東方高次元   作:セロリ

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外伝ss……誘拐

貴方が側にいてくれるからこそ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の無理矢理の勧誘、そして誘拐までして自分の式にしようとした私だが、まさかの耕也は私に対して怒るようなことはせず、逆に色々と優しくしてくれたのだ。

 

私はそれがうれしくてうれしくて仕方が無く、彼に友人としての付き合いを申し出た。

 

無論彼はそれを快諾してくれ、そのまま私達は親友として歩み始めた。私にとっては、幽々子の次にできた親友であり、男としては初めての親友であった。

 

しかも彼は人間で、私は妖怪であるにも拘らずだ。そして今まで私と対峙してきた人間は、私に対して明らかな敵意と殺意を差し向け、殺しにかかって来たのだ。

 

私が何かをしたわけではないというのに……。

 

だが、私が耕也と友人になれたというのは非常にうれしい事である。非常にうれしい事ではある。

 

しかしそれだけでは私の欲を満たす事ができなくなってきてしまっている。

 

幽々子ならまだ色々と違うのでそういったものはないが、彼は人間なのだ。

 

私は他の妖怪と存在なども一線を画しているとはいえ、妖怪である事には変わらない。だから、人間に対して様々な欲を抱いてしまうのだ。

 

食べてみたい。その肉体の隅々を犯してしまいたい。血を啜りたい。魂を取り出して愛でてみたい。魂を食べてしまいたい。

 

そんな欲求が出てくるのだ。

 

いや、これは耕也と出会ってから急に現れてきたと言った方が正しいだろうか? 今までは人間などに興味はなく、ただただ世の流れに身を任せてきた部分が多かったが、幽々子と出会い、耕也と出会ってからすべてが変わっていった。

 

この変わったという感覚が、今の私の欲求を生み出しているのだろう。

 

私は、自身の保有する屋敷で寝転がりながら耕也について考えていく。この欲求をどうしてくれようか。と。

 

だが、彼を式にしたいという気持ちは、当初でこそそこまで大きくはなかったのだが、日を追うごとに大きくなっていくのが自分でもはっきりと分かる。

 

彼の前でそういった態度を出すのは逆効果であるのは分かっているから、私はそこまで露骨に態度を表しているわけではない。

 

ただ、彼と一緒に居ると、どうしても自分の気持ちや欲求が抑えきれなくなるという事だけは事実なのだ。

 

彼と同じ空間に居るだけで。彼と同じ空気を吸っているだけで。彼と一緒に食事をするだけで。彼と一緒に笑うだけで。彼と一緒の屋根で寝るだけで。彼と一緒に料理をするだけで。彼と話すだけで。

 

その身体を攫ってしまいたくなるのだ。誘拐したくなるのだ。本当に自分のモノにしてしまいたくなるのだ。

 

だから今日も私は彼の所に行く。

 

自分の気持ちに気がついてくれるように。彼から私のモノになると申し出てくれるように。私なしではいられなくなるように。私が何よりの一番なのだと気付いてくれるように。

 

「こんにちは耕也。今日は何かあったかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紫がスキマから顔を出してそう言ってくる。

 

このようなパターンは数えるのが面倒くさくなるほど多いが、偶には玄関から礼儀正しくお願いしたい。

 

まあ、彼女も俺との中がそこまで堅苦しいものではないと思っているのだろうし、彼女もまた俺にそのような信頼を寄せてくれているのは分かるので、俺はそこまで気にはしない。

 

親しき仲にも礼儀ありという言葉が一瞬浮かんだが、それは妖怪に適用できるものではないなと処理して、彼女を快く出迎える。

 

「おお、今日もそれで来訪か。全く、便利なもんだねそれ」

 

そう言って俺がお茶らけたように両手をすくめると、彼女はコロコロ笑いながら此方に返答してくる。

 

「ふふふ、それは私だからこそですわ。耕也。……でも、貴方の力の方がよっぽど便利じゃないの」

 

そう言いながら俺の方を指さしてくる。

 

まあ、彼女の言いたい事は分かる。が、どれが便利なのか今一想像がつかないので、少し考えてみる。

 

まず最初。俺の力の一つである外部領域は相手のもとの身体能力以外の神秘などを根こそぎ奪い、赤子同然のようにできる。

 

それに加え、皮膚表面を覆っている内部領域は外部領域の効果に加え、物理的な攻撃も防ぐ事ができるのである。

 

紫は確かに次元を操ることはできる。しかし、所詮は二次元内の次元を操ることしかできない。二次元の四次元。二次元の十一次元。と言った具合に。

 

現実世界に干渉などとてもとても。アリと象の力比べよりも遥かに格が違うのだ。真の意味での次元が。

 

モニターの中のキャラがどんなに騒ごうが、喚こうが、世界を滅ぼす攻撃を撃とうが、モニター外の人間に害など一つもないように。

 

それと同じ事なのだ。俺の持つ領域とは。

 

だから俺はこの領域を重宝し、便利なものだと紫に言っている。

 

それに加え、彼女の言っている事には此方の事も含まれるのではないかと考えてみる。

 

ジャンプ。

 

これは、見た場所や写真に映っている場所。そういった俺が目にし、行った場所ならいつでもどこでもいける。文字通り一瞬で。

 

そして創造の力についても言及しているのではないだろうかと考え、改めて確認してみる。

 

これは常に現実世界から、一方的に送られてくるカタログなどのような情報が頭の中にあり、ソレを基に様々な物質を創造する。唯それだけ。

 

ただ、彼女は便利だと言ってくれてはいるが、この中でジャンプが最も燃費が悪く、体力などをすぐに使い果たせてしまうほどのモノなのだ。

 

だから、今回彼女の言っている便利という部分は、領域の事ではないかなと思い、その考えの通りに言った。

 

「え~と、領域の事ですか?」

 

と言うと、紫は首を振り、屋根を指さしながら言ってくる。

 

「違うわよ。創造の方よ耕也」

 

俺はその言葉に疑問を持ち、彼女に尋ねることにした。

 

「なぜですか? 領域の方が遥かに便利だと思うのですが……」

 

そう、創造よりも遥かに便利なのだ。敵の攻撃は食らわないし、敵の能力は封じられる。今まで俺が生きてこれたのはこの力のおかげなのだ。

 

