愛の言葉   作:まなぶおじさん

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前編

放課後の光が射せば、生徒達は一斉に生き返る。それを祝福するように、雲を装飾とした

清々しい青空の下で、緑川はシケたため息をついていた。

 憩いの場として設けられた公園のベンチで、緑川はギターをてきぱきと弾いている。ジャンルはジャズで、腕前は「注意深く聴かないと外したかどうかは分からない」程度。

 生徒の身分であるから、別に金に困って演奏しているわけではない。単に友達がいないから、

暇すぎて楽器で遊んでいるだけだ。

 演奏している間は、熱中もするし完遂させようともする。時には人が寄ってきて拍手をくれる

こともあるし、お金を差し出してくれることもあるが、全て断っている。

 そういう時は、人並みに達成感は得られる。ただ演奏の世界から抜けきると、灰色の青春を

送っている現実を否応なく実感してしまうのだ。

 全部、自分が悪いんだけどね――

 苦笑しながらぶつくさ呟いた後は、再びギターの世界へ戻る為に、指を弦に置く。

 ジャズの名曲を弾き、苦手なパートに多少失敗しながらも、緑川は感慨深そうな表情で音に身を委ねている。

 この時間が続けばいいのに。

 この時間は長続きはしない。

 生きてきて十五年になる。人生経験が浅いことは百も承知だが、自分は大洗学園艦で一番の

不幸者だなぁと思っている矢先、

 視線を感じる。

 

 ギターからちらりと顔を向けてみれば、飾らないショートヘアをした、無表情のまま緑川を

見つめている女の子がいた。

 

 指を動かしながら、音楽に対する思考を多少妥協させる。

 制服は大洗女子学園のものだ。ジャズが好きそうなオヤジや、親子連れが聴きに入ることは

あったが、まさか学生が、それも異性が近づいてくるとは驚きだった。

 これは失敗出来ないなと、カッコつけた表情になりながら演奏に集中する。何度も演奏した曲で良かったと、つくづく思う。

 ――そして、演奏が終わる。

 それと同時に、決して大袈裟ではない拍手が空気を震わす。改めて女の子に目を向けてみれば、くすりと笑っていた。

「あ、ありがとう……」

 女の子はこくりと頷き、がま口の財布を取り出しては百円玉を差し出そうとする。

 緑川は「あ、いいよいいよ」と手で制する。

「その、単に趣味で弾いているだけ、だし……」

 異性と話すことは久々であるし、しばらくロクに対話してもいないから、一言一言口にするのにいちいち頭が回る。

「あ、うん」

 それだけで、沈黙が訪れる。

 空はのんきなもので、雲は大変だねえとばかりに緑川を見下ろし、太陽はそんなこと知るかと

ばかりにギラギラと輝いている。

 周囲では子供が遊具で遊んでいたり、母らしい女性がそれを見守っている。多少の演奏が

入っても、ここは公園だし、ということで流されることが多い。

 だが、目の前の少女は未だに緑川をじいっと見つめたままだ。

 普通なら、一曲弾き終えれば、観客はあてもなく去っていくというのに。

「あ……えと……」

 ひと呼吸つく。

「もう一曲、聴く?」

 よく言えたものだと思う。

 女の子は、うん、と頷く。

 

 次も、慣れた名曲で演奏する。その間も女の子は緑川の真正面に立っていたし、何の言葉も

発することなく音を聴いてくれていた。

 観客がいると、多少ながら体が強張る。しかし嫌というわけではない、むしろ失敗出来ない、

良い音を聴かせたい、という気持ちが先行して、いつも以上に一生懸命に、心を込めて曲を

届けることが出来る。

 一人での演奏は基本ではあるが、失敗しても「まあいいや」で済ませてしまうことも多いから。

 ――そして、演奏が終わる。多少の間を置いたところで、現実に戻った自分のことを、女の子は拍手で迎えてくれた。

「ありがとう……え、えっと、その……」

 女の子は、にこりと笑ったままでその場を動かない。

「自分の演奏、どう思う、かな?」

 語りすぎず、伝えたいことだけを伝える。

 女の子は、うん、と頷いてくれた。言葉は無いが、なんとなく意図が分かった気がする。

「あ、ありがとう……あと一曲、いいかな?」

 うん、と頷く。

 

