どれほど眠っていたのか、よく分からない。眠り始めた時間が定かでないのだから、仕方ないことだ。
気が付けば、夕方だった。
差し込む夕日が眩しくて、シーツから抜け出した私は、そのままカーテンを閉めた。
その後の行動はよく覚えていない。私個人、寝起きは得意でない。見ていた夢は幸せなものだった気がするけれど、ぼやけていて思い出せない。忘れてしまうのがほとんどで、それはいい夢も悪い夢も同じだ。
ようやく頭がはっきりしてきた頃には、いつの間にか元の服に着替えて、アグリアの眠る部屋に戻って来ていた。彼女はまだ、起きる気配すらない。心地よさそうな寝息が聞こえる。
これが現実であったとほっとする一方で、夢でなくて悲しいと思う気持ちが湧いて出てくる。
と、部屋に誰かが入ってきた。
振り向けば、そこには私の仲間がいた。今の、現実を共に歩く、強くて、強くて……とにかく強い仲間だ。
「もう、いいか?」
「……うん」
ルドガー・ウィル・クルスニク。彼は、アグリアを起こさないように、小声で私に話し掛けてくる。私が起きるまで待っていたのだろうか。口ぶりから、どうも今までの私の動きを理解しているような節がある。その彼の、悲しんでいるような眼差しが、私の心を締めつけた。
分史世界に侵入し、カラハ・シャールに出て、情報を集めている最中にドロッセルに捕まって。この世界で私は、「抜け出し癖のあるアグリア専属の侍女」となっていて。
その私の認識に、彼から聞いた話を加味する。
ルドガーたちは、この世界の私に捕まり、共にこの街の色々を見て回ったそうだ。
だが、どこも空振りとのこと。
しまいには、街の外に世界が無い、とまで言ってきた。街の外へ行こうとすると、まるで見えない壁でもあるかのように“何か”に阻まれるのだそうだ。
“何か”が、人が遠くへ行くのを拒んでいるかのように。
街の人たちですら、無意識に、街の外へ行こうとしないらしい。
つまり、時歪の因子があるとすれば。
「やっぱり、アグリアが……時歪の因子?」
「……ああ。間違い無い」
「そっか……」
元から、薄々、勘付いていたことだった。
性質上、正史世界と最も異なるものや生き物に憑き易いという「ソレ」は、私の予想通りであった。ルドガーが言うのだから、絶対そうなのだろう。
この分史世界の時歪の因子は、アグリア。化粧をしている時に本人から聞いたのだが、この世界で彼女は、一人になっていた所を領主ドロッセルに拾われ、お嬢様として生きているのだとか。
一度、別の分史世界でアグリアを見たことはある。あの時の彼女は、仕事仲間だった。その世界はもう壊してしまったが……今思えば、あの時、エルを連れて行けば、アグリアを正史世界に持ち帰れたのではないだろうか。あの時の時歪の因子は彼女でなかったし、正史世界でのアグリアは既に死去しているのだから、可能ではあっただろう。ただの自己満足になるだろうけれど。
話しを戻して。
本音を言えば、この分史世界の時歪の因子だとしても、アグリアは出来れば壊したくなかった。例えそれが、私の甘い考えから来る我儘だとしても、本心はそうなのだからしょうがない。
こんなことを言っていられないのは分かっている。これはやらなければいけないことだ。エルが居ようと持ち帰ることは不可能であるし、そもそも時歪の因子を壊さなくては、私達も正史世界に帰れない。結局、彼女とは、もう二度と同じ世界で住めないのだろう。彼女を失った時から、これは定められた運命なのだと思う。
「……そう言えば、皆は?」
話を変えたくて、ふと、どこにもいない仲間たちを思い出した。
「まだこっちの世界のレイアに連れ回されてるよ。久しぶりに会えたのが嬉しいのか、だいぶテンションが高い」
「あはは……なんか、ごめん」
「いや、おかげで邪魔されずに済みそうだ」
ルドガーは、アグリアのベッドにゆっくりと近づきながら、小さく呟いた。その横顔に、揺ぎ無い決意を滲ませながら。彼としても、邪魔はない方がいいのだろう。誰だって、望まない戦いはしたくない。邪魔の無いまま、時歪の因子を破壊する……つまりは、この分史世界を破壊する。それができるのはルドガーだけであり、同時に、彼に課された残酷すぎる使命だ。
「……ねぇ、ルドガー」
「ん?」
よぎった想いは、慰めなのか、罪悪の意識なのか、逃避なのか、なんなのか。
「ちょっと考えちゃったんだけどさ、骸殻の時の武器って、私、持てるかな?」
「なんでだ?」
「持てるんなら、私がやろうかなって思って。骸殻の武器なら、私でも時歪の因子、壊せるでしょ? ……多分、ね?」
本音はアグリアを壊したくない。が、これは我儘で、実際はやらねばならない。
