夜の帳もすっかり落ち、二人を乗せた自転車は漸く目的地へと辿り着いた。
慣れない二人乗りという事もあり、純一の額には軽く汗が滲んでいる。そんな純一とは対照的に、代謝を活性化させる術を持たない薫は頻りに手を擦り合わせていた。
「うぅぅ~さっむぅ!さっさと家入っちゃおう」
「そ、…そうだな」
クリスマスケーキを手に、純一は立ち竦んでいた。
眼前にそびえる棚町家は御世辞にも大きくはなく、ストイックな様式であるが、細部にまで手入れが行き届いている様に見受けられた。
女子の家に上がる事は初体験でないとはいえ、幼少時から付き合いのある桜井 梨穂子の家とは訳が違う。
「……薫。薫のお母さんには、僕が来る事は伝えてあるのか?」
「え?言ってないわよ?」
「え゛」
親子水入らずのクリスマスパーティに、こんなショボ暮れた男が飛び入り参加して良いものだろうか。
緊張と不安が純一を襲う。
「薫、やっぱり僕かえ…」
「大丈夫大丈夫!お母さん、そんな事全然気にしないから!」
薫に食い気味に遮られ、帰宅の意思は尻すぼみとなった。
ここで少し、帰宅したケースを想像してみる。
自宅には自分ひとり、両親は夜遅くまで仕事でおらず、妹の美也は友人宅でお泊り会ときている。
今独りになると寂寥感に押し潰されてしまうかもしれない…。
純一は棚町家主催のクリスマスパーティにお邪魔する意志を固めたのであった。
*
薫は玄関の鍵を開け、かららと引き戸を引いて自宅へと入って行く。純一もそれに追従し、恐る恐るといった様子で棚町家の敷居を跨いだ。
入った途端、ふわと甘く優しい匂いが迎えてくれる。男っ気の無い家庭とは、こうも良い香りに包まれているのか。
「ただいま~!お母さーん、ケーキ持ってきたよー」
「あらおかえりー、随分早かったわねぇ?」
奥から、薫の声を幾らか落ち着かせた様な妙齢の声が届く。
「寒かったでしょう?早く入って……あらら?」
玄関を抜け廊下を渡りその向こう、恐らくはリビングであろうか。その扉を開け、薫の母親が顔を覗かせた。
緩くウェーブの掛かった、薫のそれよりも長く艶やかな黒髪。その綺麗な黒髪をポニーテールに結わいている。
目尻の下がった優しい目は、見慣れぬ男の子を捉えている為か、少しだけ見開いている。鼻や口元は薫とそっくりだ。
薫の少し鋭い目は父親譲りかと、場違いな感想を抱いた。
「ああ、紹介するね。彼はクラスメイトの橘 純一。ケーキ取りに行く時に偶々会ったから、連れてきちゃった!」
「は、はじめまして!ご紹介に預かりました、た、橘 純一です!!薫さんにはいつもお世話になっております!!」
薫の軽い他己紹介に、思わず背筋がピンと張ってしまった。
薫の母親は顔をふにゃと和らげ、にこやかに答える。
「まぁまぁ、はじめまして。薫の母です」
「純一が自転車だったから後ろに乗せて貰っちゃった♪」
「それで少し早かったのね。たちばな…くん、だったかしら?薫がご迷惑を掛けた様で」
パタパタと玄関の方までやってくる薫のお母さん。背丈は薫より少し低いくらいか。
美人というより、どちらかと言うと可愛らしい印象を受けた。
「迷惑だなんて…。こちらこそ、お二人のパーティに突然押し掛けてしまいすいません」
「そんな畏まらなくたって平気よ純一、アタシと純一の仲じゃない?」
「ふふ、そうよ橘くん?折角来てくれたのだし…大したものはご用意出来ないけど、ゆっくりしていって頂戴?」
「…はい!ありがとうございます!お邪魔します!」
*
「橘くん?そちらのボウルを取ってもらえるかしら?」
「はい、これですね、薫のおばさん」
「ええ、ありがとう♪」
薫の帰宅が想定より早かった為、パーティは未だ準備中であった。
「ごめんなさいね、お客様なのに手伝わせちゃって。遠慮なく手伝わせている私もアレだけど…」
「いえ、このくらいなんてことないです。他もどんどん言っちゃって下さい!」
「もう、調子良いんだから!」
普段の自分への扱いと違い過ぎるとぷりぷりしている薫はさておき、純一はすっかり棚町家に馴染んでいた。
流石は薫の母親で、人との付き合い方が巧みであった。容姿端麗な妙齢の女性に巧妙に扱われ、純一は順調に懐柔されていった。
「はぁ~やっぱり男の子は頼りになるわぁ♪みての通り、ウチは男手がいないじゃない?ちょっと重たい物とかを運ぶ時とか大変なのよ~」
