ゆっくり、ゆっくりと歩いて行く。スニーカーが砂利をギチギチと踏み鳴らしていく音。振り下ろされた足の衝撃に砂が僅かに舞い上がる音。
どれもこれもが彼の耳には不快な音に聞こえてしまう。
当然だろう。まったくもって改善する気配がない、むしろ3日前よりも2日前、昨日より今日と段々悪化しているのだ。
もうそろそろ締め出しを食らってしまうかのような雰囲気を持っている商店街。
一体どんな噂が流れてしまったのか不思議で不思議で仕方がなかった。だが、ソレを確かめようにも誰ひとりとして話そうとはしないため、把握手段が彼には無かった。
だが、それで諦めてしまってはそこで何もかもが終わってしまうと彼は考えているため、今日も歩く。
「まったくどうなってんだよ……」
足取りは一月前と比べると恐ろしいほど重く感じられ、この重さを感じれば感じるほど引き返したくなってくるのもまた事実。
完全な村八分状態といっても過言ではないだろう。
だが、歩みを進めるという事はそれだけでも商店街に近づいている事他ならないので、段々と商店街の輪郭が見えてくる。
眼の良い妖怪ならこの時点で彼の姿を視界に入れる事が出来たであろう。
事実、商店街の外れ付近にいた妖怪は耕也の姿を見る事が出来た。
「またあの裏切り者か……」
そう忌々しげにつぶやく妖怪もいれば、関わりたくないとばかりにそっぽを向いて中心部へと早歩きしていく輩もいる。
だがその姿、会話を耕也は聞きとり見る事のできる距離まで近づいてはいないため、その一部始終を把握できはしない。
だが、大凡彼にはどんな扱いを受けるかは予想づいていた。
まるで親の仇を見るかのような眼で見られるのだろうと。そう彼は考えていた。
今まで暴力を振るわれなかったのも不思議ではあるが、此処まで来たならば、流石に今日は暴力を振るわれる事は無いだろうと。
そう考えていたのだ。
そして、彼はその考えを持ったまま商店街に入って行く。
(くっそ……面倒な)
内心毒づきながら、彼は努めて表情を明るくして闊歩する様にする。
が、そんな安易な仮面も長くは続かなかった。
「この糞が! 死ね!」
その言葉と共に、拳大の石が投擲される。
その意思の速度は大リーガーの速度とほぼ同じぐらいであり、一瞬にして耕也の頭部に直撃する。
だが勿論耕也の内部領域がその存在の干渉を許すはずがなく、表皮より数cm外側で止められ、一瞬で砕け散る。
まるで火薬が炸裂したかのような凄まじい音があたりに木霊し、周囲にいた妖怪達の視線を一気に集めてしまう。
もちろん、そんな事をやられて黙っている耕也ではない。
「何をする!」
そう、真正面から投げてきた愚か者に対して抗議するのだ。
だが、、そこで耕也はふと自分に違和感を覚えた。
(領域がおかしいような……?)
通常とは殆ど変わらない防御なのだが、若干その受け流し方や茶道のタイミング。そして何よりも少しだけ。ほんの少しだけ領域が柔らかく感じてしまったのだ。
何時もなら鋼鉄にあたって石が砕けるような、そんな堅さを持ち合わせていたはずなのだ。
だが、今回は少しだけ違っていた。
(まるで堅いゴムに当たったかのような……?)
そう、インパクトの瞬間にほんの少しだけ石がめり込んだ様に感じたのだ。
自分の気のせいだと良いのだが。と、領域の不自然さに疑問を持つ耕也だったが、少し前の事を思い出してひょっとしたらと思ってしまった。
それは
(あの時想像が上手くいかなかったのもこれが関係している……?)
そう、勇儀に対して創造を使った際、失敗するはずのない簡単な創造が失敗してしまった事である。
あの時特に気にしてはいなかったが、いざ考えてみるとこの領域の不自然さと妙にマッチしてしまっている気がするのだ。
そして、その事を加味して考えた瞬間、異様な不安が彼を襲った。
(もしかして……領域が弱まっている?)
一番あってはならない事。ソレが現実のものとなった時には、最早この地底では暮らしていけなくなるということの表れになる、領域の減衰。
俺の勘違い、考えすぎで会ってほしいという願望が噴出してくるのだが、一度意識し出したら中々ソレが引っ込んでくれない。
だが、それでもこの場で考える事ではないと思い、耕也は相手の返事を待つ。
「何をしたかだと……?」
石を投げつけてきた妖怪は、まるで耕也を信じられないモノを見るかのような眼で見てくる。
そう、彼が殺人でも犯した揚句何食わぬ顔で街を闊歩しているかのようなモノを見るかのような眼。
もはや何をされるか分かったものではない。
そう考えた耕也は、身構えてしまう。
が、次の瞬間に来たのは物理的な攻撃ではなく、駁撃であった。
「おまえが、お前が……………………聖白蓮を解放したからだろうが! ああ!?」
その言葉を聞いた瞬間に、耕也は
「へっ?」
訳が分からないという顔をしてしまったのだ。
無理もない。彼が一体ここまで何のために努力をしてきたのか。
聖白蓮の存在をばれないように細心の注意を払って生活してきたのだ。現に彼の行動に情報が漏えいするような落ち度は無かったし、そしてこれからも無かったであろう。
だが、現実にバレてしまっている。それは眼の前の妖怪の口から出てきたのは明白であり、完全に把握されていると見られる。
しかしソレを認めたくない自分がいる。だが、現実としては認めなくてはならない。
なら一体だれが? 一体誰がこの情報を漏らしたのだ?
