女神官逆行   作:使途のモノ

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第五話

 

 

「ふぅ……」

 

 蒸し風呂で、冷え切った体を包む暖かな湯気に抱かれ、女神官は息を漏らした。

 

 美しい白亜石の大広間がまるごと蒸し風呂、という大浴場で、探索の疲れを体から抜き去っているところであった。

 

 浴槽神へ礼拝し、ほの甘い香りの湯烟りで満たされた広々とした浴場を独り占めにする。

 

「くぁっ……」

 

 せっかく誰もいなのだし、と巻かれたタオルをイスに掛けて床に膝をつき、両手を床にまっすぐ伸ばし、犬のように伸びをする。

 

 神官衣と鎖帷子で守られた透き通るように白い肢体が蒸気で湿らされ、疲れと汚れが溶け落ちていくのを感じる。

 

 湯桶に漬けられた白樺の枝(ヴィヒタ)で自分の体を一通りたたく。

 

「皆、来れば良かったのに……」

 

 妖精弓手はそもそも浴槽の空気、精霊のありようというものが苦手らしく、逃げられてしまった。

 

 鉱人道士や蜥蜴僧侶は夜の街に珍味と美酒を求めて繰り出していった。

 

 そして、ゴブリンスレイヤー。

 

 彼はといえば『手紙を送る』などと言って、早々に姿を消した。それを目ざとく見つけた妖精弓手は『あっ、私もついてく!』と消えていった。

 

 ため息をつき、くたり、と長椅子に寝そべる。

 

 ふとした時に、心に渦巻く不安は、こういう時にこそ、鎌首をもたげる。

 

 いくらかは、自分は上手くやれているのだろうか。

 

 かつての今にくらべ、力はある。だが、それだけだ。

 

 ゴブリンは滅ぼすべきだ、だが、彼をまた失ってまで、なすべきことではない。

 

 だが、彼が命を落とす前に、ゴブリンを滅ぼすのは無理だ。

 

 それでも、ああ、何とかしなければ。

 

 また、私は失う。

 

 そうしたら、今度こそ、耐えられない。

 

「どうすれば、良いんでしょう……」

 

「何が、ですの?」

 

「ひぁっ!?」

 

 そのつぶやきに、湿った柔らかな返事があり、思索の靄は吹き消える。

 

 思わぬ隙を突かれ、跳ね上がらんばかりに見上げた視界に飛び込んでくるのは――売れた果実のように豊満な、美しい肉体。

 

「ふふ、そんな風にしていると、のぼせてしまいますわよ? …………あ、あの?」

 

「うわぁ……」

 

 重い、そして柔らかい。

 

 目の前の弾力のある豊満なそれに思わず手を伸ばし、その感触を確かめることしばし、目隠し越しのとまどいげな視線と言葉に我に返る。

 

「す、すみません!? 考え事をしていて……」

 

 慌てて手を離し、目前に佇む剣の乙女に頭を下げた。

 

 彼女は「構いません」と、生娘のように胸元をかき抱くように細腕を巻き付け、首を横に振る。

 

「……ただ、少し驚きました」

 

 ですよね! と内心思いながらペコペコと頭を下げる。前回もこうであったろうか、と思い返すがおそらく違うはずだ。

 

 しっとりと蒸気に濡れた姿は、とろけるように甘やかで、女の自分であろうと心が吸われる。

 

「……可愛らしい女神官様、年月を経た司教様」

 

 ぴくり、とその言葉に動きが止まる。

 

「あなたと、また、お話をしたいと思っていたの」

 

 すらり、と女神官の横に座った剣の乙女がその繊手で女神官の肉付きの薄い太ももを撫でる。

 

「ひゃいっ!?」

 

 思わず逃げ出そうと思うも、すでに逆の手が腰に回されており、逃亡は失敗に終わった。

 

「……本当に、若くて瑞々しい体」

 

 その息を吸うだけで、のぼせそうになる。

 

「あ、あの、えっと?」

 