「た、確かに、これは女性にはキツいですね…!」
純一はキッチンから食卓へ、大きな土鍋を運んでいた。鍋の中は結構な量の具材が盛られている。
「お母さん…クリスマスパーティに鍋なの?」
「いいじゃない♪折角橘くんも来てくれた事だし、同じ鍋を飯をつつきたいじゃない?」
「それを言うなら同じ釜、でしょうに…なんかゴメンね?純一」
「いやいや、鍋、最高じゃないか!」
「それは良かったわ♪ それでは、漸く準備も済んだところで……せーの?」
「「「メリークリスマース!!!」」」
こうしてクリスマスパーティ…と言うより、デザートのケーキが粛然と控えているただの鍋パーティなのだが、どちらにせよ純一はこの状況を心から楽しんでいるのであった。
*
鍋にどっかりと盛られていた具材を順調に消化し、追加の具を投下しようとする薫母は、何とは無しに純一へ語りかけた。
「今更だけど橘くん、今日はウチへ来て良かったの?」
今日はクリスマスイブだというのに…、そう言外に含まれている様子だった。
それを受けた純一は、今日という日に自分がどういう目にあったのか、思い出してしまった。
忙しなく動いていた純一の手と、薫のモクモクという咀嚼がピタリと止まる。
薫との遭遇時にはつい「なんでもない」というニュアンスの言葉を言ってしまった純一だったが、その一方でなんとなく薫には見抜かれているような気がしていた。
多くは踏み込まず、優しい距離で程よく接してくれる薫に、闖入者である自分をこうも暖かく迎え入れてくれた薫のおばさんに、虚言を吐く事なんて出来なかった。
「実は今日、クラスの女の子と待ち合わせをしていたんです」
「あら!」
「でも、すっぽかされました」
「……あら…」
「……」
薫は視線を落とし、何も言わなかった。
普段は飄々としているというのに、人の機微には妙に敏い薫の事だ。やはり察していたのだろう。
先程までの団欒がずーんと重い空気に包まれる。
物理的にも雰囲気的にも明るい部屋に、サッと暗い陰が差した様だった。
自分のせいで…これではいけない、と純一は出来る限りの虚勢を張る。
「いやでもこうなるかなーなんて思っていたんです!本当です!だからそこまで気にしていないというか、はは、は…」
だんだんと語尾が弱くなっていく自分に嫌気が差した。
この場くらい最後まで貫き通せよ…と心中で叱咤するが、弱弱しい苦笑のまま薄く細い溜息が漏れるだけだった。
「純一」
薫の声が静かに鼓膜を震わせる。
そのままのトーンで、優しく続けた。
「辛かったね」
今日は薫にやられっぱなしだ。
いつもだったら常の通り「ドンマーイ!」等と言いながらバシバシと背中を叩いてくるであろう事案なのに、こんなにも優しく、こんなにも真摯に、気持を汲んでくれるなんて。
心なしか視界がぼやけ、鼻の奥がツンとする。そんな状態でありながら、純一の表情は晴れやかなものだった。
「…なんだ薫、らしくないじゃないか」
「…!」
その純一の表情を見て、薫は人当たりの良いニッコリとした笑みを浮かべた。
「バッカねー!あんたにはアタシがいるじゃない♪」
「…そうだな」
「ちょっと!?そこはやんわりと否定しながらも内心満更でも無いですーって顔をするところでしょ!」
「僕は満更でもないのかよ!」
先の辛気臭い雰囲気があっという間に、学校に居るような、常の空気へと変えられてしまった。
本当に、薫には敵わない。
「薫」
「んー?」
「ありがとう」
「どういたしまして♪」
言葉少なくとも通じ会う二人。
出会ってまだ一年と経っていない仲ではあったが、目に見えている以上に繋がっている二人であった。
「んん~♪」
知らず二人の世界に浸っていたところ、薫母の満足そうな含み笑いが、それぞれの意識に割り込んできた。思わずハッとする二人だが、つい今しがたの事を思い出すと、図らずも顔に熱が籠る。
純一はそろ~りと薫母へ顔を向け、しかし薫は対称的にそろ~りと薫母から顔を背けていた。
二人とも表情と動作は酷似するも、行動原理が違った様で。
二人のやり取りを一通り観ていた薫母としても、その様子が殊更に可笑しく、微笑ましく、そして羨ましくあった。
「橘くん?」
「はっはい!?」
