薄暗い雲の下で飛ぶP3Cの操縦席の真後ろから、一体幾つの「怪しい船」を双眼鏡で見つけてはデジタル一眼カメラのシャッターを切ったのだろうと室井は双眼鏡越しに広がる東シナ海を見つめながら考えていた。
対潜哨戒機として名高いP3C、約10名の様々な技能を持つ乗員によって一隻の漁船から潜水艦まで捕捉する目と耳を持つ4発のプロペラ機は対潜水艦戦等の訓練以外ではその長い航続距離を活用して数時間に及ぶ哨戒に出ている。北のオホーツク海から南の東シナ海まで、複数の航空隊に分かれて日本の海を日夜監視している。
そのうちの一つである東シナ海の上を、室井武器員は両手に双眼鏡を持ち、武器員特有の勘を研ぎ澄ませながら目を光らせている。
外国からやって来る貨物船や操業中の我が国の漁船、そして今では領海さえも超えようとしてくる外国の漁船や海警のフリゲート艦を追尾、もしくは撮ることで最近はほとんど手がいっぱいになっている。前までは多種多様な他国の貨物船や日本かあの国かの漁船が同じ数のように海を渡っていったが、ここ最近は特にあの国の漁船がかなり多く見受けられる。常時目を光らせる武器員の勘をくすぐるようなどこか怪しい漁船やあの国の調査船が監視ラインのあちらこちらに出現するともう首が回らなくなる。甲板に漁具はあるかないか、変な航行をしていないか、国境とも言えるラインを越えて航行をしていないか、例え越えてなくてもソナー員のレーダーによる追尾や武器員の双眼鏡でずっと注視していく。
疲れるが、毎度こうしていると、またいつものかと体が次第に慣れる。な
双眼鏡のレンズから少し目を離して背中を伸ばすと、ある程度リラックスしたような姿勢を取った。目は双眼鏡から離した後もずっと海の方を注視している。
視界に入った「怪しい」船舶は短い時間の間に国籍や艦名等がわかる箇所の写真をデジタル一眼カメラで撮ることが私自身に課せられた武器員の仕事ということになっている。この撮影を1度でもしくじると、一度通りすがるように去りかけたこのP3Cという4発のプロペラ機はまたもう一度、被写体である船舶の周りを飛ばなければならない事になる。もしその船舶がただの民間船ではなく、他国の偽装した工作船であれば相手に気付かれたと思われ、すぐさまロケットランチャーや今どきの携行型対空ミサイルで反撃されるという可能性も有り得る。もしそうなれば、後は機長の腕と欺瞞弾の効果を信用しながらすぐ近くの椅子に座ってへばりつくしかない。
もしそんな事になれば一巻の終わりだと室井は勝手に思い込んでいる。だからこそ、僅かな時間の間で十分な角度と鮮明さをもつ写真を撮ることに力を入れている。
最も、肉眼どころか電子の目であるレーダーからでも船が見えない今では操縦席の窓から見える海を双眼鏡を持って目を光らせていくしかやる事はない。米粒程の船を見つけるまでいつまでも双眼鏡を構えて見回していく。
その何とも飽きが来るような変化の無い時間のせいか、以前この機体の整備を預かる整備課の知り合いに空の上の仕事はどんな感じなんだ?と居酒屋のカウンターで聞かれた事をふと思い出した。お互い酔いが程よく回っていて気分が良かった時に聞かれた質問に、室井はこう返していた。
「上空数百メートルか海のすぐ上の空中を飛ぶ会話の無い職場、言葉を発する時と言えば何かしらの船舶を見つけた時か、訓練で海の中にいる潜水艦をソナー員が見つけた時くらいだよ。一言で言えば、いつも神経を研ぎらせてキリキリしてる職場かなぁ」と。
それを聞いた知り合いは酒を飲みながら「つまらなさそうというか、胃が痛くなりそうな職場だな」と笑いながら言われた。
確かに周りから見ればそう思える。だが、写真を撮ることが好きな自分にとっては被写体が船舶と言えども毎度変化があったりして、風景を撮るよりも独特な面白みを感じている。最も、船舶を見つけるまではパイロットの座席のすぐ後ろに立って操縦席の180度見える窓から双眼鏡を使って見える「怪しい船」を見つけるまでは何も出来ないが、これでも慣れてくると大して苦でも無いように感じる。もしこれで機内がとんでもなく狭かったり空調や例え一時でも座ることが出来るクッション付きの椅子が無かったら、すぐにでも異動願いを出したくなるような職場だと話している。