 その美貌が首筋に寄せられる、そしてまるで味見するかのようにその形のいい鼻を一鳴らしして、

 

「ひゃっ!?」

 

 本当に、舐められた。

 

 朱い舌が、朱い唇の中にしゅるりと収まる。蛇、いや、彼女は鰐か。

 

「私の見える貴女と、こうして感じる貴女とで、全然ちがうの、どうしてかご存知?」

 

「い、いえ……」

 

 悦楽の沼に巣食う白い沼竜。であれば、自分はその泥濘に溺れて蕩ける子犬か。そして、その鰐の口が開き、

 

「嘘」

 

 《看破》だ。

 

 ぴしゃりと言い捨てられたそれに、冷や水を浴びせられたような気持になる。

 

「不思議な方」

 

 太ももを撫でていた手が、するりと登り始める。

 

「私を、憐れんで下さる、でも、同情? 同病相憐れむ? きっと、私の身を知ったうえで、それとはまた、別の事なのですよね?」

 

 するすると動く手、多くの切り傷の浮き出たその体は、まるで鱗に覆われた蛇のようだ。

 

「……はい」

 

 これは、多頭の蛇だ。伝説に語られたそれが、全ての嘘を見抜く幾つもの目が、幾つもの口が、自分を取り囲んでいる。

 

 沼竜の主が、それよりも矮小なわけもない。

 

「優しい方」

 

 ぽつりと言い、腰に回された手が、ゆるゆると螺旋を描くように腹部を撫でる、いや、撫でているのはさらにその内、女の胎だ。

 

 それだけで、体の力が抜けて、彼女に身をゆだねたくなる。

 

「ゴブリンスレイヤー、と仰いましたか……。頼もしい、御仁ですわね」

 

 熱にまかれ、そして冷や水をかぶせられ、そしてまた熱で蕩かされる。耳へそっと舌で流し込まれるように囁かれた声に、また意識が靄に閉ざされる。

 

 彼の姿は、いつだって自分に勇気をくれる。

 

 それを見て、また彼女は嫣然と微笑む。

 

「好いて、いるのですね」

 

「はい」

 

 でも、と彼女は濡れた唇で、甘く呪うように前置きした。

 

「きっといつか、消えてしまうのでしょうね、彼も、貴女も」

 

 その言葉に、息が止まる。

 

 あの時が、フラッシュバックする。

 

 都合がつかない、でもゴブリンはいる。

 

 また、今度、いっしょに行きましょう。

 

 そう思って見送った姿が、最後だ。

 

 あっけない最期だった。

 

「……」

 

 過去の恐怖に竦む小娘、それは彼女にしても見慣れた姿であったのだろう。

 

 自分のような過去を、掘り当てた、それに蛇のような笑みを太くする。

 

「そうかもしれません」

 

 目隠し越しに、彼女を見返す。青い瞳が、鋼の意思を帯びる。

 

 そしてぐっ、と剣の乙女を引き離し、でも、とつぶやく

 

 自分でも、信じきれない、だが、心に抱かねばならない言葉を吐くとき、人は虚空に飛び込むような気持になる、今がそれだ。

 

「私は、彼を失いません」

 

 這いまわる蛇を噛み殺すように、誓う。

 

「何をしても、必ず」

 

「――怖い、方」

 

 

 

 地下墳墓、これまで探索していた都市下水とは様相を異にした、複雑にねじれ、折れ曲がり、分岐点も多く、さながら迷宮の様を呈しているものであった。

 

「怪物どもを迷わせ、死せる戦士たちが脅かされんように、という計らいじゃな」

 

 感嘆の息を吐きながら、鉱人道士は仲間たちにそう説明した。

 

 これほど見事な石造りの回廊は、鉱人の石工でも、容易に築けるものではあるまい。

 

「妄執にとらわれ、亡者となって徘徊するでは、実にむごい最期だからの」

 

