『——間もなく、新宿。新宿。本日は人身事故により大幅にダイヤが乱れ、ご迷惑をお掛けしました』
アナウンスが終わると、数人が椅子を立った。皆口々に、事故に遭った被害者への悪口を呟いている。腕時計を見ると、時刻は午前零時近くを指していた。三時間の遅延だ。文句が言いたくなるのも分かる。
『イジメ? 彼が弱いのがいけないんだろう』
……転校前の記憶が蘇る。
『しかしイジメを認知してしまった以上、何か対処を——』
『小御門先生。貴方も、我が校の人間なら分かっている筈だ。加害者は、我が校へ多額の寄付をなさっている大企業の御曹司。……転校手続きは、私がしておこう。彼も、イジメられるくらいなら転校を望む筈だ』
『しかし……』
『小御門先生。これ以上の口出しは御免です』
——どうでも良い。忘れる事にしよう。引っ越した先では、両親の友人である女性の世話になる事になっていた。確か、八雲紫と言っただろうか。
改札の前で、女性が手を招いている。彼女が八雲紫だろうか。
「……新島 拓君だね? 私は八雲 藍。紫様の部下のようなものだ。……悪いが、紫様は手が離せなくてね。今日のところは、私が迎えに来た」
「よろしくお願いします」
「ああ。……一身上の都合、だったか。深くは聞かないが、あま目立つ事はするなよ?」
……視界が歪む。疲れているのだろうか。
「どうした? 早く車に乗りたまえ」
ダメだ。立っていられない。そんな根性も気力も無い。
「お、おい、どうした!?」
——————
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———
——
—
「……おや、お客人かな?」
——!?
部屋だ。小さな、薄暗い部屋。唯一ある窓には鉄格子が嵌められていて、其処から青い光が流れ込んでいた。まるで取調室の様だ。その部屋の中央に、長い鼻の老人が座っていた。その前に置かれているテーブルの上には、奇妙な柄のカードが置かれている。
「ようこそ、ベルベット・ルームへ。ここは夢と現実、精神と物質の狭間の空間。この部屋では、無意味な事は起こりません。……お座りになって下さい」
老人とテーブルを挟んで対面する様に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすと、老人は低い声で笑った。
「私の名はイゴール。ベルベット・ルームの管理人でございます。……占いはお好きですかな?」
そう言うと、イゴールは卓上のタロットへ手を伸ばした。どうやら、此方が占いを信じるかどうかは関係無いらしい。イゴールがテーブルの上をひと撫ですると、カードが均一に並べられる。手品か、あるいは。
「……」
イゴールが指を鳴らす。数枚のカードが、空中に浮遊した。
「……おや、これは」
わざとらしい声を漏らす。結果はとうに分かっていたらしい。
「……どうやら貴方は、大きな災いに巻き込まれるらしい。その結果によっては、貴方の未来は永久に閉ざされる事になるでしょう」
「……!」
たかが占いとは言え、そんな事を言われて良い気はしない。しかし、イゴールはニヤリと笑ってみせた。
「……大丈夫。そうならない様にサポートするのが、私の役目でございます。……おや、そろそろ時間の様だ」
ぐにゃりと視界が歪む。まだだ。まだ訊きたい事がある。
「そう急いではなりません。いずれまた、お会いする時が来るでしょう。どうか、その時まで——」
だめだ。もう意識を保っていられない。——意識が、プツリと途切れた。
——浮遊感。目を覚ました俺が初めて感じたのは、猛烈な浮遊感だ。そして、誰かに抱えられていると言う安心感。
「……おや、目を覚ました様だね」
藍だ。彼女は柔和な笑みを浮かべながら、空中を浮遊していた。……どう言う事だろうか。まだ夢から覚めていないのだろう。
「混乱している様だね。だが、もうすぐ目的地だ。其処まで耐えていてくれ」
遥か下に、緑の大地が広がっている。その中に点々と、藁葺きの屋根が見えた。俺の目的地は新宿の筈だ。しかし、少なくとも足元には高層ビルは見当たらない。——あれは、夢では無かったのだろうか。大きな災いに巻き込まれているのだろうか。
やがて藍は、大きな古民家の前に着地した。
「着いたぞ。紫様がお待ちだ」
藍の後に続いて、縁側から上がりこむ。穴一つ無い障子を開けると、一人の女性が正座していた。——彼女が、八雲紫だろう。
「ようこそ、新島 拓様。まずは、突然此処に連れて来た非礼を詫びさせて頂きます」
怪しい。その言動こそ詫びの言葉を口にしているものの、その目は何処か、俺を嘲笑っている様だった。
