。

 私が立場を奪った少年。

 魔術を継げなかった少年。

 聖杯戦争を避けるためか、幼児期から英国に預けられ、ファーストスクールをトップの成績で通り抜け帰国した少年。

 彼は最初私を受け入れられないようだった。

 当然だろう、異分子もいいところだ。親の愛を無心に受けていたい時期のはず、その時期に自分は親元を離れ、その間の空隙を埋めるように養子という形で妹が出来ていた。普通の子供なら受け入れ難い事だろう。

 それでも少年はなお明晰だったのかもしれない。

 理性をもって、自分の妹として受け入れようと努めていた。

 会う機会そのものも少ない。彼の方は一年もしないうちに慣れていったようだ。

 きっと臓硯の愉悦の種でもあったのだろう、魔道の書の閲覧を許され、それを己のアイデンティティとして育っていた。自分で使う事もできないのに。

 彼が蟲倉に迷い込んできたのは何時の頃だったか、相手をしていたのは鶴野さんだったかもしれない。臓硯特製の刻印虫、通常の魔力を食うだけのものとは違い、死んでも生き返る私用に作られた、魔術回路と一体化し絡みつき、よりマキリに適したものに作り替えるためにのみ植え付けられるそれ。人体が破壊されてなお植え付けられ、すでに肉塊と化した後に殺され、また少し魂をマキリ寄りに近づける。胎盤への調整作業。よりにもよってそんな醜い光景を目にしてしまったらしい。

 相手をしていたのが臓硯であったならまだ結果は違っていたかもしれない。不死なのをいいことに私で散々実験してくれたあの翁はところどころで趣味に走るきらいがある。私に通常の魔術を教えるフリでもして、それを慎二に見せつけるくらいはするだろう。コンプレックスを育て上げ、自分のみは味方であるフリをし、最後の最後で絶望させるだろう。

 蟲倉での醜い業を見た時から慎二は一月余り部屋に閉じこもった。

 最終的には鶴野さんが部屋に入り、親子で腹を割って話したものか。部屋から出てきた時にはまるで違っていて、固執していた魔術から距離を置き始めたのはその日からだった。

 そんな彼、私を居ないもののように扱い、無視するようになった慎二は、なぜか臓硯から家に居るように言われてもなお、学園に通い続けている。

 ──そしてそんな彼が今、私に助けを求めていた。

 

 それは日がとっぷり暮れてからの事だった。

 汗だくで駆け込んできた慎二が真っ先に私の部屋に飛び込み、泣きそうな顔で言ったのだ。

 友人が聖杯戦争に巻き込まれたと。

 衛宮士郎を助けてほしいと。

 一瞬言葉を失った。

 この人はこう友人を思える人だったかと。

 いや、思えば慎二が私を見ないようにしているように、私もまた慎二を見ていなかった。どこまでも縁の薄い関係だ。推し量るなんてことはきっとできない。

 そして私には慎二に負い目を感じていた。

 頼まれるなら受ける他はない。

 ライダーに先行してもらい、私は慎二と共に夜道を走る。鍛えているのだろう、彼の足には強化の魔術を使わないと追いつけない。

 考えてみれば私は慎二が衛宮士郎とどこまで親しい友人なのかすら知らない。

 道々に話してもらうと、衛宮士郎に遠坂の姉妹を結びつけた関係なのだという。

 どうも衛宮士郎は無茶な鍛錬をしていたらしく、たまたま見た慎二もどこが無茶なのかは解らず、それでもその方法が間違っているものだとだけは理解し、遠坂家を頼ったらしい。代価に間桐の蔵書で得た知識を流しているのだとか。

 最初は魔術を嫌いながら、友人をあえてその道に踏み入れさせるジレンマ。そんなものも感じていたのだという。

 ただ、ほどなくして発覚したその友人の異常さ。魔術協会に見つけられればサンプルとして蒐集されかねないほどの異常、形を失わない、世界すら騙す投影魔術。結局の所、そんなものがあっては身を守るためにも魔術の習得は必須だったそうだ。

 そして聖杯戦争、これは遠坂姉妹と慎二の三人で衛宮士郎には知らせないように決めていたという。知れば絶対に首を突っ込んできてしまうというのが理由のようだった。学園に通い続けていたのもそのためだったらしい。

