東方高次元   作:セロリ

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87話 真っ赤に見えた……

でも何とか此方の……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汚れた畳み

 

箸を持つ手が震える。

 

すでに蹴飛ばした卓袱台等は片づけてあり、汚れた畳等はすでに元通りにしてある。

 

だが、その元通りは表面であって俺の精神までが元通りという事は無い。

 

あれから一週間経った今でも精神が安定してくれないのだ。いや、一部安定してると言えるだろう。恐怖の色に染まっているという一点においては。

 

この恐怖を何としても抑えた俺は、外部領域を家全体に効果が及ぶように広げ、内部領域を常に発動させている。

 

その安心感の下にゆっくりと揚げ茄子を口に運ぶ。が、味が全く分からない。

 

味覚が、味蕾が無くなってしまったかのようにさえ感じる。恐怖のせいで神経の一部が停止してしまったかのよう。

 

しかもその弊害というべきか否か。

 

「う――――っ!!」

 

グラスに浮いている氷が罅割れる音にすら身体がびくりと跳ねてしまう。

 

「氷か……やべえなもう」

 

物音にやたらと過敏になってしまったのは俺の精神が弱いせいか。いや、あんな事をされたら誰だって過敏にもなるだろう。

 

そして、その音が唯の氷の音だという事を理解した瞬間、俺は震えるようにため息を吐く。

 

怖いのは仕方が無い。だが、何とかしてこれを解決しなければ後々悔恨を残すだけになるだろう。

 

どうしたものかと思いながら、俺は最後の一口を平らげて御馳走さまと言う。

 

流石に肉は食えないから、野菜だけ。それもごく少量。元々食わなくてもいい体質なのだから食べようが食べまいが同じ事なのだが。

 

紫達は一体今頃何を話しているのだろうか? 毎日見ているという事をほのめかしていたものだから、現時点では見られている事は無いだろう。

 

隙間をこの家の中で開くことはできない上に、内部領域があるのだから、害を与えようとしても軽くはじき返してくれる。

 

が、それでも過敏になってしまっているのだから、俺が味わった恐怖というのはそれほどの物だったという事だろう。単に俺が臆病なだけという事もあるが。

 

しかし、ただ此処で手を拱いているわけにはいかないのは確かである。

 

「此方から出向くしかないかのかねやっぱり……」

 

俺の方から出向いて解決をする。その解決が、相手の論調によって平和にいくか、戦闘になるかは分からないがとにかく解決しなければならない。

 

しかし、解決しなければいけない、いけないのだが、俺の身体が紫達の屋敷に行くのを大きく拒んでいるように感じるのだ。

 

行こうと思った瞬間に、紫の顔が思い浮かべられるのだ。脳が俺の身体の安全を優先させるために保護機能として出てくるのかは分からないが、とにかく紫の顔が出てくるのだ。

 

どうする。どうしたら紫達を説得できる? 俺の肉を食わない方法は何かないか?

 

そんな事を思っていたせいか、ひとりでに口が動く。

 

「明日行くしかないか……」

 

と。

 

彼女の屋敷に行き、俺の立場、要求、気持ちをはっきりさせないといけないだろう。妖怪は人を襲い、人間は妖怪を退治する。常にそのサイクルでこの世は回ってきたのだ。

 

俺がこんな立場を、紫達と関係を持っているという事が世の理から外れてしまっているというのは十分に理解している。でも、紫達が言っていたように、俺も彼女達の事を十分に愛しいと思っているのだ。

 

そしてその愛しいという感情を盾に、この何時か対面しなければならない問題を先送りに先送りにしてきただけであり、それが今回でツケが回ってきただけなのだ。

 

それは彼女達も思っていると信じたい。今は俺の肉を食べたいと思っていても……いや待てよ?