要は、ある程度の居心地の良さということだ。職場の雰囲気がどうであれ、ギスギスしたものであれ、撃墜されるかもしれない危険性の有無がどうであれ、ただ自分にとって居心地が良いものなら全て良しとなる。それだけ私にとっては重要なポイントなのだ。
頭の中でそう自画自賛するかのように呟くと、また背中を伸ばして双眼鏡を覗き込む。
また何も無い海の景色が視界いっぱいに広がり、絶えず双眼鏡をあらゆる方角に向けていく。室井が持っている双眼鏡は海上自衛隊の備品であるが、すぐ隣りに居る相方の若手武器員が持つ双眼鏡は一つしか備品がない故に自前で用意した双眼鏡だという。性能や信頼性が高い上物を買ったという事で捜索には難なく使えるが、その代わりに随分と値段が張ったと彼は搭乗前のブリーフィングで自慢げに言っていた。
俺も昔はそうだったかな、と十数年前程前の自分の姿を度々思い出していたが双眼鏡を自前で買ったという記憶は無かったように感じる。
それにしても双眼鏡は予算の都合で、どの機にも一つしか無いというのは、おかしな話としか言いようがない。隊員でも普通に揃えることが出来る物にはどうしても予算が行き届かないのが現状となっている。それも備え付けの大きな双眼鏡では無く、隊員が持つような小さい双眼鏡なら尚更だ。せめて後方の撮影用のビデオカメラを最新のものにして欲しい、と室井はつねづね思っていた。
そういえば、彼はどんな双眼鏡を買ったんだったかな。と少しだけ右の方に視線を向けたその時、操縦席の中で声が発動機の騒音に紛れて聞こえてきた。
「1時方向、10マイル先の海面が妙に黒く見える」
そう聞いた室井は咄嗟に若手武器員の言う1時の方向に双眼鏡を向け、一度裸眼でおおよその位置を見定めてからまた双眼鏡を覗いた。
黒く見える?と頭の中で妙な疑問符が立ったのも束の間、青い海の中でほんのおにぎりサイズ程のどす黒く変色した海面を視界の中に捉えた。辺りに船舶はなく何かが海中に居るのか、そこの箇所だけが妙に黒く変色していた。
「海面がえらく黒く見えるな……周りの色と全く違う」
思わず疑問の言葉が率先して室井の口から出てきた。このP3Cに武器員として乗り込んでから十数年、 重油が流失したわけでもなく、黒色の塗料を大量に投棄されたようにどす黒くなった海の色は見たことが無い。
あの色は一体なんなんだ。
会話を聞いているはずの機長と副機長はまだ見えてないのか何も声は掛けず、P3Cはそのままの針路でそのどす黒い海へと近づいていく。どのみち監視ラインの中にそのどす黒い海面があるのだから低空で周回飛行して撮影するしかない。
双眼鏡を離して肉眼でその海面を見ようとした時、目の前の席に居る機長の腰が少し浮いた。
「なんだいあれは……海底から変なものでも吹き出してルのかな」
ようやく肉眼でも見えるようになったのか機長からも驚きの声が出た。それに続くかのように、若手武器員が双眼鏡を覗きながら室井に問いかけてきた。
「あんな海面は見たことが無いですよ……一応、ソノブイを落として潜水艦の有無を調べますか?」
潜水艦……か。
若手武器員の予想に室井は口元を歪ませ、その黒い海面を凝視した。
潜水艦が海面すれすれまで浮上して沈黙しているという事は有り得る話だが、遠くから見て分かるほど海面には大きな変化は見せない。だからソノブイを落としておおまかな位置を割り出す必要がある。それに、遠くから見てもわかるほどに海面をどす黒く変色させるのなら潜水艦を探し当てるのにさして苦労はしない筈だ。
潜水艦という線はあり得ない、と室井は心の中で小さく呟いた。
すると、反応しない室井を見てか副機長が少しだけ目をこちらに向けると口を開けた。
「私の予想なんだが、どす黒い液体か機械でも海中にあるんじゃないか?と思うのだが……機長は?」
