吾輩は牧羊犬である。名前は無い。
神より遣わされた、主に仕える使徒。
初めて会ったのは当然ながら主たる彼女だ。
我が神に仕える少女……だが、見目とおりの手弱女などではなかった。
むろん、吾輩が地上にあるのは久々である。吾輩が出張るとなれば、すわ混沌の神々との決戦の時か、と気をたぎらせたものだ。
そう思って馳せ参じたところ、待っていたのは彼女とその冒険の仲間だけだ。
しかし、後になってだが、彼女の領土たるこの地上と月に見合う使徒となれば吾輩でもなくば、務まらないのもまた事実である。
呼ばれて最初の頃は、ゴブリンごときに戦いに投入されることに嫌気がさしもしたが、彼女に労われ、毛皮を撫でらるのは悪い気がしなかった。
それが、こうも、と悪辣な手練手管を駆使して今ではもう二つの星の覇者だ。
皇宮を歩けば、彼女の臣下は自分に道を譲る。
「お、行くところ? 乗せてって」
返事も聞かずするりと腰かけるのは主の輩たる森人である。
主に次ぐ身分であったはずだが、伝法な仕草だ。
――言っても聞かぬか。
やれやれ、と思いながらも主のいる中庭へ向かう。
中庭といっても、南側へ広々と開かれているために狭苦しさなどは別段感じることは無い。
そこに、彼女は居た。
椅子に座り、初夏の日差しに目を細めている老女、それが彼女だ。
「やってるー?」
吾輩からするりと降りた彼女はすたすたと主に近づいていく。
「もう、あまり乗ってあげないでくださいね」
「やー、ごめんごめん」
快活に笑いながら席に着く。給餌の者がしずしずと茶を入れる。
カップを一口口に含み、ふぅ、と息を漏らす。
「少しは暇になるかしらね」
「なりそうですけどね、文官達が音を上げる前に一段落しそうでよかったです」
「はぁ、ほんと、ひどいときは書類がゴブリンに見えてきたわよ」
ケラケラと、ねぇ、と水を向けられても犬である自分の知ったことではない。
主の横に侍り、撫でられる。
「貴方にも苦労を掛けましたね」
その言葉は、諦めと別れの色を含んでいた。
クン、と寂しげに鳴けば、また頭を撫でてくれる。
それで、わかってしまった。
別れは近い。
ふと、目を覚ませば皇宮の一室、などではなく、小さな木製の小屋が視界に映る。
懐かしい、という程ではない、精々が数か月前の夢だ。
彼が作ってくれた家だ。
小屋から出れば広々とした牧草地が視界に入る。
かつてに比べれば随分と小さな領土であるが、主に任された場所だ。
鶏が鳴く前にふらり、と牧場を一周、様子を見て回る。
終えたころに小屋の前の納屋から一人の男が出てくる。
みすぼらしい装備の、主の想い人だ。
とことこと近づけば慣れた手つきで首輪にリードをつける。
わう、と一鳴きし、主の喜悦が流れ込んでくる。
我が主ながら、正直どうだろう、と思う。
まぁ楽しいのなら、なによりなのだが。
一通り回れば、その後は点検をしながらのもう一周だ。
それを眺めながらついて回る。
それを終えれば次は朝食だ。
彼とその幼馴染達が食事を終えた後に、彼が皿を持ってきてくれる。
おぉ、と胸が躍る。
ごろりとした鳥の肉、香辛料がかかりツンとした香りに、よだれがでる。
「食え」
撫でられながらの食事、それでも喜ぶ我が主は、本当に我が主か正直不安になる。
というか、そんなに嬉しいなら自分でしてもらえばいいではないか。
主とはいえ、人間のことはよくわからない。
まぁ、主は人間の中でも変わった方であるのは前の通りだ。
時を超えて若返ってくる主、というのは神代からいる吾輩でも初めてのケースだ。
しかし、主から流れてくる前の情景は、ただの妄想というわけではないであろう。
こんな事もあるのか、と思いながら食事を終える。
この後彼はいつもであれば街に出かける。
今日も常の通り、彼は街へ向かった。
自分はのんびりと牧草地を眺め、とことこと散歩をして回るぐらいだ。
「あ、いたいた」
そう言って彼の幼馴染が歩いてくる。
特にやることもないので一緒に日向ぼっこをする。
「いい天気」
わふ、と声を上げて同意する。
先日は2度ゴブリンが来たが、それも前の話となった。
「大丈夫かな?」
誰が、というのはわかり切った話だ。
心配するな、と身を擦り付けると、ありがとう、と返してくる。
神は天に在り、世は全てこともなし。
まぁ我が主の所業に我が神もたまに困り顔になるが、まぁそれも一興というものだろう。
時が過ぎ、幼馴染が
「じゃ、戻ろうか」
と家へと向かっていく。
夕方になると彼が戻ってくる、戻ってこないときもある。
基本的には我が主が一緒なので、無事は確認できる。今日は戻ってくる。
納屋の近くで彼を待ち、姿が見えれば駆け寄る。
夕食を終えた後、納屋に入る。
彼は道具の点検準備に余念がない。
横に転がり、ふむふむと一つづつ眺める。
「お、やってるやってる」
そういいながら幼馴染が寄ってくる。
その豊満な肉体をすり寄らせながら、雑談が始まる。
――主よ、妬んでもどうしようもないであろう。
「そうだな……今日は……」
彼が記憶の戸棚から並べるように話し始める。
「男三人で塔を登った」
「へぇ、いつもの皆は?」
「居なかった、ゴブリン退治の依頼もなかった、それはそれとして別の仕事だ」
「塔……」
「六十階か、それ以上、とにかく高かった」
「へー、想像もつかないや、それ登ったんでしょ?」
「あぁ、外壁を楔で」
「なんで!?」
そんな掛け合いを聞きながら時を過ごす。
だんだん眠くなってきた。
あくびをひとつ、目を閉じる。
今日も平穏な一日であった。