「此処は何処なんですか?」
「……此処は幻想郷。現世から隔離された、忘れ去られた者の住まう世界」
忘れ去られた者。その言葉の真意が、俺には分からなかった。
「信じたくは無いが……確かに、都内にこんな場所はありませんね」
「あら、戸惑わないのね。『どうして俺が?』……って」
「思っていますよ。でも……」
「でも?」
「俺は親に見放されて、貴女に拾われた。俺には、疑問に思う権利すらありません」
「……ふうん」
紫が、目の前に置かれた湯飲みから、茶を一口含んだ。
「素直なのね。卑屈だけど。……それじゃ、手っ取り早く用件だけを伝えるわ。……現在、幻想郷に異変が起きています。貴方の役目は、その異変が幻想郷中に蔓延する前に阻止する事。……選ぶ権利は無いわ。貴方は、その特別な力を駆使しなければならない」
「特別な……力?」
ベルベット・ルームにいた、イゴールの手助けだろうか。
「……住人の性格が急変してしまう、不可解な現象。私は、心身異変と呼んでいるわ。……あら」
紫が、突然声を漏らす。その視線は、俺の頬へと向いていた。
「頬、汚れてるわよ。倒れたでしょ。……藍。洗面所へ案内してあげなさい。話は後」
「……はい」
藍に促されて、彼女の後に続く。薄暗い廊下に出ると、藍は申し訳なさそうに振り向いた。
「……済まないね。巻き込んでしまって」
「……いえ。これからお世話になるんですから。……それで、洗面所は?」
「ああ、此方だ」
藍が扉を開けると、其処には古い洗面所があった。この家の豪華さと比べると、些か違和感がある。
「さぁ、私は先に戻っているよ」
そう言うと藍は、さっさと先程の部屋へ戻ってしまった。……顔を洗おう。
鏡の前に立つと、確かに自分の頬には、薄っすらと汚れが付いていた。倒れた時に付いたのだろう。
「……?」
違和感。鏡が、波立った。
「……」
ゆっくりと手を伸ばす。
「……!」
指先が鏡面に触れると、波紋が浮かび上がった。更に手を伸ばす。ズブズブと、鏡の中へ手が伸びて行く。
「……!」
右の手首まで入った所で、ぐいと手が引っ張られた。耐え切れない。俺は、そのまま鏡の中へと入り込んだ。
——————
————
——
—
一本道だ。目の様な模様が宙を彷徨っていた。一本道の先には、黒い扉がある。その前に、大きな甲冑が置いてあった。
「……?」
手を伸ばす。指先が甲冑に触れた。
「……!」
甲冑が、その刀を抜いた。
『……』
暫し、甲冑と睨み合う。此方には武器が無い。あったとしても、武士相手に敵う筈もない。
『汝は、巻き込まれた』
甲冑の中から声が漏れる。
『我は汝。汝は我——』
甲冑の隙間から、白い光が漏れた。その光が、自分の中へ吸い込まれて行く。やがてその光が止まると、甲冑は跡形も無く消えていた。
『我が名はムサシ。共に行こう』
……いつの間にか、手に何かを握っていた。——刀だ。一本の刀が、いつの間にか其処にあった。
——刀を構える。一太刀振り下ろすと、その剣先は扉の鍵を捉えた。南京錠が、音を立てて落下する。
「……」
扉を開く。その先には、小さな空間が広がっていた。
『小手調べだ』
心の中に、低い声が響く。
「!」
部屋の中央に黒い靄が浮かんだと思うと、その中から、得体の知れぬ化け物が姿を見せた。
『さぁ、我を呼べ』
「……ペ」
『必ず、汝の力となろう』
「……ル」
緑色の其奴が、動き出した。——スライムとでも呼べば良いのだろうか。ゲームの中では雑魚敵として出てくる様な其奴さえ、今の自分には強敵である。
「……ソ」
スライムが、ガパリと口を開ける。その中は、メラメラと炎が燃え滾っていた。
「……ナ!」
——スライムの身体が、二つに裂ける。その裂けたスライムの向こうに、ムサシの姿があった。
『次だ』
再び、その場に黒い靄が現れる。その靄は次第に形を成し、やがて巨大な『目』となった。『眼球』と表現する方が正しいのだろうか。
「……ブフ!」
ムサシの剣先から放たれる氷結魔法。それは確かに眼球へ直撃した。——しかし。
『動くぞ!』
ムサシが叫ぶ。——目蓋だ。ただの眼球だったそれに黒い布が被さり、瞬きをする様にゆっくりと下降している。
『逃げろ!』
——間に合わない。あと数センチ。
「……アギ!」
——背後から、声が響いた。火球が拓の肩スレスレを抜けて、眼球を捉える。その小さな炎は目蓋を焼き尽くし、眼球だけが其処に残った。……助かった。何が起きるのかは分からなかったが、ろくな事では無かったに違いない。
「ありがとう。助か……」
礼を言おうとして、振り向いたその先には。
——1匹の柴犬が、ちょこんと座っていた。