―――

 

 学校という学生の戦場を今日も孤独に生き抜き、緑川はギターを片手に公園のベンチの一つを

占領する。

 中学三年までは普通に遊んでたんだけどなあ。

 まあいいやと、身も指も心もギターに託す。今日は曇り空だが、雨さえ降っていなければ毎日が演奏日和だ。

 唯一の趣味にして、自分の全てであるジャズに心を捧げる。それが日課であり、心の支えで

あり、譲れない生き方だった。

 何度も弾き、飽きない名曲を演奏し終える頃に、何かの存在感が緑川の頭につんとくる。

 

 ちらりと視線を傾けてみれば、先日、緑川の演奏を三度も聴いてくれた女の子が居た。

 

 はっとなるが、緑川は演奏に集中し直す。「見知った女の子が自分の演奏をまた聴いてくれて

いる」という事実に、緑川はひどく動揺していた。

 慣れていない曲を奏でていれば、絶対に数か所ほど失敗していたはずである。

 ――そうして、演奏が終了する。そのたびに女の子は、控えめに拍手をくれるのだ。

「また、来てくれたんだね……」

 こくりと、女の子は頷く。

「あ、えーっと、その、」

 質問してしまっても良いのだろうか、と思う。

 だが、「四度も自分の曲を聴いてくれているんだから、別に関心を持っても良いだろ」という、あくまで冷静な理性が緑川の本能を後押しする。

「え、えと、君は、」

 女の子はくすりと笑ったままで、表情を変えない。

「えっと、大洗女子学園、かな? そこの生徒かな?」

 緊張むき出しの緑川に対し、女の子はあっさりと頷いた。

 質問し終えて、馬鹿か自分は、と多少後悔する。女の子が着ている服は何だ。制服という

もので、何処の出身校かを証明する学生の基本装備だろうが。

「えーっと……何年、かな?」

 女の子が、人差し指を立てる。

 多少「?」と首をかしげたが、緑川は「ああ」と声を出し、

「一、一年か。僕と同じなんだね」

 緑川も制服を着たままで、毎日ギターを演奏する。単に着替えるのが面倒くさいというのも

あるし、デザインは好きな部類に入る。

「それにしても――君はどうして、ここに?」

 そこで、緑川が「あ」と声を出す。このままでは、女の子がベンチに座れない空気のままでは

ないか。

「ど、どうぞ」

 ベンチの端に移動し、座っていいよと手で促す。女の子はこくりと首を動かしながら、緑川の

隣に腰を下ろす。

 そして、先ほどの質問に応える為か、女の子が緑川のギターを指さす。

「えっと……つまり、僕の演奏を聴くために?」

 遠慮なく、女の子が同意するように首を縦に振った。

 瞬間、緑川は高校時代最大の興奮に染まる。あくまで冷静に解釈してみれば、同い年の女の子が緑川のリピーターになった、ファンになってくれた、ということだ。

「ジャズ、好きなの?」

 女の子は頷きもしないし首を横にも振るわない。普通、なのだろう。

「じゃあ……えっと、つまり、」

 これから、自惚れていることを抜かす――そうやってわかっているフリをすることで、緑川の

心にバリアを張る。

「僕の演奏が、好き、なのかな?」

 

 女の子は、首を縦に振った。

 