だから、紫の言った事に疑問を持つのは仕方のない事だった。もし俺がそう質問されたのなら、もちろん領域の方が便利だと答える。

 

しばらくそんな事を考えながら紫の答えを待っていると、紫はため息を吐きながら口をへの字にして言ってくる。

 

「あのねえ耕也。貴方の力を私が身につけたら一切の力を使えなくなるのよ? 貴方以外がその力を使うと、ただの拘束具にしかならないのよ?」

 

俺はその言葉を聞かされた瞬間に、ハッと気付かされた。

 

確かに彼女の言っているように、領域は俺以外には毒にしかならない。いや、一般人以外と言った方がいいか。

 

妖怪が同じ効果の領域を扱った場合、問答無用で弱体化してしまう。

 

俺は自分の基準を相手に合わせなかった事に気付かされ、少し恥ずかしくなってしまった。

 

少し顔が熱くなったような気がしながらも平静を装い、彼女に答える。

 

「あ~、ごめんなさい。確かに俺専用ですね。創造の方が便利です」

 

そう言うと、紫はさも満足そうに頷きながら、スキマから身体全体を滑り込ませるように出して、居間の畳に着地する。

 

彼女はまるで重力に囚われていないかのように着地すると、ドレスの端を掴んで礼をする。

 

「お邪魔いたしますわ耕也」

 

どういう心境の変化か分からないが、彼女は普段とは違った行動を見せる。

 

何だかよく分からない気持ちになりながらも、俺は彼女のとった行動にぎこちない動きをしながらも礼をして返答する。

 

「あ、いや、此方こそよろしくお願いします。紫さんが来て下さるおかげで妖怪が近寄ってこなくなるので」

 

そう、彼女が来てくれるとここいらに襲撃しようとする妖怪が姿を見せないのだ。俺も自信を持って言えることだが、彼女は日ノ本の国では最も強い妖怪なのである。海外ではどうかは知らんが。

 

彼女の使用する力は文字通り強大であり、また能力の多様性には舌を巻くばかりである。

 

彼女が普段の移動に使うスキマは勿論の事、境界を操る程度の能力はその力を全力で使用すれば常識と非常識を分けてしまう事ができるほどである。

 

それが彼女の強みである上に、保有する妖力の桁も他の妖怪とは違う。

 

だから彼女がこの家に居るだけでその妖力の強大さを周囲に示し、妖怪に八雲紫という存在を誇示しているのだ。

 

俺はその事に感謝しながら、彼女に言った。

 

すると、目の前に余裕の雰囲気を出しながら優雅にスキマの上に座っている紫は、俺の言葉を聞くや否や

 

「ふふふ、私は特に何もしてはいませんわよ? 単に他の妖怪が臆病なだけでしょう?」

 

そう微笑みながらスキマから降り、此方にゆっくりとした足取りで近寄ってくる。

 

普段ならこの動作も慣れたモノなのだが、今日はいつになく彼女の視線がねっとりとしたモノに感じられ、少々不気味さを感じてしまう。

 

しかし、彼女は俺の思考も分かっているかのように頬笑みを浮かべ、俺の前に立つ。そして手を伸ばし、俺の頬をサラッと撫でて俺の耳元にまで顔を寄せて呟く。

 

「私は……そこまで何かをしたわけではないのよ? ……本当よ?」

 

彼女が口を開く度に吐息が耳に当たり、それは妙な快感を俺の身体にもたらし、俺は思わず身体をブルッと震わせてしまう。

 

そんな俺の反応が面白かったのか、紫はクスクスと笑いながら扇子を開き、自分の顔を煽ぐ。

 

そして口を開き

 

「さあ、改めて私の訪問を許して下さるかしら?」

 

と、紫は言ってくる。

 

もちろん俺に拒否する理由などはなく、俺は紫の行動に素直に頷き、彼女の訪問を歓迎する。

 

「ええ、もちろんです。改めて、いらっしゃい」

 

俺は唯一の友人である紫の訪問を歓迎し、夕食を共にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、やはり同じ屋根の下で寝ると非常に落ち着かない。

 

私は横ですやすやと眠る耕也の顔を見ながら、そう思っていた。

 

だが、それは仕方のない事だと思っている。私の欲している耕也は目の前に居るのだ。こんなに、こんなにも無防備な姿を私の前に曝して。

 

彼の顔には全く警戒心と言うものが無い。それは私の事を深く信頼しているという事の何よりの証明であるため、非常にうれしい気持ちになってくる。

 

私は暗闇の中で自然と口角がつり上がるのを感じ、慌てて表情を元に戻そうとする。しかし、一度感じたこの幸せは中々消えるものではなく、再び首をもたげて私の口角を釣り上げる。

 

今度は両手で頬を抑えて見るが、やはりどうしてもうまくいかない。私はこの表情を耕也に見られたら、恥ずかしくて此処に居られなくなる。そう思いながら、耕也の表情を再び見てみる。

 

妖怪の私は、普段人間が見ることのできない照度の中でもはっきりと相手の輪郭を捉える事ができる。

 

頬を両手で覆いながら見た彼の顔は、相も変わらず安心感に溢れているモノである。

 

しかし、その表情は同時に私の中の妖怪の欲を猛烈に掻きたててくる。この人間を滅茶苦茶にしてしまいたいと。欲しいのだと。犯してしまいたいのだと。

 

だが、片や理性ではこの欲を抑え込もうと躍起になっている部分があり、この欲と理性が互いに火花を散らしている。

 

仮に私が彼を欲し、モノにした時、彼はどんな反応をするのだろうか? 今までの行動や性格、感情の起伏から、私を受け入れてくれるのだろうか?

 

それとも私を憎み、恨み、排撃してくるのだろうか?

