その条件はきつい気が……
「あ~……やっぱ気が引けるなあ。紫達忙しいだろうし、アポなしの訪問でいるかどうかも分からないし……」
そうのたまいながら、俺は紫の家に行く準備をしていく。ガヤガヤとしている地下街に比べ、古明地姉妹等が住む地霊殿に近い俺の家は、非常に真逆に近しいほど静かと言っても過言ではない。
騒がしくなると言えば、こいしが勝手に家に侵入し、俺の帰宅時に驚かせる事。また、それにお供で付いてくる燐や空がギャンギャン騒ぎ出し、一種のプチ宴会になったり。
さとりも此処になら空たちと一緒に来るし。まあ、このくらいか。化閃さんの店で働く事以外頻繁には地下街に行かないし、あまり馴染めていないのかもしれない。この部分は、俺が人間だからという部分が大きいのだろう。仕方のない事ではある。
しかし、年数を重ねて行けば、それなりに交流を持つ事ができるのではないだろうか? と、そう楽観視している自分がいるのも確かなわけで。この楽観している部分が今後の大きな足枷にならなければいいなと思いつつ。
そして、眼の前にある、ほぼ平らげられた朝食を視界に入れながら、何とも変な事を考えているものだと自分の思考に文句を言いながら、最後の一口であるなめこと豆腐の味噌汁を口の中に放り込む。
御馳走様。
そう手を合わせながら、食物に感謝し、皿をシンクの中に入れ、手早く洗って行く。
通常より3倍泡が出るといううたい文句のこの洗剤は、今までの洗剤よりもずっと泡が長持ちし、何とも使い勝手がよい。
スポンジを圧をかけ、足りなくなれば少しの水と共にまた圧を掛ける。ソレをするだけで、洗剤は粘り強く泡を搾りだし、更に付着する魚の脂などをくまなく落としてくれる。
これに何とも言えない心地よさを感じながら、俺はコップ一本の隅々まで洗い尽くし、金属製のかごの中に入れ、水切りをして自然乾燥させる。
終わった事を確認し、シンクに残る泡を全て水で綺麗に流し終えると、手をタオルで拭き、水気をしっかり取る。
「そろっそろ、行くかな……?」
別に宣言するほどの事でもないが、こうでも言わないと、何か区切りが付かず気持ち悪く感じてしまうの、で独り言が自然と多くなってしまう。
燐たちには良く独り言が多いと言われるが。……やはり直すべきだろうか? 独り言は意識しなければ直らない気もするし、更には今まで意識しようとした事が無い。
まあ、現状はこのままで放置で更に何か言われたら意識して直す方向で良いのかもしれない。
そう俺は自己完結させ、箪笥に近づき、上着を取り出し羽織る。
大凡、紫達の家の場所は分かる。前に一度だけ連れて行ってもらったが、立った一度だけなので少しおぼろげである。
「間違って変な所に突っ込みませんように」
変な所に突っ込む。それだけは嫌である。前の小町の時なんて殆どトラウマになりそうなものだった。
あの灼熱の溶岩地帯。赤熱、溶融した岩の中に人間が突っ込めば一瞬で燃え、炭と化すであろう。普通の人間ならば。
俺は何とかこの領域があるおかげで事なきを得たが、あの焦燥感の中でジャンプを行うのは非常につらいのだというモノが良く分かった。おまけにあの時岩にも突っ込んだし。
思い出しただけで寒気がしてくる。もう何と言うか。2度とごめんである。
そんな事を思いながら、俺は紫達の家の場所、その周辺の大まかな景色を思い浮かべ、一気に集中力を高めていく。
そう言えば、紫の屋敷は何故か公的な建物でもないのにも拘らず、瓦が使われていた。まあ、紫なら使っていてもおかしくないだろうし、そこら辺を深く考えても仕方が無いと思う。