 

俺は一つの事を思い出した。

 

確かあの時、俺が食われる少し前であるが、紫が俺に寄り掛かって来た時、妙に妖力を感じなかったのだ。まるで枯渇していたかのように。おまけに息を荒げていた。妖怪が、ましてや紫のような大妖怪が病気にかかることなんて考えられない。

 

いや、その息を荒げていたのは、俺を食いたくて興奮していのではないかという事も考えられるが、それだけではない。

 

あのよろよろとした足取りで俺に寄り掛かってきたのだ。興奮して息を荒げていたというのはやはり考えにくい。妖力が枯渇してしまったが故に息を荒げたと考えるのが余程現実味のある話である。

 

現に、俺の血肉を食っている最中に正気を取り戻した。自分が何をしでかしてしまったのかを把握している表情だったのだ。つまり、枯渇した妖力が回復したために、理性が彼女に戻ってきた。

 

もし、もしもだ。もしも彼女が枯渇した妖力を補うために、俺を捕食したというのなら、こう考えられないだろうか?

 

現時点で、彼女は俺に対しては美味しそうだという感情を持ち合わせてはいるが、俺に対して理性を吹き飛ばしてまで襲いかかってくるような事は無い。と。

 

現実味があるが、あくまで推測でしかなく確かな証拠も無い。全て俺の脳内で組み上げられた砂上の楼閣にしか過ぎない。

 

俺が紫に会いに行った瞬間に崩れ去る可能性があるのだ。唯の精神安定剤のようなモノ。そうであったらいいな。そうであってほしいという生ぬるい願望なのだ。

 

もし、この俺の考えが外れてしまったらどう手を打てばいいのか。もしそうなれば、俺は紫達との関係を断たねばなるまい。

 

どうやっても、どう譲歩したとしても俺が提供できるのは血液まで。それ以上先の肉、骨、魂までは差し出す事は不可能。もし要求してきたのなら、内部領域を盾にするしかない。

 

彼女らと関係を断つのは非常につらい、断腸の思いであるが断つしかあるまい。そうでもしないと彼女達の精神がやられてしまう可能性もある。

 

それと同時に彼女らから常に捕食されるという恐怖を与え続けられる俺の精神も参ってしまうのだ。

 

できればそうならないでほしいという思いで、俺は明日を迎える事にした。

 

 

 

 

 

 

 

「はあ……さて、行きますかね」

 

何時も通り……とはいかないが、起き、飯を食べて準備をした俺は、そう言いながら頭の中で紫の屋敷を瞬時に思い浮かべ、集中する。

 

何時も通り。一瞬で景色が素っ飛び、瞬きをした瞬間にはもう目の前に紫の家がある。

 

何時も通り。2人が住むには無駄に大きい屋敷が鎮座し、防衛用の札が……?

 

と、防衛用の札が発動しない事に気が付いた俺は、少々首を傾げてしまうがすぐにソレを思い出した。

 

ああそうだ、俺の事を認識して防衛用の札は発動しないのだった、と。

 

そう考えた所で、俺の背後からだろうか? 何時の間に回ったか知らないが、声が聞こえてくる。

 

「耕也、いらっしゃい……待ってたわ」

 

まるで耳元で囁かれているようにさえ感じる声。ほんの少し低音が混じり、大人としての艶やかさを引き立てさせる魅惑的な声。

 

だが俺はその妙にねっとりとした声に、背筋が震え、怖気を覚え、身体を素早く後ろに向ける。

 

正面にいたのは、やはり紫。

 

紫色のドレスを着、日傘をさして微笑み立っている。そう、ただ立っているだけなのだ。

 

立っているだけなのにもかかわらず、俺にはとてつもなく恐ろしく感じてしまった。そしてそれと同時に

 

「うっぐ……」

 

紫の姿が真っ赤に、血に塗れているように見えてしまったのだ。紫色のドレスを血に染め黒くし、口の周りから下を血の赤一色に染めた紫の姿を。錯覚であろうがそれを見てしまったのだ。

 

今度は先ほどの震えとは別の震えが襲ってくる。恐怖だ。

 

ウッと吐き気を催しそうになるが、グッと堪えて紫を見据える。

 

トラウマを創りだした張本人と対面するのが一体どれほど精神的に苦痛となるか。

 

人間相手なら大したことないが、妖怪相手となれば別物。別格なのだ。

 

その精神的苦痛が嫌で嫌で仕方なく、思わず俺は拳を握って身構えてしまう。何とか心を奮い立たせて正常に見えるように目に力を入れていく。

 

 

「ふふ、そんなに身構えないで耕也……私とお話しがしたいのよね?」

 

紫が何とも言えない笑みを浮かべて俺に制止をしてくる。

 

「分かってたのか……紫さん」

 

此方の考えは全て筒抜けだったようだ。彼女は俺を監視するまでも無く、その計算に長けた頭で俺の行動を予測し、今日この日を待っていたのだ。

 

つまりは俺がこれから話す事も全て、彼女の頭の中にある選択肢の一つに含まれているのだろうか?