「とりあえず、監視ラインの中にあるので見ないというわけにはいかないな。周回飛行してそれが何なのか見極める必要がある、海上保安庁や司令部にも一報を入れなきゃね。もしこれが室井君の言ってた海底の動きか何かで起きたものなら継続して監視せよと言われるだろうし、とにかく近づいてみようか」
副機長に続いて機長もそう話す。
とりあえず見てこよう、というノリでP3Cはほんのわずかだけ高度を下げていき室井たち武器員はそれぞれの持ち場へと小走りに走っていく。巡航速度600kmで飛ぶP3Cは目標のどす黒い海面のすぐそばまで近づいていた。
若手武器員は後方の左側にある丸窓からビデオカメラで撮影、室井は操縦席を出て少し後ろにある小さなスペースの中にある椅子に座り込み、左横にある丸型の窪みのある窓に背中を丸めながらデジタルカメラを構えると、両目を開いたままファインダーを覗き込んだ。
ファインダー越しに見える海の景色はいつもよりだいぶ高い高度から見ているせいか、体がこれはおかしいぞと無意識に信号を出してるように、妙な違和感を感じる。いつもは波がよく見えるほどの高度ですぐに過ぎ去っていく船舶の全体像を2枚撮ってパスしていくのだが、今回はまるで違うと言ってもいい具合にまるで別の景色のように見える。
見慣れた景色が少しでも違うとこうなるものなのかと、感心したようになった。
ファインダーを覗き込んでから少しして頭に付けていたヘッドセットから、もう少しで周回飛行に入るぞという機長の声が聞こえてきた。
ようやくかと、ファインダーにそのどす黒い海面が見えるのを心待ちにしてカメラを握る手に力が入っていく。その頃のP3Cは左側の窓から海面がよく見えるように左に少し傾きながら飛び、周回飛行する姿勢を取った。
その時ソナー員のいる斜め後ろのコンソールから、「てぇー」という発射の掛け声が聞こえた直後、ソノブイが装填されていた後部の発射機から小さく音が機内に響いた。
ソノブイ投下、これで3人のソナー員のいるコンソールはピリピリとした空気になる。
ここからソナー員の腕の見せ所となるのだ。
ソノブイが投下され更に気が引き締まったのと同時に、あのどす黒い海面が視界の中に現れた。
「目標、インサイト」
短く目標が視界に入ったことを告げ、待ってましたと言わんばかりにデジタル一眼カメラのシャッターを切った。
カシャッ、という硬質なシャッター音が室井の周りに鳴り響く。そしてまた間髪を入れずにまた1枚撮る。長年の経験で培った感覚と勘を生かして絶妙にピントが合った最適な写真を一枚、また一枚と機体が周回飛行し続ける限り撮り続ける。
どす黒い海面をファインダーに捉え続け、シャッターを切る度に、室井の体の奥底からは尽きない疑問心と好奇心が沸いて出ていく。見たことのない現象、もしくは物体か、少年時代の好奇心のようなものを今この体で感じている。
「黒い、まるで漆黒のようだ」
近くで見れば見るほど、どす黒く見える海面。40メートルほどの円形でどんどん広がっているような起がしてくる。とてもなにかが海中にあるという感じでは無かった。では何かの液体?とも思ったが、波があるにも関わらず綺麗な円形を描いている以上、液体という線も怪しくなってきていた。
わけがわからない、というのが今のところの正直な感想だった。
《機長より各員へ、司令部よりこの黒い海面を海上保安庁の巡視船が現場に到着するまで監視をし続けよという命令が下った。本機はこれより急行する巡視船が到着するまで周回飛行を続け、撮影を行う。それと写真は海上保安庁にデータを送るため、すぐに司令部に転送せよとのこと、室井君お願いね》
「お願いされました」
回線が開いたままのヘッドセットにそう吹き込み、室井はまたシャッターボタンを押す。
何度か周回飛行した頃、写真は既に20枚程撮り終え、何らかの変化も見受けられない所を見て室井は撮影席から立ち上がると操縦席内のすぐ後ろにある機上無線員の居るナブコム席へと足を進める。機体はこのまま周回飛行を続ける、ある程度撮れたら司令部に転送する余裕くらいはあると見込んでいた。抜け目ない継続的な撮影は後部の若手武器員がビデオカメラを回してくれている。