「な~に考えてんのやら……」
そう口に出して思考を切り、改めて集中し、ジャンプを敢行する。
「よし」
その言葉とともに、景色が一瞬にしてブレ、次の瞬間には
「着い…………たあっ!」
思い浮かべた通りの屋敷が100m程先にあり、これでいけると思ったのだが、何故かそう何でもかんでも上手く行くとは限らず。
俺は変な悲鳴を上げながら、身を捩らせて回避行動をとってしまう。
なぜなら
「はあ!?」
本当に何故かよく分からないが、俺がジャンプした途端に周辺の空気が殺気立ち、岩や枯れ木の一部が光り出し、そこから火の玉が連射されてきたのだ。
全くもって理不尽な。
「紫様。侵入防止用の結界が破壊されたため、迎撃札が発動しました。いかがなさいますか?」
卓袱台を挟んで向かい側に座る紫様に私はそう尋ねる。
月で惨敗してしまった事が起因しているのかは分からないが、何とも不思議な事に此方の住処を嗅ぎつけて襲撃に来る輩が非常に多くなっているのだ。
舐められていると考えるのが自然か。それとも襲撃側に強力な妖怪が付いているのか。はたまた耕也に鬼達が負けたせいで、抑えつけられていた勢力が増長しているのか。様々な可能性が考えられるのだが、紫様はいつも微笑んでその事態を静観するのみ。
やはり私の考えの及び付かぬ程先まで計算済みなのだろう。私はつくづく思い知らされる。この御方の下にいるという事がどれだけ幸運な事か。
結界が破られるよりもずっと前から、いや寝間着のまま早朝から眼を閉じ、まるで石像のように固まりながら思考を高速で回している紫様。
「藍。今私は手が離せないから、適当に迎撃して」
私の方を見ず、ただひたすら眼を瞑りながら私に指示を出す。
普通なら紫様の能力を使えば簡単に相手の解析が可能なのだが……私にはまだ不可能なのだ。やはり三国を傾けた私ですら紫様とは大きな差がある。絶対的な。
自分の力不足に少々嫌気がさしながらも、紫様の命令を完遂出来るよう卓袱台から立ち上がり、一言言う。
「了解いたしました。迎撃して参ります」
「頼んだわ」
紫様は私の言葉に安心したのか、思考中の険しい顔のなかでも、安心したような顔を一瞬見せてくる。
それは自惚れでなければ、どんな時も私を信頼して下さる証拠であり、また私もそれを受け止め完遂するのが務めであると私は思う。
だからこそ。
静かに縁側にまで立ちあがり、誘導性能を持つ特大の狐火を右手に顕現させ、未だ分からぬ侵入者に対し。
「愚かな」
その一言と共に、右手を軽く振る。
この動作に従い、青く淡く輝く狐火は猛烈な速度を持って一気に加速する。そして狐火の誘導を、侵入者の居場所まで中継用に用意されている札に任せる。
ソレを複数。両の手で数えられる程度の数ではあるが、一定の間隔をおいて発射する。
少々離れている此処からでも分かるが、侵入者は妖力をほとんど持っていない。または全くもっていないに等しい妖怪である。
つまりは私の発射した攻撃は、大過剰であり、その妖怪は一発目が当たっている時点で跡形も無く消し飛んでしまっているだろう。迎撃用の火の玉を何とか避けてい入るようだが、もう持ちはしまい。
「何時も何時も御苦労さまだな本当に……」
そう聞こえもしない相手に厭味ったらしく労いの言葉を発し、縁側より飛び立ち、結果を見に行く。
毎度毎度のこととはいえ、無駄な事をし続ける輩が多いのだろうか? 勝てもしない、実力差が大きすぎるこの戦いを繰り返す事に何の意味があるのか?