 

 ──ただ、厄介事は頼まなくても向こうから来てしまう事はままある事だ。

 いつかも通った交差点を抜け、住宅街の方へ、そこからさらに坂を上がった先の武家屋敷、和風の邸宅、その敷地の中で激しく争う音がしていた。門をくぐる時間もないかもしれない、慎二を抱えて強化した足で跳び越える。

 広い敷地は戦場と化していた。

 凄まじい巨体、力の具現、そんな存在が暴れている。

 無骨な、斧なのか剣なのか判らない、とてつもない重量がありそうな得物を振り回し、その巨体に見合わぬ俊敏さで対峙する敵、私が先行させたライダーと赤いサーヴァントを一体にして圧倒している。

 

「あら、あなたも来たのアカネ?」

 

 数日前にも見た銀色の少女が私の姿を見て笑った。

 

「あれはイリヤの?」

「ええそうよ、凄いでしょ、英雄中の英雄なんだから!」

 

 えっへんと、鉄火場に似合わぬ様子で無い胸を張る。しかし次の瞬間、不機嫌なふくれっ面になった。

 

「あのね、お兄ちゃんがいつまでたっても呼ばないから最後の一騎が揃わないの、お兄ちゃんが選ばれてるのは間違いないのに」

 

 もしかして、発破をかけに乗り込んだのだろうか。だとしたらこう、随分と強引な。

 イリヤのその言葉を聞くと、向かいで緊張の眼差しを注いでいた三人が慌てだした。赤毛の少年、きっと家主だろう、衛宮士郎の手を一人が確認し、一瞬の沈黙の後。

 

「なん……っで桜じゃなくてアンタに令呪があんのよーッ!」

 

 盛大に吠えた。

 もう一つの人影は何やら肩を落としてがっくり項垂れている。

 イリヤはきょとんとした表情でその様子を見ていた。私は何となく察しがつき、説明する。

 

「遠坂伝来の呪い、うっかりです」

「もしかして、リンはお兄ちゃんがマスターだって気付いてなかったの?」

 

 私がおそらく、と頷くと、イリヤは大きく溜息を吐いた。

 

「もういいわ、バーサーカー。気が抜けちゃったわ、帰りましょ」

 

 巨体のサーヴァントは一飛びでイリヤの傍まで後退すると、その腕に少女を抱え上げた。

 イリヤは巻き起こった旋風でずれた帽子を整え、場を一瞥して言う。

 

「じゃあね、お兄ちゃん。次はちゃんとサーヴァント呼んでおいてね、じゃないと殺しちゃうんだから」

 

 そして凄まじい圧力を発していたサーヴァントは無言で跳び、壁の向こうへ消えてゆく。力で消し飛ばされたこの邸の結界の残滓が何とも無惨。

 ただ、暴威が去ったとはいえ、サーヴァントがこの場に二騎いることは間違いない。緊張感はそのまま、ライダーは後退し、私を守るように、赤い衣装を纏い、対の短剣を構えるサーヴァントと対峙する。

 

「助力は……もう要らないですね。久しぶりです、遠坂……凛さん、桜さん」

「……ええ、お久しぶりね間桐さん、病気と聞いたけど、大丈夫なのかしら?」

「はい、問題ありません」

 

 久しぶりに見た一番上の姉は夜にもくっきりと輝いて見える。魔術師然とした怜悧な顔でこちらを見、笑った。

 

「そ、なら始めようかしら。あなたのはライダー?」

「やる、と言うなら構いません。遠坂さんのは……セイバーですか?」

「……なら良かったんだけどね」

 

 悔しそうな顔を見せる一番上の姉、ライダーと対峙しているサーヴァントは何とも言えない表情をしている。油断は一切見せないが。とすると短剣持ってるしアサシンなのだろうか、能力を確認できるほどには見れなかったのだが。

 割って入ったのは慎二とも違う男の人の声だった。

 

「ちょっと待て遠坂! さっきのといい、こんな子まで、ああもう一体なんだってんだ、ひとまず止めろ!」

「せ、先輩ちょっと、止まってくださいい」

 

 一つ上の姉が制止しようとしているが、お構いなくこちらに飛んでくる。私の隣で慎二が溜息を吐いた。

 