ナブコム席に回り、機上無線員がノートパソコンに繋がれたUSBケーブルを室井に無言で手渡す。この写真を司令部に送ったら、きっと目を疑うような驚きを見せるだろうと想像しながらデジタル一眼カメラの端子にケーブルを差し込んだ。
さっき撮ったどす黒い海面の全貌を捉えた写真が瞬時に画面上に表示され、マウスを握っている無線機上員が該当する写真を素早くまとめるとものの数秒の速さで送信ボタンを押した。これで写真は衛星通信を通して地上の司令部等にあるノートパソコンに送信される。
98年の5月から始まっていたこの転送システムで得られた膨大な数を誇る海自の資料の中に、初めて船舶以外の写真が記録に残されたと思うと変な気分になる。
「おかしな海面ですね、こんなの見たことが無いですよ」
基本無口な機上無線員が、送信したどす黒い海面の写真を見ながら話す。フライト中は無線関係のコンソールしか見えていない彼が、さっきから度々聞こえるどす黒い海面を画面を介して見たことでようやく謎となっていた情報を共有出来た。見たくても見ることが出来ない、そんなまどろっこしさも同時に消えた。
この機上無線員は気になって気になって仕方が無かったのだ。
「見たところ液体でなければ物体のようにも見えなかったよ、潜水艦どころの大きさじゃない程のサイズだし」
「ならクジラという線も無いということですね……という事は正体不明生物ならぬ、正体不明海面変異でしょうかね」
「言えてる」
機上無線員の言葉で室井はクスッと笑うと、ノートパソコンの傍に置いていたカメラを手に取り、ケーブルを静かに引き抜いた。ケーブルを片付ける機上無線員にまた後でと手を小さく振り、撮影席に戻るとカメラをまたどす黒い海面に向ける。
さっきまでの様子と変わりなくまた同じようにシャッターを切ったその時、赤外線カメラの映像を映し出すアズ画面を監視するセンサー3を担当していたレーダー員の声が耳に響いてきた。
「目標海面に微弱な熱源を確認!数は3、磁気探知機にも微弱ながら反応あり!」
ソナー員の声で咄嗟に機内の空気がピンと張り詰め、操縦席にも緊張が走る中、室井はファインダー越しに凝視しながら無意識にシャッターを切り続ける。しかし室井の肉眼では海面に変化は見受けられない、さっき送った画像と同じ海面しか写真に写らない。
だが機械の目は何かを感知していた。
「センサー3、何が見えている?目視ではまだ何も見えていないが?」
すぐに室井がソナー員に聞いた。
「目標海面の中心部に微弱な人のサイズ程の熱源を確認、海面の表面付近に居るような感じだ。今、センサー1がソノブイで何かの異音を……」
「こちらセンサー1、目標海面付近で妙な音を感知。音の強さは小……スクリュー音でも機械のノイズでもない、データベースに存在しない聞いたこともない音だ」
聞いたこともない、音……?
ソノブイの音を聞くソナー員であるセンサー1の発言に室井は思わず耳を疑った。これまで訓練で何隻もの潜水艦のスクリュー音を聞き分けてきた耳の良いソナー員が軽々しく言う台詞ではない。海自の膨大な量を持つデータベースにも無い聞いたこともない音だなんてものは、普通じゃ有り得ない話だ。
勘弁してくれ、ただ室井はそう思うしかなかった。
「とにかく、海面付近に何かが居るんだな?」
「その通りです機長。だが今のところそれが何なのかは見当もつきません、生物なのかそれとも何かしらの機械なのかまったく……」
「参ったな……」
機長がいかにも困り果てたような声を出し、小さなため息のような音が耳に届いた。
機長が苦悩するのも無理はない、相手がそもそも何なのか分からない故に、急速離脱を決める判断材料が足りない。もしこれが普通の相手である不審な船舶なら甲板にいる人の動きや、何かしらの攻撃の意思を持つ反応を武器員やアズ画面を見るセンサー3が少しでも察知すれば、速やかに機長は機体を高空へと上昇させ、現場からの離脱を図る。だが、今のような現状ではまだ様子を見る事しか方法はない。
「とりあえず様子見で、異変を察知すればすぐに報告しますから。それまで撮影を敢行してもいいですか?」