 

そんな不安が私の中に湧きでてくるのだ。まるで間欠泉のように猛烈に。

 

その不安がいわゆる理性の、妖怪の欲と言う本能に対する制動と言うものだろう。

 

それでも理性では抑えられない部分もある。

 

心の臓が激しく脈打つのが自分でも実感でき、顔がどんどん熱くなるのが分かる。これ以上は彼の寝顔を直視する事ができないと思い、先ほどとは正反対の方向に寝がえりをうつ。

 

それでも先ほどのドキドキとした感触が引かず、息が荒くなるのを感じる。

 

自分でも彼と近くで寝ればこうなる事は薄々感づいていたのだが、それでも彼とは寝食を共にしたかった。

 

だが、蓋を開けてみればその予感が的中し、寝ることすらできなくなってしまっている。

 

私はこの疼きを止めたくなったのか、自然と手が秘所に伸びているのが分かった。

 

自分の行為に驚き、思わず手を布団から出してしまう。布団から出された手は、驚くほど粘度の高い液体に覆われており、外気に触れて私の手を冷やす。

 

だがその光景が現実のものであると私には信じられず、この行為自体が嘘だとさえ思ってしまう。しかし、外気に触れて手が冷却されるのを感じると、それがどうしても現実のものであるという事を否応なしに認識させられる。

 

そしてその行為が引き金だったのか、私の理性が少しずつ削られていくのが分かる。また本能が勢いを増してきているという事も。

 

これがどういう事なのか。それは自分が完全に理解する前に行動に移されていた。

 

クチュリ……

 

そんな音が秘所からしてくる。私は知らず知らずのうちに本能に任せて再びいじり始めていたのだ。

 

「くふぅ……! んぁ…」

 

自慰と言うものはした事はあるが、此処までの状況下でした事はない。せいぜい探究心や好奇心に誘われた程度である。しかし、今回はまるで違う。

 

卑猥な音と共に指が埋没した瞬間、身体に電流が走ったかのような激しい快感が貫いてきたのだ。

 

生きてきた中で、初めての衝撃であり、心臓が止まるかと思ったほどである。

 

だが、その快感が妙に私の欲を満たしてくれる。しかし、その欲は満たされると同時に容量を拡張させ、さらに欲を求めさせてくる。

 

私はそれに抗う事など一切せず、クチュクチュと布団の中であまりにも卑猥なくぐもった音を奏で始めた。

 

しばらくそれを続けていると、それに伴って先ほどよりも圧倒的に強い快感が身体を駆け巡り、私の身体を跳ねさせる。

 

「んあああ! ……く、ふう…。あ、はあはあはあっは……」

 

目の前が真っ白になり、瞬間的に凄まじい量の血が頭を駆け巡り、身体がガクガクと震えて何も考えられなくなってしまう。

 

終わった後は、ただただ冷たい外気と、少しの虚しさ。そして圧倒的な脱力感。

 

しかし、それでも彼を思う気持ちは衰えず、逆に勢いを増すばかり。耕也に対する欲はとどまる事を知らない。

 

私はしばらくその場で天井を見上げながら、ボーっとしていると、唐突に悲しみの感情が猛烈な勢いで湧きでてきて、それが涙となって形をなす。

 

それはとどまる事を知らず、手で拭っても拭っても次々と溢れ出し、こめかみを伝って枕へと落ちていく。

 

「う……! つらい……わよぉ……! ああぁぁぁ……」

 

彼に妖怪の欲を持ったままでは、嫌われてしまうのではないだろうかという不安感が私を支配し、どうにも心と体が落ち着かない。

 

でも、どうしても彼が欲しい。彼を手に入れたい。この感情だけが私の心を支えていた。

 

彼に素直に受け入れてもらいたいとかそう言った事を考えるべきだったのであろうが、それを思い浮かべるだけの余裕が私には無かった。

 

だからこそ私は、彼に対してもっと強制力があり、尚且つ私に対して徹底的に依存させる手段を取ろうとしていた。

 

私は能力を使い、この淫臭漂う布団を綺麗にし、空気を清浄化して眠りについた。彼を今後必ずモノにするために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてさて、今日も特に何かあったわけでもないし、平和に歯磨きして、平和に寝ますかね?」

 

平和じゃない歯磨きがあったら、それこそ教えてもらいたいと思いながら、俺は電動歯ブラシに手をつける。

 

スイッチを入れると、モーターの力により微細かつ高速な振動をするブラシが歯を磨いていく。

 

歯磨き粉はその歯とブラシの摩擦面に曝され、泡立つものへと姿を変えていく。

 

その妙にくすぐったい微細な振動は、俺の口角を自然と釣り上げてしまい、自分でも恥ずかしく思いながら歯磨きを終わらそうと手の動きを急がせる。

 

そしてしばらくの後、自分の歯が全て磨き終わったと判断した俺は、目の前にチョコンと鎮座しているコップを取り上げ、水を汲んでから歯磨き粉を口の中から排除する。

 

口の中で混ぜられた水が、洗面器に投入され、それを見届けて顔を上げた瞬間に俺は妙な違和感を覚えた。

 

「……あれ? 俺の髪って……金色だったっけ?」

 

その正体は誰が見ても分かる通り、鏡に映った俺の頭が見事な金色になっているという事だ。

 

鏡を見ながら自分の髪を撫でてみるが、それでも一向に金色は黒色に戻らない。

 

俺はそれに対して、焦りと言うよりも、唖然や茫然と言った方が正しい表情をしていた。もちろんその結果から出てくる言葉は

 

「え? どうなってんの?」

 

という情けない言葉であった。ただこの顔を上げた瞬間に髪の毛の色が変わったという事については、どうしても納得がいかず、俺は自分の髪の毛を摘まんで引き抜く。

 

痛みと共に引き抜かれた髪の毛は、鏡に映っているような金色ではなく、日本人が持つ本来の色である純粋な黒色であった。

 

俺はこの事実の食い違いに相当な疑問を持ちながら、再び鏡の中にある金色の髪と、掌にある黒色の髪を見比べる。

 

しかし、穴があくほど見つめてもその鏡に映ったその金色は直る事が無い。

 

俺は目がおかしくなったのではないかと、さらにそれを見つめていくと、ついには髪の毛が伸び始めたのだ。

 

「なっ!?」

 

俺がそんな声を上げているうちに、鏡の中の髪は鏡の映す範囲を超えていく。そして極めつけは、服装すら変わっていく事である。

 

服装は、現代的な日本人の切る服装から、南蛮の道化師のような垂れがついた服へ。そして伸びきった髪の毛の上には、ドアノブのような大きな帽子。

 

