五文字事件   作:ふらみか

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一日目

 突然だが、現実を舞台に置き換えてみようと思う。

 舞台上は世界そのもので、そこでは様々な物語が繰り広げられる。

 例えば、将来のために勉学に励んだり。汗を流して部活の仲間と苦楽を共にしたり。気になる異性とかけがえのない時間を送ったり。

 物語を展開していくのは、役者と、その物語を構成する関係者だ。

 役者は言うべき台詞に込めるべき感情を込め、物語の中で喜怒哀楽を表現していく。関係者はそれに合わせ、音楽を奏でたり、光に色を付けたりする。

 舞台上で繰り広げられるそれらはまさしく薔薇色であり、灰色を望む俺からしてみれば、眩し過ぎるものだ。

 また、役者や関係者と同時に薔薇色の時間を送る者は、同じように舞台に立ち、物語の中に入り込む。時に役者を支える役者として、時に舞台上の傍観者として。

 役者であろうが関係者であろうが傍観者であろうが、薔薇色になれば、喜怒哀楽を物語の空気に沿って噛み締められる。それによって、薔薇色は一層深まるだろう。

 では。

 灰色の俺は、どこに居るのだろうか。

 答えは簡単だ。

 俺は、観客席で、舞台を眺めている。

 舞台が明転すれば、自然と客席は暗転する。舞台で広がる物語を、よりよく見せるために。客席はいつまでたっても明転しない。物語が終わればまた別の物語が始まる。

 静かに、それを永遠と眺め続けるのが俺だ。

 舞台では役者たちが喜怒哀楽をその場で表現している。当たり前だ、当事者なのだから。嬉しいことは共に喜び、腹立たしいことは共に声を荒げ、悲しいことは共に涙を流し、楽しいことは共に踊り狂う。まことに薔薇色である。

 俺はそれを眺め、全てが過ぎ去ってから、ようやくそれらが何か理解するのだ。俺には彼らのリアルタイムの感情を感じ取ることはできない。当事者ではないから。物語の側にあるさまざまな要因を掴み、それでようやく予想することができる。あの時はこうでああで、なるほど、こういう気持ちだったのかも知れない、と。

 正直、これは疲れる。

 そこまでして読み取る程の感情がそこにあるのか、と思ってしまう。

 読み取って何か得したことがあるのか、と思い返してしまう。

 だから俺は、舞台から降り、観客になったのだ。

 ただ眺め、舞台で繰り広げられる物語をBGMにして自分の世界に入り込む。何も考えない。

 これを怠惰と捉えるか、休息と捉えるか。判断は第三者に任せるが、まぁ、怠惰だろう。

 というのも、客席と舞台に大きな隔たりは無いからだ。

 いつだって、観客は舞台に上がれる。上がっていい。上がろうともしないのは、怠惰なのだ。俺がそうしない理由は簡単、関わるのは面倒だからだ。俺についての理由は、どんなときでも簡単だ。

 逆に、いつだって、舞台上の人間は客席に下りていい。疲れたら、面倒になったら、自分を守りたくなったら、舞台から下りていい。

 そちらの場合は、怠惰ではなく、休息だろうな。

 なんて呑気な思い付きをしている間もまた、舞台から何人かが、休息をとるために客席に移る。入れ替わるように、何人かが舞台に上がって行った。ごくろうごくろう。

 繰り広げられる物語を聞き流しながら、俺は目を瞑る。このまま眠ろうと思ったが、案外舞台を照らす光が煩わしい。

 仕方ない、と俺は席を立つ。

 薔薇色の舞台と反対の方向、ホール出口へと向かう。

 そこがまた、灰色だと信じて。

 

 

 

 

 

 一日目

 

 なんてことのない月曜日の朝だ。

 初夏の上がり始めた気温と眠気に負けぎみの身体を無理やり動かし、俺――折木奉太郎は重い足を運んで、ようやく学校の昇降口に辿り着いた。

 二年になり、一年の時に使っていた下駄箱とは別の下駄箱となったが、未だに意識的に身体を向けないと前の下駄箱の方に足が向かってしまう。さすがに夏休みに程近い今日、こんなことを思うのはどうかと思うのだが、実際違和感が拭えないでいるのも事実である。