「輪廻からも外れるわけでありますからな。しかしてすでに、ここは小鬼の手に落ちた」

 

「……」

 

「地図を描くのが生半な事ではない。各方、気を引き締めてかからねば……女神官殿?」

 

「あ、ごめんなさい、少し考え事を」

 

 思い出されるのは目の前に広がる毒ガスの罠のある部屋である。

 

 その罠自体は、どうとも凌ぐことが出来る。

 

 だがその後の流れを思い出すと、それだけで心の臓を握られるような思いだ。

 

 小鬼英雄の致命的な一撃を受けて、捨てられたような人形のように地面に倒れる。

 

 あの時は辛うじて九死に一生を得ることができた。

 

 だが、今もまた幸運が微笑むかはわからない。

 

 サイコロの目は、神ですらわからないからだ。

 

 意を決して、ゴブリンスレイヤーが蹴り開けた玄室の扉を潜る。

 

「あれ、見て!」

 

「……!」

 

 幾つもの石櫃が並ぶ、がらんとした玄室の中央。

 

 薄暗い中に、松明の光で辛うじて浮かびあがる影。

 

 晒し者にするように、大きく両手両足を広げた誰かが縛り付けられていた。

 

 ぐったりとうなだれたその人物は、長い髪をした女、の皮を被せられた死体だ。

 

 ゴブリン達の用意した餌である。

 

 であればこそ、女神官はあえてその餌に乗ることにした。

 

 機先を制して、小鬼英雄に退かれて潜まれても面倒である。

 

 ここで、始末する、そういった腹積もりであった。

 

「……行きますね」

 

「仕方あるまい」

 

 死体に駆け寄り、呼び掛ける。

 

 そして、奇跡を呼びかけるふりをしつつ、その死体に触れて、その偽装を示す。

 

「罠です!!」

 

 そう叫んだ瞬間に、勢いよく音を立てて進入路が閉ざされる。

 

 室内に放り捨てられた楔が、からからと小馬鹿にしたように転がる。

 

「ぬぅ……!」

 

 すかさず蜥蜴僧侶が突進し、方から体を叩きつけるが、びくともしない。

 

「これはいかぬ! 閂を掛けられたか!」

 

 それに無駄なあがきだと、石壁の向こう側から甲高い嘲笑が響き渡った。

 

「蜥蜴僧侶さん! 魔法で閂を開きます! その前に竜牙兵を!」

 

「心得た! 《禽竜の祖たる角にして爪よ、四足、二足、地に立ち掛けよ》」

 

「……挟み撃ちを避けたい、塞ぐ手立てはあるか?」

 

「そいなら土の精霊もそれなりにある。《霊壁》でも造るか」

 

 鉱人道士は触媒の詰まった鞄を探り、次いで足元の床を掌で撫でる。

 

「なら、それだ」

 

「では、私は出たところで《聖壁》を、後方の守りは任せてください」

 

「頼む」

 

 立て直しの早さは、なるほどまさに銀等級、手早いものだ。

 

 金糸雀が鳴き出し、なるほど、と一党も頷く。何の手立てもなければこれは一網打尽であったろう。

 

「《開錠》」

 

 錠とはつまり、絡繰り仕掛けの小型の閂である。つまりは、重厚な閂とて、この呪文の前には意味をなさない。

 

 がこり、と音がするなり、蜥蜴僧侶と竜牙兵、そしてゴブリンスレイヤーが飛び出し、妖精弓手が続いて飛び出す鉱人道士を助けるように、木芽の鏃を矢継ぎ早に射かける。

 

「《土精や土精、風よけ水よけしっかり固めて守っておくれ》!」

 

 念じて唱え、たちまち巻き起こる砂埃。

 

 鉱人道士は続けて子供の玩具のような石壁を床へと放った。

 

 と、それは見る間に大きく盛り上がり、堅固な土壁へと転じたではないか。

 