その勢力の長とやらに直接会って言ってみたいものだ。
そんな事を考えた所で、一つだけ自分達にも当てはまる事があり、つい自嘲気味に笑ってしまう。
「ふふふ……、月面戦争の時の私達と少々似ているな……そう嘲ってもいられないか……」
紫様が、何故あのような戦いをしたのか……まだその真意に辿りついてはいないものの、あの時の月面戦争の負け戦と似ている部分があると、私は思ってしまう。
あの時、私達を相手にした月人達もこのような心境だったのか。そう錯覚させてしまう、推測させてしまうほど。
その考えがポッと頭の中に浮かんだ瞬間に、小さな怒り、侮辱されてしまったという屈辱感。主を侮辱したという忠誠心からくる方向性の違う怒り。それらが出てくる。
ああ、そう言う事か。
彼らが私達に挑んでくる理由の一つが分かった気がする。無論、これが第一の理由であろうが無かろうが、彼らの挑んでくる理由がこの屈辱感、敗北感、雪辱の願望に起因しているという事が。
だからいくら潰しても出てくるのか。挑んでくるのか。全くもって厄介な。
私はそう思考を重ねながら、ゆっくりと浮かびあがっていく。
そして、ようやっと向きを変え、その侵入者のいる位置に眼を向ける。
「え…………?」
おそらく私は今、紫様に見られたら爆笑されてしまうだろう。そんな顔をしている。
自分でもわかる。こんなに隙だらけの、しかもあまりにも間抜けな顔をしたのは生れてはじめてだろう。
あまりにもこの光景のアホらしさ、そして先ほどまで考えていた事が無駄だったような気がしてならず、口角が引きつっていくのを感じる。
ピクピク、ピクピク、と。
その侵入者は、右に行ったり、左に行ったり。時には腕を振って、迎撃札の火球を打ち消したり。道理で防御用結界がいとも容易くぶち抜かれるはずだ。
ああもう何でこんな時に限って暇ではないのだろう? 実に惜しい。暇な時ならこんな阿呆な表情をせずに済んだだろうに。
そして、ついに抑えきれなくなった感情が言葉として漏れてくる。
「耕也……何でここにいるんだ?」
「ああもう何でこんな事に!」
そう言いながら、俺は無駄に回避運動を実行し、連射されてくる火球から身をずらしていく。
人間てのは、唐突に行われる事に関しては、思考が上手くいかない事が多いもので。
突然迫ってきた火球に、領域がある事も忘れてしまったのだ。人間の危険に対する回避、本能が優先されたのだろう。気が付いた時には足が勝手に動いていた。
岩の陰に隠れてやり過ごしたり。火球の通った後が焦げていた事に驚いたり。
傍から見れば阿呆が変な踊りをしているとしか思えないだろう。しかもおまけに。
「何で特大の青いのが!? しかも複数!」
もし観客がいたら、そんな事を言う暇があるなら避けていろと言いそうだが、言いたくて言ったわけではない。自然と口から言葉が出てしまったのだ。俺のせいじゃない。俺のせいじゃないと思いたい。
紫の屋敷方面から突如出現した青い火球は、勿論食らったら大妖怪といえど、タダでは済まないであろう威力を保有しているのが分かる。
だからこそ俺は
「やめてくれー!」
そんな素っ頓狂な声を上げながら、逃げようとする。
が
「ちょっ!?」
グリップ力のあるスニーカーといえど、舗装されていない砂利だらけの道では、急激な方向転換には耐えられなかったようで。
見事に滑り、素っ転ぶ。当然ながら避け切れず爆発。爆発。爆発。
次々とぶち当たる特大火球は、熱を周囲に撒き散らし、周囲の草木を燃やし、砂を焦がしていく。
ギュッと目を瞑り、火球が巻き起こす爆発をひたすらやり過ごしていく。
そしてやり過ごしていく内に思い出した。やべえ、領域あるじゃん。
両腕で顔を覆いながら思う。前にもこんな事無かったっけ? と。
小町の事やら鬼の事やら色々と。覚えがあり過ぎる。特に妖精の事が一番ひどかった気がする。でもこれも相当なものだろう。表情もアホらしさ全開で。