「あ、来た来た! ホータロー!!」

 俺が上履きを履き、教室に向かおうとしたところで、廊下側から福部里志がやってきた。見て分かるレベルで興奮している。少し嫌な予感がした。

「おはよう、ホータロー!」

「ああ。朝から元気だな」

「さっそくで悪いんだけどさ、面白いものがあるんだよ!」

 前言撤回。嫌な予感しかしない。というのも、前方の掲示板に人だかりが見えるのだ。

「もしかして、あれか?」

「さっすがホータロー! 察しがいいね!」

 誰だってわかるだろう。

「話はそれだけか? じゃ、俺は行くからな」

 面白い、というだけでは関わる必要性は感じられない。あんなあからさまに、「ここで何かが起きていますよ」という場所に出向く気も、そもそも起きない。俺の主義「やらなくていいことはやらない、やらなければならないことは手短に」のことは、こいつももう分かっていると思うんだが。

「待った待った! 面白いって言うのは、なにも喧嘩とかそういうんじゃないんだ! ホータローも関わった事件だよ!」

 俺が関わった事件? 関わらせられたの間違いじゃないか?

 ……いや、だからといって、自分から話題の中に行く必要はないだろう。

「そうか。じゃあな」

「見るだけ、見るだけだから! どうせ通る道じゃないか!」

 確かに、教室に向かうには、あの掲示板前を通らなければならない。迂回するなんていう案もあるにはあるが、ここは別にそこまでして回避しなければならない物でもないだろう。気に留めなければいい話だ。やらなくていいことは、やらない。

「……見るだけだぞ」

「そうこなくっちゃ!」

 里志に引かれながら、俺は掲示板の人だかりの一番外側で足を止めた。わざわざ人だかりをかきわけてまで見に行く気は起きない。

 掲示板には、大きい方眼紙を使って一枚の手作り壁新聞が掲示してあった。壁新聞部が掲示したのだろう。早朝からご苦労なこって。

「なんだ、あれ」

 俺の目に入ったのは「あの事件、再びか!?」の見出しだけだった。記事の内容までは、ここからでは読めない。が、完成度は高そうだ。普通の新聞を少し大きくして張り付けたような、それくらいの出来の良さに見える。見た目だけで言えば、だが。

 俺は再び壁新聞部に、朝からエネルギー消費の大きい活動に敬礼した。

「ふっふっふ……。ホータロー、驚くなかれ。なんと、あの『十文字事件』の再来さ!!」

 横から似非活劇ナレーションが聞える。里志の言動は時に実際の匙より物事を大きく見せてしまうから、あまり真に受けなくていい。

「……いや、待て。お前今、十文字事件と言ったか?」

 十文字事件。

 これは去年の文化祭にて起きた連続窃盗事件のことだ。詳しいことは省くが、その犯人が誰か分かる俺には、この時期この日に同じような事件を起こす必要性を感じない。あれには特別な目的があった。事件そのものも完結している。被害にあった物品も返された。ということは、模倣犯か愉快犯の仕業だろう。

「壁新聞部から盗まれたるは『赤いサインペン』! 残されたのは怪盗による犯行声明カード!」

 里志は仰々しそうに語る。

「でも今回は、“十文字”じゃなくて“五文字”らしいけどね。名付けて……怪盗五文字による『五文字事件』!!」

「そうか。そいつは大変だな」

「……それだけ?」

「他に何を言えばいい」

「あの時捕まえ損ねた奴がかっ! とか」

「どこの刑事だ、それは」

 里志達には十文字事件の全てを語ったわけではないから、こいつがそういうのも分からないでもない。これは千反田も然りだ。あの時は宥めるのに苦労した。とはいえ、皆、俺が真相に辿り着いているということは気が付いているだろう。尋ねて来ないのは、皆の気遣いか。ありがたやありがたや。