耕也は極短い時間の中で頭をフル回転させて必死に答えを見つけようとする。
(一輪達が存在を漏らす事などあり得ない……。ならば地霊殿の連中がうっかり……? いやいや、でも彼女等は商店街にはあまり出掛けないし、何よりも彼らを嫌っている部分もある。ヤマメ達もあり得ないだろう。彼女らがそんな簡単に裏切る妖怪だったら、この地底での人気は出ているはずはない。…………なら一体誰が? 勿論、この間来た勇儀達はあり得ないだろうし……ああ、嘘を吐いてたから白紙になったのか)
が、どんなに回転させても答えが出てこない。
まったくもって訳が分からない。そう思うことしかできなかった。
ふるふると震える手を必死に抑えつけようとしながら、彼は再び尋ねる。
「…………っ! 聖白蓮……? はっ、おまえはいったい何を言っているんだ?」
彼はこの場で自らを村八分状態にしていた原因の情報を得ると同時に、白蓮が俺によって解放されたという情報が一体どこから出回ったのかという事を明らかにしたかった。
だからこそ、心の中では現実を認めると同時に、目の前の妖怪に対しては未だに現実を認められない愚かな人間を演じたのだ。
だが、其れは予想以上に大きな効果をもたらしたようで、耕也にとっては良い方向に、目の前の妖怪にとっては情報を引き出されるという悪い方向へと向かって行ってしまった。
「はあ? お前こそ何を言っているんだ? お前に解放されたと聖白蓮がこの商店街のど真ん中で広めたんだぜ?」
その瞬間に
(いや、そんなはずはない。彼女がそんな阿呆な事をするわけがない。彼女が自らの存在をばらしたら、それこそこの地底で暮らせなくなるという事は知っているはず……)
が、その冷静な考えとは裏腹に口から出てきたのは戸惑いの言葉、焦りの感情であった。
「な……! そんな訳がないだろう!?」
だが、彼から放たれた言葉は彼にとっては唯の現実逃避をしたい人間にしか映らず、余計に彼の心を苛立たせるだけになってしまった。
「てめえ……お前が聖の思想を分かっていながら解放したってのはこちとら把握してんだよ!!」
そんな事を言ってくる妖怪。
そして、その言葉が放たれた瞬間に、周囲の空気が一変した。
いや、それには語弊があるだろう。先程の険悪な空気がさらに劣悪なものに変わったというべきだろう。
目の前の妖怪が言った瞬間に、周りからの怒号が響き渡る。
彼の所業を並べていった挙句の果てに、周りの妖怪たちの怒りが炸裂してしまったといった感じであろう。
突然の怒号の炸裂に耕也は驚いてしまったのか、びくりと肩を震わせて周りを急いで見やる。
「裏切り者!」
目を合わせた瞬間に、罵倒の言葉とともに妖力弾を撃ち込まれる。
もちろん耕也は、即座に反応して身をそらし、なんとか回避することに成功させる。
が、その避けられた妖力弾は的を失い、誰かの家へとぶち当たり、屋根に穴を開けていく。
その家の家主か分からないが、怒りの声を上げて、撃ち込んだ妖怪ではなく耕也に向って弾を打ち込む。
そして危なげに避ければまた別の妖怪を怒らせてまたもや弾を撃ち込まれる。
「やめろ! ふざけんな!」
そう言って牽制するが攻撃が収まる気配は全くない。むしろ、その耕也の口に新たな怒りの火を増すかのように苛烈になっていく。
だが、耕也もこれ以上強い行動に出ることができない。なぜなら耕也もまた自分に日があることを知ってしまっているからだ。
もちろん耕也が白蓮の解放を行ったのは、この地底の妖怪たちにとっては裏切り行為以外の何物でもない。
ようやくこの人間なら地底に受け入れてもいいかなと思っていた矢先である。
そこで裏切り行為が生じてしまったら、怒らない者は誰一人としていないだろう。
だから耕也に対して強烈な怒りが湧き上がってくるのだ。
其れが申告した者の手のひらの上だという事に気が付かなくても。
たとえそれが計画した者のシナリオ通りだとしても。
そしてそれがどんなにあがいてももはやどうしようもないほどの手遅れな事態になっていようとも。
そうしてどんどんと弾の量は増え、ついには耕也が被弾し始める。
だが、領域が全てを防いでいく。だが、いつもと違って壁が薄いように耕也は感じてしまう。l
いや、其れはもはや確信へと昇華していた。
(――――――っ!!)
その瞬間に、耕也の目に恐ろしいものが飛び込んできたのだ。
(ひ、罅!?)
そう、罅である。
其れはまるで、車のフロントガラスに形成されたようなクモの巣状の罅。
見た瞬間に耕也の背筋が先ほどとは違う意味でゾクリとする。
目の前の絶対的な防御が瓦解しようとしているのだ。
圧倒的な力で全ての悪意を跳ね返すことができる領域。彼が全幅の信頼を寄せていた最硬の壁。
其れが一体何故今になって崩壊しようとしているのか。
次から次へと予測不可能な事態が発生するので耕也はもはや頭がパンクしそうになる。
(兆候も何もないってのに……訳分かんねえ!)
攻撃してくる妖怪たち。崩壊しようとする盾。突然漏洩した白蓮の情報。
もはや耕也に対処しきれるレベルを軽く超えてしまっているのは、誰の目から見ても其れは明白であった。
こちらの精神を摩耗させるかのような罵詈雑言。そしてその叫びとともに投擲される石や妖力弾。軍と対峙した時でさえもここまでひどくはなかった。
もはやそれらの連続的な攻撃は耕也に撤退以外の道を示してはくれない。
「くっそ……!」
そう呟きながら、攻撃が届かなくなるまでどうかこの領域が持ってくれますように。
そんな事を願いながら、耕也は自分の家へと逃げ帰った。
「どっから洩れた……?」
逃げ帰って数日後の朝に突然呟いた言葉。
一体どうしてこの情報が漏れてしまったのだろうと考えていた結果であった。
逃げ帰ってからは頭が真っ白になってしまい、自分が何をしていたのかすらわからない状態が続いてしまった。
だが、だんだんと自分の置かれている状況を整理しようという気持ちになり、ようやく彼の思考回路がまともに動き出した。
「俺は間違いなく洩らしていないのは明らかなんだが……。白蓮自身が洩らしたという事についてはもちろんあり得ないと言えるだろうし……」
やはり数日前の商店街での思考とほぼ一致しまう。
とはいえ、今回の事で1つだけ明らかになった事がある。
それは
「もう俺に居場所はどこにもないってことか……」
ということである。耕也の居場所がもはや地底のどこにもなくなってしまったという事なのだ。
彼がこの地底に来てから築き上げてきた居場所。そして何よりも経済活動の中心部である商店街との繋がりを一切断たれてしまったからには、もう彼にはどうしようもないのだ。
そしてそのことを彼が再認識した瞬間、またどこかに行かなければならないという途方もない虚しさと悲しみが襲ってくる。
「くそが…………」
言葉を呟いた瞬間に目頭が熱くなり、じんわりと視界が歪んでいく。
