東方高次元   作:セロリ

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85話 妖怪と人間……

種族の違いという者はやはり大きく……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと気が付いたら目の前は真っ赤になっていた。

 

一体私はどうしたというのだろうか? ちょっと楽しそうにしている耕也達に嫉妬を覚え、私は能力を使って聖達を眠らせた。

 

そこまでは鮮明に覚えている。だというのにそこから先があやふやになってしまっているのだ。一体何が起きているのだろうか?

 

そう思いながら、眼の前の赤い物体に焦点を合わせる。大量の赤い液体が溢れ、周囲はまるで鋭い歯で抉られたかのように酷く損傷している。

 

眼前にある肉の様なモノに舐めるような視線を這わせながら、呼吸を繰り返す。

 

嗅ぎなれた匂いと嗅ぎなれない匂いがある。洗剤という不思議な匂いが混じった不思議な匂い。耕也の匂いである。

 

では、この嗅ぎ慣れない匂いは一体何なのだろうか? 私の食欲を強烈にそそり、ずっと嗅いでいたいとさえ思うような芳醇な香り。

 

ふとそこで、口の中にまでその匂いが充満している事に気が付いた。そして、その匂いの元となる肉のような感触をした物体もある事に。

 

眼の前の損傷具合と眼の前の匂いと合致するもの、それは血と肉であろう。

 

芳醇な香りを発する血を舌に乗せて唾液と共にネチャネチャと混ぜて行くと、痺れるほど甘美な味となって脳天を貫いていく。

 

次は肉。噛めば噛むほど旨みが口の中に溢れ出し、血と共に強烈な麻薬となって私の身体から快楽を引き出していく。

 

その血の一滴、肉の一欠片が喉を通り、身体に吸収されていくたびに莫大な力となって行くのが分かる。

 

そう、分かるのだが、この強烈な麻薬を一体何故私がと思った瞬間に、あやふやな記憶が一瞬にして鮮明になった。

 

「あ……ああ……」

 

恐ろしい。なんてことだ。やってしまった。ついにやってしまったのだ私は。

 

自分の仕出かしてしまった事の重大さに漸く気が付いた私は、それを認める事がとても怖く、あんまりにも予想外の事であったため、声を震わせて後ずさることしかできない。

 

今後起こり得るであろう事象を予測し、そのための試験的に莫大な計算を行ったが故の妖力枯渇。

 

そのせいだろう。そのせいで今の私が此処にいるのだろう。こんな事をしでかしてしまったのだろう。

 

これが今後の関係にどんな影響を与えるのか。そんな事、そこら辺の妖精にも分かるであろう。

 

あああああ、一体何故あなたを――――――っ

 

そう思った瞬間であった。

 

「ぐっ……」

 

まるで何か透明な壁を叩きつけられたかのように、強烈な衝撃が私を襲った。まるで鉄の風に殴られたかのよう。

 

その衝撃は、私の身体を吹き飛ばすには十分な威力を保有していたようで、一瞬にして耕也の傍から吹き飛ばされてしまった。まるで枯れ葉が風に飛ばされていくかのように軽々と。

 

ただその衝撃による圧迫感からのうめき声しか出す事ができず、ただただ無様に砂煙を上げながら地面を転がるしかない。

 

が、それでも私は耕也の容体が気になり、自分の身体の痛みを放って無理矢理立ちあがる。

 

「耕也っ!」

 

私はそう叫び散らしながら、よろよろと耕也の所まで駆け寄る。

 

縺れそうになる足を前に前に出し、前に出し。耕也がいる所まで足を出し続ける。よもや耕也は死んではいないだろうな? 私の……傷つけてしまったとはいえ、私の耕也は死んではいないだろうな?

