「それにしたって、2年は空け過ぎじゃない?」
「……それは僕も全面的に悪いと思ってる」
「ホントよ全く…。何回も誘ったのに、頑なに断っちゃって!」
2年以上前に見た棚町家の玄関口は、相も変わらずストイックな様相を呈していた。
当時、薫母に薫をヨロシクされた純一と薫はあの後、なんとも言えないフワフワとした心持のまま解散した。
家族以外の女性と初めて食べた鍋は美味しかったし、あのケーキも格別であったと記憶している。
ただ、そこへ向かった経緯、クリスマス会途中での自身の不甲斐無さ、また自分が吐いた勢いばかりの発言を後日思い出した時は、思春期男子の純一にとってそれはそれは耐え難い羞恥の念に苛まれたものである。
それはもう、薫の家を避けてしまうくらいには。
とはいえあの2年前。
薫だけでなく、薫母にも救われた事は紛れもない事実。
些か時間が経ち過ぎている気もするが、その恩を返したい気持ちも勿論有る。
「…よし、行くぞ薫っ!」
「お、オッケー!頼りにしてるわよ純一!」
こうして、純一は二度目の棚町家への訪問を果たすのであった。
あの時とは違い、今は恋仲となった薫に連れられて。
***
「た、ただいま~…」
「お、お邪魔しま~す…」
住み慣れた自分の家であるにも拘わらず、薫の動きはよそよそしいものであった。落ち着かない薫の視線はふと足下に落ち、そこに見慣れない男物の革靴を捉えた。
それは、玄関扉から廊下を抜けて向こう側、そのリビングに、自分の新たな父親になるかもしれない人間が居るという事実の確証と成り得た。
先まで落ち着きを取り戻しつつあった心も、再度忙しなく震え始める。
純一も純一で、永らく会えていなかった(意図的に避けていた)薫母に会う事もあり、その緊張の為か、マリオネット宛らのカクカクとみっともない動きになっている。
それも束の間。
玄関を入って廊下の間、当時と大きく変わっていない様子に併せ、女性のみが住まう特有の甘い香りに鼻梁を撫でられて、懐かしいような落ち着かないような心地に、じんわりと意識を奪われていた。
その意識ごと、腕を引かれてハッとする。
「……ちょっと!なにボンヤリしてるのよ!」
「ああ、いやその、久しぶりに来たな~とか、良い香りがするな~とか思って。ごめんごめん」
「香り!?あんたこの期に及んでなにレディの匂いなんで嗅いでんのよ!純一のすけべ!」
「仕方ないだろう!正直僕も色々といっぱいいっぱいなんだよ!」
「う……そうよね、もとはと言えば私が無理して連れてきちゃったもんね…。しょうがない、今のうちにしっかり堪能しなさい」
「ああ、ありがとう……じゃなくて!」
「なによー、物足りないって言うの?…な、なんだったら少ーしくらいなら、ち、直接嗅がせてやってm」
「え?」
「純一のすけべ!なんで食い気味なのよ!」
「悪かったって!だって薫良い匂いするし…」
「えっ」
「あっ」
「「………」」
「ちょっと薫玄関で何騒いで……あらら?」
要らぬ羞恥の空気に纏わり付かれながら、およそ2年振りの再会を果たした、純一と薫母であった。
***
「薫~?橘くんを呼ぶなら一言言いなさいよぉ~!」
2年振りに見た薫母は当時と変わらず、薫とは異なる柔和な瞳に、形の良い眉を八の字に寄せて、とてとてと廊下を渡って来た。
艶やかな黒髪は薫と同じく、ふわふわとそのクセっ毛を強調している。長さは前に会った時と比べ、肩口にまで短く切り揃えられていた。
「お母さんごめん!これから会う事を考えると緊張しちゃって、伝えるのすっかり忘れてた!」
「んもぉ!お母さんは良いけど、あの人もビックリしちゃうじゃない~!」
「あはは~…だよねぇ~」
「全くぅ……お久しぶりね、橘くん?」