 

いや、それでも話さなければ彼女には伝わらない。

 

ならば

 

「紫さん……この前の件での話を少々したいのだけれども……いいね?」

 

そう言ってみる。少し強引に。

 

すると、紫は目を少し大きくした後、細めてコロコロと笑う。

 

「ええそうね。私も丁度話したかったから貴方の側に現れたのよ? さあ耕也、来て頂戴。こっちよ……」

 

と、流れるように俺の傍を通り過ぎ去っていく紫。

 

何を考えているのか悟らせないその表情は、彼女が胡散臭いと言われるのには十分理由になると思った。

 

 

 

 

 

「さあ、この部屋で話し合いをしましょう耕也」

 

案内された部屋は聖白蓮の件で依頼した部屋と同じ。一週間経っているとはいえ、全く変わらない部屋。

 

が、そこには俺の想像を超える者がいたのだ。

 

「耕也、こんにちは」

 

「こ、こんにちは……幽香」

 

当初俺は紫の他に、この部屋にいるのは藍だけだと思っていたのだ。藍だけ。

 

しかし、実際にこの部屋に入ってみると、笑顔の幽香が。幽香がいたのだ。

 

やはり紫は全てを見越してこの部屋に俺を通したのだ。俺が幽香とも話したいという願望も見透かして。

 

そしてその幽香の笑顔が嫌に気持ち悪く見える。俺の思いすごしだと良いのだが、彼女の笑顔からは何処となく狂気じみた何かを感じる。獲物を狙っているような何か。肉食獣が獲物を発見した時の歓喜のような。

 

いや、これは紫の事を見て恐怖した俺の自意識過剰というものだろう。それ以外に考えようがないし考えたくもない。

 

ふう、とため息を吐きながら、俺は目の前に出されている座布団に座り込む。

 

「耕也、こんな所までよく来たな。いらっしゃい」

 

藍が笑顔で茶を運んでくる。

 

何とも恐怖、トラウマとは厄介なモノで、被害妄想の延長線上に位置しているのかは分からないが、藍の何でも無い普通の笑顔がとてつもなく怖く見えてしまうのだ。

 

口が開いたらどんな牙を覗かせるのだろうか。その牙はどんな切れ味、鋭さを保有しているのか。藍は今俺を食べたがっているのだろうか? などといった負の考えを絶えず脳に浮かばせてくるのだ。

 

「ありがとう藍」

 

今回は敬語なしで行く。今回ばかりは流石に敬語なし。紫とのあの一件を解決するために少しばかり強引にいかなくてはならないのだ。

 

すると、藍も紫と同じく意外に思ったのか、目を一瞬だけ丸くしてから、微笑んで

 

「どういたしまして」

 

と、茶を置いていく。

 

ここまで神経質になるのもおかしいのかもしれないが、出されたお茶などには手をつけない。

 

何かまた睡眠薬などといったモノを混入されていてはたまったものではないからだ。

 

紫たちもそれを察しているのか、俺が茶に手を付けないことに関しては何も言ってこない。

 

「では、そろそろ話しあいにしましょうか……」

 

と、紫が俺の方を見ながら言ってくる。

 

「そうね、待ちくたびれていたからそうしてくれると嬉しいわ」

 

幽香も賛同。

 

藍はただ黙って紫の言葉に頷くだけ。

 

「さて、こちらにも言いたいことはあるけれども、まずは耕也から。当然ね」

 

と、紫が促してくる。

 

すかさず俺は

 