機長に送るような感じに、室井は壁1枚隔てた操縦席の方に声をかけるとすぐに機長から返事がヘッドセットを介して来た。
「分かった、異変を報告してくれたらすぐに回避行動に移る。訓練通りのフルコースを用意しておくから心構えはしといてくれよ」
「覚悟しておきます」と、短い返事を返してファインダー越しの世界から抜けると、目視でどす黒い海面を眺める。
機長の心構えしといてくれよ、という言葉がこれから起きるような出来事を予言しているような感じで恐怖さえも感じる。不安と心拍数が早くなってるせいで体のあちこちに冷や汗がダラダラと滲み出してくる。どのような機でも、敵弾からの回避行動中はまさに生きた心地がしない、特に撮影中の突発的な急上昇は心臓が常時締め付けられているようになって呼吸が止まりそうになる。墜ちるかもしれない、空中分解して外に投げ出されるかもしれない、爆発で体が吹き飛ぶかもしれない、そんな想像ばかりが思考を埋め尽くして耐えられなくなる。
怖い、そうとしか言えなくなる程に機長の言葉には重い意味が含んでいた。つい身震いして、またファインダー越しの世界を覗くと、目視の時には見えなかった物体を見て思わず目を瞬かせた。
何だ、あれは。
黒く飛び出たモノをよく見ようと、レンズを回転させてズームを掛ける。すぐにピントを合わせて見える景色を鮮明化させた時、水色の細長い光がいたるところに散りばめられたような黒い楕円形の物体と人の姿のようなものを写真に収める。人の方は見るからにダイバーという姿では無かった。
「目標界面に浮上物と人らしき影が出現!数は3!人影が1つと浮上物が2つ!」
シャッターを切ったのとほぼ同時にアズ画面を見ていたセンサー3が声を上げた。室井も声を上げようとしたが、目の前にしている物体と人影に目を取られ口が開かずにいる。何かの冗談と思いたい、水色の光を放つ物体と黒い人らしきモノなんて居るわけがない。でも、現にそれは百数メートル先のどす黒い海面の中心に居る。アレが海面をどす黒くさせた原因なのか、そうとしか考えるしか無い。室井は固まっていた口を柔らかに動かした。
「機長、念のため回避行動を。相手が何者なのか全く見当もつきません。銃器等は見られませんが、嫌な予感しかしませんし、新手のスパイ機なのかもしれません」
「いや、報告には無いが要救助者の可能性もある。救助を円滑にさせる為に、海保の到着までこのまま周回飛行を続けるべきです機長」
「お言葉ですが副機長、人影らしきものの周りにある浮上物が何なのか分からない以上、要救助者という線は無しと見るべきです。ここは念のために1度距離をとられた方がいいと私は思います。室井武器員の勘を信じるべきです」
室井に続いて副機長、戦術航空士が各々の判断を口にしていく。外の景色が見える席に居る戦術航空士は室井と同じ景色を見た上での助言をしたが、副機長にはよく見えてないように思える。故に人影と聞いてダイバーと想像したのだろう。
副機長には申し訳ないが、要救助者の線は全否定させてもらうしかない。
「副機長、あんなものが要救助者とは思えません。明らかに様子がおかしいです、第一水色の光を放つ人がどこに……」
ファインダーを覗きながら副機長に説得をしている最中、楕円形の黒い物体から紅色の光を向けられて反射的に言葉を切ってシャッターを切った。
何の光だ?と思った瞬間にまた紅色の光が今度は2つ同時に放たれ、急速に迫ってくるその光に室井はようやく状況を理解し、戦慄した。
「発砲炎!正体不明物体より発砲炎を視認!砲弾がこっちに飛んで来た!」
閃光弾のように紅色の光を放ってくる砲弾らしきものの残像を凝視しながら室井は腹の底から精一杯叫んだ。
ほんの一瞬しか見えなかったが、確かに砲弾だ、こっちに飛んで来る。でもとてもそんなものを撃ち出す様なものには見えない。あれはなんだ、一体なんだ?と頭の中で何度も叫びながらカメラだけを海面に向けてシャッターを切り続ける。