それは意識した時点でもう止めることなどできず、ただただ感情の溢れとしてボロボロとこぼれていくのみ。
ポタポタと卓袱台を濡らしていく様は、もはや底につい先日までの気力に溢れていた男の姿はなく、錆びれた機械のように陰鬱とした空気をあたりに振りまく暗い物体であった。
「――――――っ!」
現状にどうしても納得がいかないのか、思わず耕也は卓袱台をぶったたいてしまう。
だが、その拳は力が弱かったためか簡単に跳ね返され、逆に惨めさを増加させていく。
しかし、これはもはや仕方がないというべきなのだろう。どうもここまで周りとのつながりが無くなるのは久しぶりなので、慣れようにも慣れないし彼のメンタルももはや限界に近付きつつあったのだ。
一体だれがこの情報を漏らしたのか。そしてその当の本人である白蓮は何故姿を現さないのか。
漏洩させた犯人に対して怒りがわくと同時に、白蓮に対しての心配がさらに募る。そして、このような簡単な策略にハマってしまった自分自身を許すことができない。
またもや頭の中がごちゃまぜになりそうであったが、耕也は何とか其れを払いのけ、また別の疑問について考えることにした。
其れは
「何でこの家にまで攻めてこない……?」
そう、逃げ帰ってから数日。彼の家には誰一人として近付いてこなかったのだ。
あれほどにまで怒り狂い、そして暴力を加えてきた妖怪達。それがこの家にまで危害を加えることは想像に難くなかったのだが、何故か彼らはこちらの家に対して攻撃を仕掛けてこない。
だが、こう首を傾げても全く解決にはならないし、かといってこのまま待ってれば妖怪たちが攻めに来てくれるとかそんな期待をしている訳でもない。
だからこそ、耕也は気になった。一体何で俺に対して追い打ちをかけてこないのかと。
例え其の事を疑問に思って商店街に出向いたとしても、前以上の攻撃を受けてしまうに違いない。
ならば、座して待つべき。この家から出ない方が身の安全を確保できる。
そんな臆病さが先立ってしまうのが耕也の現状なのである。
もちろん、この恐怖などといった感情が妖怪たちに向けられているというのも一部はあるが、最も大きな恐怖の対象は領域であった。
(次に来たときにはもう防いでくれないのかもしれない…………)
先の攻撃により領域に罅が入ってしまったという事である。
其れが一体どのような影響を及ぼすのかについては、もちろん耕也自身が一番理解していた。
もしこのまま症状が進行していくのならば、彼は間違いなく妖怪たちによって殺されてしまうだろう。
この八方塞がりと言っても過言ではない状況の中、耕也は少し精神を落ち着かせようと卓袱台の上にあった煙草に手を伸ばす。
その手は些か大きく震えており、恐怖とニコチン切れが併発しているという事を如実に表していた。
パックより取り出し、そしてライターで火を付けようとした瞬間に、其れは起こった。
「耕也さん!」
女性の中ではほんの少しだけ低く、それでいて透き通ったこの声。もはや耕也には彼女しか覚えがなかった。
煙草を取り落し、思わず叫んでしまう。
「びゃ、白蓮さん!」
そう、白蓮である。彼女が一瞬にして耕也の家にまでジャンプし、彼の安否を確かめに来たのだ。
そう耕也が叫んだ瞬間、白蓮は一瞬で嬉しそうな顔をし、そして耕也を強く強く抱きしめていく。
其れはもう絶対に話さないと誓った仲であるかのように熱い抱擁。彼が無事であったという事を素直に喜んでいるように見える抱擁。
彼は白蓮の強い抱擁に戸惑いを覚えてしまったが、すぐさま自分の事をいsんぱいしてくれたのだという事を悟り、耕也も抱きしめ返す。
そして大凡30秒ほど経過したころだろうか?
彼女がようやく耕也から離れる。が、すぐに両手で顔を挟んで顔の真正面に来るように仕向ける。
耕也の顔を舐めまわすようにじっくりと見て、口を開く。
「耕也さん、怪我はありませんか!? 地底の妖怪たちにひどい事をされたのでしょう?」
彼女は耕也が妖怪たちに襲われた事を知っていたようだ。
が、其れは耕也にとっては何の疑問を持つところではないと判断できるため、素直に彼女の言葉を受け取って返事をしていく。
「大丈夫ですよ白蓮さん。御覧の通り、何の怪我もありません」
妖怪に襲われたときに領域が干渉してくれるのは白蓮も知っているため、彼は素直に白蓮の質問に答えた。
もちろん、白蓮を安心させるための一心で彼女に言ったのだ。
「よかった……本当によかった」
そう白蓮は、耕也に怪我がない事を改めて確認すると、やっと付きものが落ちたかのように安心したような顔をした。
そして白蓮は耕也から少し離れて、座りなおす。
「ごめんなさい耕也。ちょっとはしゃぎ過ぎてしまったかもしれないわ」
抱きついた事を言っているのだろうと判断した耕也は、特に気にすることはないといったニュアンスで 白蓮にフォローを入れていく。
「いやいや、大丈夫ですよ白蓮さん。……それよりもですね」
耕也は白蓮に対してある事を言おうとする。
もちろん、自分自身が襲われているのならば、白蓮が自分自身の存在が地底に知れ渡ってしまったという事を理解しているはずなので、これから言う内容も分かってくれるはずだろうと。
そう判断して彼は口を開こうとする。
が、口を開こうとした瞬間に、白蓮によって口を塞がれてしまった。
「その先からは言ってはダメです……貴方の言う案は非常に愚かな案です」
そうドスの利いた声で言ってきたのだ。
まるで自分が言おうとしている事が一字一句分かるとでも言うかのような態度であった。
耕也はその態度にあっけにとられてしまい、なんとも言えない複雑な気持ちにさせられる。
驚きなのか、恐怖なのか、悔しさなのか、悲しさなのか。とにかく良く分からない気持ち。
そして、その気持ちの事で耕也が数秒固まっていると、白蓮が今度は切りだしてくる。
「耕也さん……今あなたには大勢の敵がいる事を自覚はしていますか?」
その事を聞かれた耕也は一瞬表情をびくりとさせてから、ゆっくりと頷く。
あなたのおっしゃる通りだと。そう、貴方の言っている事に一切の間違いはございませんと言う意思表示。
その頷きに白蓮は一定の満足がいったのか、耕也に改めて口を開く。
「なら話は早いです。耕也さん……何故私の存在が知れ渡ってしまったのかは分かりませんが、とにかく耕也さんの身が危険だという事は分かりますね?」
そう彼女は冷静かつ切羽詰まっているような雰囲気を醸し出しながら、耕也に対して説明をしていく。
それに対する耕也の反応は、特に彼女の言う言葉に間違いは無いため、時折頷きながら返事をしていく。
だが、実際問題彼の居場所はこの地底に無いという事は明らかであり、彼がどのようにあがいたとしてもこの事実は覆らないし、白蓮の求めている理想も実現はしなくなってしまったのだ。
ソレに対して耕也は深い自責の念を禁じえない。
彼女の事を俺が解放した。此処まではまだ大丈夫だったのだ。これが彼女達の本当の願いだったのだから、解放した事を悔やむ必要など何処にもない。