指差されて笑われてもおかしくない。そんな醜態をさらしている気がする。
「本当に何やってんだ俺……」
そうアホ面を晒しながら呟く俺。が、こんな事を呟いた所で事態は改善する見込みはまるで無し。俺が避けるのをやめたことで、ここぞとばかりに火球が降り注いでくる。
しかしどうするか。おそらく札などを木や岩に張り付け、そして探知範囲内に入った敵を潰しにかかるタイプであろう。
札なら、外部領域で抑えれば一瞬で効果を無くすであろう。そんな予測を基に、俺は外部領域を広げに掛かる。
「領域に曝す時間はいくらでも良いけれども、まあ短くても良いか。……0.01秒程度で」
特に何か理由があってこの時間を決めたわけではないが、何となく。本当に何となくである。もし失敗してもまた曝せばいいだけなのだ。
「せーの……」
小さく声を上げると同時に、設定した通りに周囲300mまで外部領域を広がっていく。そして一瞬で外部領域が消え、元通りになる。
しかし、この一瞬とはいえ、外部領域の効果は絶大であった。
「よっしゃきた……」
あれほど激しく攻撃が来ていたのにも拘らず、ピタリとやんだのだ。ピタリと。
その事を脳が完全に実感するまでしばらくその姿勢を保つ。
あたりには静けさが戻り、鳥の鳴き声、草木が風に煽られ擦れる音。先ほどの戦闘が最初から無かったかのようにすら感じる。
「さて……と……?」
ゆっくりと周囲を警戒しながら立ち上がり、紫の屋敷の方角に眼を向けると、そこにいたのは
「……耕也。何をしているんだ……どうしてここにいるんだ……?」
口角を引き攣らせ、右眉をぴくぴくさせている藍がそこにいた。
「申し訳ないが、ここで待っていてくれ。紫様をお呼びしてくるから」
私はそう言いながら、耕也を玄関先に座らせて待たせる。
突然の訪問であったため、何も用意できていない。私は耕也に対する対応が疎かになってしまった事が少し気にかかるところだが、今さらどうにも出来ないので現状を維持するしかない。
私は、耕也がどうして来たのか? あそこまで苛烈な撃退用の札を迎撃してまで此処に来なければならない理由は何なのか? そして、何時になく耕也の顔に自信がなさそうに見えるのは一体何故か?
何時もとは全く違う耕也の様子に心配、違和感を覚えながらも、紫様と一緒に話せば解決するであろうとタカをくくり、急ぎ足で紫様のおわす居間へと向かう。
スッスッスッス…………。靴下の繊維と、木でできた廊下が擦れる音が私の耳に響き渡る。どうも、今日に限ってこの音を聞いていると、自分の心が焦ってしまっている気がするのは気のせいだろうか? 耕也が来ているから、普段気にしない事まで気になってしまうのだろう。
全く、私も穏やかになり過ぎたという事を再度確認させられる。
まあ、この穏やかさを見せるのは紫様と……特に耕也の前だけである。他には見せたくない。というか見せない。
変な決意を私は固めながら、廊下を歩き、襖の前に立つ。
「失礼いたします。紫様」
「どうぞ藍……それで、侵入者はどうなったのかしら?」
私は入室の許可が出た瞬間に、襖を静かに開けて中に入る。
紫様はやはり先ほどと同じく寝間着のまま眼を閉じ、複雑な計算を行っている。表情は相変わらず険しいままだ。
この場合、紫様に告げるべきかどうか迷ってしまう。今紫様の行っている事は、非常に重要な事。詳細までは教えてもらえなかったが、今後妖怪、神、人間などにとって非常に重要な事。
だからこそ、私は迷う。本当に告げるべきなのかどうか? 耕也が来た事を告げたせいで、その全ての計算が瓦解してしまわないか? いや、紫様の事だからそれはあり得ないだろう。だからと言って、邪魔するという事は非常に憚られる。
そうこう考えているうちに、紫様が痺れを切らしてしまったようで。
「どうしたの? 早く言いなさい……それとも、何かあったのかしら?」
「失礼致しました。報告させていただきます……想定外の事が起こりました」