 

そんな事を思いながら、ただひたすらに足を進める。

 

「耕也…………」

 

砂埃が張れ、血まみれで倒れる耕也を見た瞬間、血が沸騰し始める。

 

額が熱くなり、まるで血液が熱湯に変換されてしまったかのようだ。頭から、首、胴体と順々に熱せられていき、ついには唇がフルフルと小刻みに震えてくる。

 

全身が沸騰しそうになった瞬間、眼頭が一気に熱くなり、涙が滲み出て心をより一層と惨めにさせる。

 

その惨めさは、私が一体何をしでかしてしまったしまったのかを強烈に突き付けてくるようであり、更にはその涙自身が私の行動を猛烈に批判しているようにさえ思わせる。

 

だからこそ、この気持ちが抑えきれなくなり、口が勝手に動いてしまう。言葉を発してしまう。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 

と、そう呟くように声を発し、私は耕也の身体に駆け寄って抱きつく。

 

見れば見るほど酷い傷。鎖骨と思わしき骨は、途中から完全に失われており、血はダラダラと湧水のように溢れて流れて行く。

 

あまりの損傷に身体が悲鳴を上げているのだろう。まるで断末魔を上げるかのように、時折激しく痙攣させている。

 

何て事をしてしまったのだ……よりにもよって耕也を食ってしまうとは。

 

決してしてはならないと自分でも思っていたのにも関わらずこのざまだ。

 

その直後であった。

 

「な…………っ」

 

血まみれだった耕也の身体から、何か青白い気体のような、光の帯のようなモノが噴出し始めたのだ。

 

その光は、強烈な光を放ちながら絶えず轟音を放ち、猛烈な勢いで砂埃を吹き飛ばしながら、一直線に噴き出て行く。

 

まるで蝋燭が消えかけ、最後の揺らめきの輝きを発しているのようにすら思える。

 

そう自分の中で勝手な推測をしていると、この状況、私自身が焦っているという事もあるためか、ソレが妙に現実味を帯びているモノに思えてしまい、身体中の血が凍って行くような感覚に陥った。

 

脈拍の激しかった心臓が、その感覚に比例するかのごとくゆっくりゆっくりと拍動するようになる。

 

まるで耕也の心臓と同期しているかのようにすら思えてきてしまう。

 

そして、強い光が一段と増した瞬間、私は絶対安静が必要な耕也の身体を揺さぶり始めてしまった。

 

「耕也、死んでは駄目よ! 死んではダメ! ごめんなさい、ごめんなさい! 耕也ごめんなさい!」

 

最早許してもらいたいのか、私の行為を無かった事にしてもらいたかったのか、何が何だか分からなくなってきてしまった。

 

ただひたすら眼の前に倒れている男の名を叫び、肩を激しく揺さぶり、意識が覚醒するのを待つだけ。

 

危篤状態の人間にこのような事をするのは、本来ならば言語道断である。友人の幽々子にすら張り倒される所業であろう。

 

だが、それほど私は混乱してしまっていたのだ。

 

「耕也………………大正耕也! 耕也! 返事しなさい耕也っ!」

 

叫ぶ、叫ぶ、叫びまくる。光の反射で更に青白く見える耕也の顔が、死人の顔に見えてしまい、より一層揺り動かしてしまう。

 

ゆらゆらゆらゆら。涙をボロボロ溢しながら耕也を揺り動かしている私の姿は、事情を知る者が見たらさぞかし滑稽な姿に見える事だろう。

 

その中で、耕也を揺らしている際に違和感がふと湧きでてくる。

 

「なに…………?」

 

思わずそう呟いてしまう。光の中心、発生源に眼を凝らして良く見てみる。

 

光の強烈さに眼が眩んでしまうが、それでも眼を細めて光度を調節して根の部分を凝視する。

 

「何よこれ……」

 

思わず呟いてしまう。

 

耕也の身体にある異変が起こっているのに気が付いた。

 

それは

 

「傷がふさがっている……?」

 

勢いよく噴出している光が目に見えて細くなっていくのだ。最初は歪な形をした光束だったのにも拘らず、今では綺麗な円形へとなり、明らかに細くなっている。

 

そして何より

 

「血が消えてる……」

 

そう、耕也に付着している血、服に付着している血が全て消えていたのだ。

 

もしやと思い、私は胸のあたりではなく、肩の端に視点を移していく。

 

「あ…………」

 

それは安堵からの声だったのか、それとも驚きによる声だったのか、どれともつかぬ微妙な声を出してしまった。

 

だが、恐らく驚きの声だったのだろう。なぜなら、肩の傷が綺麗さっぱり無くなっているのだ。

 

その事を目の当たりにした瞬間、彼の肩を貫いた自分の指がどうにも気になってしまい、呼気を荒げながら震える両腕に力を入れる努力をして抑えながら、ゆっくりと視界に入れて行く。

 

「まだ血があるのに……」

 

耕也の身体に付着している血は綺麗さっぱり無くなっているのにも拘らず、私の身体に着いている血は全く無くならないのだ。

 