 俺はあの事件のことを詳しく話すつもりはない。もちろん、今は、だ。時が来れば、話すかもしれない。未来は誰にもわからない。いつかは時効がくる。

 一息吐いてから、模倣犯か愉快犯なら、どうせ勝手に終わるだろう。と言おうとしたところで、里志が食い気味に尋ねてきた。

「で、ホータローはどうする?」

「どうする、とは」

「言わないと分かんない? 犯人探しをするのかどうか、ってことだよ。僕としては、是非あの時のリベンジをしたいところなんだけどね」

 勝手に終わることを想像してる奴に言うセリフか、それは。

「リベンジも何も、あの時は文集のためにやっただけだ。今回は文集も関係ない」

 よって、これはやらなくていいことだ。

「文集のため、ね。まあいいけど、今回のこれ、結構模倣しているっぽいよ。犯行声明カードとか、あの時とホントにそっくりらしい」

「だからなんだ。俺には関係ないだろ」

 これ以上ここに居ても仕方ない。俺は再び教室へと向かう。俺が歩きだすと、里志もそのまま着いてきた。

「でも無関係とは言えないでしょ?」

「真相は分かってない(ことになっている)んだ。あの時の文化祭参加者のその他大勢となにも変わらん」

「ふーん」

 なんだその顔は。気味悪いぞ。

「まぁ、そうかもしれないけどさ。一番真相に近付いたのがホータローなのも事実だよね?」

「しつこいな。やらんと言ったらやらん」

「そっか、そりゃ残念。久しぶりに楽しくなりそうだったんだけどね」

 こいつの言うように、今日の今日まで目立った騒ぎもなかった。平和でなにより。そういう視点で見れば、怪盗五文字は罪作りなやつだ。

 俺たちが階段に差し掛かると、向こうから見知った顔が降りてきた。

「おや。おはよう、福部君に折木君」

「おはようございます、田名辺先輩!」

「どうも」

 三年の田名辺治朗だ。彼が、あの十文字事件の犯人であることは秘密にしている。里志たちも、おそらくそこまでは気付いていないはずだ。まぁ、隠す必要はないのだが、話すにはせめて当事者の了解を得たいとは思った。内容が内容だからな。まぁ、簡単に了解しそうな人たちだが。

「折木君、僕じゃないからね?」 

「はい?」

 急にそれだけ言われても何が何やら……ああ、今起きてるやつのことか。でも今は里志がいるんだから、そういうことは言わなきゃいいのに。

「なんのことですか。会っていきなり変な事言わないでください」

 一応フォローしておくか。後々面倒になるのは嫌だからな。やらなければいけないことは手短に、だ。

「……あ。ああ、そうだね。なにか勘違いしちゃってたみたいだ。ごめんごめん」

 向こうもそれに気付いたようで、今更取り繕っている。怪盗十文字でもこういう一面があるのか。

「ホータロー、何のこと?」

「知らん。勘違いだって言ってただろ」

「まぁ、そうだけど……田名辺せ」

「もう行くぞ里志。では俺たちはこれで」

「あ、待ってよホータロー。田名辺先輩、ではまた!」

「ああ、うん」

 手短に終わらせるのも省エネのコツだ。……田名辺、そんな「借り一、だね」みたいな顔をされても困りますぜ。

 A組前で里志と別れると、なるほど確かに学校は事件によってざわついていた。こうなれば、五文字事件はしばらく話題の種になるだろう。……できればあの好奇心の猛獣が興味を持たなければいいんだが、無理だろうな。放課後は少し覚悟しておくか。

 

 

 