柔和な表情のまま、薫母は純一に話し掛ける。当人の意図に関わらず、どのような冷やかしを受けるのかと純一は身構えた。
薫母は柔らかな口調のまま続ける。
「自慢じゃないけれどね?」
そう前置きして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ウチの薫はね、かなり大雑把なところがあるけれど、頑張り屋で、しっかりしてて、不真面目だけど変なところ真面目で、自分にも周りにも結構厳しくて…」
それでね、と少し間を置いて
「すっごく優しいのよ」
見事なまでの娘自慢であった。
とは言え、純一がこれ迄薫と過ごしてきた日々の事を振り返ると、正しくその通りだなと思った。
頬に朱を宿したまま明後日の方向に目を向けていた薫であったが、母親の唐突な娘自慢に堪らず、
「やめてよ恥ずかしいから~!」
思わず立ち上がっていた。
母親と純一とのやり取りの裏で、薫は母親の好奇の目が自分に向いてもすぐに切り返せる様、心中で仮説と対応を模索していた。
しかしこの、普段の生活ではまず出てこないであろう賛辞の数々。虚を突かれ、薫は面映ゆくも慌てていた。
「でもね、橘くん」
ここで少しだけ、薫母の声のトーンが下がった。
「薫は少し、頑張り過ぎてるの」
「そんなこと……」
「薫が支えてくれるから、つい甘えてしまっているのだけど…。家の事だって、夜御飯もたまに作ってくれるのよ?」
先よりも真剣な眼差しで、薫母は想いを綴る。
「けれど薫はまだ中学生。あなた達ともっと遊びたいだろうし、我慢させている事もたくさん有ると思うの…。でも薫の頑張りも、私たちの生活を支えているのは事実。お母さんがもっと、なんでもこなせるスーパーマンだったら良かったのだけど……。」
「そんなことない!」
薫が声を荒らげる。
「お母さん一人で頑張って、私は好き勝手だなんて、出来る訳ないし、するつもりもない!確かに、少し我慢してる事も有るよ…でも、二人で生きていくって決めた時から、そんなの覚悟出来てる!」
薫の必死な訴えを、薫母は笑顔で、ただ少し困った笑顔で見つめていた。
純一は二人の話をずっと、静かに聞いていた。
薫母の想い、薫の想いは、既にお互いの事を充分に支え合っていると思えた。ただ気になったのは、薫の言葉であった。
今日日の中学生が、「覚悟」とか、「生きていく」等という言葉を使うだろうか。少なくとも純一は、ふざけ合いの仲でしか言った事はなく、薫の本気の想いと、薫の背負っているものの大きさを、その時初めて実感した。
ふと薫母へ目を向けると、先と同じ、少し困った笑顔の薫母と目があった。
母親を必死に支えようとする薫、薫に少しでも楽をさせたい薫母。
僕に出来ることは、何か。
「大丈夫です!!」
「!」
「?」
薫は純一の突然の発言に驚き、薫母は首をかしげている。
「おばさんは今まで通り…いや、今まで以上に薫を頼ってください!」
「…でも、…」
「薫!」
「っ…なに?」
「お前は僕が支えてやる!」
純一は薫の家族ではないし、一介の中学生が他所の情事に首を突っ込むのは、烏滸がましく思えた。それでも、薫が一人で母親を支えたいという強い意思はびりびり伝わってきた。その想いを純一なりに受け止め、純一なりに出した応えだった。
ただ……
「「…」」
棚町親子は二人してポカンとしている。
純一も特別何かしらの反応を期待した訳ではないが、この反応は想定外だった。見切り発車だったかと、何か自分でフォローを入れようとしたその時、
「よ…ヨロシクオネガイシマス…?」
僅かばかり頬を朱に灯している薫が、おずおずと手を伸ばしてくる。
しおらしい薫から差し出された右手を、ゆっくりと握る。やんちゃで男勝りな薫の手は、思っていたよりずっと華奢で柔らかかった。
「こ…こちらこそ?」
「……うんっ!」
頬に少し赤みを残したままにっこりと笑う薫。
それを見てちょっと照れ臭くなり、頬をぽりぽり掻いている純一。
そしてその仲睦まじい様子を見ている……
「「ハッ!?」」
二人してバッと薫母に目を向けると、薫母はテーブルに両肘を突き、両手に顎を乗せたままの体勢で、今日一番の満面の笑みを浮かべていた。
そのまま鼻歌でも唄い出しそうで、ゆっくり左右に揺れている。
そしてウインクを飛ばしながら、純一に言うのだった。
「薫をヨロシクね?橘くん♪」