母娘のやり取りに入り込めず、どのタイミングで話を切り出そうかとソワソワしていたところ、薫母から突如水を向けられた純一。その純一の口からは、堰を切ったように言が濁流の如く溢れだした。
「すいません薫のおばさん!あの時も突然お邪魔してしまったのに、今回もこんな時にまた来てしまって!たっ、大変ご無沙汰しております!あの!あの時は本当にお世話になりました!あの時の事は、本当に感謝しております!お陰さまで辛かったあの頃もすぐに立ち直る事が出来ましたし!とはいえ少し前まではまだクリスマスにトラウマと言いますか苦手意識を持っていてまだそれを拭いきれて無かったのですが!と言うかそんな事はどうでも良くて!こっ、こんなにもお礼のご挨拶が遅れてしまって本当にすいませんでした!薫さんにも大変お世話になっておりまして!その今日は本当にこんなタイミングで来てしまって!大変ご無沙汰して」
「ちょっ、橘くん落ち着いて!?」
「純一!?話がループしてるわよ!?」
純一の混沌極まる吐露は、状況も相まり、取り敢えず塞き止められるのであった。
***
「でも元気そうで何よりだわ、橘くん」
「は、はい。この通り、ピンピンしております」
棚町母娘に宥められ、純一は少々ながら、落ち着きを取り戻していた。
ただ…
「ほーんと、その元気な姿、もう少し早く見たかったかなぁ~」
「そうよね~、別に恥ずかしがる事なんて無かったのにね~」
「ねぇ~、お母さん薫からしょっちゅう話を聞かされてたのになかなか会えなくって、悶々としてたわ~」
「お母さんが純一を呼べ呼べって言うから何度もうちに誘ったのに、いつも適当にはぐらかしちゃってさぁ~」
「……返す言葉もごさいません…」
棚町母娘の薄く開かれた双眸から覗く、粘りつくような視線を一身に受け、純一は座り心地の悪さをひしひしと感じていた。
とはいえ、自業自得なのであるが。
二人のじと目に耐えきれず視線を落としていた純一であったが、ふと薫母の表情がふわと和らいだ。
「ふふ、冗談よ♪久々に会えて嬉しいわ、橘くん」
その優しい声音に思わず顔を上げると、薫母は初めて会った時と時と同じ様に、人好きする柔和な笑顔を浮かべていた。
その面持ちを見て純一も、自然と笑顔になっていた。
全身を覆っていた強張りも、まるで剥がれ落ちたかの様に和らいでいた。
そうして見つめ合っていると、ふと薫母の瞳に、さっきとは異なる光が灯り始めた。
その眼はまるで、コイバナに花を咲かせる女子高生のような…。
「それはそうと橘くん」
「はい?なんでしょう?」
「今日ここに来て貰ったって事は、ここで何が行われるか知った上で来てるのよね?」
「は…はい、知ってます。少し前に薫に話を聞いて、それで…」
「今日、私たちの家族になるかもしれない方と出会うあなたは、どのような立場で会ってくれるのかしら?」
試す様な口調でありながら、その実全て見透かした上で敢えて言わせようとしてくる薫母に、純一も正々堂々と言葉を返した。
「はいっ!薫の傍で薫を支える、薫の彼氏として、今日はこちらへ参りました!」
その言葉を聞いた薫母は「宜しい!」と喜色満面のまま、純一と薫をリビングへと案内するのであった。
***
「どうした薫?さっきから妙に大人しくないか?」
「ううぅ…恥ずかしいのよぅ…ばか純一」
「? 何が?」
「あんたねぇ…その天然ジゴロはなんなのよぅ……まぁそれがあんたの良いとこであり悪いとこと言えなくもないけどさぁ…ブツブツ」
「なにブツブツ言ってんだよ、ほら行くぞ薫」
「あっ、分かってるわよっ!」
純一に手を引かれながらリビングへと続く廊下を過ぎてゆく。
純一が傍に居てくれたら大丈夫。
繋がれた手を見て、大きな掌を感じて、理由も無くそんな事を思ってしまう薫。
さあ、新たな父親となる人物との、顔合わせが始まる。