さらには顔の輪郭などの構成要素が一斉に変わり始め、ついにはその完成形を俺の目に映す。

 

「………………は?」

 

俺はその姿にただただ一つ言葉を呟くことしかできなかった。

 

そう、目の前に居たのは、昨日まで寝食を共にしていた紫その人だったからである。

 

しかしその目の前に居る紫は、鏡の中の俺と全く同じ動きをしているのだ。だから紫が鏡の中に居るわけでもなく、俺が紫になったわけでもなく。

 

ただこの不可解な現象に俺は下を巻くばかりであり、手を振ったりしても目の前の紫と思わしき鏡像は俺と同じ行動をするばかり。

 

しかし、これはやはり紫のやった悪戯なのではないだろうかという線が一番高いと思い、俺は目の前の像に向かって口を開く。

 

「紫さん? ふざけるのもいい加減にしてください。自分の姿が見えないのは中々に厄介なんですよ?」

 

しかし、そう言っても目の前の像が何かしらの反応を示すかと言えば……そう言う保証はなかったり。

 

結果から言えば、何の変化も無かった。俺は自分の言った事に唯羞恥心のみが湧きでてくるのを感じ、その場でしゃがみこんで頭をガリガリと掻いて自分の行動を呪う。

 

「……何をやっているんだ俺は」

 

そう呟いて気持ちを切り替えて再びこの妙な現象の起こっている鏡と向き合う。

 

気持ちを切り替えてもやはり像が元通りになるわけではなく、俺の表情を再現している顔と、身体の動きがそこにはあった。

 

俺は、どうにもそれに納得がいかず、鏡に向かって手を伸ばしていた。

 

鏡に触れると、紫の腕も此方に触れてくる。鏡なのだからこれは当然なのだが、それが妙に怖く感じる。

 

自分とは違う者が鏡の中に居る。そんな感覚さえ覚える。これがもし俺の錯覚だとしたら、治る見込みはあるのでまだ安心感がある。

 

ただ、これが錯覚だとしたら、一体何故紫の姿が見えるのだろうか? そんな疑問が俺の中に浮かび上がる。

 

いくら考えても、事態が改善するわけではないのだから仕方が無いと言えば仕方が無いのだが、そこは人間。考えたくなるモノである。

 

ただ、考えと言ってもその考えが一つしか浮かばなかったのだから、情けない。

 

それは、俺が心の奥底で紫に強い想いを抱いているのではないか? と言う事である。

 

ただ、それはおかしいと自分で処理してしまう。なぜなら俺は紫と会ってからそこまで日が経っておらず、彼女自身も自分の仕事などで忙しいからだ。

 

だから、強い想いを抱いているかと言えば、自信が無い。いや、彼女と俺がつり合うことなんてあり得ないのだ。

 

俺はそう思いながら、再び何かしらの変化がある事を望んで鏡に手を伸ばす。

 

「一体どうなってんだこれは……?」

 

そう言いながら再び鏡に触れる。やはり紫も鏡に触れて、特に鏡像としておかしい事をしているわけではない。

 

「寝れば治るかなあ……? 疲れてるんだろう……多分」

 

そう呟いて鏡から手を離し始める。すると、突然伸ばしていた手に凄まじい力が働き、鏡の方へと引っ張られ始める。

 

「な、なんだこれっ!?」

 

俺が突然の事に焦り驚きの声を上げていると、すぐにその原因が発覚する。

 

先ほどまで俺と同じ動きをしていた紫の鏡像が、鏡から抜け出して俺の手を掴んで引きずり込もうとしているのだ。

 

紫の顔はただ無表情であり、その引っ張る動作から何かの意思を読み取る事などできない。

 

俺は咄嗟に洗面台を掴み、引きずり込まれないように必死に踏ん張る。俺はその引っ張られる中で二つの疑問が出て来た。

 

一つは、何故此処まで力強く引っ張られているのにも拘らず、外部領域と内部領域の両方が発動しないのだろうか? と。

 

辛うじてトルクと馬力の増大はできているが、それでも彼女の力が強すぎるためか、段々と鏡に引きずり込まれていく。

 

そして二つ目。それは、この引っ張っている者が本当に紫なのだろうか? と言う事である。

 

もしかしたら、これは鏡の中に潜む妖怪なのではないだろうか? そんな考えである。

 

しかし考えているうちに、引かれている手が鏡の中に入り込んでしてしまっているのを皮膚の感覚で理解した。

 

鏡の中は非常に冷たく、まるで死の世界よりも冷たいのではないだろうか? と思えるほどの冷たさであった。

 

だが、そんな感想を持っている余裕など俺には無く、この引っ張られ続けているこの腕をどう対処すべきかを考える必要があった。

 

掴んでいる洗面台はすでに指のトルクに負けているせいか、大きく細かいヒビが入ってしまっている。

 

それでも力を加えて、抵抗しようとすると洗面台は限界に達して、陶器が砕ける甲高い音を発しながら、床に破片をぶちまける。

 

その事が鏡の中の彼女に優越感を持たせたのか、僅かに口角を釣り上げさせたように感じた。

 

俺はそれでも必死に抵抗し、片足を残った洗面台のに乗せて、力を全開にする。

 

すると、さすがに手と足の合力には相手の力は敵わなかったようで、俺の手がスルリと抜けていく。

 

その反動で俺は壁に叩きつけられ、咳き込む羽目になってしまう。

 

「一体何なんだこれは……!」

 

そう俺が怒鳴る様に言うと、相手はその無表情のままスゥッと消えていく。まるで最早用が無いとばかりに素早く。

 

俺はそれを見届けてから、安堵のため息を吐く。

 

偶々相手が諦めてくれたから良かったものの、もし俺に力が無かったらあのまま引きずり込まれていたのであろう。

 

俺はその飲み込まれるという薄ら寒い事を考えると、どうしても鳥肌が立ってしまい、自分の腕を摩擦させて温めるように動かす。

 

手には、何故か銀色の液体が付着しており、それは水銀とはまた別のモノに思えた。ただ、その銀色の液体は水銀よりも冷酷に見え、先ほどの安堵が無ければ直視したくないものであった。