「ライダー」

「……いいのですか?」

 

 私が頷くと、ライダーが構えを解いた。霊体化してもらい、片手を上げて一番上の姉に呼びかける。

 

「一時停戦を求めます、遠坂さん」

「……ええ、こっちを先にした方が良さそうね。アーチャー、そういう事だから」

 

 なるほど赤いサーヴァントはアーチャーらしい。彼も短剣を消すと、一つ頷き霊体化した。

 

   ◇

 

 坂の上の一際大きい武家屋敷、間桐の家も遠坂の家も大概とは思うが、ここも半端なものではない。

 どこをまかり間違ったのか、私はこの衛宮邸でお茶を振る舞われている。

 どうも遠坂姉妹は頻繁にこの屋敷に入り浸っているようで、各自専用の湯飲みが用意されていた。一番上の姉が敷地を囲む結界を知った顔で張り直したのを確認し、私は一つ家主にお願いを言っておく。

 

「慎二をしばらく置いて欲しいって?」

「はい。いずれお金と身分証明書も用意しますが、道端で間桐の魔術を遠坂に流している事を言ってしまったので」

 

 あれは迂闊だった。聞いた私も。いや、多分間桐臓硯という人の手広さと怖さというものを慎二は本質のところで理解していないのだろう。

 

「間違いなくお爺さまに殺されるので、最低でも県外に、出来れば海外に出た方が安全です」

「いや……だって実の孫なんだろ?」

「衛宮君、この場合は茜……間桐さんの言う通りよ。魔術師にとって裏切った身内は敵より憎いもの」

 

 一番上の姉がそう言ってくれる。慎二はさほど落ち込んでいないようだ。これを機に間桐と縁が切れると思って内心ではすっきりしているのかもしれない。

 そしてやはり衛宮士郎は善人なのだろう。一方的な頼み事だというのにそういう事なら、と大きく頷いてくれた。これでいい。少なくとも先程確認した結界なら臓硯の蟲では通り抜けできないだろうし。

 そして思い出した事もあり、ある出版社の名を口にする。

 

「慎二……さん、そこで聞けば、雁夜おじさんに連絡がつくはずです。あの人は、お爺さまの事をよく理解しているから、助けてくれると思います」

「……お前はどうするんだよ」

「私、ですか?」

 

 どうすると言っても困る。私はどうしようもない。

 

「お前は間桐に残るのかよ、そんな……当たり前のような顔してさ、なんなんだ……なんなんだよお前は」

 

 私もよく判らない。ただ、ことごとくこの人とは縁が薄かった。人らしい人で、私は好ましく思っていたけれど。

 慎二は一つ溜息を吐いて、居間から出て行く。彼にとってもこの屋敷は勝手知ったる他人の家という奴らしい。何となく重くなった空気を払うように、一番上の姉が口を開いた。

 

「雁夜おじさん生きてたんだ、顔くらい見せればいいのに」

「姉さん、時期を考えると多分……」

「前回のマスターとして参加してたってくらい察しはつくわよ、お父様と敵対もしたのだろうし。でもそういう魔術儀式なんだから私怨なんか持たないわ、直接の仇じゃなければ、全力ガンドで許すつもりだったのに」

「遠坂……それ死ぬんじゃないか?」

 

 わいのわいのと騒ぎ出す。一つ上の姉も一番上の姉も楽しそうで何よりだった。

 魔術師として、人間として、両立できるこの二人。この在り方は希有だろう。とても眩しい。

 少し安心した。

 ほっとした気分でお茶を飲む。慎二のこともこれで何とかなりそうだし、あと心残りがあるとしたら子供の事だけど、そればかりはどうしようもない。魔術の後継者なのだ、臓硯も手放さないだろう。

 ふと、ひっかかりを覚える。どうしようもない。どうしようもないのだろうか。

 ぼんやりしていると、いつの間にか話が聖杯戦争の事になっていた。

 一番上の姉が何故かメガネをかけ解説、一つ上の姉がそれを補足するように衛宮士郎に説明している。

 何となく聞いていると魔術師同士の殺し合いという話し方をしていた、強い言い方で危機感を持たせようって感じなのかもしれない。

 お茶を一口。

 頭にふと柔らかい感触が乗る。いつの間にやら一つ上の姉が私の隣に座っていた。ゆっくりと撫でられる。

 