彼に歯を突き立て、血肉を貪ってしまったという事が先行してしまい、碌に物事を考えられなかったが、此処でふと一つの可能性が生まれてくる。

 

それは今までの経験、実際に見た光景等から最も確実であり、現実味のある手段に昇華されて口からポンと出てくる。

 

「領域が全部…………よね」

 

そうこの光束、血の消滅に加え急激な治癒現象。これら全てが耕也の持つ領域とやらの効果であると断定できる。

 

すべて保護、守護、修復。全て耕也を死なせないために領域が行っている事なのだ。

 

そこで弱弱しく青く縮こまっていた心が、一瞬にしてどす黒く変色したように感じた。

 

いや、感じたのではない。変色したのだ。領域の事を考えた瞬間に、今まで耕也に縋って、一生懸命揺すって耕也を目覚めさせようとした自分が、一瞬、ほんの一瞬ではあるが、とても滑稽、愚行に思えてしまったのだ。

 

領域が耕也を修復する。ソレを考えただけ。たったそれだけなのだ。たったそれだけのことなのにも拘らず、私は耕也をまた食したくなってしまったのだ。

 

何せ、いくら耕也を食ったところで、領域が全て修復して元通りにしてくれる。

 

領域さえあれば、耕也の身体は何時だって健康体に戻ってくれる。だから私は何時だって耕也の肉を食べる事ができる。いや、幽香、藍、そしてこの先私が誘うであろう妖怪にも、耕也の血肉を与えられる。

 

この莫大な力へと変換される血肉を。

 

そう思ってしまったのだ。一瞬。たかが一瞬。されど一瞬。

 

その一瞬がどれほど恐ろしいもので、どれほど自分の脳、身体を蝕んでいるものなのかを今更ながら思い知らされる。

 

ゴクリとつばを飲み込む。何時もよりねっとりとした唾液は喉に絡みつき、思うように食道を通って行かない。

 

この気持ち悪さ。そして、考えてしまった事による嫌悪感。

 

どちらもが猛烈に私の心をより一層青白くしていくのみで、またもや眼頭を熱くさせる。

 

「……………………耕也」

 

ポツリと呟いた時、眼の前の耕也から光が完全に消え去った。

 

どうやら修復が完全に終わったようである。服こそ破れてしまってい入るものの、身体には傷一つ無く、私が食らう前の耕也へと戻っている。

 

しかし、まだ終わってはいない。耕也を運ばなければならないのだ。

 

こんな所に放置するなんてことは、私の選択肢には全く無く、耕也を部屋へと運ぶという選択肢しか存在しない。

 

「は、運ばないと……」

 

耕也が完治したという安堵感からか、声が震えてしまう。

 

そして同時に恐怖感も湧いてくる。耕也が目覚めたとき、私の顔を見てどんな反応をするのか? 私の顔を見て恐怖の色を浮かべ、拒絶したりしないだろうか? 私の顔を見て、激昂して私に攻撃を加えてこないだろうか?

 

怖い。怖い。耕也に嫌われる事がとてつもなく怖い。

 

「あ、ああ……いやよ……」

 

そう呟きながらも、私の身体は耕也の身体を抱き上げ、フラフラとした足取りで屋内へと進んでいく。

 

隙間を通り、耕也、白蓮達がいた居間へと足を運ぶ。

 

白蓮達は、耕也が寝かせたときと同じ態勢で、規則的な呼吸をしながら深い眠りについている。

 

此処でもまた新たな不安要素が芽生えてきた。

 

耕也がもし、白蓮に先の事を話したら? そんな考えが浮かんでくるのだ。

 

もし話されたら、耕也と疎遠になるばかりか、白蓮達という勢力とこの先ずっと敵対しなくてはならなくなる。

 

しかし、それも私のしてしまった事が招いた結果と割り切るしかないのだ。今の私に選択肢など有る訳も無く。ただ耕也をこの場に寝かせることしかできない。

 

いつもより耕也の体重が重く感じられる。罪の重さとやらか、それとも単に力を発揮できずにいる私の情けなさからくるものか。

 

コクリと唾を飲み込み、緊張感、恐怖感で渇いた口を潤していく。

 

ただただ、耕也をこの場に寝かせておくことしかできない私をどうか許してほしい。

 