 

「本当に一体何だったんだ……?」

 

その呟きに反応してくれる者はおらず、俺はすごすご水で洗い落とし、破片を片しに箒を取り出しに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの一件以来、どうも領域の調子が悪い。自分でも何故かよく分からないのだが、領域が出てきてくれないのだ。

 

紫が近々来てくれるから、訳を話せば色々と助言をしてくれるだろうが、それでも心配や迷惑をかけたくない。

 

俺は水を飲みながらひたすら時が流れるのを待つ。

 

創造の力はそこまで出力低下はしていないのだが、しかしそれでも霊力のない人間という事には変わりなく、妖怪などと闘うのはかなり厳しい。

 

もし怨霊の類などが現れた場合、鋼板などの物理的防御が効くかどうかわからないからだ。おまけに創造は出力低下という不安定な状態の為、おいそれと戦う事は出来ない。

 

さらにはジャンプや飛行などといった行為もできなくなり、もはや俺の力は殆ど無くなったと言っても過言ではないだろう。今まで領域に防御全てを任せてきた結果がこのざまである。

 

自分のアホさ加減に涙すら出そうになりながらも、俺は昼食を作ろうと席を立つ。

 

そして何気なく数歩歩いた所で、後ろから突然声を掛けられる。

 

「耕也~、一緒にご飯食べましょう?」

 

突然の声に俺は吃驚してその場で飛びあがり、急いで後ろを振り返る。

 

すると、その様子がおかしかったのか、紫はコロコロ笑いながら俺に話しかけてくる。

 

「一体どうしたというの耕也? まるで貴方らしくないわ」

 

「いえ、ただ吃驚しただけでして……」

 

「あらあら、そうなの……」

 

そう言いながら、スキマからにゅるりと出てきて静かに、しかし流麗に着地する。

 

だが、俺はそれに素直に感心する事ができなかった。なぜなら、彼女を見た瞬間に昨日起こった出来事が見事にフラッシュバックしてきたからだ。

 

あの無機質とも思えるほどの低い温度をした手。まるで氷か何かを掴んでいるようであった。……もしかしたら、俺の恐怖心がそれに過剰反応した結果からくるものかもしれないが、それでもアレは恐ろしかったのだ。

 

だから、紫に念のために聞いておこう。俺はそう決心すると、彼女の目を真っ直ぐ見て口を開く。

 

「紫さん、少しお聞きしたい事があります。宜しいでしょうか?」

 

俺が真剣な表情と声で質問の許可を求めると、紫もそれを感じ取ったのか、笑みを止めて真剣な表情となる。

 

「いいわ。話してちょうだい」

 

俺はその言葉に頷くと、紫の前に少々出てから、一言言う。

 

「紫さん。……昨日の夜は何をしてらっしゃいましたか?」

 

そう言うと、紫は一体何故そんな事を聞くのか? といった具合の表情をして首を傾ける。ただ、紫はそのまま黙るという事は無く、俺の質問の意図を理解しようと考えながら言ってくる。

 

「え~と、……昨日は仕事で疲れていたら夕方からずっと寝ていたのだけれども……今の今まで」

 

と、自分の睡眠時間を言うのが恥ずかしいのか、顔を赤くしながら苦笑いして俺にそう言ってくる。

 

俺は流石に失礼な質問だったと、自分の行動に後悔しながらも、彼女に対しての疑惑を消す。

 

本来ならばこんな簡単に疑惑を消してはいけないのだろうが、現時点では彼女がしてきたという確証は全く無く、しかも彼女は俺の大事な大事な友人である。疑うという事など端から不可能なのだ。

 

俺は目の前で顔を赤くしている彼女を見ながらそう思い、先ほどの事について謝罪する。

 

「紫さん、すみませんでした。余計な質問をしてしまいました」

 

そう言って頭を下げて彼女に謝罪すると、紫は顔の紅潮を収めて頬笑みを浮かべて言ってくる。

 

「いえいえ、貴方が私にそんな事を聞くという事は、……私関連の事件が起こったという事かしら?」

 

と、俺の謝罪を受け入れながら質問してくる。

 

鏡の中に居て、さらには紫の姿を真似て俺に対してピンポイントで襲ってくる得体のしれないナニカ。

 

それは俺に対して攻撃をしてくるのではなく、俺を鏡の世界に引きずり込もうとしていた。つまりこれが意味するところは、俺の力を欲していたか、俺を隔離する事によって何かしらの利益を得ようとしていたという可能性が高い。

 

これを彼女に話した場合、紫は協力してくれるであろう。彼女の力ならば鏡の世界に入る事も可能であるから、その輩を如何様に料理する事が可能である。

 

そんな考えを浮かべているうちに、また彼女に対して疑念が浮かび上がってしまう。

 

…………鏡の中に居たのは、本当に紫なのではないだろうか? と。

 

俺はその一瞬浮かんできた疑念を振り払う可能ように、首を振ってその愚かな考えを再び一蹴する。

 

ただ、俺が彼女に話したところで、普段忙しい身である彼女にさらなる負担がかかってしまうという事は、非常に好ましくない状況を作りだすものである。

 

だから俺は果たしてソレを彼女に話してもいいモノなのかどうかと迷いながらも、聞かれてしまったのだから仕方ないと結局は自己完結させて話す事にした。

 

「実は紫さん、昨夜突然貴方の姿を真似た輩が襲いかかって来たのですよ……しかも鏡の中から」

 

そう簡潔に言うと、紫はピクリと左の眉を少し釣り上げて元に戻す。

 

彼女にとっても俺の言った事は予想外の事だったのだろう。顔には出さないものの、彼女の眉の動作でソレが分かった。何せ、紫の姿を真似て俺に襲いかかってくるという事は、自分の首を絞めているという事他ならない。

 

彼女はプライドが高い。自分の力に自信を持ち、それを使いこなしている。

 

だから彼女の姿を真似て、俺という友人を襲うという事は、それだけで琴線に触れてしまうという事だろう。

 

俺がそんな事を思っていると、紫は挑戦的な笑みを浮かべながら扇子を取り出し、自分の口の前で広げ、呟き始める。

 

「あらあら……馬鹿な輩がいたものね……よりにもよって私の姿で……」

 