 緑川は吊り橋を渡るレベルで慎重に話すし、何か口にした後で語りすぎていないか、鬱陶しくは無かったかと、他人の感情が気になって仕方がない性分である。

 だが、心はあくまで、青春に片足を突っ込んだ十五歳児だった。何はともあれ女の子から

「好き」と評されれば、男など「やったぜ――――ッ!!」と舞い上がるのが当然なのだ。

 はやる動揺を呼吸で何とかして、崩れそうになる表情を手のひらでどうにかしながら、緑川は

あくまで冷静に、観客と会話を続ける。

「あ、ありがとう……すごく嬉しいよ」

 すごくどころではなく、死んだくらい嬉しい。

「放課後は、いつもここにいるから、よかったら、その、」

 女の子は、こくりと頷いた。

 やった。

「あ、ありがとう。あ、えっと、良かったら、その」

 聞け。

 女の子は「これからもここに来る」と証明したんだぞ。

 素性について質問するぐらい、別に怪しくも押しつけがましくも無いだろう。緑川は、

良いんだよな良いんだよなと心の中で連呼する。

「な、名前を、教えてくれるかな?」

 あ、とばかりに女の子が表情を変える。そうして鞄から取り出したのは生徒手帳であり、緑川の目と鼻の先で手帳をぱかっと開く。

 丸山紗希。

 それが、女の子の名前だった。

 

―――

 