「……ちょっ、桜あんた、その子は敵陣営なんだから馴れ合いは駄目よ!」

「大丈夫です姉さん、私、聖杯には認められなかったみたいですから。聖杯戦争に無関係なただの魔術師です。こうやって久々のふわふわを味わってもいいんです」

 

 そういえば髪質はミュリエルの時からあまり変わってない。猫みたいな毛だ。青く染まってしまっているけれど。遠坂にいた頃は二人の姉に実にいじられていたものだった。うぁ……一番上の姉に三つ編みを二十本ばかり編まれてとんでも無い事になった記憶が。

 妙な記憶を掘り起こしていると、衛宮士郎が不思議な顔でこちらを見た。

 

「慎二に妹が居るなんて聞いた事もなかったけど、こんな子供までそんな殺し合いに参加するってのか」

「まさか。魔術師を見た目で年齢判断すると痛い目見るわよ、その子だって私のたった二つ下だし」

 

 衛宮士郎の顔が世の中の不思議を見たようなものになっている。

 

「……本当か?」

「本当です」

「マキリの業は肉体に帰すのが基本らしいしね、魔術を修めた副作用ってとこでしょ」

 

 そういえば、慎二から知識を流されていたのだったか。

 確かにいつからだったか身体の成長が止まっていた。色々思い当たる節が多すぎて困る。あれだけ実験されれば幾つの結果が混ざっているか知れたものではない。

 さて、と一番上の姉は話題を打ち切るように手を叩いた。

 

「期限もぎりぎりだし早速召喚してみましょうか。衛宮君は調子の波が無いから楽でいいわね。で、間桐さん。ここからは──」

「……はい、そろそろ失礼します。衛宮さん、兄をよろしくお願いします」

「ああ。大丈夫だ、あいつは友達だし」

「慎二は任せときなさい、あんな人畜無害ワカメは陽の当たるところで干しておくのが一番なのよ」

「姉さん、告白されたからって照れ隠しにワカメ扱いはさすがに慎二さんが可哀想なんじゃ」

 

 魔術嫌ってるというのに告白したらしい。なかなか男気がある。しかしそのあげく海草扱いとは慎二も報われない。

 帰宅すると案の定、臓硯が慎二について報告を求めてきた。

 遠坂と衛宮の庇護下に入った事を告げると、ひどく忌々しそうに笑っていたので、今夜あたり蟲倉で八つ当たりされるかもしれない。まあ、いいか。

 

   ◇

 

 がくがくと勝手に反応する体。

 血の味と蟲の味と腐臭。汚れに汚れた体を蟲が這う。

 もう間桐の胎盤として役目を果たした以上マキリに染める意味もなかろうに、臓硯の趣味か、久しぶりに酷い事になった。

 実は結構すごい魔術師なくせに変態過ぎて困るのがこのお爺さまなのだ。

 一晩で二十死には久しぶりだ。雁夜さんの漏らした言葉だとどうもロア事件は解決して本体は消滅しているらしいので、ちょっとだけそのまま普通に死ねるんじゃないかと期待したが、やはり駄目だった。最近の臓硯の趣味は快楽で責めるよりはもう少し変態的で嗜虐的なものが多い。頭は残しておいて、最後まで私に見せつけるのがこだわりポイントのようだ。

 

「よいのう、よいのう茜よ。表情を失った面貌も慣れてくれば聖女の顔よ、いつかは己から歪ませてやろうのう、ほぉれ、これなどどうじゃ」

 

 などとまあ弄くられ、B級ホラー的なスプラッタな何かになったりもするのだが。時間が途切れればやはり戻る。

 

「しかし慎二の奴めも逃げ出すとは何とも情けない事よ、雁夜に続いてほんに、あの代は良くなかったのう。これでは次代も不安が残ろう、ワシの精では胎ませる事もできぬというに」

 

 そうして蟲の翁は呵々と笑い。

 

「茜や、此度の聖杯戦争は生き残る事を優先せい、英霊の宝具ではさしものオヌシも危ういものがあろうからの。聖杯は次を待てば良い。オヌシには再び胎盤としてミサゴとの子を成してもらうとしようかのう」

 