だからこそ、その後の対応を誤る事が無いように頑張らなければならかったのだ。責任の所在はどうであれ、彼女の存在がばれないようにするために万全の対策を講じなければならなかった。
だが、ソレを怠ってしまったがために彼女の存在を地底中に広めてしまったのだ。
それゆえに耕也は自分を責める。
が、後悔しても何も変わらないという事は彼も十分に分かっている。だから、彼は提案しようとする。
この場から逃れるための最上級の手段を。もしこの策が成功すれば、何年も日ノ本には戻ってくる事ができないだろうし、彼女達には苦労させるだろう。
だが、彼には自信があった。生活の事に関してなら創造関係を使えば何の支障も無いし、彼女達を守る事に関しても創造程度でどうとでもなる。
が、彼の脳内に残っていた問題は、彼女達が納得してくれるかどうかであった。
もしこの日ノ本を離れるわけにはいかないという意志が固かったとしたならば、彼は彼女達を連れていく事はできない。
一輪や村紗、特に白蓮は非常に頑固な性格だという事を彼は把握していた。芯が物凄く太く、一度決めた方針や心構えなどをどんな状況になっても一切変えることなく突き進む。
まさに彼女は聖人と呼んでもおかしくない女性。だからこそ、ソレがあったからこそ地上を追いやられ、魔界へと封印されてしまった原因にもなったのであろう。
だが、彼がこの場で彼女の欠点を指摘しながら説得したとしても状況は全く好転しないだろうし、逆に議論がこじれてしまうだろう。
そう思いながら、彼はどう切り出そうかと悩んでいると、先に白蓮が口を開いた。
「耕也さん。私達に居場所が無い……それは十分に理解しているつもりです。最早この地底から離れなければならないということも。だからこそ、私は耕也さんに提案するのです」
そう彼女が一息に言った後、大きく息を吸って今度は少し大きめの声で耕也に提案する。
「私達と一緒に魔界へ参りましょう?」
私の居場所を作ればいい。
耕也に対する思いが、この答えを彼女に与えた。
あの時、彼女が押し入れの中で勇儀達との会話を聞いていた時。何もする事が出来なかった彼女は、自分の居場所がとられてしまうという事を自覚したのだ。
どうしても自分の居場所が欲しい。彼が勇儀に対して時間をかけているのを見るのは非常に耐えがたく、見ているだけで腸が煮えくりかえるのだ。
そんな気持ちを彼女はずっと抱いていたのだ。
そして同時に彼に対しての独占欲が首を擡げてくるのだ。
彼女が必死で築いてきた関係を壊される事自体が最早吐き気を催すほどのモノであるため、彼女は実行する事にした。
居場所を作るため。何よりも勇儀にとって最も嫌いな嘘を彼が吐いたと認識させるため。そして耕也を自分のモノにするため。
ふう、と息を吐きながら自らのいる魔界を見渡していく。
いつもいつも変わらない風景。面白みのない風景。
だがこれももうすぐ終わるのだ。彼がここに来ればすぐに終わる。
そう白蓮は耕也が来た後の事を想像して、頬を緩ませる。
彼がここに来るだけで、自分の日常が全て変わっていくのだと。きっと素晴らしい毎日になるに違いない。
そう、あの女に耕也を渡すことなどもってのほか。もったいない。私が隣にいた方が確実に彼のためになる。彼の傍にいるのは私の方がふさわしいのだ。
そんな事を彼女は考えながら、大きくため息をついた。
その表情には先ほどとは違い、僅かながら緊張が見えるようになっていた。恐らくこれからする事に失敗など許されないのだろうという事をしっかりと心に刻み込み、認識をしたのだろう。
「そろそろ行きましょうか……」
さらに表情が変わっていく。今度は緊張感のある笑顔から、猛獣が獲物を見つけたかのような笑顔になっている。
そしてその表情のまま彼女は立ち上がり、一歩一歩と焦げ茶色の地面を踏みしめながら、歩いていく。
彼女の向かう先は、は魔界から耕也の家ではなく、商店街へと急遽変更されることとなった。
「皆さんこんにちは。私は聖白蓮と申します」
そう言いつつ彼女は商店街のど真ん中に降り立った。
一瞬彼女の声と姿を見た者は、何を言っているんだこいつはといった顔をしていたが、彼女の声の内容を把握した瞬間に、顔が歪み始めた。
そして
「な……なあ…………!」
群衆の中、1人の男が声を上げ始める。
しんと静まり返った商店街の中で上がる男の声。それは大きく周囲に響き渡り、彼の感情を皆に伝えていく。
皆一様に同じ気持であった。
驚愕。怒り。
だが、今はまだ驚愕の方が大きく占めている。
眼の前の女は勿論群衆の思うように、非常に厄介な女でもあり、そして地底の妖怪達にとって敵でもあったのだ。
それは人間、神、妖怪と言った種族間の平等を謳っている尼僧。
そして、その女が此処に現れて説法をし始めようとしている事自体がすでに驚きになのにも拘らず、彼らにとってはもう一つ大きな事が重要となっていた。
「なんで……? あんたは封印されたんじゃないのか……?」
先ほどの男が述べた言葉。それは全員の疑問を的確に表していた。
一体何故この女がこの地底に現れる事ができたのだろうか? 一体どのようにしてあの封印から解き放たれたのだろうか? いや、自分の力で封印を打ち破ることなどできないはず。ならば、あの女の封印解除を手引きした者がいるはず。
群衆の考えはまさにこの内容に一致していた。
そして、男の呟いた質問に、まるで待っていましたかのように、白蓮はニンマリと笑って一言話す。
「大正耕也さんが解放してくださいました!」
ソレは全てを崩壊させる一言。そして彼女の安全を更に低下させる一言。
だが、彼女の言葉を聞いた瞬間に、最早彼女がこの場にいる事等彼らには見えなくなっていた。
全ての者たちがその言葉に集中する。
「ふざけんなあの野郎おおおおおおおおっ!」
誰かがそう叫んだ。
それは怒号。数か月を掛けて耕也が構築してきた関係を一瞬にして崩壊した事を告げる合図。
その怒号は一瞬にして群衆の間を駆け巡り、彼らの感情を更に昂らせ、言葉として口に出させることになる。
「消えろクソアマああああ!」
「あの野郎殺してやる!」
「裏切り者めが!」
耕也に対しての罵詈雑言、そして何より目の前に顕現している白蓮に対しての言葉も出てくる。
が
(心地良い……ここまで計画通りにいくと本当に気持ちが良い)
言葉を浴びせられても全く答えた様子はなく、むしろそれを嬉しそうに受け止めている。
全てが計画通りに進んでいるため、彼女の心はもはや耕也の傍にいるという事が確定しそうになっているのだ。
罵倒を受けることがこれほどうれしい事など彼女にとっては初めての事であった。
だから、この新鮮で強烈な感覚に酔いしれているのだ。自分の居場所を創るため。
ゾクリゾクリと体が震え、そして血液が一気に脳へと駆け上がっていく。
そしてこの感覚から彼女は確信してしまったのだ。