「1つ最初に。幽香、紫、藍。もう事情を知っているだろうから聞くけれども、3人とも俺を食べたくて仕方がないのか? 我慢できない程に。今食い殺したいと思うほどに……どうなんだ?」

 

これだけはさすがに聞かなければならない事である。

 

単刀直入に。真っ先に確認しておかなくてはならない事である。

 

本音を言うなら聞きたくない。彼女たちの口からその言葉を聞くのはとても辛い。

 

だが、聞かなければ解決への一歩も踏み出せない。スタートラインに立つことすら不可能なのだ。だからこそ聞く。

 

俺の言葉を聞いた三人は、皆それぞれ違った顔にわかれる。

 

幽香は驚きの表情を。藍はニッコリとした笑顔を。紫は頬笑みから無表情へと移行させる。

 

その表情からは様々な事を読み取れる。が、読み取る前に紫が俺に口を開いた。

 

「確かに食べたいとは思っているわ。現に貴方を私は食べてしまった。とても美味しかったわ。とても……ね。でも―――」

 

「改めて思ったけど。紫、私よりも先に食べるなんていい度胸してるわね。急に呼び出すなり何を話すかと思えば……殺すわよ?」

 

と、幽香がくってかかる。俺にとっては幽香が紫の話を遮った事や、話し合う内容を知らなかった事よりも、幽香までもが俺の事を前々から食べたいと思っていたことに少なからずともショックを受けた。

 

幽香もやはり妖怪。高次元体の俺の事を食べたいと思っているという事は必然的なのかもしれない。

 

履甲や鬼の時と同じく。美味そうに見えてしまうのだろう。

 

予想としていたこととはいえ、現実を目の当たりにすると、やはり気分が落ち込む。

 

あれだ。水を目いっぱい入れた銀バケツに、墨汁を垂らしたかのように急激に変わっていくのだ。

 

きついし苦しいし辛い。

 

しかし、これを解決しなければ何も変わらないのだ。

 

「そちらのどっちが先に食うかなんてことなんてどうでも良い。紫さん続きを話して……」

 

幽香は今の状況を読んでか、両手を上げてお手上げ状態をして紫に渡す。

 

「確かに美味しかったの事実。でも、今は貴方の血肉のおかげで力が戻っているから理性を失うという事はないわ。ただ、食べたいと思っているのも事実よ……」

 

「そうか……藍は?」

 

すると、藍はニッコリと笑みを浮かべながら

 

「私も食べたいとは思ってる……一度はな。紫様も幽香も、もちろん私もお前の血肉だけがほしいと思っている。他の人間の血肉など……ふふふ」

 

「なら……幽香もだね?」

 

すると、幽香はなんとも気まずそうに眼を俺からそらしながら、泳がせ始める。

 

が、俺が見続けているという事に耐え切れなくなったのか、ため息を吐きながら話し始める。

 

「ええそうよ……貴方を愛しいと思っていると同時に少し食べてしまいたいと思っているのは事実……よ?」

 

そこまで聞いた時、やはりこれは厳しいなと俺は思ってしまった。

 

相方十分に愛しさという感情はあるだろう勿論。

 

しかし、彼女たちはそれと同時に食欲を持ち合わせているのだ。俺に対して。

 

そして俺はその愛しさよりも上回ってしまうほどの恐怖と言う感情を彼女らに抱き始めている。

 

それは紫に食われたあの時より爆発的に増大したことは言うまでもないだろう。

 

少しの間冷却期間を設けるべきか。そう俺は思ってしまう。やはり食欲という本能を話し合いで解決するという事は不可能であり、その食欲が俺に対して向けられているという事が明確になってしまった今、解決するのは時間を置くのが一番なのだろうかと。

 

確かに紫たちは今理性を失うほどの力の消耗はない。だが、次何かしらの戦いなどで力を極限まで消耗したら、確実に俺を食いに来るだろう。

 

勿論次に食われるのは嫌に決まっている。領域を全力展開してでも自分の体を守る。つまりはその時になったら幽香たちは俺の血肉を摂取することができず、仕方なく休眠状態に移行する可能性もある。が、もしくは発狂する可能性もあるのだ。

 