 放課後、俺が古典部部室で読書をしていると、あの猛獣が豪快に扉を開けた。

「折木さん、折木さん!!」

「……来たか」

 今日は里志も伊原も大日向も来ないと事前に知らせが入っている。この強敵千反田える相手に、俺一人で挑まねばならないのは、少々つらい。

「こんにちは、折木さん!」

「ん」

 こんなときでも挨拶をするのは千反田の性格ゆえか。本当に律儀なやつだ。

「既にお分かりだと思いますので、省きます!」

「省く! その言葉は本当に素晴らしい。そのまま全て省いてくれ。俺は読書をしたい」

「だめです! だって私、こんなにも気になっているんですから!!」

「そこをなんとか」

「できません!」

 千反田は俺の横に来て、文庫本を持っていない方の手を握る。手に柔らかく温かい感触が広がるが、今はそれどころではない。

 ぐいと顔を近付けられ、好奇心に充ち満ちた瞳孔が、俺を捕えた。

「今話題の五文字事件……私、気になります!!」

「……俺は無関係だ」

「でも、気になるんです! あの神山高校文化祭の時と、どう関係があるのか!」

「ただの模倣犯だろう」

 千反田はさらに顔を近付けてくる。危なかった。具体的になにが、とは、言わないでおく。

「どうして折木さんは模倣犯だなんて言えるんですか! 同一犯だとは思わないんですか!」

 しまった。自分から墓穴を掘ったか。

「…………はぁ。分かった。模倣犯だと思う理由を言う。代わりに、今回の事件が気になるとか、十文字事件を詳しく教えろとか、言わないでくれよ?」

 しばらく千反田がじっと俺を見つめ、一分ほどでようやく折れた。

「折木さんがそこまで言うんでしたら……分かりました。では! どうして折木さんは模倣犯だと思ったのでしょう! 私、気になります!」

「落ち着け。まずは離れろ。で、そこに座れ」

「はい!」

 ようやく千反田が離れ、俺の向かい側に座る。ふぅ。

「これだけは約束してほしい。十文字事件については、詳しくは聞くな。いいな?」

「はい、約束します。でも、その事件についても、いつかは教えてくれるんですよね?」

「確約はできんが、そのうちな。……模倣犯のやつは、理由もなにも、面白くもなんともないんだがな」

「面白いかどうかを判断するのは、私です。ぜひ聞かせてください」

 溜め息を一つ吐く。

「……模倣犯だと思った理由は、単純に、十文字事件の犯人にはいくつかの目的があったからだ」

「目的、ですか?」

「ああ。十文字事件は、特定の人物に向かって特定のメッセージを伝えるための事件だった。学園祭というのも、重要な要素だ」

「ううう、それだけでも、とても気になるのですが……」

「すまん、詳しくは言えない」

「分かっています。私も我慢します」

 分かってくれて助かる。物分かりがいい奴は気に入られる。良くも悪くも。千反田の場合は、いい意味、だな。

「それで、今回の事件……まだ俺は、本当に何も知らないんだが、この時期の犯行、というのは、十文字事件の犯人の意図と合致しないと思われる。十文字事件の犯人も、騒ぎを作りたいだけの奴じゃなかったからな」

「!? お、折木さんは、十文字事件の犯人……怪盗十文字が誰か、分かっているんですか!?」

 あ。

「……詳しく聞かないでくれ。悪いな、本当に話せないんだ」

「うう、気になることばかりです……」

 気を取り直そう。

「あー、さっきも言ったように、話せる時期が来れば、話せるかもしれん……面白いことなんて一つもないがな」

「折木さんのお話でつまらないことなんて、今までで一つもなかったじゃないですか」

「あんまり買い被るな……まぁ、同一犯じゃないと思う理由は、今言った通りだ。今日、そいつ直々に無実を訴えてきたしな」

 あの発言を信用すれば、の話だが。

「ええっ!? 怪盗十文字が、今日、折木さんに接触していたなんて……折木さんを観察していればよかったです」

 勘弁してくれ……。お前が四六時中俺を監視するなんて、考えたくも……いや……黙っていてくれるならいいか。

「……はぁ。というわけだ。以上」

 千反田は、予想通り、まだ聞き足りていないというような表情でこちらを見てきた。俺はそれを無視し、文庫に再び目を落とす。

「……今日の折木さん、意地悪です」

「はぁ?」

 何言ってるんだ、このお嬢様は。

「自分に無関係だからって、五文字事件そのものの話しを逸らされましたし」

 それは、きっかけを与えたのは俺だが、模倣犯だと思った理由はなんですかと逸らしてきたのはお前本人だ。とは言わないでおく。

「私が気になるようなこと、わざと言い残してますし」

 それは……言えないだけだ。すまん。

「十文字事件の事も、あの時は適当に終わらせたじゃないですか! 私、それ以来欲求不満で眠れない日がたまにあるんですよ!」

 それは知るか! たまにだったら別にいいだろう! 欲求不満とか、あんまりお嬢様が口にしていい言葉でもないだろうに!