もう後は放置しても彼らの怒りと言う火はさらに広がっていくだろう。と。
ふと、彼女の目にと在る者が映りこんできた。
其れは、彼女が最も敬遠すべき相手であり、最も嫌うべき憎き敵であった。
(星熊…………)
群衆の中に紛れ込んでいた勇儀は、白蓮が嘘を言ってはいない事を見抜いたのか、なんとも言えない苦々しい表情をさらけ出している。
まるで今まで信じていた相手に裏切られたかのような失望感漂う表情。必死にその表情を見せまいと唇を歯で噛み抑え込もうとしてはいるが、其れを隠す事が出来ずにいた。
噛む力が強すぎるせいか、彼女の唇は歯の力に負けてしまい、つつつ、と血が溢れてくる。
その事実を認めながらも、彼女は恨めしそうに白蓮を見続ける。
私の男を変えてしまったな? とでも言うかのように。
または、耕也に嘘をつかせるような事をさせたお前が悪い。とでも言うかのように。
はたまたは、嘘吐きと婚約することになるとは……と言った後悔の念でも出てきそうなほどに。
勇儀はひたすら彼女をにらみ続ける。
武力を行使することはできない。それは確実にこの地底での悔恨を残すであろうから。
勇儀は馬鹿ではない。ある意味強かでもあり、そして実に計算高い行動を行う事が出来るのだ。
だからこそこの場で怒りにまかせて激昂することができない。ただただ大きく、鋭い静かな怒りを彼女に向けるのみ。
血を唇から流しながら。その表情を普段とは面白いように変えながら。
「ふ……ふふふ…………ふふふふふふふ……!」
白蓮の唇から笑いが漏れてくる。
当然とも言うべきか。彼女の思った通りに計画が進行している事がたまらなくうれしかったのに、今度は勇儀にすらも簡単に勝ってしまったのだ。
相手が何もすることができずにそのまま唇を噛みしめている哀れな姿がたまらなく爽快だったのだ。
「あはは、あははははははは! あっはっはっはっはっはっは! 嘘を! 大嘘を吐いていたのです! あっはっはっはっはっはっは!!」
彼女は完全な勝利を確信し、ひと際大きな笑い声を上げる。それはもはや嘲笑の類と言っても変わらないだろう。
いや、完全な嘲笑を勇儀にプレゼントしているのだ。
群衆の発する怒号が飛び交う中、彼女の勇儀を嘲笑する声は、非常に大きく、そして鋭く響き渡った。
そう、彼女は耕也と言う男の持つ特性を存分に生かし、非常に短時間で物事を進めていったのだ。
「着きましたね……。ここでしばらく暮らしておけば、何の問題も無いとは思います」
そう自信満々に答える白蓮。
あの後、耕也は自分に居場所がない事をひどく恐れ、白蓮の提案に渡りに橋とでも言わんばかりに猛烈にすがった。
其れを彼女は快く承諾し、彼を魔界に連れて行ったのだ。
だが、彼にはほんの少しだけ引っかかるような感覚があった。
まるで其れは何かとても大事な事を忘れているかのような、そんな感覚。
其れを忘れてしまっては、今後の人生に大きな影響を及ぼすかのような、そんな感覚。
だが、彼には思い出す事が出来ない。今までの出来事が余りにも強烈かつ悲惨だったためか、其れを容易に思い出す事がかなわないのだ。
思い出そうとすると、彼の脳にはあの怒号が蘇ってくるのだ。決して忘れることのできないあの怒号。
だからか、耕也はその重要な事を思い出す事をすぐに辞めてしまったのだ。
自分はこれからこの地でまた1からスタートするのだと。そう心に決めていたから。
いつしか彼は白蓮の事が最も信頼できる人にまで上がっていた。
いや、むしろ彼には信頼できる人がいなくなってしまったため、信頼せざるを得なかったのだろう。
だが、彼の本心では白蓮の事は十分に信頼に値する人物だという評価が下されており、それも相まって彼は依存しかかっていたのだ。
そしてもう一つ不安があった。
其れは
「白蓮さん……俺はいつまでここで暮らしていけばいいのでしょうか……?」
居場所が無くなり、そして信頼をも失ってしまった耕也が、どれほどの年月をこの魔界で過ごさなければならないのだろうか?
其れは耕也にはとてもではないが図りきれるものでもない。
だが、彼には1つだけ分かっている事がある。
其れは
「最低でも100年単位で暮らさなくてはなりませんよね?」
相当長い年月をこの地底で過ごさなくてはならないという事だけは分かるのだ。
なぜなら妖怪の寿命は長い。非常に長い。
恐らくこのままいけば、世代交代が行われる年月にまで経過したとしても伝承か何かで確実に後世へと伝えられていくだろう。
そうすると、もはや数百年ではだめなのかもしれない。
だからこそ、耕也は聞いたのだ。ひょっとしたら半永久的にこの魔界で暮らさなくてはならないのかもしれないという事を匂わせながら。
そして、それは白蓮にもきっちりと伝わったようで、苦々しげな表情で彼女は頷いて話し始める。
「そうです。私たちは相当長い間二人っきりで暮らさなくてはならないのです。そう、二人っきりでね」
苦々しげな表情で、かつ沈んだ声で悲しそうに話す彼女はそれがまぎれもない事実であるという事を残酷なまでに彼に突きつけた。
が、何故か。どこかではあるが、耕也には白蓮が喜んでいるように、この状況を楽しんでいるように感じた。
其れは自分の気のせいなのだろうか? と。
そう思ってしまうほどの何かを感じ取った耕也。
だが、其れは唯の杞憂であろうし、白蓮がこの状況で喜んだりするはずがない。
そう自分に言い聞かせながら、先程の考えを一蹴して自己完結する。
ただ、この何もない景色は何度かここに来た事があるためよく覚えてはいるのだが、ここまで殺風景だと何度来ても慣れない。
あの騒がしかった地底の生活が本当に無くなってしまったという現実を突きつけられた気分になる耕也。
もはや其れが当たり前の日常へと変貌しようとしているという事が堪らなく虚しく、そして悲しいのだ。
それゆえか、一気に目頭が熱くなり、気道が一気に狭くなってくる。
最近は泣く事が多くなったかもしれないと思いながらも、涙を抑える事が出来ずポロポロと流れ出す。
おまけに息苦しい。
何故こんなにも息苦しいのか分からないが、とにかく息苦しい。
そんな事を耕也は思いつつ涙を拭いていると、後ろから抱きつく白蓮の姿があった。
その顔は、耕也の気持ちを十分に分かっているのか、同じように涙を浮かべながら耕也に対して励ましの言葉を述べていく。
「苦しいのは分かります。私も一度経験した気持ちです。この荒れ果てた土地で長い年月を過ごすという事は凡人の精神では耐えられません」
そこで一区切り置き、白蓮は耕也の右肩に顔を乗せて呟き続ける。
「ですが、貴方は一人ではありません。決して一人ではないのです。孤独ではないのです。孤立無援ではないのです。助けがあるのです……」
その言葉を耕也にしみ込ませるように。ゆっくりと呟いていく。
其れはまるで母親が息子に対する話し方。慈しみに満ちた、誰もが安堵、安心するような話し方。