そう言うと、扇子を閉じて微笑を浮かべて俺に向かって言ってくる。

 

「まあ、安心しなさいな。何かあったら私が駆けつけてあげるわ……」

 

「ありがとうございます」

 

俺が彼女の言葉に礼を言うと、彼女は満足げに卓袱台へと足を運んで座る。そしてすぐに何かに気がついたかのように顔を上げて俺の方を見てくる。

 

「ねえ耕也。……貴方領域があるのではなかったの?」

 

やはり彼女は頭が良く、言っていない事まで言い当ててしまった。

 

俺がその質問に対して、素直に答えることにした。もはや彼女には事件の事を言ってしまったし、これ以上何か隠し事をしても彼女に余計な心配を与えるだけだと判断したからだ。

 

「実を言うと、襲われた直後から領域などが使えなくなってしまったのです……自分でもよく分からないのですが…」

 

俺はその事を呟くように言うと、彼女は神妙な面持ちで頷きながら、紫は言う。

 

「なら、貴方はやはり少しこの家から出ない方がいいわ。……私の家は今忙しくて上げられないのが悔しいけども……一応定期的に顔を出すから安心して頂戴?」

 

俺は紫の助言に深く感謝しながら、頭を深く下げて礼を言う。

 

「ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」

 

そう言うと、紫は頬笑みを浮かべながら、言う。

 

「いいわよ。気にしないで? 友人を助けるのも友人の役目であるのですから。……さあ、お昼にしましょう? 私も食材を持ってきたから……ね?」

 

そう言いながらスキマから野菜の類を出してくる。

 

スキマの便利さを改めて実感しながら、野菜を受け取って礼を言う。

 

「ありがとうございます。では、少々お待ち下さい。作って参りますので」

 

と言って、紫に背を向ける。

 

そして次の瞬間に異変が起きた。

 

あなたは私のモノ……私のモノになって下さらないかしら……?

 

といった、紫のような声が頭の中に突然響いてきたのだ。何の前触れもなく、そしてそれは音波ではなくテレパシーの類のような感触を持って。

 

俺は思わず紫の方を振り向いてしまう。しかし、振り向いても紫は俺の方を見てどうしたのか? と言わんばかりの表情をして首を傾げる。

 

手振りで何でも無いと合図して、俺は再び背を向けて料理をし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

紫が援助を申し出てから数日。紫が来てくれた日に起こった囁きは酷くなる一方だった。

 

「一体何で……これじゃあ俺の頭が割れちまう。気がおかしくなりそうだ!」

 

俺はそう怒鳴りながら布団の中で頭を抱える。

 

私のモノになるのが貴方にとって必要な事なの……私のモノになって……? 私は貴方を愛してる……貴方は今は凄く弱いの……あなたがいないと私は寂しい……私と一緒に暮らしましょう?

 

領域が発動しもしないこの不安定な状態でこのような言葉を延々と聞かされては、此方の精神が病んでしまう。

 

そしてその脆弱となった精神は、俺の心の中に恐怖を生み出すのは容易い事であり、今もなお急速に恐怖が湧きでている。

 

恐怖と四六時中囁かれるこの得体のしれない声に俺は満足な睡眠時間もとる事ができない上に、さらにはその睡眠不足が原因で体調を崩してしまったのだ。

 

頭がクラクラしながらも、俺は今もずっと響き渡るこの声に恐怖し、息が荒くなっていった。

 

「……怖い…。何時になったら……こんな……」

 

私は貴方が大好き…………何時だって貴方を見守っていた……貴方は初めての愛しい殿方……人間…………是非私のモノに……素晴らしく心地が良い場所へ……一緒に行きましょう?

 

「くそっ……! 一体誰なんだ……一体誰なんだこんちくしょう!!」

 

もう貴方無しでは生きられない…………貴方が必要なの……私は貴方を…………私は貴方を…………心の底から愛してるわ……

 

呟かれるのは何故か俺に対しての好意のみ。俺はその言葉がとてつもなく気も血の悪いモノに感じてしまう。まるで俺を殺そうとしているかのようなモノにさえ聞こえてくるのだ。

 

だが、これは仕方のない事である。何せ相手の姿や形も全く見えないうえに、ソレが相手の口から直接放たれるモノではなく、脳に響いてくるのだ。

 

最早それは俺にとっては精神を摩耗させる事以外の何ものでもない行為であり、いくら愛を囁かれようと、嬉しくとも何ともない。

 

全くもってこの行為は役に立たないのだが、それでもしないよりは精神的にマシだと思い、耳栓をして強引に眠ろうと目を瞑る。

 

しかし目を瞑ると、囁きが余計に大きく聞こえてくるのだ。

 

……耕也……私のモノになって……誓ってくれればそれでいいの……すぐに迎えに行くわ……貴方が私に愛の誓いをしてさえくれれば……

 

すでに囁きが頭痛を引き起こしている事態にさえなっている状態では、俺の我慢はもはや限界に達していた。

 

俺は目を一気に見開くと、ボロボロと大粒の涙が溢れてくるのを気にも留めずに半身だけ起こす。そして枕元にあった目覚まし時計を引っ掴み、怒鳴り散らす。

 

「くそったれ……ああ誓ってやるとも、お前の望み通りになってやる! どこの誰だか知らねえが、お前がその声を止めてくれるならなんだってしてやるよっ! ああ、なんだってしてやるっ!! …………だから、この忌々しい声を何とかしやがれぇっ!!」

 

その大声を発すると共に箪笥の方角に向かってブン投げる。

 

ブン投げられた目覚まし時計は、素直にそのトルクに従って、直線に近い放物線を描きながら箪笥に直撃する。

 

プラスチックの破砕する甲高く乾いた音と、内蔵されていた電池が箪笥に当たる鈍い音が響き渡る。

 

俺はその声を発した疲労感に息を荒くしながら、再びボロボロと涙をこぼして布団に顔を伏せる。

 

「もう……勘弁してくれえ…………」

 

そう呟いて俺はただひたすら涙をこぼしていく。

 

すると、突然横から物音がしてくる、それはまるで人の足音のようなもの。

 

