その呪文を聞いたとき、いじめられっこの少年は口をへの字に曲げた。
そんなの、格好悪いじゃないか、と呪文を教えてくれた、先日巫術師見習いとなった、黒尽くめの彼女に文句を言ったのを覚えている。
彼女は苦笑いをして、いいのよ、と偉そうに大人びた風を装って胸を張った。
この呪文はね、二つの約束があるの。
一つ、口に出して唱えちゃいけない。
二つ、このことを教えてくれた人以外に教えちゃいけない。
どう、大丈夫でしょ、と彼女はニッカリと年相応に笑った。
若草色の装いの双棍使いは目を覚ました。
首には翠玉の身分証、中堅どころと言われる冒険者の証である。
一仕事を終え、単身での、水の街の冒険者ギルドでもののついでに簡単な仕事でもないか、と帰り道がてらにできそうな仕事を探していたところで、ちょうどいいものがあった。
辺境の街への手紙輸送。
銀等級の冒険者からの依頼であること、急ぎであること以外、特に何も物珍しいわけではないそれを、軽い気持ちで手に取った。
冒険者の単独行というのは、寂しいもの……というわけではない。
街道を徒歩で行く人間というものは、夜が近づけばごく自然に身を寄せ合ってキャンプを作る、いざという時に安心であるし、大勢の夜営は襲われにくいからだ。
「あんちゃん、辺境に仕事か?」
一緒にキャンプをすることになったくたびれた行商人がそう問いかけてきたので愛想良く返す。
「いえ、都からの仕事帰りです」
「へぇ!! あっちはどうだった?」
「そうですねぇ、やっぱ都って華やかだなぁ、ってのが第一ですかね」
「何か流行ってることとかあったか?」
「んー、あぁ、なんて言ったっけ、ハーブの精油が流行ってたような、ええと、ああ、これこれ」
何とはなしにメモしていたハーブの名前を見せる。
すると行商人に顔が破顔する。
「おっ! こりゃ辺境のとこで出回っているヤツじゃねえか! 兄ちゃんでかした! 何か目新しいモンでも新たに仕入れるかってところだったんだ!!」
礼だ、飲んでくれや! と背を叩かれながら注がれた酒をあおる、鉱人の火の酒だ、けふ、と声が漏れる。
「いい酒です」
「そうだろうそうだろう! こいつは東の大険峻、あぁ、あれこそまさにくろがねの、鉱人達の王国ありし大山脈」
歌うように盃を掲げ、
「その洞窟で熟成されたこの火の酒! ……今ならなんと一杯銅貨一枚」
いたずら小僧のように笑いながら、他の者たちにも酒を注いで周る。その口上を気に入ったのか、皆が笑顔で男に銅貨を渡す。
旅の空の、いい出会いだった。
次の日も、旅は続く。水の街から辺境の街までは大体徒歩で二日、馬車で一日、といったところだ。
何事もなければ、大体今日の夕方には着くだろう。
双棍使いは急がないが、手紙は急ぐ、すこし歩く歩調を速めた。
もう少しすれば秋の収穫祭、あれこれとやることの多い日々であるが、あのお祭りは楽しみだった。
「兄ちゃんは街についたらどうする? 何もないんだったら一杯いくかい?」
「すみません、ちょっと用があって」
そう誘ってくれる行商人にはにかみながらやんわりと断る。その言葉に若干の照れを感じ取ったのか、行商人がニヤリと笑う。
「おっ、女か? いいねぇ」
そう絡んでくる行商人に愛想笑いで対応し、照れ隠しに頭を搔く。
自分は背丈は昔に比べればそれなりに伸びたが、それでもどこか年齢よりも若く見られる。
冒険者の身分票を見せびらかしている訳でもないので、駆け出しと思われているかもしれない。
さて、そろそろ昼飯時か、そう思ったところで。
死に出会った。
完全に、偶発的遭遇であった。
森の中から大きな影が躍り出たのだ。
奇妙にねじくれた関節、ヤギに似た頭部、人の体、青白い肌。
混沌の者であることは間違いなく、見識豊かな賢者であれば、それが悪魔の尖兵とも言われる下位の存在である。
「DDEEMOMONNN!!」
しかしそれは、この場においては、絶対的な死である。
「ひっ」
「デ、デーモン!?」
人々が怖気にかられる、それはそうだ、本来であれば冒険者が相対して討ち果たす存在である。
無力な自分たちに何が出来ようか。
そうだ、冒険者!!
人々の視線が向けられたのは当然、というべきか双棍使いであった。
背に背負った二本の黒の棍棒、高い背に、それなりに付いた筋肉。
しかし、その姿は震えていた。
青ざめた顔、カチカチと歯の根の合わぬ震えは、見る者に失望と絶望を味合わせた。
もともと、双棍使いは勇猛果敢、恐れ知らずという狂戦士、というわけではない、むしろちょっとした物音にもいちいち振り返り、視線を向ける臆病者だ。
どだい、神に選ばれし聖騎士でもない単身の冒険者である。悪魔を単身で打倒することなど、到底できることではない。
だが、彼はそれでも背の棍棒を引き抜き、悪魔に向けて構える。
がちがちと震えるままに大きく息を吸い、がちり、と震えを噛み潰すように噛みしめ、青ざめたまま、長く息を吐く。
その姿に近くの者たちが、おぉ、と希望の色が宿る。
そしてもう一吸い、ヒュッ、と息を吸いながら、心の中で呪文を唱え、悪魔へ跳ぶ。
幼馴染の少女が教えてくれた呪文。
声に出して唱える必要もなく、また、他の呪文使いのように、体力が削がれることもない、魔法の呪文。
《臆病者の緑の小僧! 両手に棍棒携えて! 走って! 跳んで! 胸には勇気!》
恐怖を置き去るように、双棍使いは悪魔へ棍棒を振り下ろした。
どうやら、あの悪魔はある遺跡で湧き出た悪魔の群れの内の一匹であったらしい。
銀等級の冒険者の一党が討伐に乗り出したところで逃げ出てきた一匹、ということだ。
思わぬ副収入と、旅の同行者からのお礼の品々を抱え、ふぅ、と息を吐く。
自分の運んだ手紙は受付嬢からちょうどテーブルに座っていた辺境最強の男に渡されていた。
受付嬢から渡される手紙に喜色満面の笑顔であったが、差出人を見て渋面を晒していた、と思うと「ええい、しゃあない行くか!」とすたすたと外へと向かっていき、それを魔女がやれやれと追う。
まぁ、自分の仕事はここまでだ。
ギルドを出て、目的地に向かおう、として出会った。
「おかえり、なにそれ」
「ただいま、ちょっと、色々あって」
胸に赤子を抱く、一党にして、伴侶にして、最愛の、黒尽くめの巫術師。
「都の方の悪魔退治、どうだった」
「なんとか、なったよ」
肩を並べ歩き出す。
その歩みは雑踏の中に消えていった。
長きに渡る秩序と混沌の戦いの中
数多の冒険者が生まれては消えていった
この
記録は残されていない
だが、その胸には
ちっぽけでも、確かな勇気が輝いているであろう。