ざわついている水面に蓋をしてゆっくりと落ち着かせていくような動作。
「そう、貴方には私がいるのですから……」
今度は何者をも魅了するかのような妖しく艶やかな声。
そして、ゆっくりと肩から首へと顔を近づけて、ゆるゆると当てていく。
ぷるんとした潤いのある唇を右耳の傍に近づけて一言。
「そう……ずっと二人きりでね……?」
ゾクリと背筋が震えてしまうような声色。艶やかである半面、何か……底知れぬ恐怖を湧き起こさせる声。
耕也は涙を流しながらも、その声色の変化に気が付き、少々体をピクリと揺らしてしまうが、白蓮の抱きつき、拘束からは逃れることはなかった。
「私たちの居場所はここにあるのですから……静養だと思えば。それでいいのですよ?」
白蓮の優しい言葉。心地よい言葉。
だが、妙に息苦しい。
意識してなければ息が吸えない程の息苦しさ。
彼の息苦しさにより、彼の心拍数と呼吸の荒さが上がっていく。
ケホケホと苦しそうに咳をしながら、白蓮に答えようとする耕也。
「白蓮さん……俺達は間違っていたんでしょうか?」
解放された本人に聞く事はかなり失礼だったかもしれないが、自分の行動が間違っていたせいでこうなってしまったのだと思ってしまったからこそ、白蓮に確認をとるのだ。
だが、白蓮はそんな耕也をギュッと強く抱き、再び後ろから囁いていく。
「間違ってはいませんよ?」
その答え方は、また初期の慈愛が込められた口調であった。
が、その瞬間に白蓮の雰囲気が一気に変わってくる。
空気が一瞬で固まってしまったかのような緊張感があたりに漂い、耕也の背筋を固まらせる。
いや、もはや全身が固まってしまったかのような感覚を受けただろう。
息苦しかった呼吸がさらに苦しくなる。
白蓮の息遣いが妙に大きく聞こえ、そして胸の鼓動もより激しくなっているように感じられた。
「だって…………」
まるでこれから言う事が、とてつもなく楽しいものでもあるようにすら感じられるような話し方。
次の一言を言うまでの間がとてつもなく長く感じられ、耕也はどことなく不安になってくる。
当然であろう。彼女が抱きついてから、数分が経過してはいるのだがその間、目覚ましく状況が変化している。
1つは白蓮の雰囲気の変化。
最初こそ慈愛に満ちた聖母のような雰囲気を持った話し方をしていたのにもかかわらず、ここに至ってまるで肉食獣が背中についているように感じられるほど変わってしまったのだ。
二つ目は呼吸。
以前ここに来た時は全く息苦しさはなかったのにもかかわらず、来た瞬間に息苦しさを感じられるようになってきた。しかもそれはだんだんと耕也を蝕んでいき、ついには意識的に呼吸をしなければならない程に悪化してしまったのだ。
主にこの二つの変化であろう。
そして、この異様な魔界と言う空間の中でこの沈黙の間はきついものがある。
やがて、機は熟したと判断したのだろうか。
白蓮がついに口を開く。
「バラしたのは私なんですもの…………」
一瞬耕也の筋肉が強張り、そしてガクッと弛緩してしまった。
どうしようもない体の反応。彼女の口からそんな事が聞かされるとは夢にも思っていなかっただろう。
自分の耳を切り落とし、脳をグチャグチャに弄って記憶から抹消したいほどの告白。
自分から?
この人は一体何を言っているのだろうと思いながら、信じられないといった表情で唇を小刻みに震わせながら耕也は切りだす。
「じ、じじ、自分で……?」
待ってましたとばかりに白蓮が
「ええ、その通りです。大正解ですよ、耕也さん?」
「な、何で……? へ? なんでえ……?」
覆ることのない事実を突きつけられ、涙を流しながら返す耕也の言葉は悲哀に満ち満ちており、そして未だ信じたくないという気持ちが込められていた。
嘘だと言ってくれ。頼むから嘘だと言ってくれ。そんな気持ちが耕也の中を渦巻く。
「だって、私の居場所が無くなってしまったんですもの」
だが、そんな気持ちは一瞬にして砕かれてしまった。
まるで、何故そんな簡単な事を聞いてくるのか分からないとでも言うかのように、至極簡単に淡々と答えてくる白蓮。
だが、その言葉とは裏腹に表情は嬉しさ満開であり、両手を組んでにぎにぎとさせながら耕也の腹にしっかりとまわしていく。
「―――――っ!」
自らのとった行動が全く間違っていないかのようにふるまう白蓮。自分たちをここまでの状況に追い込んでおきながら、むしろ其れが楽しいとさえ言いそうなほどの口調。、
其れが堪らなく耕也には気持ち悪く感じられ、思わず白蓮の手を振りほどいて距離をとってしまう。
「あら……?」
白蓮のとぼけたような反応とは対に
「はあっ……はあっ……!」
息苦しさがさらに増していく耕也。だが、先程よりもさらにひどい。まるで肺炎の発作が起きたように息苦しい。
そしてついには咳が出始める。
「ゲホゲホッ! ゲホッ! ガハッ!」
その咳も普段とは違って喉を抉るような痛みが伴ってくる。
一体どうしてこんなにも急に体調が悪化するのだろうという気持ちが湧きあがってくるが、原因が全く分からないため、ただただ目の前にいる白蓮を見続けるしかない。
「居場所を創るためですよ耕也さん? 私はあの時深く決心したのです。自分の居場所が無くなるのなら自分の力で創り上げてしまえばいいのだと」
自分の今まで経験したことなどを踏まえて、白蓮は耕也にどう行動してきたかを吐露していく。
「私はずっと孤独でした。それも何百年も。ですが耕也さん、貴方が私を解放してくれたのです。私は本当に幸せでした。あれほどの幸せは人生の中でそうそうない事でしょう。そしてそのことがきっかけで貴方と距離を深めていきたい、お近づきになりたい、隣にいたいと思い始めていたのです。ですが、貴方は…………!」
そう一呼吸置くと、白蓮はキッと耕也を睨みつけて怒りを露わにして口を開く。
「貴方は……! 星熊勇儀を選んだ! 一体何故あんな女の求婚を切り捨てなかったのです! 即座に無理と言えば済む事でしょう! 唯一言で断れば済んだはずなのです!!」
まるで全ての責任の所在が耕也にあるかのように怒鳴り始める白蓮。
耕也は確かに覚えがあった。勇儀に求婚された事を。だが、其れがここまで白蓮の事を怒らせる原因になるとは露とも思っていなかったのだ。
しかし、戸惑いと同時に激しい怒りを覚える耕也。
げほげほと咳をしながら、白蓮に抗議をし始める。
「其れは……っ! ゲホガハッ! ぐっ…………だからと言ってこんな事をしていい理由にはならないだろうが!」
当然の事を主張しているのだが、白蓮の激昂の前では何の意味も持たず、さらには体調の悪化のせいで語気も説得直も弱くなってしまう。
そしてついには
「あ…………! かはっ!」
そんな小さな悲鳴とともに、耕也の口から大量の血が出てくる。
その血は泡立っている部分が散見され、空気が混合されているのが見て取れる。
(肺が…………! い、痛い。痛い、痛い!)