そう言うと、私に向かって掌を向けて待てという合図をする。
そしてしばらく。30秒程だろうか? ソレくらい経った時、紫様が眼を開けて此方を見て口を開いた。
「良いわ藍。丁度作業の区切りがいい所で終わったから。……それで、想定外って言うのは何かしら?」
何か珍しそうなモノを見るかのような目で此方を見てくる紫様。当然だろう。今までそんな事は一切なかったのだから。今回が初めてなのである。
だからこそ、すぐに口を開いて伝える。
「紫様……。侵入者は…………耕也でした……」
その瞬間、紫様の顔が面白いほどに変化した。口にするまで、あれほど厳格で美しく、妖艶な紫様が……。
口を大きく開け、眉をピクピクと。正直に言うと、間抜けな顔である。失礼だが、間抜けな顔である。
「何ですって……? ……耕也が?」
その言葉に、コクコクと頷き
「玄関内に待たせております……いかがしますか?」
その言葉に、紫様はやっとこさ口を閉じ、自身の身体に視線を落とす。次に私の方を見て、また自分の身体に視線を落とす。
ソレを何回か繰り返した後、まるで自分が寝起きそのままであることに気が付いたかのように、紫様は顔を真っ赤に染める。もう何と言うか、先ほどの威厳が粉砕してしまうほどに。
紫様は唇をわなわなと震わせ、震えた声で搾りだすように言ってくる。
「ど、どうするも何も……」
そう言いながら、後ろに隙間を作ってさらに言葉を発する。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! い、今から着替えてくるから。いいわね? 少し待ちなさい!」
今にも湯気が吹き出しそうな真っ赤な顔で、スキマを潜って行く紫様。紫様はまだまだ初々しい部分がある。もっと殿方の扱いというか何と言うか。余裕を持ってほしいモノである。耕也に対して。
まあ、耕也の場合はもっとひどいが。
そして、3分程経った頃だろうか
「い、良いわよ。連れてきなさい」
その言葉と共に、何時もの紫色のどれすではなく、南蛮風の。そう、私と似たような服を着て現れた紫様。
ほんの少しだけ香水を着けているのが分かる。何とも女を引き立たせるような、魅惑的な香りだ。
だが、顔は赤いまま。少し収まってはいるが。
「かしこまりました」
私は頭を下げ、耕也の元へと向かった。
「耕也、待たせたな。すまない、上がっていいぞ」
「お邪魔いたします……」
紫の家に来た事はあるが、あの時は家の中にはお邪魔することは無かった。だから、初めて来る家なので少々緊張してしまう。
何とも情けないぞと思いながら、相手は紫達なんだ。そこまで緊張するこたあない。と、必死に奮い立たせる俺がいる。
だが、やはり緊張してしまう。どうしても緊張してしまう。けれども、さすがに人の家に来てまで領域を展開しているのも失礼だと判断し、解除しておく。
が、それに伴って心拍数がちょこっとだけ上がってるのが分かる。女性の家に来るのは……結構あるなあ。輝夜に幽香に幽々子にさとりにヤマメに……あれ?
案外行っている事に今更ながらに驚いてしまう自分。それで、此処で紫の家が追加されるのか……。
いやあ、それにしても紫の家は何と言うか。良く分からない魅力というのがある。此処に住みたいと思わせるような何かが。
そんなどうでもいい事を考えていると、先を行く藍が立ち止まり、横にある襖に手を掛ける。
「耕也、こっちだ。……紫様、失礼します。耕也を連れて参りました」
何とも堅い感じで紫に入室許可を求める藍。そんなに厳しいものだったかな? と思うが、まあ式になっているからそうせざるを得ないのかもしれないが。一応主従関係のようなものだし。
「良いわよ。入ってらっしゃい」
そんな艶のある声が返ってくる。間違いなくこの声は紫。当然ではあるが。
その言葉を聞くと、藍は襖を開けて中に案内してくれる。
中に入ると、紫が笑顔で。しかし、何処となく顔が赤いような印象を受ける。何か術式でも使っていたからだろうか?