……つまりは、もう迎えが来たという事なのだろう。……俺は一体どうなってしまうのだろうか? と、そんな考えが生まれていた。

 

俺を愛している等といった言葉を呟いていたのだから、俺が食われるという事はないだろう。

 

しかし、相手が妖怪だとすると、そこまでは分からない。もしかしたら、自分のモノにしたいという考えが、食うという事につながっている可能性も無きにしも非ず。

 

そう諦めの言葉を考えていると、近寄って来た足音から声が聞こえてくる。

 

「耕也! 一体何があったの? 大丈夫かしら? 怪我はない?」

 

と、焦った声が聞こえてくる。その声は脳内に響いていた声と殆ど変らない声であり、まるで紫を思わせる声であった。

 

そして俺が諦めの考えを含ませながら顔を上げると、即座に肩を支えられる。

 

その姿は紛れもなく八雲紫であり、俺の大切な大切な友人。

 

その顔は俺の顔を見るなり、表情を悲痛なモノに崩していく。

 

俺は紫の顔を見た瞬間に安心感が間欠泉のように噴き出すのが分かった。そしていつの間にかあの頭に響き渡っていた忌々しい声がピタリと病んでいる事に気がついた。

 

俺のボロボロな顔を見ながら紫は言ってくる。

 

「耕也……私が付いてるわ……安心なさい? 結界も張ったし、もう大丈夫よ」

 

俺はその言葉が引き金となり、紫を抱きしめて泣いた。もはや限界に達していたため、声を抑えることができずに俺は大声で泣いてしまった。

 

「う……ぐっ……うあ、う…あ…あ…、うあああああああああああああああああああああああっ!!」

 

俺が大声を上げて泣いている間、きつく抱きしめて安心させようとする紫。

 

その行為が何よりの安心感をもたらす薬となってくれ、俺はより一層の涙を流す。

 

「ああああああああああ……う、うぅ、くぅ……」

 

俺が大声で泣いても、迷惑だと思わずになおも抱きしめてくれる。さらにさらに強く。だからこそ俺は彼女に感謝している。本当に感謝している。俺の事を心配してくれて。

 

しばらくの間俺が泣き、そして落ち着いたころ合いを見計らい、身体を離して紫が声をかけてくる。

 

「耕也。……大丈夫かしら? ……耕也?」

 

俺は落ち着き始めたがまだ震えが微かに残る声で返答する。

 

「はい……大丈夫です。……ありがとうございます」

 

すると、紫は微笑みを浮かべて再度強く抱きしめてくる。もう二度と離さないとでも言いそうなほど強く。

 

俺はその強さに安心して、目を閉じる。

 

紫は俺を抱きしめた後、そのままの格好で言ってくる。

 

「さあ耕也、……行きましょうか?」

 

俺は紫が突然言い出した内容について行けず、理解もできなかったために聞き直す。

 

「あの…………行くって……どこへですか?」

 

すると、紫は俺の耳にねっとりと舌を這わせながら囁いてくる。

 

「あら、…………大声で誓ってくれたじゃない……私のモノになってくれるのでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は紫の口から放たれる言葉の意味を理解できない、いや、したくないためか再度聞き直そうとする。

 

だが、意味を理解していないとはいえ、本能的にその恐怖を理解しているのか、俺の紫を抱き返している手が小刻みにブルブル震えている。

 

「え、えっと…………ま、まさか……」

 

すると、紫は背筋が凍るほど妖艶な声で囁いてくる。

 

「だから……貴方は答えたのでしょう? 私の告白に……」

 

やはり、再び聞いても答えは変わらない。認めたくはない。信じたくはないと思っていた事がこうも容易く現実のモノとなるとは俺は予想する事ができなかった。

 

だからその言葉の意味を理解した瞬間に身体がガタガタと震えだしてくる。もちろん泣いた余韻で発生したものではなく、今ある現実の恐怖として。

 

そして予想が現実のモノとなった事……つまりは紫が今まで全てをしてきたという事。他の妖怪でも何でもない。紫本人が今までの行為をやって来たのだ。

 

紫は俺が逃げないように抱きしめながら、呟く。

 

「貴方が欲しいのよ。どうしても…………。…………貴方の受けた言葉などは、……全て私よ。……さあ、私の屋敷に参りましょうか? 未来永劫、溶けて融合しまうほど愛し合う夫婦になりましょう? ……私のモノになって? 耕也?」

 

俺はその言葉を聞いた瞬間に恐怖が限界点を達し、瞬間的に大トルクを発揮させて、紫の拘束を振りほどく。

 

「きゃっ」

 

そう言って紫は畳の上を転がる。

 

だが、俺はそんな事を気にする余裕など一切なく、ただ自分の身の安全を確保したいという思考に全て突き動かされていた。

 

俺は何とか出口まで行こうと身体に鞭を打つ。

 

そして数歩歩み出した瞬間に、右足が着くはずの畳み底が抜けたような感触がし、その次には俺はバランスを崩して畳の上に激しく叩きつけられる。

 

顎に激烈な痛みを感じながら、舌を噛まなくて良かったという変な考えを浮かべたが、瞬時にソレを破棄して、起き上がろうとする。

 

そしておもむろに自分の倒れた原因を確かめようと、顔を後ろに向けた瞬間に俺の顔から一気に血の気が引いた。

 

畳からスキマが発生し、右足首を掴んでいたのだ。俺はそれに恐怖しながらも必死に外そうともがくが、解除される全く気配がない。

 

次には掴んでいる手の下から冷たい声が響き渡ってくる。

 

「耕也……本当に悲しいわ。…………愛してくれるって……私のモノになってくれるって……言ったじゃない」

 

「でも……それは違う。……こんなはずじゃ…そんな……」

 

俺がただ怯えるように言葉を呟くと、紫は一言言う。

 

「さあ、もう言い訳はなし。……いらっしゃい?」

 

次の瞬間には物凄い力で俺を引きずり込もうと力を込めてくる。

 

あまりの力に俺の右足首がミシミシと悲鳴を上げ始める。最早俺に残された道は一つ。

 

「い、いやだぁ……!!」

 

そんな情けない声を上げて、脇にあった柱に右手を掴ませるしか方法はなかった。本当は左手も使いたかったのだが、この距離からではわずかに届かなかった。

 