だから、俺は関係を断ってしまえば今よりはきっとマシな状態になるに違いない。

 

しばらくだ。しばらく冷却期間を設けて、時間が経ったらまた会えばいい。その時彼女たちが俺に興味を無くしてしまっているのなら、それは俺に落ち度があったという事で片づけられるのだ。

 

俺はそんな独りよがりな考えを持って、彼女らに提案をする。

 

「幽香、藍、紫……1つ提案があるのだけれどもいいかい?」

 

すると、藍達は俺の提案を待っていたように頷く。

 

「紫たちは俺の体を食いたいと思っている。でも俺は紫達に食われたいとは思わない。勿論ここで妖怪と人間の考え、倫理の差が生まれている。この壁はやはりどんなに歩み寄ったとしても無くなりはしない……藍、悪いけれども俺の肉を食わせるわけにはいかない」

 

俺がそういうと、少し眉毛を下に下げながら、残念そうな顔をする。

 

「たしかに愛してくれているのは十分に理解しているし感じてもいる。けれども、紫達は俺の事を食いたい、俺は食われたくないというこの差が生じている限り共に生きていくのはかなり厳しい。俺自身の気持ちとしても、紫達が怖い。非常に怖いし、俺がずっと紫達の傍にいれば紫達の精神に多大な悪影響を及ぼすから。違わないよね?」

 

すると、紫は分かっていたかのように頷き、俺に提案をしてくる。

 

「耕也の言い分は十分に分かっているわ。でも、それは貴方に痛み、苦しみ等といった負の感情、感覚が生じるからい嫌だと言っているのよね?」

 

まさにその通りである。

 

目の前で食われていくという、あのおぞましい光景を眺めていくのはもう二度と。到底不可能である。次にやられたら今度こそ立ち直れなくなる可能性が高い。あれほど悩んで悪夢に魘されて、吐いて、泣きまくっているのだ。次があるなんてことは考えられない。

 

「そう、その通りだよ紫」

 

それを聞いた紫は、満足げに何度も頷き、藍の方を見る。

 

藍も紫の行動から何かを察知し、理解したのか嬉しそうに頷きながら俺の方を見てくる。

 

「耕也。あなたが寝ている時ならどうかしら?」

 

寝ている時……?

 

俺が寝ている時……?

 

一瞬彼女の言いたいことが良く分からなかった。何を言っているか理解したくなかったというべきか。

 

「紫さん…………もう一度言ってもらえる?」

 

幽香はすでに紫の言っていることを理解しているのか、ずっとその場に静かに座っているだけで一言も話そうとしない。

 

対する紫は、いつもよりも饒舌に、まるで待っていましたと言わんばかりの姿勢で俺の質問に答えていく。

 

「だから……寝ている時に、貴方の腕一本を頂くのはどうかしら?」

 

寝ている間に俺の腕……?

 

「寝ている間にだって……?」

 

「ええそうよその通りよ。貴方が寝ている間に痛くない様にこちらで術をかける。そして、私の隙間でちょっきんと切ればおしまい。幸い貴方の腕は領域が全修復してくれるだろうし、流れる血は私たちが何とかするわ。そして、貴方は目が覚めたら何も変わらない日常を過ごすことができる。これなら妖怪と人間の軋轢を埋め、かつ私たちは愛し合っていける。すでに幽香にこのことは話してあるわ」

 

確かに双方にとって一番の手はこれだろう。だが、俺はその案が非常に気に入らない。好きになれない。

 

知らぬ間に自分の体が誰かに奪われているという異常事態にだれが賛同できようか。

 

睡眠薬を飲まされ、勝手に臓器の摘出手術を行われるのと同じである。

 

到底俺の中で許せることではなく、断固として受け入れることのできない案である。

 

俺はその旨を紫に伝える。

 

「嫌だ」

 

ただこの一言である。

 

「嫌……かしら……極めて合理的だと思うのだけれど」

 

「絶対に嫌だ。合理的であろうと断固として受け入れるわけにはいかない」

 

紫は俺の言葉を聞くたびに当てが外れたように驚きの表情を浮かべる。

 