そう心の中で願いながら、身を落とすかのように隙間の中へと退散していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゆ、紫様!? どうしたのですその格好はっ!」

 

辿り着いた屋敷で、藍は顔を強張らせて大声で叫んでくる。

 

「どこかお怪我をなされたのですか!? ち、血まみれではないですかっ!」

 

ふと、その声で私は自分自身の体を再確認することができた。

 

首から下にかけて血に染まっていたのだ。

 

ドレスの肌が露出している胸元まで赤一色。血はまだ渇ききっていないためか、滴り落ちているのが分かる。

 

そして、肌が露出していない部分である、布。着る前は見事な紫色で、如何にも私専用の、私を体現するかのような妖しさを持っていたドレスは、返り血によってどす黒い色へと変色してしまっている。

 

改めて思い知らされる。耕也の受けた損傷を。領域で回復したとはいえ、どれだけの血を流してしまったのかを。

 

そう思うと、ボロボロボロボロと涙が出てくる。

 

ふらふらと、ガクガクとしていた足に、さらに力が入らなくなりその場に私はへたり込む様に座ってしまう。

 

「ああ、藍…………ついにやってしまった……やってしまったのよ」

 

「紫様、落ち着いてください。今ここで慌てる必要はありません……どうか落ち着いてください」

 

ふと、その言葉がストンと私の中に降りていき、私の荒れ狂った心を静めていく。

 

「ええ、そうね」

 

しかし、誰かに話さずにはいられなかった。同じ意思を持った者に。長年つき添ってくれた藍に。

 

悩み事を信頼できる相手に話すことが、一体どれだけ救われることなのか。

 

藁をもつかむ思いで、藍にしでかしたことの全て話していく。その場に感情をまき散らすかのように私は藍に吐露し始める。それでも藍の事を直視することができなかったが。

 

「ら、藍……、耕也を食べてしまったのよ……私は」

 

その言葉を言った瞬間、ほんの一瞬ではあるが、藍の妖力が増大したのを私は感じた。

 

当然だろう。想い人、伴侶である耕也を食ったと私が言ったのだ。怒らないはずがない。

 

「紫様……耕也は、耕也はどうなったのですか?」

 

藍が震えた声で尋ねてくる。それはあまりの怒りのためか、それとも次に発する私の言葉を恐れてのことか。

 

いや、この場合はどう考えても怒りで震えている。そうに違いない。

 

わたしは、とうとう式にも見放されるのか。そう思いながら諦めるかのように私は藍に答える。

 

「耕也は無事よ……ただ、今は気絶している状態……領域が全て修復したようね……」

 

そう言葉をつづけていくと、藍は先ほどとはまた違う声で返してくる。

 

「そう……ですか……。良かった……」

 

それは先程の震えた声ではなく、いつもの落ち着いた冷静な藍の声。

 

「呆れたでしょう……? あんな計画を持ちかけて置きながら、その首謀者自身が対象の命を追い詰めることをしただなんて……失笑ものよね」

 

もっと藍は激昂していい。もっと私を罵っていい。その権利が藍にはある。

 

「藍……笑いなさいな…………怒りなさいな……」

 

「紫様……私は笑いもしません、怒りもしません。ただ、なぜ耕也を食べてしまったのか。それを聞きたいのです……」

 

やはりそれを聞いてくるか。と、私はそう思った。

 

いや、誰だってこんなことが起こったら原因を聞いてくるだろう。

 

ましてや常に傍にいた式なのだ。主である私が起こしたことを聞きたくなるのは当然。

 

「そうね……藍、私が今後数百年の内に必ず起こると予測し、ある計画を練っている、計算しているということは前に話したわね?」

 

私の言葉に藍はコクリと頷き、返してくる。

 

「はい、承知しております」

 

頭の賢い藍なら私の言いたいことはすでに予想が付いているだろう。

 

現に、藍の表情が次第に焦ったモノに変わってくる。

 

眉を顰めたかと思えば、目を大きく開いたり。口を閉じていたかと思えば、半開きにして左手で覆ったり。

 

私はその表情の変化を見届けながら、さらに言葉を続けていく。

 

「その過程における膨大な計算の際、もちろんではあるけれども、相応の力を消費するわ……」

 

私は一旦其処で口を閉じ、次に発する言葉への覚悟を決める。

 