 それからというもの、紗希へ音楽を届けていく日々が続いた。

 時々別の観客が近づいてくるものの、やはり一曲を弾き終えるか、その途中で姿を消していく。

 紗希は緑川の真正面に突っ立ちながら、二、三曲ほどじいっと聴く。全て弾き終えたと態度で

示せば、吸い込まれるように緑川の隣に腰を下ろす。

「普段、丸山さんは何を、しているのかな?」

 しゃべりすぎないように、熱くなりすぎないように。緑川はあくまで、丁寧に言葉を探る。

 紗希が携帯を取り出し、その画面には女の子達と戦車が映り込んでいた。

「あ、ああ……戦車道、だよね? なるほど、そうなんだ」

 耳にしたことはあるし、テレビなどで何度か見たことはある。

 丸山は小柄で、語らずの穏やかさがあるが、戦車という「強い」乗り物に搭乗しているらしい。

 凄い、と思う。自分には一生真似できない、と思う。

「戦車道、か。うん、なるほど……すごいね」

 知識が無いので、どうしても簡単な感想しか出てこない。

 しかし紗希は、口元を軽く緩ませながら、うん、と頷く。

「この人たちは……友達、かな?」

 紗希を含め、戦車をバックに六人の女の子が映り込んでいる。この疑問に対しても、紗希は

頷く。

「友達と一緒か……いいね。うん、いい」

 友達。

 その言葉を口にして、思わずまずそうに表情を歪ませてしまった――紗希は察しが良いのか、

困ったように眉をへこませている。

「あ、ごめんごめん。気にしないでね? ねっ?」

 全く冷静じゃない口ぶりのまま、なんでもなかった、を強調する。

 しかし、紗希の目は緑川を射抜いたままで、決して揺らぎはしない。

 友達の事を話さなければいけないのではなく、友達について話してもいいよ。それが紗希から伝わる確かな意志であり、人柄だった。

「……つまんない話になるけど、ごめんね」

 紗希は、小さく首を左右に振るう。

 話してまだ数回程度だが、紗希の前では言葉が告ぎやすい。これは俗にいう聞き上手のことで、他人の話を決して拒絶しないという安心感が、紗希から柔らかく伝わってくる。

 自主性をくすぐるそのキャラクターは、臆病な緑川をして、「話してみようかな」とか「これを話したい」と、興味を誘うのだった。

「僕はね、そうだね。ジャズがとにかく好きでね。オヤジのレコードの影響、かもしれない。

まあ、好きなんだ」

 ギターを見つめる。

「それで、ギターも弾きたくなって、ね。中学の頃になってようやく買ってもらえて、すごく練習したんだ」

 まだ数年も経過していないから、買ってもらった時の場面が鮮明に思い出せる。

 あの時が、生きてきて一番嬉しかった出来事だ。

「それで……音楽の授業が始まる前にね、音楽室にあったギターを借りて、演奏してみたんだ。

そしたらクラスメートが、かっこいいって褒めてくれた」

 うん、と紗希が反応する。

「それで、新しい友達が出来た。そこまでは良かったんだけど――」

 口ごもる。

 女の子相手に、男の失敗談を聞かせるというのは、男らしくありたいという思春期男子に

とってはめちゃくちゃ恥ずかしい所業だった。

 頭の中でどうしようかとぶつくさ言いつつ、紗希の表情を覗う。

 紗希は何も語らない。しかし手振りや目で、意志を明確に伝えてくる。知りたいことは教えて

くれたし、何に対して疑問を抱いているのかも分かりやすかった。

 今の紗希は――緑川の大事な話を聞き届けたい。それを証明するのが、決して緑川から目を

そらさない紗希の姿だった。

「……うん。僕はね、舞い上がっちゃったんだね。同級生はジャズに興味があったんじゃなくて、楽器を弾けることに感心していただけで――」

 息を吸う、吐く。

「普通の話もしたし、一緒に飲み食いだってした。けど、口を開けば大抵はジャズのことばかり

話して、この曲がいいとか、あの曲が初心者向けだよ、とか」

 一度話せばもう止まらない。しかし、紗希は緑川から目を逃さない。

「あるジャズバンドが大洗学園艦に来てくれるって聞いて、僕は大急ぎでチケットを数枚分

購入した。友達と、一緒に聴きに行きたかったから」

 場面の一つ一つが具体的に思い起こされる。それらは決してホコリなど被ってはいなくて、新品同様きらきらと光っている。

 当たり前だ。

 教室で、公園で、自分の部屋で、何度も思い返してもいれば、過去は決して風化しない。

「その時に気づくべき、だったんだ。友人は、『ごめん、用事があるんだ』ってやんわりと

断ってさ……」

 ギターをぐっと抱く。

「それで、中学三年になった。相変わらず音楽室でギターを披露してたんだけれど、前みたく、

熱心に聴いてくれるってことはなくて、」

 何度も思うが、友人たちはしっかりと「警告」してくれていた。そのことを考えるたびに、

深いため息が出る。

「……それでね、中学時代最後の文化祭が近くなってね。僕は、言ったんだ。『ジャズバンドを

組んで、一緒に演奏しよう』って。当然、友人たちからは、楽器の演奏なんか出来ないって

言われてね。

けど僕は、一人で勝手に盛り上がって、大丈夫大丈夫、出来るよって言ったんだ」

 胸が苦しくなる。タイムマシンがあるなら是非ともそれにすがりつきたいと、今でも思う。

 怖いものなど何も無くて、中学時代最後というワードが緑川の野望に火をつけて、緑川は

友達という結束を根拠に、快くバンドを組んでくれると信じ込んでいた。

 が、

「そうしたら、友達はうんざりした顔になってね……『お前、自分の趣味を押し付けすぎだよ』

って。他の友達もそれに同意してね。それで、こう言われたんだ」

 今も、そしてこれから先も心に残るであろう言葉。

 

「『お前と話してると、凄く疲れる』って」

 

 話し終える。

 生まれて初めて、恐ろしいものが誕生した瞬間だった。

 この場をもって、緑川の前向きな価値観は自主的に封印され、謙虚に、臆病に、孤独に、けれどジャズだけは手放すまいと生きるようになった。

「……まあ、それきり疎遠になっちゃって、ね。僕は相変わらずジャズが好きだったから、

話しかけるとまたジャズの事を話してしまいそうで」

 こん、とギターを叩く。

「だから、今の僕には友人がいない。当然だよね、ジャズのことばっかり話しかけられちゃ

うんざりするもんね、うん……」

 納得するように、緑川は頷く。

「友人たちは何も悪くない、普通に警告しただけ。僕がびびりすぎて、自分から友達を

手放してしまった」

 無理に笑う。

「ご、ごめんね。辛気臭い話で――あ、ありがとう、話を聞いてくれて。嬉しいな」

 明日から来なくなっても仕方がないと思う。こんな勝手な奴の演奏なんて、誰が

聴くものだろう。

 作品の出来合いと人間性は関係無いというが、緑川は、紗希と目を合わせながら過ちを

口にしたのだ。ダイレクト過ぎて逃げ場がない。

 けれど、紗希は決して緑川から目を逸らさなかった。ジャズさえあればそれでいい、という

楽な道に逃してはくれなかった。

「あ、えっと……ごめん、こんな奴で。その、」

 紗希は、首を横に振った。

 