そんな事を考えながら、彼女に向かって挨拶する。
「突然の訪問すみません」
そう言うと、紫は手を振りながら
「良いわよ良いわよ。ほらほら、座って?」
と言ってくる。
俺は、紫の言葉に感謝しながら、対面になるように正座する。
決して大きくは無い卓袱台。だが、4人ほどなら余裕を持って食器などをおける面積を持っている。
この屋敷は、他にもたくさんの部屋があるのだろうが、実のところはあまり使っていないのかもしれない。2人ならそこまで使う事が無いように感じられるのだ。
だがまあ、これはただの憶測にすぎないので、実際にはもっと別の作業やら荷物置き場、個人的な趣味などで多く使っているのかもしれない。
そう考えていると、紫が真面目な顔で、尋ねてくる。
「早速で申し訳ないけれども、今日はどのような用件で来たのかしら……?」
と、言ってくる。言葉の端々に少々焦りのようなモノが見えるのは気のせいだろうか? やはり突然の訪問は失礼過ぎたか……。
何かの作業中だったのか、それとも今来られてはならない予定でも、今後あったのだろうか? と、そんな疑問が湧いてくる。
とりあえず再び謝罪をば
「いや、別に来てくれたのは嬉しかったのだけれども、迎撃用の札とかが反応したりして、大変だったでしょう? それでも此処に来たっていうのなら、何か急ぎの理由があるんじゃないかと思って。それで一気に聞いてしまたのだけれども。決して貴方が来たのを怒っているわけじゃあないから。ね? そこだけは勘違いしないでほしいのよ。本当は来てもらって凄くうれしいのよ? 藍と私は……ね? ね?」
と、俺がする前に口早にまくしたててくる。それは、藍ですら眼を見開く程のモノ。何とも意外な行動である。
が、そこまで気遣ってくれたのは素直にうれしい。自然と頬が緩みそうになる。が、何とかこらえる。
「ありがとう紫さん。要件というのは……ええと、俺の依頼内容を手伝って頂きたいのだけれども……」
そう言うと、紫は先ほどの真剣な表情にスッと戻り、扇子を出しながら聞いてくる。
「依頼内容……?」
俺はその言葉に、コクリと頷く。
「実は……俺と依頼者を魔界に連れて行ってもらいたいのだけれども」
そこから俺は一気に内容の詳細を切りだして行った。
聖白蓮が魔界の法界に封印されている事。その封印を解きたい、恩返しに解きたいと一輪とムラサが依頼に来た事。他の妖怪達には協力を拒まれてしまった事。依頼を受けたはいいものの、魔界まで行く手段が見つからない事。ムラサの力で行ける筈だったが、力の殆どが使えないため、駄目だった等々。
結構長い時間、彼女に話したと思う。その間、彼女は目を閉じ、俺の言葉を咀嚼するかのようにコクリコクリと頷きながら、耳を傾けてくれた。そして藍も同じく。
ようやっと話終わった時、紫は一言
「私が魔界までの道を開けばいいって事かしら? ……行った事が無いわねえ……魔界なんて」
俺の願いを端的に述べる紫。
俺は紫に大きな負担を掛けるという事を承知の上で此処に来たのだ。ならば、それなりの誠意を見せなければならない。
正座のまま少々後ろまで下がり、両手を膝近くに下ろし、指をそろえる。
そしてそのまま額を地面につけるまで一気に下ろし口を開く。
「御迷惑をお掛けするのは承知の上で来ました。ですが、どうしても紫さんの御力が必要なのです。どうか、御願いたします」
いわゆる土下座の格好で彼女に懇願する。
行ったことも無い魔界に彼女が隙間を作る。大変な労力を必要とするであろう。自宅から此処までつなげる等とはわけが違う。世界が違うのだ。世界を乗り越えるのに一体どれほどの計算が必要で、どれほどのエネルギーが必要か。
俺にそんな事は分からない。ただ莫大な力を必要とするという事だけ。ソレくらいしか推測できない。
そう考えて、彼女に口を開いた。
そして彼女の答えは
「耕也……顔を上げなさいな……」
彼女が此方の頼みを聞いてくれたのか。そう思って俺は安堵しながら顔を上げた。
が、そこにいるはずの人物がいなかった。おかしい。何故いないのだろう? 先ほどまで此方と対面に座っていた紫がいないのだろうか?