どの道藍には全て分かってしまっているだろうが、言わなければならない事である上に、其れを言わなければ溜め込み過ぎてこちらがどうにかなってしまいそうだ。

 

「相応の力を消費した時、私は強烈に力の回復を渇望したのよ。それを意識、確信した瞬間、猛烈に耕也を欲した、猛烈にね……。そこであの依頼が舞い込んできた。私が猛烈に欲していた耕也が直接依頼しに来たのよ? もうそれで私の理性は吹き飛びかけた。あのような警告まがいの押し倒しはほとんど本能、ほんの少し理性が効いての行動……あとはもう分かるわよね…………?」

 

涙を流しながら吐露することが一体どれだけ惨めに見えるかは疾うに分かっている。

 

血まみれの手、体を晒しての懺悔。

 

なんとも惨めである。

 

「紫様……今後はどうするおつもりですか? 耕也には会いに行くのですか?」

 

一番尋ねられたくないことを尋ねられた。まさにその表現が合っていることだろう。

 

そう、今後どうやって耕也に顔を合わせればいいのか。

 

合わせる顔がないのは私が一番分かっている。人間にとって捕食されるという行為は最も恐れる事象の1つであり、それが忌避される事だからこそ、人は妖怪の退治を行う。

 

そのことを耕也に行ってしまったのだ。嫌われること必至である。

 

でも、こんな取り返しのつかないことを行ってしまったとはいえ、耕也に嫌われる事は絶対にあってはならない。あってほしくない。

 

地底で思っていたことがまたもや脳を支配し始める。ただただ嫌われたくないと思っていただけで、またあの光景が、後悔が蘇ってきてしまう。

 

(なんて顔をして会えばいいのかしら?)

 

泣きながら会えばいいのか? 縋るようにして弱弱しく耕也に謝ればいいのか? 人間らしく土下座して謝ればいいのか?

 

こんな考えをしている限り、耕也に許してもらえる日は来ないのだろう。

 

ああ、駄目だ。頭の回転が鈍すぎる。動揺、焦り、怒り、悲しみ等の要素が複雑に絡んでいるとはいえ、なんでこんなに鈍いのだ私は。

 

そんな自分に嫌気がさしてくる。

 

「紫様…………まずはこれで手を拭ってください。汚れたままですと肌にも悪いのですから……」

 

そう言いながら、濡れ布巾で手を拭いてくる。

 

一体どこから取り出したのかは知らないが、その濡れ布巾は非常によく冷えていた。それは熱を出した際に額にあてられた時のような心地よさを感じさせてくれる。

 

「……ありがとう藍」

 

そう礼を述べながら、藍の行動に身を任せる。凝固していない血は軽く拭き取り、凝固しきったもの、渇ききったものは水を垂らして強めに拭き取って行く。

 

白く綺麗だった布は、少量の血を吸い取っただけで容易に変色して行く。まるで私が耕也の血肉を貪ったように侵食していく。

 

そう、悲しい事である。妖怪と人間の意識、倫理の差。

 

相いれないものなのだろうか。いや、妖怪と人間という差が近くも遠いモノだというのは耕也も良く分かっているはず。

 

ああ何とももどかしい。いっそのこと一つの存在になってしまえたらどんなに楽な事か。

 

そう思っていると、藍が唐突に口を開ける。

 

「紫様……」

 

「何かしら?」

 

私の返事に、藍は深く息を吸い、再び口を開く。

 

「紫様……改めて言わせていただきますが、私は紫様を笑いもしませんし怒りもしません。ですが…………1つだけお尋ねしても宜しいでしょうか?」

 

「何かしら?」

 

すると、藍はニッコリと笑みを浮かべてくる。

 

その笑みは先ほどまでの真剣さとはまるで正反対なモノであり、私の暗い気持ちを吹き飛ばそうと懸命に作ったともとれる笑顔。

 

だが

 

「耕也は美味しかったですか?」

 

その笑顔とは全く違う言葉を述べてくる。

 

真逆。完全に真逆である。この爽やかな笑顔と真逆の言葉を言われた時、一体どれほどの不快感、不気味さをヒトに及ぼすか。

 

私の式という立場でありながらも、その言葉に一瞬背筋が震えてしまう。

 

気持ち悪い。

 

一番目の印象がそれである。

 

ああ、でも。

 