 土壁を背に躍り出た一党にゴブリン達の悲鳴が上がり、しかし、後方から浴びせられる怒号にゴブリン共は戦線を維持する、隆々とした筋肉をさらに鎧で覆った小鬼英雄だ。

 

「《いと慈悲深き地母神よ、か弱き我らを、どうか大地の御力でお守りください》」

 

 地母神の加護は堅固な城壁となって戦場に現れた。その守りの堅さを知る妖精弓手と鉱人道士は城壁に陣取る弓兵のごとく、泰然と己の武具を振るう。

 

「派手に暴れろ」

 

「心得た!」

 

 一党の頭目の指示に従い小鬼の群れに飛び込むのは蜥蜴僧侶、その肉体を十全に生かし、旋風颶風のごとく縦横無尽にその四肢一頭一尾、これらが当たるを幸いと繰り出される様は、強烈だ。

 

 戦場の推移を見ながら、ポーチから毒の塗られた鏃を取り出す。

 

 ゴブリンスレイヤーが小鬼英雄の後ろまで回り込み、不意打ちをかける。

 

 しかし、敵もさるもの、間近に居たゴブリンを突き飛ばし、盾とする。

 

「OROAGA!?」

 

「む……!」

 

 ゴブリンスレイヤーはすかさず剣を引き抜き、次の攻撃へと備える。

 

 不意討たんとした冒険者の存在を、小鬼英雄の薄汚い黄色の目が捉え、口元に歪な笑みが浮かぶ。

 

「GROOORB!」

 

 そして下から掬い上げるように、その剛腕が棍棒を振り回し、

 

「《矢! 必中! 射出!(SCR)》」

 

 《聖壁》が消え、戦場を切り裂いて必中の魔の毒矢が延髄に突き刺さる。

 

 その巨体が、ふつりと糸が切れたようにどう、と倒れる。

 

 ゴブリンスレイヤーがその技をなした術者である女神官に目をやると、よかった、とこちらに微笑み、安堵の息を吐き、

 

「――っ!!」

 

 後ろの土壁から這い出てきたゴブリンの刃が、その身に突きたてられた。

 

 ほんの、一瞬の隙(ファンブル)であった。

 

 矢が小鬼英雄を射抜いた一瞬、最悪の未来を避けることが出来たという、彼女からすれば最高の安堵、ふと気の抜けた、常であれば存在しなかったであろう、一瞬。

 

 誰であれ、死ぬにはそれで充分だ。

 

 声にならぬ声をあげ、ゴブリンスレイヤーが手あたり次第切り付けながら駆け出す。

 

 訓練の賜物か、振り向きざまに繰り出された肘がゴブリンを殴り飛ばし、よろめくように前に二、三歩、何とか踏みとどまりきれず、どう、と倒れる。入れ替わるように、手斧を抜いた鉱人道士が下手人の首をはねる。

 

「何たることか……!」

 

 蜥蜴人ならではの膂力でもって奮戦しながら、蜥蜴僧侶は後衛の元へと戻っていく。

 

 すでに大勢は決した。小鬼英雄の倒れたことによる恐慌は広がっており、ゴブリン共の気勢は崩れている。

 

 女神官を守るように前衛が帰還して防陣を敷けば、ゴブリン共が逃げ出すのも、そう時間はかからなかった。

 

「状態は!?」

 

 妖精弓手の声にゴブリンの短剣を引き抜いた蜥蜴僧侶が声を漏らす。

 

「……まずは《解毒》……いや、これは執念か」

 

 女神官の手にはすでに空になった毒消しの瓶が一つ、訓練の賜物か、それこそ執念か、倒れつつも最低限の処置を施していたのだ。

 

 蜥蜴僧侶の施した《治療》は、女神官の傷を跡形もなく消し去る、しかし、その顔色はまだ青黒いままだ。

 

 いかな奇跡とて、流れ出た血まで作ってはくれない。

 

 ゴブリンスレイヤーがすかさず治療の水薬と強壮の水薬を開けて差し出し、蜥蜴僧侶がかたじけない、とすぐさまに流し込む。

 