「とにかく! 話しは終わりだ!」

「むむむ……」

 文庫に無理やり目をむけ、場を落ち着かせる。どうやら千反田も根負けして、本を読みだしたようだ。

 模倣犯、愉快犯ならばすぐに落ち着くだろうし、今回の五文字事件は迷宮入りなんてしないだろう。五文字と言うくらいだから、すぐに終わる。いいことだ。手短スタイルの怪盗に共感をしつつ、できれば騒ぎを大きくしないで欲しいと願った。千反田の目の届かないところでひっそりと終わってくれ。でなくとも、誰かが犯行現場を目撃でもして教師に伝えればいい。普段の学校内なら、案外目がある。くれぐれも千反田の目は避けてくれ、怪盗五文字よ。

 俺が動くのは、その必要が出てからでいい。はい皆さんご一緒に。やらなくていいことはやらない。やらなければならないことは、手短に。ここ、テストに出ます。

 などと考えてしまうのは、ううむ、この文庫が正直外れだからだ。読み進めるのが辛い。俺の好みに合わないようだ。明日は別の文庫を持ってこよう。

 それでも最後まで読むのが筋だと思い、残り数ページをここで読んでしまおうと改めて決意したところで、

「やぁ」

 入口の方から声が聞えた。

 俺と千反田二人が同時にそちらへ視線を向ける。

「入須さん!」

「久しぶりね。千反田、折木君」

 女帝、入須冬実、降臨。といっても、ここ一年で女帝は少し丸くなった気がするから、それほどの威圧感はない。ああ、外見ではなく、性格の話だ。

「ども」

「相変わらず反応が薄いな君は」

「……何しに来たんですか」

 すたすたと、丸くなった女帝が歩み寄る。

「なに、たまには充電したくなるというものだ」

「分かるように言って下さい。暇じゃないんです」

「そう邪険にするな。君はそんなに私が嫌いか?」

「いえそういうわけでは」

 じゃっかんとても苦手なだけです。

「そうですよ折木さん。せっかくいらしたんですから、お茶でもどうですか?」

「いや、気持ちだけでいいよ千反田。長居するつもりはない。英気を養ったら、すぐに帰る」

「でも……」

「君らの時間を邪魔するつもりは毛頭ないのよ」

「え、あ、……」

 ちょろすぎるだろ千反田。そこはもっと芯のある返しをするところだ。びしっと。こう、びしっと。

 入須は机に鞄を置き、俺の隣、いつもは里志が座る席に腰掛けた。

「で、英気を養うとは」

「ああ。具体的に言えば、君の顔を見に来ただけだ。深い意味はない」

「はあ……」

 こんな気の抜けた顔でよければ、いくらでも。

「ふふふ、やはりなんとも言えんな。すっかり気が抜ける」

「それ、褒められてるんですかね」

「褒めてるとも」

 ここまででも分かる通り、入須との関係は、ある程度の冗談を言い合えるまでに改善された。改善したのではなく、改善された。俺自信が関係を改善したいと思ったのでは、断じてない。今は詳しく触れないでおくが。