 さらなる不義を犯せという。

 私は惰性で頷く。

 うんざりするような無気力感と諦念の中、その奥深いところで、何かが壊れた気がした。

 

 蟲倉から出る間際に一度殺されリセットされる。肉体的には問題がないはずなのに、何かがやはりすり減るのか、この時ばかりはよろめきながらバスルームへ。ミサゴは既に就寝中、邸内を裸でうろついても問題はない。体中に付着している蟲の体液を流し、ぬぐいとる。復元も血は無くなってくれるくせに汚れは一緒に落としてくれない。髪の隅々まで染みついた粘りつくそれを念入りに。ぬぐいとる。ぬぐいとる。ぬぐいとる、ぬぐいとる。

 あれ、と思う。

 シャワーの湯気の中で、気付けば私は崩れ落ちていた。

 

 ──ああ。うん。そうだ。思い出した。

 否定の感情だこれ。

 駄目だ。

 私だけならいい。

 でもそれだけは、駄目だろう。

 

 のろのろと服を着る。

 コートを羽織る。

 もう時間は朝に近い。ライダーを伴い薄明かりの中の散歩へ。

 いつしか来た前回の聖杯が出現した地、新都の公園、瘴気が渦巻く私に馴染み深い場所。

 

「ライダー、令呪を以て命じます。私の魂と精神の悉くを食べて下さい」

「な……」

 

 何か言いかけるライダーだったが令呪には抗えなかったか。私の首に噛みついた。血が、私を構成する全てが吸い上げられ、飲み込まれてゆく。喉を鳴らせ、喜悦と嘆きの表情を浮かべるライダーに少し申し訳なくて、私は力の抜けていく手でその頭を抱いた。

 時間が途切れる。

 魂を食らわせても世界が修復する。きっと改竄するには根源まで行かないと無理なのだろう。

 始めに見たのはライダーの顔。口の端から血を一筋流し、どこか上気し、それでいて悲しげだった。

 

「……アカネ、二度とこんな真似をさせないでください」

「ごめんなさい、魔力は一杯になった?」

「当然でしょう、あなたの内包している魔力がどれほどのものか判りました」

「うん、こんな方法でしかあげられないんだ。特殊なものでも刻印虫の基本の性質は変わらないから。ほとんどはもってかれてる」

 

 常に多量の使い魔を養っているに等しい。十年前ならいざしらず、今の私は魔力にモノを言わせて何かをする事なんてできない。

 

「じゃあ、行こうか、まずは冬木の教会へ」

 

   ◇

 

 聖堂では神父が朗々と早朝の祈りを捧げていた。

 その祈りは悪意に満ちていて、それでいて信仰に殉じている。

 やがて祈りが終わり、神父は緩やかにこちらを振り向いた。

 

「間桐茜か。昨夜七騎が揃い、聖杯を巡る魔術師と英雄の饗宴は幕を開けた。このような場所に居て良いのかな?」

「言峰綺礼、実の師を殺した時の気分を聞いて良い?」

 

 ゆっくりと、ゆっくりと神父の口は弧を描いた。

 

「──何故、そんな夢見事を思いついたのかね?」

「十年前、魔術師殺しに攫われて、遠坂邸に私は居た。衛宮切嗣はぽつりとあなたの名前を呟いていた」

「なるほど、だがそれは魔術師殺しの読み違い、という事もあるのではないかな」

「間桐雁夜を起こそうとしていた梟、あれは私の使い魔だった。そして遠坂時臣のサーヴァントであった英霊、うちのお爺さまはとてもあの人を警戒している、教会を中心に行動している事を把握する程度には」

 

 神父の笑みは増している。言葉を重ねるごとに増している。愉悦に歪んでいる。

 

「なるほど。そこまで洞察しているなら、初見で私が仇であった事が理解ったはず。父の仇を見逃したか。だが今になって、とはどのような変心かな」

「あなたの命の代価として代行者の武装、一式を貰い受けたい」

 

 意外、という顔をする。それはそうだろう。教会は魔術師とは本来仲が悪い、代行者の装備を魔術師が使いこなせるはずがない。やがて神父はまじまじと私を見つめ、カソックを翻した。

 

「よかろう、私とてまだ少々命が惜しい」

 