紅く迫り来る砲弾のせいか、それまで平気で覗いていた丸窓を覗くのがいつの間にか心の底から怖くなり、カメラだけを丸窓に出してシートにへばりついていたその時、機長が操縦桿を思いっきり手前に引いたのか機体が天を向くようにして上を向き、それまで穏やかだった発動機が爆音を上げるかのように唸り始めた。
「回避行動に入る、総員シートベルトを付けてどこかに捕まれ」
機長がそう宣告した時にはもう機体は急上昇を始め、少し体を動かせばあっという間に後ろの方まで飛ばされそうになるくらいに天を向いていた。室井の席は幸いにして操縦席の方を向いている。これがソナー員と同じ進路方向と並行していたら今頃、後部に叩きつけられていた。
「ちくしょう、何でこうなるんだ」
地響きのような機体の激しい揺れとGの重みに耐えながら必死に尻に敷いていたシートベルトを取り出して腰に回す。最大上昇角75°というほぼ垂直のように感じる急上昇、プロペラ機といえど戦闘機並みの迫力を生み出すP3Cの急上昇には誰もが拳を握りたくなる程に力強く、中の人間を圧倒させる。どうしても体がシートに押さえ付けられて体が言う事を聞かなくなる。
もう一巻の終わりだ、ここで堕ちるのか。
前々から思っていた事が現実となり、まるで死地を歩いているかのような絶望感で思考が埋め尽くされる。恐い、ただ単に恐い。このまま訳の分からない攻撃で命を落とす事になると想像しただけで心臓が締め付けられて息が止まる。
あまりの恐怖のせいか、ふと正面の何も無い壁から見ることさえ恐いはずの左横の丸窓を横目で見た時、初めて海が窓枠の左の方へと遠ざかって行くのを感じた。体では既に感じているはずなのに、今になってようやく急上昇しているのが実感出来た。こんな光景、訓練の時しか見ない筈なのに今見ているのが不思議になる。
「もうちょっとだ、もうちょっとで雲の上に行く」
苦し紛れに言う機長の声が無線越しに遠くに聞こえ、室井は丸窓の景色をいつの間にか凝視していた。海が左の枠の外へと遠ざかって行く風景、訓練では見る事すらない度々見える砲弾の弾道に室井は更に恐怖した。
その直後だった。
急上昇に伴う地響きのような振動が、いきなり物にぶつかったような衝撃に変わり、体が椅子ごと振り回されそうな揺れに胃の中のものがシャッフルされる。何処かに被弾したのか、機内に焦げ臭い匂いが漂い始めて室井の鼻腔を擽り始める。空を飛ぶ飛行機の中で一番嗅ぎたくない臭い、粗末な造りのトイレから漏れでる便臭よりも悪質な臭いは焦げ臭い匂いの他にない。
「尾翼付近に複数被弾!被害規模は不明!」
後部にいた若手武器員が叫び、機長と副機長以外の乗員が一斉に後部の方に首を向けた。
終わった、誰もがそう思い出した時、機体が左向きに大きな弦を描くようにして徐々に上昇角度を緩めていく。だが回避行動の訓練の時より、復帰の弦を描く軌道が随分と長くなったような気がした。いつもより長く、ゆっくりと機体を水平に戻している。胃の中のものが喉辺りに来そうなのを我慢しながら随分と遠くの方に見えるようになった海面を丸窓から見つめた。
もうどこを見てもあの黒い海面は見えない。驚異が去ったと見て抱え込んでいたカメラの画面に攻撃を受けた直後の写真を映し出したその刹那、がくんと拍子抜けしたような揺れを始め、機体が小刻みに上下し始めた。
もしや、と思いシートベルトを外して足を踏ん張りながら操縦席へと入ると耳障りなブザーの警報音が鼓膜に響いて来た。一瞬だけ横に居る機上無線員と目が合ったが、話が出来るような空気では無かった。それに追い討ちを掛けるように副機長が切羽詰った声で叫んだ。
「機長、尾翼がやられた上にハイドロプレッシャーが落ちてきてます。操縦桿の動作も悪くなってきてる……このままではオールロスします」
ハイドロプレッシャーが落ちる。船の事は知り尽くしても航空機の事は無教養故に、ハイドロプレッシャーという単語を知らない室井は疑問符を抱いた。機の状態を確認しようとしてたが、そんな事を聞けるほど状態は良くないみたいとしか分からなかった。
「尾翼以外にも被弾してたのか、これは厄介な事になったぞ副機長。主翼の制御を電力駆動で出来るだけ機体を水平にさせてから乗員に脱出準備だ。撃ってきた目標からはだいぶ離れたが、今度は違う意味での死が待っているぞ」