 ふと、入須の持つ鞄に付けてある真新しい御守りが目に入った。

「大願成就……?」

「ん? なんだ、気になるのか?」

 まるで、猫が遊び道具を見つけた様子を眺めるような目で、入須は俺を見てくる。

「いや、先輩でも神頼みするんだなって思っただけです」

「君は私を怪物か何かと間違えているんじゃないか?」

 あなたは女帝じゃないか、とは言わない。くわばらくわばら。

「滅相もないです。叶えたい願いでもあるんですか?」

「そう言うわけではないのだが、明日から入用で県外に行かねばならなくてね」

 おそらくは家の関係だろう。入須冬実は恋合病院の娘だ。いろいろあるんだろうな。俺には興味も湧かない話の種だったが、

「用事、ですか?」

 と、千反田が首を傾げる。家同士の付き合いがあるとはいえ、知らなかったらしい。ということは、家関係の用事ではないのだろうか。

「ああ。それで一昨日、荒楠神社に参拝してきたんだ。私の入用と関係した神社ではないが、昔からの親交もあるし、御利益の一つでもと思ってね。ないよりマシでしょう?」

 親交があるなら「ないよりマシ」とか言わない方がいいんじゃないのか。御利益もなくなるぞ。

「できれば回避したいのだけど、いずれやらないといけないからな。ならば手短に……と思ってはいるんだが、せっかくだからガス抜きもしようと思っている。それでしばらく学校を休むことになるが、ここは致し方ないことにしておいてくれ。内緒だぞ、千反田」

 入須はジョークの一つだというような雰囲気で、千反田の方を向いて微笑んだ。

「うふふ。内緒、です」

 ふむ。女帝がサボりだ。千反田が言わないなら俺がちくってやろう。と思ったが、これは別にやらなくていい事だ。余計なことが起きそうだし、なにより、さっきの入須の言葉は大変よろしかった。手短に~のところが特に。うむ、聞き逃したことにしよう。俺と千反田が共犯になると決めた瞬間であった。

「その間、私に用ができたら江波を尋ねるといい。大抵のことは任せてある」

「了解しました」

 江波か、懐かしい名前だ。そこまで時が経ったわけでもないが、そう感じる。

 しかし、入須冬実が英気を養わないといけない用事とは一体どんな用事だろうか。俺でも少し興味が湧いてきた。あえて聞くなんていうエネルギー消費の激しいことはしようと思えないが。

「そうだ折木君。この御守りをあげよう」

「は?」

 いやいや、自分の大願成就のための御守りだろう? なぜここで俺に贈る思考になるんだ。自分で持てよ、自分で。

「君に納めれば大願も成就しそうだと思ってしまってね」

 さいで。

 ここで断ったら面倒なことがおきそうなので、俺は両手を器のようにして、頭を下げた。平にー平にー、何卒ー何卒ー。

「ありがたく頂戴させていただきます」

 入須は俺の作った手の器などお構いなしに立ち上がる。すると、彼女は勝手に、俺の鞄に御守りを付けた。無視された、わぁい。さっき俺に「そんなに嫌いか」とか言ってきたが、この人こそ俺の事を嫌っているのではと思いたくなる。俺がこれを冗談だと分からなかったら、入須はどうしたんだろうか。

「うん。では英気も養えたし、私は帰るとしよう」

「またいらしてくださいね。いつでも歓迎します。おもてなししますよ」

「千反田のもてなしか。帰ったらの楽しみにさせてもらおうか。ではな」

 入須は何事もなかったように、部室を出て行った。俺は手で作った器を崩す。なんとなくだが、虚しさを感じた。

「折木君。今日はありがとう」

 去り際に聞えたそれが優しく聞こえたのは、丸くなったおかげか。あるいは元の人柄か。真相は闇の中っと。

「良かったですね、折木さん。御守り納められて」

「良かったのか、これ」

「でも、今度は私が折木さんに納めさせていただきますね?」

「俺は神社じゃないぞ、千反田」

「うふふ」

 この笑いは……やりかねんな、千反田なら。御守りは貰って悪い気しないし、別にいいか。

「分かったよ。その時はお手柔らかにな」

「ええ、承りました」

 その後五分ほど他愛のない話をして、俺たちは一緒に帰宅した。どうか明日は平穏であることを、居るか居ないか分からない神に適当に願いつつ、な。俺の大願成就、果たして叶うか。

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