「……ゴブリン、スレイヤーさん」

 

 浅い息、辛うじて死を免れた声だ。

 

 呆然と立ちすくむ彼を、鉱人道士がぐい、と押し前へ出す。

 

「よか、った」

 

 ――守れた。

 

 弱弱しく差し出された手をゴブリンスレイヤーが握り返し、女神官の意識は砂が手からこぼれるように闇に飲まれた。

 

 

 

 もーやだー!、と癇癪の声と共に執務室の天井に書類が巻かれる。

 

 かれこれ一週間、デスクワーク漬けの日々に、妖精宰相の我慢が爆発したのだ。

 

「ゴブリンの方がましー、どんだけあんのよー」

 

 と駄々をこねる姿は、臣民にはとても見せられないものだ。

 

 あわてて側仕えの侍従達が右往左往しながら書類を拾い集める。

 

「……一息、入れましょうか」

 

 ゴブリンの絶滅政策は順調である。

 

 緑の月への安定した門の維持、これには賢者の学院が総力を尽くして研究に乗り出しているが、まだ多くの時間か、あるいは天才の登場が待たれるところである。

 

 鉄の大山脈を取り仕切る鉱人族長からは安定した武器の供給がなされ、この四方世界のゴブリンはほぼ駆逐されたと言って良い。

 

 時たま訪れる蜥蜴僧侶の手紙や本人の土産話、それ以外はほぼほぼ、冒険という日々からは縁遠くなったものだ。

 

「なんじゃい、変わらんのぉ」

 

「あぁ、お久しぶりです」

 

「うげ、あんたこそ山を放り出して何しに来たのよ」

 

「うっせうっせ、使節じゃ使節、現場も儂が居なくて回らんのじゃあどうしようもなかろう」

 

 そうずけずけと突然入ってきてどかりとソファに座るのは鉱人族長だ。

 

「蜥蜴のが、こっちに寄ると連絡が来ての、ちょうど儂も来られると思って、合わせたのよ」

 

「まぁ、ありがとうございます」

 

 そう手を合わせて喜ぶ女教皇は老いとは劣化でなく成長である、と人に思わせるだけの円熟したものを感じさせた。

 

「おっと、遅れましたな」

 

 そう言って、また入ってくるのは蜥蜴僧侶だ、かつて冒険を共にした時よりも一回り大きく、その威容は二回りも三回りも増しているように見えた。

 

「おぉ、来たか!」

 

 最後の一人が来たのを見て妖精宰相が手馴れた様子で侍従たちに出るように指図する。

 

 食道楽と武者修行、それを今も悠々自適に過ごす蜥蜴僧侶は奇妙な手つきで合掌をした。

 

「いや、お久しぶりですなぁ」

 

 久しぶりの仲間たちとの時である。

 

「今はどのあたりで動かれているんですか?」

 

 紅茶を飲みながら話を聞く、蜥蜴僧侶の前に並べられるのは世界各地から取り寄せられたチーズの数々だ、これ目当てに皇宮に来ているのでは、と妖精宰相は冗談半分で言う時がある。

 

「今はまた、拙僧の故郷よりもさらに南の島々を動き回っていますな」

 

 南洋の島々、そこに住まう部族、跳梁跋扈する怪異、それらの冒険譚に三人は思わず身を乗り出して聞き入った、もともと、冒険好きな連中なんのだ。

 

「そこでは闇夜の帳は神々の帳(マスタースクリーン)、と言われておりまして、我々が夢を見る際にも、神々はサイコロを転がしている、と」

 

 ほほう、と鉱人族長が髭をしごきながら声を上げ、へー、と妖精宰相が蜂蜜のたっぷりかかった菓子をぽりぽりとかじる。

 

「そうそう、この前うちの山での……」

 

 幸せな時間だ。

 

 気心の知れた仲間、この視界にはいなくとも、忠勇溢れる世界中の臣民達、間違いなく幸せな身である。

 