「すき」

 

 紗希は緑川を見つめ、ギターに視線を傾けて、また緑川を見据える。

 伝わる。

 緑川の過ちを聞いても、緑川の人間性が、緑川の弾く音楽が、ジャズのことが、紗希は、全てが好きだと言ってくれた。

 涙は出なかったと思う。

「……ありがとう、丸山さん……」

 紗希は、にこりと笑う。

 

 

 すごく気分が良かった。

 それなのに、以前のような舞い上がりはない。どこか冷静さがあるあたり、自分も経験から

学べる程度の知能があったらしい。

 気付けばもう夕暮れだ。

 公園から人気は失せ、建物の窓からは光が射す。この場で演奏すれば、とても気分が

良いだろうなと思う。

 隣を見る。

 紗希はまだ、そこにいる。夕日に照らされている紗希は、相変わらずどこか読めない雰囲気の

ままで、けれども機嫌が良さそうに微笑している。

 それを見て、ひとかけらの勇気が沸く。それでも前に出すぎないように、紗希のことを考えて、あくまで紗希の返答を優先にして。

「ねえ、丸山さん」

 紗希がまたばきをする。

「その、良かったら……時間があったら、自作の曲、聴いてくれないかな。もともと、

中学の文化祭の時に練ってた奴なんだけど……」

 紗希の目が、潤んだ気がする。

 紗希は、うん、と首を振った。

 

―――

 

 山郷あゆみは、つかれたーの一言で放課後を歓迎する。

 授業中では何とか保たれていた静粛さはあっさりと破られ、元気の有り余る高校一年生たちは

早速とばかりに教室から脱出したり、グループ内で予定を組んだりしている。

 あゆみの友人達も、席で背筋を伸ばしているあゆみめがけ、小走りしたり歩いたりで集合する。

「あゆみー、今日はどこ寄るー?」

「昨日もジャンクフード食べにいったでしょお……お金あるの?」

「あるある」

 阪口桂利奈が元気いっぱいの表情で答えるが、半分ほどは信じていない。先週はアニメのDVDを購入していたはずだ。

「ということは、今日はさっと帰っちゃうの?」

「かもね……」

 宇津木優季は温厚な友人であるが、それ故に機嫌が顔によく出てくる。明らかに不服そうに

表情を曇らせるものだから、何だか悪者になった気分だ。

「凄く疲れてるね、あゆみ……ああ、そうか。最近、紗希に英語を教えてるもんね」

 まとめ役の澤梓は、しっかりと他人をよく見てくれるタイプなので、こういう場面で助けられることも多い。

 そう――

 ここ最近になって、丸山紗希が英語を教えてくれとばかりに、英語の教科書を手渡してきた。

 最初は赤点対策かと思ったが、紗希は普通に点を稼ぐ方だ。

 何かと思って質問してみたが、それきり紗希は情報をシャットアウトしてしまった。こうなった紗希は諜報に対して無敵と化し、友人ですら紗希のことを探れなくなる。

「だよねー、なんだろうねー。あ、もしかして海外留学目指してるとか?」

 大野あやが、冗談めかして言う。

 最初は「テキトーなこと言ってるなあ」と思ったが、丸山紗希のことになると、案外否定は

しきれない。

 何せ自己主張はしないから、新しい事を始めても「そういうのが好きなんだ」と解釈出来るし、どんな夢があっても「そうなんだ……」と、意外に受け入れられる。

 思えば、紗希と付き合うようになった時期が思い出せない。いつのまにかそこにいて、気づけば当たり前のように話に混ざっていて、思うとグループ内でかかせない人物となっていた。