藍の言葉を聞いた瞬間に、血肉の味が蘇ってくる。正気に戻る前の、あの感覚、本能だけの世界が思い出されてくるのだ。

 

薄い皮を食い破った瞬間に、血が噴き出し、口の中で唾液と混ざり合い味蕾を刺激し、匂いでクラクラとさせられる。次いで筋肉が歯と接触し、耐えきれず裂かれ、程よい噛み応えを顎に与える。

 

ねっとりとした血の匂いが更に強くなり、頭がボーっとし始め、肉を食い破った後悔を軽く吹き飛ばし、奥の奥まで歯の侵入を促す。

 

刺激でグリッと筋繊維が持ちあがり、それに伴って耕也の絶叫が大きくなる。

 

ああ何て心地良い声なんだろうか。人間の絶叫。それも愛しい人間の絶叫なのだから、悪い音であるはずが無い。

 

また筋繊維が持ちあがった際にどろりと血が溢れ、私の感覚がマヒし始める。血の匂いに溺れ、肉と血の旨みが一瞬にして脳を支配し、神経を刺激する。

 

この感覚、味が一瞬で出てきたのだ。

 

それはついさっきまでの後悔の念と涙の意味を軽く捩じ伏せ、妖怪の本能そのものを呼び覚ましてくる。

 

やはり耕也を食べたのは正しかったのだ。伴侶を捕食したのは正しかったのだ、と。

 

そう私は錯覚するほど明確に。

 

とんでもなく、今まで食べた料理を遥かに凌駕する甘美な感触。遥かに凌駕する酷く危険な味。

 

腹の奥から熱が湧きおこり、全身を駆け巡って行く。

 

熱が、熱が、熱が出てくるのだ。血を胃に収めるたびに、肉を胃に収めるたびに身体から熱が発生し、余計に血肉を摂取するよう促してくる。

 

駄目だ。どうにも抑える事ができない。もっと食べたくて。もっともっと味わっていたくて。もっともっともっと血を、肉を啜り咀嚼嚥下したくて。

 

口を更に大きく開けて、歯を赤い肉に突き立てる。ゴリッという音共に、何か硬いものまで削れていくあの感触も溜まらなかった。

 

血、肉、骨。人体を構成する主な要素を取りこんだと認識した瞬間、あの幸せようったらなかった。

 

ああ、思い出しただけで背筋が震え、下腹部が痺れて行くのが分かる。

 

そしてその痺れはすぐに収まり、今度はドロリと何かが動くような気がしたと思ったら、熱い液体が溢れ出しているのだ……。

 

思い出しただけでこれだ。これほどの事があの短時間の記憶からなされるのだ。

 

それほどあの味は甘美なモノであったという事の他ならない。

 

だから自然と私は

 

「美味しかったわ。とっても…………ふふふ」

 

そう言ってしまう。

 

藍は、私の答えを聞くと満足したように更に大きく笑みを浮かべ、此方に返答してくる。

 

「何時か私も食べてみたいものです……耕也の血肉を」

 

やはり妖怪。人間とは根本的に違う。

 

「ええそうね一緒に食べましょう? ……その時は幽香も一緒に…………ね?」

 

「紫様、そうですね。それが宜しいかと」

 

「でも、耕也に嫌われないかしら? 今回の事もあったのよ?」

 

そう言うと、藍は私の両手を力強く握って少し大きな声で話し始める。

 

「大丈夫ですよ紫様。耕也は私達の事を受け入れてくれます。そして、私達も受け入れてもらえるように仕向けてあげるのです。方向性のある道を作ってやればいいのです……それに、いざとなれば麻酔を使って痛くないようにすればいいのですし」

 

若干の不安が過っていた事だが、藍の言葉と先ほどまでの回想も相まって、不安は容易く消えて行った。

 

「そうね、ありがとう。……藍、耕也はとっても美味しいわよ。貴方も絶対に気に入るはず。でも……他の人間の血肉は……?」

 

私はその言葉を藍に言って、返事を待つ。

 

藍は一瞬だけ瞼を大きく開き、驚きの表情を表したがすぐに笑みを浮かべる。口が裂けそうなほどの笑みを。

 

同じ事を思っているだろう。同じ事を言うだろう。私と藍は今から同じ口調で、同じ言葉を言う。

 

耕也以外の血肉なんぞには

 

 

 

「「興味すら湧かない…………」」

 

 

 

 

 

 

 


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