 妖精弓手がいる、鉱人道士がいる、蜥蜴僧侶がいる、

 

 ただ、彼がいない。

 

 幸せで、それでいて虚しい夢から、女神官は醒めていった。

 

 

 

 ゴブリンスレイヤーは女神官の眠るベッドの横に座り、腕を組んでその寝顔を見つめている。

 

 幸い、彼女は持ち直した。

 

 あどけない寝顔である。

 

 細く、華奢で、今にも折れそうな体だ。

 

「………………」

 

 ゴブリンスレイヤーは溜息を吐いた。

 

 肉付きの薄い、繊細な硝子細工のような少女。

 

 こんな娘が冒険者、いや復讐鬼であることに、無論、彼も思うところがないではない。

 

 思うのは彼女が意識を失う前につぶやいた言葉。「よかった」そう彼女は言った。

 

 ゴブリンに大切なものを奪われた、それゆえの憎悪、そう思っていたのだ。

 

 そんな彼女が、自分を、身を挺して助ける。

 

 これではまるで、彼女が自分のためにゴブリンと戦うためにすべてを捧げてきたかのようではないか。

 

 いや、彼とて鈍くはあるが、彼女から向けられる好意を理解しないとは言わない。

 

 だが、それでも、彼女のそもそもの理由が、自分の思い描いていたものとはやや違うのではないか、そう思わされたのだ。

 

 そして、ふと、怖くなる。

 

 彼女は、自分のためであれば、笑顔で死ぬのではないか。

 

 ありえない、とは言い切れないそのことが、怖い。

 

 かつては、気楽だった。

 

 思考をつづけ、想像力のままにゴブリンを殺して回る。それだけでよかった。

 

 だが、ああ

 

 妖精弓手がいる、鉱人道士がいる、蜥蜴僧侶がいる、そしてもちろん、彼女もいる。

 

 それを、失う。

 

 自分が力及ばねば、容易く、仲間が死んでいく。

 

 ぽつん、と取り残されたような気分だ。

 

 それは、頭目故の孤独な重さだ。

 

「これは、教わらなかったな……」

 

「ふふ、よくお休みのようですわね」

 

 背に掛けられたのは、艶やかな声だ。

 

 担ぎ込まれた彼女を、手厚く治療したのは、彼女だ。

 

 枕元にするすると寄った白い女は、女神官の髪を撫でる。

 

 冒険で艶を失いがちなその金糸を愛おし気に手櫛で梳く。

 

「……あなたを、失いたくない、と」

 

「……そうか」

 

「慕われて、おりますわね」

 

 薄く笑う女に、頷く、苦く、重い首肯だ。

 

「こんなちいさな体に、どれほどのものを刻み込んで来たのでしょう」

 

 その薄い胸を撫で、手を離す。

 

 そうして、女は目隠しをはずす。

 

 どこかぼやけた、焦点の合っていない瞳。

 

 忠実なる神の従者として完璧な造形のただ中で、その一点。

 

 彼女の美貌は、残酷な手法によって破壊されてしまったのだ。

 

「ゴブリンか」

 

「ええ」

 

 応じる剣の乙女も、さして気にした風なく頷いた。

 

「もう、十年も前になりますか。私も、冒険者でしたから……」

 

 つい、とその瞳が動き、ゴブリンスレイヤーへと流し目をくれた。

 

「影のような人」

 

 艶やかな唇が、歌うように評した。指が、ゴブリンスレイヤーの輪郭を、中空で描く。

 

「どこにでもいる。けれど、目を離すと不意に、消え失せてしまうよう……」

 

 この子にも、そういうところがありますね、とまた頭を撫でる。

 

「ん、ぅ……」

 

「起こしてしまいますね」

 

 するりと、それこそ白い影のように、身を引く。

 

「人というのは、女というのは、弱いものです」

 

 どれほど、強いものであっても

 

 そう言い残して、彼女の姿は消えていった。

 

 

 

 


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