 ついてこい、という事らしい。

 第八秘蹟会に居ただけの事はある、聖骸布、聖人の遺骨、恐らく聖十字架のものと思われる破片、教会の秘蹟に関する聖遺物が、こんな地方の教会にとは思えぬレベルで収納されていた。ただ、私の目的はもっと実用的で味気のないもの。黒鍵の柄、聖別され霊体への干渉力を持った聖水、古来より場を清めるために使用されていた没薬。

 魂がミュリエルとかけ離れたものとなっても、黒鍵はなぜか手によく馴染んだ。小さい手で握れるのは一本のみではあろうけど。試しに手近な聖書を使って剣身を精製、軽く振ってみる。強化をかければ何とか使い物になるだろう。

 

「……マキリは教会とも繋がりがあったか?」

「まさか」

 

 訝しげな神父の言葉には取り合わず、得るものを得て、教会を去る。やはりこの程度ならあの英雄王は動かないようだ。多少の賭けだったが。

 間桐邸に戻り、慎二の身の回りの品をライダーに持ち出させ、世間を誤魔化すためとはいえかなりの額の入っている口座の通帳を持ち出す。

 引き出したお金の半分を慎二に、ライダーに荷物と一緒に持っていかせ、私は暗示も用い、新都の週単位で借りられるマンションを借りる。臓硯には教会を襲ったので拠点を移すとだけ言っておいた。

 借りた部屋を簡易な工房とする。

 マキリでは感知できない、そして理解のできないだろうカバラによる結界。

 部屋の中央、馬鹿げた魔法陣、多分誰かが見たらその効率の悪さに口を開けっ放しになるだろう、それの上で裸となり仰向けに寝そべった。

 欲しいのは方向性、指針、大海の中を進むための羅針盤。

 時間はもとより足りない、本来数十年を要するもの。

 だから無茶をする。人にはできないただ一つ、自身を生贄に捧げるという無茶を。

 

「じゃあライダー、後は」

「はい、アカネ。今よりここは我が神殿、誰にも侵させはしません」

 

 頼もしい言葉に一つ頷き、私は魔法陣の中央で目を瞑った。

 魔術回路を叩き起こし、暗闇に蛍が舞い、ある魔術基盤に接触するための魔力を紡ぐ。

 とてつもなく原始的で、とてつもなく古い。それなのに脈々と継がれ、絶える事のない魔術系統。

 ある、という事を知っていても、それにどう繋ぐかは手探り。分は悪すぎる。だから象徴を用いる事に強い数秘を用いる、我が身を贄に見立て探し出す。

 

「か……くぁ」

 

 幾度かの、幾十度目かのパターンを試し、繋がった、と同時にそれを制御できず食い荒らされ、体内が全て裏返る。血を吐き、一瞬の時の途絶の後再生。

 まだ、先は長い、これは手がかりを見つけただけ。この連綿と続く業を身の内に引きずり込み、練り上げ──

 

 時の感覚はない。幾度か狂ったかもしれない。いつもの事ながら覚えていないが。

 ようやくそれが体内に一つ完成した時には、部屋は文字通りの血の海だった。術に苦しんだか、堪えきれず私の体から勝手に逃げたらしい蟲の死骸もちらほら見える。あとで魔術で綺麗に浄化しておこう。

 

「ライダー、どのくらい経った?」

「……四日と八時間ほどです」

 

 立ち上がろうとして、力が入らないのに気付いた。いや、力の入れ方を忘れてしまった、と言うべきか。どの筋肉を動かせばどこが動くのか、指の一本一本を動かしながら確認する。

 一時間ほどしてようやく立ち上がり、シャワー室で全身の血を洗い流す。着替えを済ませ部屋に戻るとライダーが何かしてくれたのか、血で汚れきっていた部屋は綺麗になっていた。水を一杯飲み、ソファに腰掛けてぼんやり。ここまでしなきゃいけないのかと投げ出したくなる気持ちが一瞬湧き、抑える。動かなければ、悪い方向にしか行かない。それでも良いかと思っていたが、一つだけは投げ出せないものが出来てしまった。

 

「……それじゃ、ちょっと聖杯戦争に行くとしようか」

 

 私の、少しだけ熱量の篭もるようになった言葉に、ライダーは静かに頷いた。


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