 このようにまるで読めない人物であったから、「英語を教えて欲しい」と教科書で

主張してきた時は、結構びっくりした記憶がある。

 動機は不明なあたり、やはり紗希は紗希なのだろうとあゆみはまとめた。

「ねえ紗希、海外へ留学するの――」

 あやがグループ内を見渡しても、紗希の姿は何処にもない。釣られるように友人達も教室全体を覗うが、まるで風のように消えてしまっていた。

 そこにいたはずなのに――いや、居なかったのかもしれない。

 紗希は居て欲しい時にいて、いろんな話題を受け入れては肯定してくれる。その紗希がいない今、何だかぽっかりとした気分になって、

「……今日は、帰ろうか?」

 桂利奈が「うん」と頷き、

「かえろう」

 

―――

 

 ギターとともに、公園のベンチへ歩み寄ってみれば、紗希がぽつんと存在していた。

 見間違えかと思ったが、「あの」紗希の顔を忘れるはずがなく、緑川は「や、やあ」と

挨拶をする。先ほどまで上の空だった紗希は、くるりと緑川に視線を向け、こくりと会釈した。

「今日は、早いね」

 指定席と化したベンチへ腰を下ろし、早速とばかりにギターを傾ける。ギターをこんこんと

叩き、弦に指を乗せたところ、

 緑川の視界に、メモ用紙が乱入した。内心ビビりながら前を向いてみれば、紗希がメモ用紙を

緑川へ差し渡している。

「えっと、これ……」

 恐る恐るメモを受け取る。

 最初、緑川は「何だこれ?」と声に出してしまった――というのも、メモ用紙には日本語では

なく、英語が書かれていたからである。

 よくよく見ると、英文の羅列の下には日本語が書かれていた。

「これは……詩? ポエム……」

 ちょっと待て。

 これはひょっとして――

「……歌詞?」

 こくりと、紗希は頷いた。

「これは、日本語訳なんだね。で、これは何の歌詞なの?」

 全くもって邪念が感じられない無表情のまま、紗希は緑川のギターを指さした。

「……あ、ああ! もしかして?」

 思わずデカい声が出る。他でもない緑川のギターを指定した理由は、

「僕の、自作の曲の歌詞!」

 めちゃくちゃ明るい声が出た。紗希も、口元を緩ませながら頷く。

「あ、ありがとう……すごく嬉しいよ。け、けれど、いきなりどうして」

 紗希が携帯を操作し、ぐい、と画面を見せつける。

 

 九月 大洗学園文化祭開催予定

 

 言葉が出ない――

 もしかして、もしかして、

「文化祭の、ライブに出ろって……?」

 紗希は頷く。

「そ、そんな……僕には、メンバー、どころか親しい人はいないし、」

 緑川が、恥ずかしそうにうつむく。どうしようかなあと思考を巡らせようとして、

 ぽんぽんと、緑川の肩が叩かれる。

「え……」

 紗希の人差し指が、にこりと微笑んでいる紗希の顔を差していた。

 

―――

 

 文化祭へ向けての練習は数日に渡って続き、公園にはギターの音色とともに歌声が混ざるようになった。

 緑川はこれまで以上に感情的にジャズを奏で、紗希は歌を伝える為に唄う。初めてそれを聴いた時は、「こんな声が出せるんだ」と、稲妻が走ったような衝撃に襲われた。

 ――緑川は、自分の演奏技術を省みたり、考察するようになった。紗希も歌には慣れていない

らしく、失敗することもあった。

 それでも、その何もかもが楽しかった。九月が待ち遠しくて、文化祭が怖くなって、目の前には丸山紗希がいてくれて。

 これが欲しかった時間なんだ、と実感した。もう二度と間違えはしない、と心に刻んだ。

 