「がっ…………あっ……!」
突然の喀血。予想だにしない大量の血に、耕也は大きく戸惑い、そして痛みに悶えた。
地面に膝を付け、必死に息を吸おうと空気を取り込むが、その行為をする度にまた更なる喀血を招くのみ。
酸素がうまく取り込まれず、酸欠状態へと陥っていく。
が、そのぼんやりとした中で耕也には原因がうっすらと分かってきた。
其れは
(領域の調子がおかしくて……それでこの瘴気を吸ったせいなの……か?)
そして何とか自分の体を保護するため、再び地底へと戻ろうと判断し、一気にジャンプを行おうとする。
が
(ここにきて…………!)
うんともすんとも言わない自身の能力。行きたい場所をイメージしても全く体が転移していかないのだ。
自分の体が如何にダメージを受けているのかをようやく理解する耕也。
喀血程度ならまだ取り返しは付くと思っていた耕也。だが、現実は非情であり彼の逃げ道をふさいでいく。
当然であろう。彼の集中力は喀血により皆無となっているうえ、能力の発現がほぼ皆無にまで落ちてしまっているのだから。
「随分と苦しそうですね耕也……?」
まるで耕也が苦しんでいる事を楽しんでいるかのように話しかける白蓮。いや、それはすでに彼女の中で完成していた計画の一部分なのかもしれない。
何とも嬉しそうな表情。目が恍惚に歪み、頭が熱でポーッと浮かびあがるような感覚を覚える白蓮。身体が小刻みに震え、今にも抱きついてしまいそうである。
だが、耕也はそれどころではない。主に肺からくる強烈な痛みと、全身を瘴気が蝕んでいく引き裂かれそうな痛み。
その両方が同時に襲ってくるのだから、溜まったものではない。
苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら白蓮の方を見やる。
笑っている。自分のこの苦痛に苛まれる姿を見て笑っているのだ。
苦痛の中に渦巻いていた見えない怒り。ソレが段々、赤々と火のように燃えあがって彼の脳を染めていく。
酸素を十分に取り込めないという苦しい状況の中、耕也は震える手足に力を漲らせ、何とか立ちあがろうと必死に地面を蹴って行く。
が、靴によって砕けた砂利のせいで、上手く地面を噛む事が出来ず、中々立ち上がる事が出来ない。
「そろそろ諦めてもらえませんか? 私の側にいると誓ってくれさえすれば、今すぐにでもその苦痛から解放して差し上げます……」
と、彼女は自身の法力によって耕也を助け出す事が出来るという、甘い甘い蕩けそうな飴をちらつかせてくる。
耕也は苦しみと怒りによるアドレナリンで何とも言えない気持ち悪さを感じており、是非ともその救いの手に縋ってしまいたくなる。
だが、彼はそれをしてしまっては終わりだと自分に言い聞かせ、口の中に溜まった血を吐きだしてから再び足に力を込めて立ちあがって行く。
「こ……の…お…………!」
その言葉と共に、耕也は白蓮を睨みつけ、創造を行おうとする。
とはいえ、最早満身創痍な耕也にできることと言えば極僅かであり、ソレが最後の創造であるという事に耕也は気が付いていた。
だが、やらなければ唯敗北するだけなのだ。彼女の術中にはまり、この忌々しい魔界でずっと過ごさなくてはならないのだ。
だからこそ、彼は白蓮に攻撃をする。
自分を謀った彼女に。自分をこんな所に閉じ込めようとする白蓮に。痛みで苦悶する自分をうっとりと眺める聖を。
「――――――っ!」
最後の力を振り絞って、右腕を振るう。
その速度は普段と違って随分とゆっくりではあるが、ソレが彼の攻撃の意志となっていた。
ズキリと脳に痛みが走った瞬間、耕也の右手から何かが爆発したような音。そして複数の火の玉が猛烈な速さで飛び出していった。
彼の持つ限界の攻撃。ブドウ弾と呼ばれる複数の砲弾を打ち出し、白蓮に命中させようとしたのだ。
「ふふふっ」
そう軽く笑みを浮かべながら、彼女は耕也の打ってきた砲弾を簡単に避けていく。
耕也の動作が遅すぎるせいか、感所には攻撃の意図が丸わかりであったのだろう。
一発も当たらない。彼女には、意図しない方向へと飛んでいく弾が複数あったはずなのに、白蓮は流れるような身のこなしで避けていく。
そして、全ての弾が彼女を通過した時、耕也は力尽きるように地面に倒れていた。
コポリと口から一際大きな血の塊を吐きだし、その場でビクリ……ビクリ……と震えている。
(そろそろかしら)
そう白蓮は耕也の様子をつぶさに観察しながら、近寄って行く。
まるで熟した木の実をもぎ取ろうと近づく女。熟した果実をたべ、その身に安堵、満腹、幸福感をもたらそうと画策する女。
ゆっくりとポケットから鉄製の首輪のようなモノを取り出し、耕也の元へとしゃがみこむ。
「死なせはしませんよ? 旦那様?」
何時しか耕也への名称が変わっていた。最早完全に自分の手に堕ちたという事を確信しているからであろう。
自分の側にいる事が決定したとほくそ笑む女の姿。そして彼を一生自分の側に縛り付ける呪いの、ある意味で救いの首を装着する。
カチリと首にハマった瞬間、耕也の身体が薄らと光り始め、身体の震えが止まっていく。
荒かった息遣いも段々とではあるが、ゆっくりとした安定的なモノへと変わる。
間違いなく白蓮の法力によって耕也の身体が修復されているのだろう。
その過程、見えてくる結果に白蓮はただただ満足して、微笑みを耕也に向ける。
だが、耕也は未だに先ほどの苦しさに怯えていた。先ほどまでの圧倒的な苦痛と、回復に伴って増してくる安堵、倦怠感が彼の身体を駆け巡って何とも言えない気持ち悪さを覚えさせる。
だが、しだいにその法力によって力が漲ってくると、耕也は視界が蘇ってくる事を自覚した。ぼやけた景色がよりクリアに、鮮明に。
だが、相も変わらず耕也の目には酷い景色が見えるのだ。そして、より深く自覚する。自分は負けてしまったのだと。そして地底にはもう二度と戻れないのかもしれない、と。
その戻れないという言葉を脳内に思い浮かべた瞬間、耕也の頭に一つの解決策が浮かんできた。
(これならもしかして……?)