俺が眼の前の事態の急変に、呆気に取られていると
「耕也……流石に大妖怪の私でも、魔界に行くのは骨が折れるわ……?」
唐突に背後から声が聞こえて来た。
俺は反射的に後ろを振り向こうとする。
が、その動作を行っている最中に、手を引っ張られ、引き倒される。
「へ?」
そんな間抜けな声を出していると、引き倒され仰向けになった身体に圧し掛かられる。
勿論その身体は紫であり、端正で、妖艶な雰囲気を持つ美貌が目の前まで迫っていた。が、その顔は俺の顔の横に接近してきたのだ。
そして、耳元に息がかかるくらいにまで。至近距離まで近づけたかと思うと、紫は小さく小さく。囁くように、身体の芯の芯まで届くような声で話す。
「耕也……流石に此処まで力が必要になると、その元となる材料が必要となってくるわ……だから……」
「え? え……?」
未だに紫が何をしたいのか把握しきれていない俺。先ほどの土下座からいきなりのこれなのだ。ついて行けない。
そうこう混乱しているうちに、紫は息を吸い、そして一言。
「腕一本で……いかがかしら?」
この一言を境に一気に彼女の纏う空気が変わった。激変したと言ってもいい。
あまりにも変わり過ぎて、此方の心拍数が右肩上がりである。
「う、腕一……本……?」
何とかこの状況を打破しようと、身体を捩ろうとするが、紫が抑えつけてくるので全く動く事ができない。大の大人である俺が全く動けないのだ。この細身の何処にそんな力が秘められているのか。
改めて分かる紫の力強さ。妖怪の力。
「そう、腕一本。貴方の肉と血なら、魔界への道を開拓するのに最適だわ。……食べた瞬間に妖力が満ち満ちる。それはもう素晴らしく心地よい事のはず……でも、貴方のが無いと開拓することすらできない……いかがかしら?」
染み込むように、まるで紫以外の声、音が聞こえなくなるくらいに響いてくる。
そして一言一言この耳に届く度に、身体がまるで底なしの沼に沈んで行ってしまうような。そんな感覚にすらなってしまう。俺の身体が俺のモノではないかのように感じる。動かそうと思っても、どんなに力を込めようとしても、ピクリとも動かない。
このあまりに異常な状況に俺は恐怖せざるを得ない。怖い。
息が上がってくる。早くなる。心臓が早鐘の様にうつ。
ドッドッドッドッドッドッド…………これよりももっとひどいかもしれない。
汗までも出てくる。身体が寒い。酷く寒い。自然と震えてくる。恐怖からの震えと、寒さからの震えの二つだろう。収まらない。
俺は領域、自分の力の事など一切忘れながら、ただひたすら紫という大妖怪に恐怖し続ける。それほど彼女は俺の心を、思考を、この場の空気を支配下に置いていた。
「早く……決めてくれないかしら……?」
紫がねっとりとした声で尋ねてくる。
早くこの状況から、この恐怖から抜け出したい。唯その一心で、俺は彼女に返答してしまっていた。
「う、腕一本で……良い…………のです……か?」
「そう……そうよ?」
その声が引き金となってしまったのだろう。
「御願い……します……」
そして紫は、そのままの姿勢で、耳に息を吹き掛けてくる。身体中に寒気が走る。より一層ブルブル震えてくる。
ああ、寒い。
そして一言。
「では……いただきます」
せめて痛みが無いようにしてもらいたかったが、そんな事を妖怪が想定するわけも無く。また別の考えも浮かんでくる。
やっぱり、高次元体だからか……身体を重ねても食欲云々までは誤魔化せないってことなのか……悲しい。
「……………………………………なんてね?」
その言葉と共に、一気に空気が柔らぎ、身体に温かみが戻ってくる。それに伴い、寒気が一気に解消されてくる。
自分は生きている。そう実感できる。
しかし、紫はそのままの姿勢で
「耕也…………貴方は地底に生きている。でもそれは領域があればこそ生きていけるのよ? 貴方はひとたび領域が消えてしまえば、格好の餌。少し警戒心を持ちなさい。妖怪への恐怖を再確認しておきなさい。お人好しも過ぎると、命を失う羽目になるわよ?」
と、今度は温かみのある、慈悲に包まれた口調で。
「でも、さすがにやり過ぎてしまったかしら。……ごめんなさいね」
俺はそれでも、このお人好しの部分は捨てたくない。これも現実世界からの俺なのだ。ソレを捨ててしまえば、証明できるものを一つ失ってしまう気がすると俺は思う。
だからこそ
「い、いえ……御気になさらず……」
紫にそう返す。
紫は、俺の身体を強く抱きしめ、再び囁いてくる。身体が暖かい。
「お人好しね……。……代償なんて必要ないから、貴方の時間が空いている時に、開いてあげる。……今日は此処に止まって行きなさいな。ね?」
俺はこの変なやりとりに、疑問を持つことも無く
「はい」
と、返事をした。
そして、紫はまた息を吸い一言言ってくる。
「今夜は頑張りなさいな? 私と藍の二人よ?」
……飴と鞭のどちらなのか分からない。