妖怪の倫理ではここら辺が十分譲歩した形になるのだろう。しかし、其れでも俺は嫌だ。

 

「気が付いたら俺の腕が真新しいものに修復されてましたなんて絶対に嫌だ。無理だ。もしそんな事をしようとしたら外部領域と内部領域の全てを常時展開させ続ける」

 

ここまで言うと、紫は露骨に嫌そうな顔をしてくる。

 

まるで名案を言ったのにもかかわらず、其れを軽くつぶされた時のような嫌そうな表情。

 

「なら貴方には何かほかの解決案があるのかしら?」

 

「そう、そこで俺からの1つ提案がある……1つ」

 

そこでようやく前々から考えていた事を言い始める。

 

「先ほど言った紫達の精神に悪影響を及ぼすという事。これを解決するには―――――」

 

「だからそれを解決するために私は双方にとって最も傷つかない案を出したのよ?」

 

「それは俺の精神が持たないと言っているんだよ。食われていると認識してたら痛くなくても十分精神に影響があるって事だよ! ……ごめん。だから、この双方の問題を解決するように……」

 

大きく息を吸って、彼女達の目をよく見る。紫、藍、幽香の目をよく見る。

 

「しばらく冷却期間を置こう……このままでは双方に悪影響しか及ぼさないから、一旦少し間を置くべきだと思った」

 

冷却期間を置こう。その言葉を言った瞬間に、幽香からとんでもない殺気が叩きつけられてくる。

 

一体何を言い出すんだこの男は。もう少し口を開かせてみろ。貴様の喉笛を潰してやる。とでも言うかのように。

 

あまりにも凄まじい殺気に、俺は怯んでしまいそうになるが、ここで引いてしまったら全てがパアである。

 

そして、対する紫達は幽香とは違い、未だに俺の話が理解できていないのか、口をポカンと開けたまま唯々座っているだけである。

 

このアンバランスな状態が数十秒続く。

 

と、ようやく把握し始めたのか、紫が口を開いて俺に言葉を投げてくる。

 

「耕也……冷却期間ってまさか……」

 

「…………耕也」

 

幽香はただ黙ったまま睨みつけてくる。藍はポツリと俺の名を呼ぶだけ。

 

「だから……しばらく会わない様にしようという意味だよ」

 

強引ではあるが、こうでもしないと俺が終わりそうで怖い。唯でさえ精神にガタが来ているのにあの案を飲んだら一体どうなる事やら。

 

すると、紫はこちらの方を見ながら、ゆっくりと静かに口を開いて返答してくる。

 

「それは無理よ? 貴方が距離を置こうとしても私は貴方のところに行けるのよ? 貴方は地下にしかいられないの。分かっているわよね?」

 

そう、分かっている。紫達と距離を置こうと思っても賛同されることはないということぐらい。幽香も同じ意見だろう。

 

幽香は、もう俺にそれ以上喋るなと更に睨みをきつくしてくる。俺としては別れたいだなんて思っちゃあいない。しかし、このままいけば双方に悪影響を及ぼすのは必至という事に変わりは無いのだ。

 

「そうだね、それは事実だよ……」

 

「なら、私の提案を受け入れてくれるかしら? 私達も貴方の腕を得る代わりに、今まで以上に愛し、尽くすわ」

 

一瞬ではあるが、意志が揺らぎそうになる。今まで以上に愛し、尽くす。男にとってこれ以上の魅力的な言葉は無いだろう。

 

でもそれでも、腕をとられるのは勘弁願いたいのだ。俺の持っていきたい妥協点に到達するまで。

 

「だから、それは受け入れられないと何度も言ってるだろうが……」

 

俺がそう返すと、俺が断り続けているせいか紫に段々と苛立ちの表情が浮かんでくる。

 

「……耕也、では他に何ができるのかしら? 今の貴方に……」

 

「地下にしかいられない……なら、俺は此処よりも遥かに遠い場所へ行く。ずっとずっと遠くの場所へ行く。そうすれば問題は無いだろう?」

 

その言葉を聞いた幽香が、震えるような声で此方に話しかけてくる。

 