 しかし、人生とは何が起こるかわからないものだった。

 今度は緑川の預かり知らぬところで、大洗学園艦の廃艦が決定したとのことだ。それを免れる為には、現在開催されている戦車道の全国大会で優勝しなければならないらしい。

 マジかよとベンチで頭を抱えていたところ、紗希は居てくれた。

 そして、紗希は主張しない笑みを浮かばせたままで、弦に乗せた緑川の手を撫でてくれたのだ。

 ああ――

 運命を背負っている紗希の方がつらいはずなのに、強い緊張状態に陥っているはずなのに、何を決めつけて落ち込んでいるのか。僕だって男だろう、女の子を守りたい思春期野郎だろう。

「丸山さん」

 紗希がまばたきをする。

「ありがとう――僕は信じてる。大洗のチームが、丸山さんが、必ず大洗を救ってくれるって、

勝利するって」

 ギターを持ち直す。

「今から、一曲弾くよ。追い詰められても、知恵と信念と善はあなたを見捨てはしない――そんな曲を」

 紗希は、こくりと頷き、

 いつものように、曲を聴いてくれた。

 

 そして、紗希は姿を消した。文化祭を、大洗を守る為に。

 

―――

 

 大洗女子学園は次々と勝利を重ね、いつの間にか決勝戦当日が訪れる。

 戦車道には疎い緑川でも、黒森峰女学園が強豪だという話はニュースなどで耳にしている。

実際、緑川のクラスメートも「勝てるのかよ……」と半ば諦めかけていた。

 それでも、緑川は「勝てる」と信じている。何故なら、緑川の心を救ってくれた、尊く優しい人が戦ってくれているからだ。

 知らない誰かを救済出来たのだ。ならば、大洗だって助けられるはずだ――スケールも根拠も

理屈もへったくれもないが、紗希のことを信じなくて何が男だ。

 最初はテレビ中継を眺めようと思ったが――まだ緑川は男であったらしく、戦う方を選んだ。

自室からギターを持ち出し、公園へ力強く歩んでいく。

 

 奏でよう、大洗の勝利の為に。

 弾こう、紗希の力になる為に。

 

―――

 

 夕暮れまで、ひたすらに演奏したのは初めてだった。

 ジャズの中には暗さを表現する曲もあるが、今回はひたすらポジティブなテーマを選曲する。

 普段はパッと頭に思い浮かんだ曲を弾くのだが、今日だけは脳内で予約曲をぎっしり詰め込んだ。

 演奏している間も紗希を忘れたことはない。観客がいたかどうかすらも定かではなかった。

 別にいい、紗希に届いていればどうでもいい。

 曲としては終了させるが、決して演奏を終わらせたりはしなかった。自分がへこたれていては

紗希の力になれないと信じ込んでいたからだ。

 

 お前は紗希の大切にでもなったつもりか、と理性は言った。

 自分は紗希の人柄――違う、紗希が好きで好きでたまらないと本能が叫んだ。

 

 緑川は普通の男子高校生だ。だから、いつも顔を合わせる女の子のことが、自分の音楽を

気に入ってくれた同級生のことが、自分の過ちを聞き入れた上で「好き」と告白してくれた

丸山紗希に、好意を抱いてしまった。

 だから、ここまで演奏した、出来た。今度は自分が紗希を助けたいから、紗希を守りたいから、紗希に認められたいから。

 

 ――最後の曲が終わる。

 もっと演奏したかったが、指がとても痛い。頭を使いすぎて、脳がぐらぐら揺れている。

見上げるのすら億劫で、夕暮れか夜かもまるで分からない。

 演奏時間が最高記録に到達し、改めて心の中で紗希に感謝をする。また、紗希は自分のことを

手助けしてくれたのだ。

 全国大会、終わったかな――

 両目をつむりながら思考すると、控えめな拍手の音が耳に届く。

 疲れを押して、ゆっくりと前を向く。

 

 緑川の最も見たかった人が、緑川の最も見たかった表情をして、緑川の前に居た。

 伝わる。

 言わなくても、全部聞こえる。

 大洗は、もう大丈夫だと。これでライブの練習が出来るねと。

 ――そして、

 

「聴こえた」

 

 紗希は、笑った。

 

 ああ、やっぱり。

 この人は、いつも近くに居てくれる。 


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