ならば、この世界を、私の手で、壊したい。
ならば、アグリアを、私の手で、壊したい。
結局のところ、今の彼の気持ちも、ついさっき私に浮かんだ想いも、永遠に分からないのだとは思う。けれど、でも、だからといって、ルドガーだけに壊させるのは、なんとなくダメな気がする。理由も理屈も分からない。それでも、「偏った思い」だとしても、そう思ってしまったのだ。
彼は根が優しいから、私の思いも一緒に乗せて一人でやる、と言ってくるだろうし、その光景は容易に想像できるのだけれど。
「だ、だめならいいんだけど……」
「……ほら」
「……え? い、いいの?」
「試すだけならな」
彼は骸殻を纏い、世界を壊す槍を手にすると、そのまま私に渡してきた。私の想像の一枚上手をいく、優しさ。これこそが、彼の優しさの神髄。
あるいは、感触を知らせ、重さを知らせ。全てが終わってから、作り出した破壊の槍に私の思いを乗せていました、とかいうつもりなのだろうか。もちろん、私としては、興味本位で言ったわけではないし、軽い気持ちで頼んだわけではない。彼に私の思いの丈が伝わっておらず、なにかしておけばどうにかなる、と思ってくれたのだろうか。
甘い。これでどうにかなりそうな私も十分に甘いけど。
黒々しい鈍い輝きと、鮮やかな力の奔流を象徴する様な金色の装飾に、しばし圧倒される。呆けたままというのもアレなので、気を引き締めて、恐る恐る、といった風に槍を握ってみた。
「……」
結論から言えば、触れた。握ることができた。案外軽いな、とも思えた。
……のだが、結果や感想を言わなきゃいけないのに、私の口からは何も出て来ない。体が凍ったように冷えていくし、固まっていく。視線を、槍から離せず、ただただじっと、見詰めてしまう。
これが、世界を破壊する武器……。
「……レイア、なんなら部屋の外で待っててもいいんだぞ」
呑まれていることに気が付いてくれたのか、何も言えなくなった私を彼は気遣ったが、私はそれを力なく拒否した。恐怖によって凍らせられた私だったが、せめて、その最後までを自分の目で見届けないといけないとは思う。それが筋というものではないだろうか。
改めてベッドに近付いて行くルドガーを眺める。私の手が、震えだした。すでに何回も世界を壊してきたというのに、今回のこの世界が壊れるという現実に、今更になって寒気を感じる。これで、世界を破壊する責任を分かったつもりでいたのだから、自分の考えは、ここにきても酷く甘いものなのだと痛感した。
と同時に、彼はあの槍で、世界を壊す責任を背負ってきたのかと理解する。今まで、ずっと。おそらくはこれも、私が考えるよりもっともっと大きなものだろう。
いつだって私は、甘いんだ。
甘やかしてしまうんだ。
他人にも、自分にも。
「アグリア……」
おそらくはもう会えないだろう彼女の名前を呼ぶ。返事をしてもらいたかったわけではないので、だいぶ小声になる。
彼女の声はもう、永遠に聞けないだろうなぁ。あの時のアグリアの言葉が最後になるのか……少し残念。
なんていう回想も、甘かったようだった。
「レイ、ア……」
瞬間、息が上手く吸えなくなる。アグリアの口から、私の名前が零れたのだ。
十中八九寝言だろう。絶対に寝言のはずだ。そう思わなければ、返事をしたところだった。
それでも襲ってくる駆け寄りたくなる衝動を、震える手を強く握ることでなんとか押さえた。一瞬、掌に爪が食い込む痛さが脳天を突き抜けたけれど、これからアグリアに訪れる痛みを思うと、気休めにもならない。
「ごめん……ごめんね、アグリア……」
彼女に決して聞こえない声量で、私は呪詛を紡ぐように、彼女の名前を口にする。ここは、なんとしても自分に厳しくしよう。甘えてはいけない。絶対に聞こえない声量を心がけなくてはダメだ……ダメだ……ダメだ。
押し寄せる情けなさと切なさは、先程栓をした涙の泉を刺激し、栓を跳ね退ける。
涙が溢れ出した。もう止まらない。止めようとも思えない。嗚咽は堪えようとしているけれど、こちらはなるべく小さく抑えるので精一杯だった。
私が自分自身の嗚咽と戦っていると、唐突に、音が聞こえた。
ベッドに槍を突き刺す音。
シーツ越しに、硝子が割れる音が一度だけ、小さく鳴る。
それがきっかけであるかのように、だんだんと、時計の時を刻む音が大きくなり始めた。
つられて何かが壊れる音が遠くから聞こえ、それは互いに共鳴するかのように響き合い、こちらに迫りながら音量を大きくしている。
そして、世界は割れ行く。
視界が一瞬真っ白になり、私は眩しくて目を瞑る。
私が次に目蓋を開けた時にはもう、元の世界に戻っていた。