それは彼の力ではなく、他力本願とも言えるようなモノ。だが、彼にはそれに縋るしかないのだ。
そして、ソレが余りにも嬉しく、つい立ちあがって白蓮に述べてしまう。
「はあ……はあ……紫達がすぐに此処をつきとめるぞ?」
そう、最後の望みといっても過言ではないモノ。だが、彼にはそれしかなく、他人から見てもそれしか方法は無いと思わせる状況。
しかし白蓮は違った。最早そんな事は疾うの昔に知っていたかのような笑みを浮かべる。ニヤァっと。
ソレが途轍もなく怖く、そして不思議と惹かれていくような相反する感覚を同時に起こさせる笑みであった。
最早耕也のことしか考えていない白蓮は、耕也の事を全て知っているかのようにゆっくりと頷きながら、口を開く。
「あんな女共は此処には来れませんよ……? ほら、周りを見て下さいな?」
そう言って、クルリと回って周囲を見渡すように言ってくる白蓮。
耕也は、その動きにつられるように周囲を見渡し、愕然としてしまった。
「ドーム……?」
そう、いつの間にか半球状の壁が出来ていたのだ。その壁は白蓮を封印したモノと同じようにほぼ透明。
それは白蓮が渾身の力を込め、長い期間熟成させていた結界術。
「雌犬に破る事などは不可能…………ですよ?」
そう言って白蓮は再び耕也の方へと一歩ずつ近づく。
対する彼はその素人目に見ても分かる結界の強固さに目を奪われてしまい、その場から動く事ができない。いや、もはや放心状態とでも言うべきだろうか?
そのまま白蓮に抱きつかれ、ゆっくりと力が抜けて行きそうになる。
彼女は、耕也の背中にゆっくりと両腕を回し、耕也を束縛するかのように抱きしめる。
そして、口を左耳にまで持って行き、ゆっくりと呟く。
「私の愛しい愛しい旦那様……? 貴方にはもう私しかいないのです。2人っきりというのも雅があって良いものではありませんか…………?」
そして、更にゆっくりと、間隔をあけながら呟いていく。
「私の モ ノ に……なっては…………くれませんか?」
その言葉を聞いた瞬間に、耕也の背筋が震え、全身の鳥肌が立つ。
最早白蓮の口調は怖い等と言った簡単な言葉で表せるものではない。自分の伴侶、常に側にいるべき人をモノ扱いしているのだ。
それはおぞましいと言った方が確実ではなかろうか?
勿論、そんな言葉を受けた耕也は溜まらず白蓮の手から逃れようと力を込めて、振りほどく。
一瞬怒ったような顔をした白蓮ではあるが、すぐに頬を赤く染めた微笑みを浮かべて耕也を見る。
まるで次の言葉がどのような内容であるかを知っているかのような眼差しで。
耕也は何とも言えない居心地の悪さ、おぞましさを感じながら
「白蓮……人をモノ扱い、傷つける輩の側にいるつもりなど毛頭無い!」
そう言いきった。
すると、やはり彼女の表情は変わらず、耕也を見続けている。
暫くその状態が続き、吹かれる風によってコロコロと意志が転がった時にようやっと彼女が口を開いた。
「ええ、それはそれは残念です……。ああ、そうそう……」
そして先ほどまでの微笑みから、一気に無表情へとなり、口を開いて言葉を吐きだす。
「私以外の女の話題を出しましたね? ……そんな節操無しの旦那様には少々お灸を据えなければなりませんね? そうですよね耕也? 違いますかあなた? 合ってますよね旦那様? 正しいですよねご主人様?」
その言葉を述べた瞬間、耕也を覆う柔らかな光が一瞬にして消え去る。
勿論、その光は耕也の吸う息を濾過し、適当な空気に変換してくれるのだ。
だから、耕也は今まで呼吸をする事が出来た。白蓮の法力によって成す事が出来た事なのだ。
それゆえに
「あっ…………かっ…………!」
息を吸った瞬間に途轍もない激痛が耕也を襲うのだ。
首を両手で押さえるようにし、フラフラと足がぶれていく耕也。
一度吸ってしまった瘴気は容赦なく肺胞を蝕み、壊していく。一度修復された肺胞はいとも簡単に破裂していき、大量の血液を吐きだしていく。
そして、それに耐えきれなくなったのか
かはっという声と共に、血を噴水のように噴出させて仰向けに倒れていく。
吹き出した血は白蓮へと降りかかり、顔を、衣服を、髪を赤く赤くドロドロと濡らしていく。
が、ソレを不快に思うような事は無く。むしろ愛しい人の血を浴びる事が出来たという幸せを噛み締めていく。
そして、顔に付着した血液を手で拭って舐めとって行く。
ゆっくりと味わうように、指に舌を絡め、血を口の中でこねまわして味蕾に到達させていく。
ほんのりと塩味がし、そして鉄臭い味。だが、白蓮にはこの世のすべての食べ物と比べても圧倒的に勝るであろうというほどの美味なモノになっている。
そして、白蓮の身体に吸収された血は一瞬にして莫大な量の魔力に変わって行く。
その急激な変化に驚きつつも、彼女は流石私の旦那様と思うだけであった。
耕也は大量の血液を吹きだしたことで、最早虫の息に近い。
だが、まだ終わってはいないのだ。まだ仕上げが残っている。強制的に自分に対して依存させる事が残っている。
だから、白蓮はゆっくりと仰向けになって必死に生を求めている耕也に近づく。
「旦那様? 息を吸いたいですか?」
その言葉に耕也は痙攣を時折起こしながらも、助けてくれという懇願の目を向けて頷く。
ニッコリと笑いながら、白蓮は続けていく。
「では、私と永遠に生きて下さいますか? 伴侶として、良き人として私のモノになってくれますか?」
耕也は助かりたい一心で白蓮に頷く。早く息を吸いたい、この苦しみから逃れたいという一心で。
白蓮は耕也の心が助かりたいがために頷いているのだという事をすでに見透かしているのだが、現状での返事には及第点を与える。
これから自分をゆっくりと愛してもらえるようになればいいのだという、妖怪さながらのゆったりとした考え。
「私がいなければ、貴方は生きていけないのです。分かっていますね?」
と、最後にそう言いながら耕也に法力を与えて命を無理矢理繋げていく。
そして、抱きしめながら耕也の唇に自らの唇を重ね、口内に残っている血を飲み干していく。
ぴちゃぴちゃじゅるじゅるといった水音が辺りに木霊し、この空間の虚無感を一層際立たせていく。
その中で耕也は思う。
もはや自分は逃れる事が出来ないのだ。白蓮がいなければ死んでしまう、生きていけないのだと。
彼は白蓮に生殺与奪を。完全な依存をする事しかできなくなってしまったのだ。
もはや助けなど来はしないという絶望感を抱きながら。
その後数百年の後、同じような調教が何度かあったものの、耕也は徐々に白蓮へ心を開き、ついには本当の意味で両者が依存する形となった。
また、紫達の襲撃も白蓮の結界のせいで失敗に終わり、遂には誰も来なくなってしまっていた。もちろん一輪も村紗も。
だが、あれほどの恐怖を与えた白蓮がどのようにして耕也の心を依存、開かせたのかは数百年経っても明らかにはなっていない。