「心得ております機長、では司令部と付近の巡視船に救難信号を出します」
頼むよと機長が声を掛けた時、後ろに室井が居ることに今になって気付いて目を合わせた。
「なんだ、室井君居たのかい?」
「機長、ハイドロプレッシャーというのは一体?」
「翼を動かす油圧の事だ、今はもうそんなものは無くなりつつあるがな。そんな事よりも脱出準備だ、すぐにパラシュートを付けろ、いいか?総員脱出準備だ。合図が出るまで待機だ」
副機長が口調を荒ぶる切羽詰まった状況でも声を荒らさず、冷静に話す機長の命令に体が反応するかのように、室井は何も声を発すること無く操縦席からすぐに立ち去ると機体後方のキャビンへと走り出した。室井に掛けた機長の言葉が乗員らのヘッドセットにも流れていたのか他の乗員も既にソノブイ発射器が飛び出てる機体後部で、ソナー員や戦術航空士が1列になってパラシュートを背負い始めている。
その空気はいつもの訓練とは程遠い程に、遠くかけ離れていた。
「谷川、ビデオのカセットは袋に入れて持っているよな?」
室井の横でビデオカメラを抱えながらパラシュートバックを背負う若手武器員の谷川に室井は話しかけた。初めて本物の緊急回避を経て、体の底から緊張しているのか谷川の手は小刻みに震えていてハーネスを付けるのも手間取っていた。
「もちろん、入れてますよ。大丈夫です」
「それならいいが、海水に浸ったらせっかくの記録が台無しだからな。俺のカメラはその時々の場面しか写ってないから」
「きちんと基地まで持って帰ります。それと……アレは一体何なのでしょうかね、全く砲台のようなものは見えなかったのですが」
「確かに、何だろうなぁ……アレ。本当に」
独り言のように呟きながらバックから自分のパラシュートを取り出した室井はカメラのファインダー越しに見たアノ黒い物体と、それと一緒に出現した人影を頭の中に思い起こした。今考えても理解が今ひとつ追いつかない、なぜあのような物体から弾が出てきたのか。どこかのSF映画にありそうな対空機雷を他国が実際に造り出したものがアレなのか、しかしそれよりも側に居た人影がどうも気になる。あの姿はダイバーと言うよりビキニ姿の女体に近かった、でも普通の人間ならば水色の光なんてものは発しない。何かを身にまとっていたとしか考えられないが、それも不自然だ。なら一体なんだというのだ。
分からない、さっきからそればっかりだ。
その分からないだらけの頭のまま、ハーネスを股に通して固定具に手を掛けたその時、足元がガタンっと跳ね上がったように上下に揺れて足を崩した。
「うわっ」と声を出した時には顔面が床に付く。周りを見渡せば1列に並んでいた乗員らが皆揃って足を崩して両手を床にへばりつくようにして張り付いていた。地震のような揺れに立ってすらいられない。
尾翼をまるまる失ったんじゃないか?とまで思える機の不調に、機長が補足を付けるかのように声を発した。
「乗員の皆様へ、本機は先の砲撃により尾翼を失い、更には大切な油圧までも喪失した。コントロールがほとんど効かない本機が那覇に降り立つ事はできない、この状況を例えるなら数十年前の日航機墜落事故とほぼ同じだ。だが我々はついてるぞ、こんな時の為にパラシュートがある。救助の方は司令部と海保に現時点での大まかな位置を報せた、幸いにして海面の温度は夏のおかげで高い。あの海面の調査にこちらに向かって来ている巡視船が我々を助けに来てくれる、だから安心して脱出の準備をして合図を待ってくれ」
まるで後世に託すような不自然にしっかりした口ぶり、そしてよりによって日航機の墜落事故を引き合いに出してきた機長の言葉を耳を澄まして聞いていた乗員はただ床にへばりついたまま固まるしか無かった。気休め程度に機長は言ってくれているつもりだが、聞いてる側にとっては悲しいお別れの言葉にしか聞こえない。
もしや、機長らは機と共に最期を迎えるつもりなのかと今のこの場にいる誰もがそう思った。
「室井先輩、機長達はなんで一緒に脱出しないんですか?」