「こ…の……!」

 

そう言いながら俺は自分の身体が引きずり込まれないように全力を込める。対する紫も力を込めてくるが、俺ほどの力は出せていない。

 

おそらく俺の身体が脱臼を起こしてしまうという事を気にしてくれているのかもしれないが、そんな事を気にしている余裕などは無く。ただ俺は必死に力を込めて振りほどこうとするのみであった。

 

だが、次の瞬間には、その配慮してくれているという考えが一瞬で崩壊した。

 

スキマが俺の右手に覆いかぶさって来たのだ。

 

そして俺がおもむろに

 

「へ…………?」

 

と、声を上げた瞬間に、スキマは一気にその口径を狭め、そして閉じた。

 

ブツン、そんな音が聞こえた。まるで繊維を裁断機で一気に切り落とすかのような鈍く嫌な音。しかし、それは俺の右手から発せられている音。

 

自分の手から血が噴き出している。

 

そんな事を認識した瞬間に、神経が沸騰し、激烈な痛みという言葉すら温い痛みが脳を直撃する。

 

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

痛み。そんな陳腐な言葉で表せるほどこの感覚は生易しいものではない。もはや脳がそれ以上の刺激を拒否するかのように信号を送り続ける。

 

「があああああああああああっ! あ、あああああああああああああ!!」

 

俺が悲鳴をあげ、血を撒き散らしている間にも紫は掴んだ足首を引いてくる。

 

俺は咄嗟に残った左手で畳みに向かって全ての爪を突き立てる。

 

だが、深く突き刺さっただけで、自分の身体を支えるには力不足も甚だしかった。

 

そして紫の腕の力はその爪によって生み出される抗力を軽く上回り、瞬間的に全ての爪が剥がれた。

 

「あっ………かっ………!!」

 

先ほどの腕部切断の直後に剥離。当然のことながら、そこまで痛みを受け止める容量は無く、瞬時に目の前が真っ白になり、そのまま俺は痛みか何か分からないような感覚に全身を支配された。

 

怖い。怖すぎる。…………俺は本当に…。臆病なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不気味な目が背景として多く存在する私のスキマの中。

 

耕也は無くなってしまった腕と、爪の剥がれた血まみれの左腕を庇うようにうずくまって嗚咽を漏らしていた。

 

私は強引にやり過ぎたと思いながらも、これしか私にとる手段が無かったのだと思い、耕也に近づいていく。

 

耕也は私の姿を確認すると、怯えた表情を浮かべて後ずさる。

 

当然の結果ではあるだろう。此処まで徹底的に恐怖を植えつけたのだから。

 

だが、そうでなくてはこれからの事が上手くいかない。

 

私は耕也の切れた右腕を持って彼に歩み寄る。当然彼よりも私の移動速度が大きいのだから簡単に追いつく。

 

怯えた表情をしている耕也の目の前で停止し、彼に目線を合わせるためにしゃがみこむ。

 

そして腕の欠損部に傷口を合わせるようにし、能力でふさいで元通りにしてやる。

 

「耕也。………ごめんなさいね? ほら、爪も治してあげる」

 

そう言いながら、治癒の術を掛けて元通りにしてやる。失った血は流石に補填することはできないが、それでもこの出血量程度なら大丈夫であろう。

 

しかし……耕也の恐怖に染まった顔は何て凄いモノなのだろうか?

 

妖怪の欲という欲を誘ってくる。こんな特異な性質を持った男などこの世には存在しないのではないだろうか?

 

私は彼の顔から恐怖の色が薄まっていくのを目にしながら、少々残念な気持ちになる。

 

だが、私の求めているのは耕也の恐怖の表情ではなく、耕也自身なのだから、そんなに気にしない。

 

「お願いです……殺さないでください……」

 

と、耕也が私に命乞いをしてくる。

 

そんな耕也にも愛おしさを感じながら、耕也を抱きしめて耳元で呟く。

 

「ねえ耕也……もう一度言うわ。…………私のモノになって?」

 

そして誰もが靡くような、安心するような、そんな優しさを存分に込めた声で囁く。

 

「私は貴方を心の底から愛してるの……強引だったのは、ごめんなさい。……でも、愛してる。だから……ね?」

 

鼓動を聞かせながら彼に対してさらに囁いていく。そして私は僅かばかりのズルをした。

 

「少し……仲良くしましょうか?」

 

そう言って私は扇子を振り、耕也に能力を使う。すると、あれほど不安定だった耕也が一瞬にして安定化し、次の瞬間には身体が火照り始める。

 

そして耐えきれなくなったのか、コクリと頷く。

 

「ふふふ、イイ子ね……」

 

私が操ったのは、本能と理性の境界。高感度と低感度の境界。

 

これはズルであるが、私達には永遠の時間が約束されている。後は耕也の慣れを待つのみ。

 

すぐに耕也は私を愛してくれるようになるだろうが、ソレが待ち遠しい。

 

私はその場で服を脱ぎ、耕也に覆いかぶさっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女はスキマ妖怪。

 

それは直線か、曲線かは分からないが、彼女はその境界に立って物事の変遷を見守る。

 

彼女にとってこの度の出来事はあまりにも衝撃的過ぎた。

 

境界に立つことのない耕也。境界が見えなかった耕也。

 

ただ、殻が剥がれれば耕也の境界は自ずとソコに。

 

彼女はスキマ妖怪。

 

自分自身の孤独という心の隙間を埋めた。

 

彼もまた孤独であった。高次元ゆえに。

 

どんなに歩み寄ったとしてもその存在は変わる事はなかった。

 

現実世界という絶対的な高次元の存在だったのだから。

 

だから耕也も心の奥底では孤独からの解放を待っていた。

 

ただ、紫は耕也の心のスキマを埋めただけ。

 

それだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「藍、耕也、橙? 御昼ご飯にしましょう?」

 

「了解しました紫様。ほら耕也、橙。行くよ?」

 

「わっかりました~」

 

「ちょっと待って。もうすぐで薪を割り終えるから」

 

「良いから来るんだ。私と紫様に搾られたいか?」

 

「すみません今行きます……」

 

「どの道変わらんがな」

 

「…………はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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