「耕也……と、遠い場所って…………?」

 

「この日ノ本じゃない場所。もっともっと、ずっとずっと遠い場所。誰も知らない場所に行く。そうすれば双方の精神に悪影響を及ぼさないだろう? だから―――――」

 

そう俺が言葉を続けようとしたときだった。

 

目の前にあった卓袱台が、一瞬で左方向に弾き飛ばされ、轟音を立てながら壁をぶちぬいていく。

 

この一瞬で何が起こったのか分からない俺は、呆然とするしかなく。次の瞬間には俺は天井に目を向けていた。

 

「ダメよ! 絶っっっっ対に駄目っ!! 許さない。そんなの許すもんですか!!」

 

俺の胸倉を掴み、怒鳴り散らしてくるのは紫。

 

先ほどまでの静かな紫とは思えないほどの激昂ぶり。当然、俺は突然の変化についていく事ができず、そのまま紫に言葉を投げつけられるのみ。

 

「貴方がその意思を持っていたとしても私は絶対に認めないわっ!! 絶対に! もし離れようなんてしたら貴方を殺す! 絶対に殺してでも止めるわっ!」

 

内部領域に触れて力が出せないのにも拘らず、この威圧感。怒り。それによって歪んでいく空間。

 

ビリビリと空気が震え、家が悲鳴を上げ始める。

 

「耕也、お前を私達が逃がすとでも思うのか? お前が、この私達から逃げられるとでも思っているのか? 許すわけがないだろう?」

 

俺が組み伏せられている間、藍が俺を睨みつけながら静かに、しかし貫くような強い声を持って話しかける。

 

「ねえ耕也、貴方は私を裏切るのかしら? 私をおいて何処へ行く気なのかしら? ふふ、もしソレを行動に移したら、貴方の身体全てを食らってあげるわ」

 

殆ど感情だけで言ってくる紫達。

 

彼女達を傷つけてしまっていると後悔する反面、此処まで強引にいかなければ彼女達妖怪の倫理を遮って此方の要求を通すことはできない。

 

だからこそ

 

「じゃあ、幽香、紫、藍。改めて言うが、俺は肉を食われるのは絶対に嫌だ。どんなに譲歩したとしても、血液まで。もし、血を与えるという案が承諾できるのなら、俺はそれに応じるさ。もしできなければ俺はもっと遠くの世界に行く」

 

頼む。これが今の俺にできる最大の譲歩。肉を食われるという事を想像しただけで吐き気が、怖気が、寒気がしてくるのだ。

 

そんなのに毎日直面するなんて考えたくもない。

 

だから、血で勘弁してくれ。もし、何百年も先の未来で俺の考えが変わったら、その時は俺の肉を上げよう。考えが変われば。

 

そう思いながら、俺は幽香、藍、紫の反応を待つ。

 

受け入れて欲しい……。俺の提案を飲み込んでほしい。

 

すると、ビリビリと震えていた空気が収まり、紫の手からも力が抜ける。

 

そして、のっそりと俺から退いて、元の位置に正座し直す。一度ため息を吐き、深呼吸をしていく。

 

「……藍、幽香はどうなのかしら? 血で大丈夫?」

 

「紫様。私は大丈夫です。力を消費する事があまりありませんので……」

 

「私は食べても食べなくてもどっちでもいいわ。だから血でも我慢できるわ」

 

そして、紫の回答が最後。

 

起き上がって、紫の答えを聞こうとする。

 

紫がどのような答えを出すのか。今のところ3対1で此方が優勢。しかし、紫の意見が真逆の可能性もあるのだ。

 

妖怪は欲に忠実なのだ。

 

だが、俺の懸念は杞憂であったようで

 

「……分かったわ。血で妥協するわ…………」

 

と言ってくれた。

 

妥協。これで妖怪と人の壁が無くなったわけではない。だが、これで何とか崩壊するのを防ぐ事ができた。

 

 

 

 

 

 

ただ、俺が提示したこの案。それは数百年先に、大きな大きな代償となって返ってくる事が、ズルリズルリと延長されただけである事に、俺は気付く余地も無かった。

 

 

 

 

 

 


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