何も脱出準備をしていない機長らを心配してか、谷川が問いかけきて、室井は「心配するな、すぐに後からやって来る」と返した。だが機長達が我々と一緒に脱出するとはさすがに思えなかった。
この機がどこに向かっているのかは皆目見当が付かないが、機長達は無論知っているはず。燃料をまだ半分も消費しきれてないこの哨戒機が無人のまま中国や南沙諸島に入れば人命や外交的にも厄介な事に成りかねない。地上の滑走路に降り立つ事が出来ない航空機は何も無い太平洋か、下が陸地なら山間部に落とすように仕向けなければならない。
だが尾翼と油圧の落ちたこの頑固婆さんをどうやって制御させて機長らは脱出するのか。そこからは今、操縦桿を握っている機長らにしかわからない。
信じてこの機から降りよう、それしか我々に出来る事は無い。
「総員脱出!脱出!」
機体の揺れがさっきよりもマシになったその時を見計らい、機長の合図がヘッドセットを介さず肉声でパラシュートを身につけた乗員達に届いた。合図を受けてセンサー1のソナー員が搭乗口のドアの開放レバーに手を掛けた。
「開放!」と短い掛け声がしたその直後にドアは勢いよく横にスライドし、暴風が機内の中へと入り込む。雲はすぐ上の方に見え、発動機の轟音と風の音で聴覚は機能してないのと同じになった。
そこから1歩を踏み出せば体は一瞬にしてスカイダイビングと同じ状態になる。そう思うと室井は思わず息を呑んだ。
「降下!」
ドアを開けたソナー員の側に居たセンサー2のソナー員が最初に先陣を切り、大空へと飛ばされて行く。それに続くようして次はレーダー員が1歩を踏み出す。そして先に飛んだソナー員のパラシュートが開いたのを見計らって次は機上無線員が同じように1歩を踏み出していく。
その光景は方陸自の空挺部隊のように見える。映像でしか見た事がなかった落下傘が連なる光景が今、目の前で起きている。そしてほんの少し後に自分も続いていくのだ。
若手武器員が降りたらすぐにフックを引けと短くレクチャーしてから先に行かせると、室井は殿を努める戦術航空士に「お先」と例をして1歩を踏み出した。
大空の中をパラシュート一つで翔き、目を開けることさえ出来ない強風に身を揉まれながらそれでも目を開けようとして瞼に力を入れる。空気に押し付けられたような腕をフルに動かし、手の先にパラシュート開放のフックを感じると即座に引いた。
一気に開いた円形のパラシュートは室井の体をわしづかむようにして引き上げ、降下速度を抑える。強風も無くなり、下に目を向けると蒼い海面が四方八方に広がる光景が視界を1杯にさせる。見たことも無い海の光景、この光景を撮ろうとしてもいつものカメラは防水パックの中。仕方なしに外ポケットに入れておいた薄い防水のデジタルカメラを取り出して手っ取り早くシャッターを1回切った。
自分の足と海面を写した写真を撮るとすぐに上を向いてさっきまで乗っていた機を探そうと目をくまなく向ける。するとすぐにパラシュートの影からP3Cの機影を見つけ、反射的にカメラを向けた。素早くズームとピントを掛け、尾翼が酷くひしゃげたこれまでの乗機を鮮明に画面に映し出すと室井は静かにシャッターを切るとすぐにカメラを降ろし、肉眼で凝視していく。
殿を務めていた戦術航空士のパラシュートを開いたのを最後に、視界に入っていたP3Cは速度を緩めることなく不安定な機動の中、雲が覆い尽くす空の中へと消えていった。
第一弾 完
参考文献:「兵士を追え」杉山隆男 小学館文庫より
P3CVS深海棲艦(?)いかがでしょうか。
しかしこの場面ではまだ相手が何なのか乗員達は知るすべもなく、海上保安庁の救助を待つしかありません。操縦不能になったP3Cの行方、あの三つの正体不明物体、救助に向かいつつある海上保安庁の巡視船。果たして次回はどうなるのか、完結まで書き切るつもりでありますがとてつもなく長くなりそうな感じであります。もしよろしければ応援のメッセージ等を頂けたら私、この上ないほど嬉しい限りであります。
それでは今回はこの辺りで、次作をお楽しみに。