ナツノウタ 作:夏草
家を一歩出ると潮風の香りがどこからか漂ってきた。静岡県は沼津市は内浦。山と海に囲まれたこの街では風向きによっては町のどこにいても潮の匂いが届くことがあると、ここに住み始めて最近気づいた。
特に俺が下宿させて貰っているアパートは海まで徒歩三分、バス停まで徒歩二分と言う何とも立地のいい場所であり、最早ここまで来ると窓を開ければ風向きに関係なく海の香りを感じることが出来る。ちなみ、残念ながら窓が山側についているため、海は部屋から望むことは叶わない。オーシャンビューとはいかないようだ。まぁ、代わりに富士山が見えるので俺としては非常に満足している。
海岸線を歩く。
時刻はまだ早朝、朝日が昇って間もない時間とあって車通りも人通りもない。日曜日と言うこともあるのだろうか、遥か沖に見える漁船も心なしか少ないように感じられる。昔住んでいた東京では海なんて見る機会は殆どなかったため、こうして雄大な海を見ることは凄く新鮮味がある。特に朝日が昇るこの時間は俺のお気に入りの散歩スポットだった。
まぁ、平日は仕事で朝の時間は忙しいのだが、こうして週に一度や二度、週末に散歩するのが俺が内浦に越してきてからの日課となりつつあった。
本当に学生時代では考えられなかったことだ。あの時は一も二もとりあえず朝は睡眠命という感じだったのに、人間変わるものだなぁ……。そう、我ながら人ごとのように考える。
暫くは、左手に朝日が昇る海を右手には富士山を始めとする山脈を、そんな道をひたすら歩く。朝の新鮮な空気は、これまた朝の新鮮な日光を遮ることなく、澱みなく俺たちに届ける。その光景はまるで誰かの名画のようにただひたすらに東京暮らしが長かった俺に感銘を与える。
もし、万が一に、万が一に俺に芸術の才能なんていう物があれば、この内浦の風景を描いてみたいものだ。きっと、名画になるに違いない。ここの風景はどこをとっても絵になる。
まぁ、勿論、ここまで言っておいて俺に芸術の才能なんて物は欠片もないことは最早言うまでもなく、仮に紙とペンを渡された所で何かよく分からない前衛的な絵が出来上がりそうだ。
――まぁ、でも。
画の上手下手はあっても来週はスケッチブックと絵の具でももって来てみようか……。
どうせ、誰に見せる絵でも、誰に売る絵でもない。下手なら下手でいい。この風景を芸術的な視点で楽しめたのならそれに勝るものはないだろう。
この風光明媚な土地には、見えるは蒼海、聞こえるはさざ波、啼くは鶯、落ち行くは桜、湧くは温泉(いでゆ)……。芸術的に見ると言うことは、良い所だけを抜き取ると言うことでもある。美しいものをただただ美しいものとして、前後関係を切り取り、それだけを楽しむ。この観点でこの内浦を見て行けば、まさにここは楽園だ。きっと、林檎の生る島にも、ヴァルハラにもそしてかの極楽浄土にも劣るとも劣らない。
普段は仕事やらなんやらで人情的に過ごさないと身が持たないが、週末だけなら、そんな非人情な視点に立ってもいいのではないだろうか……。
俺のよく分からない考えがここまで漂流した時、ふと海岸際に誰かが立っているのが目に入った。
――こんな日曜の早朝に珍しい……。
そう思いつつ、その人物を見る。長い髪を見るに女性らしい、そして具体的な身長まではここからでは分からないが、それでも女性にしては少し高めだということは分かった。後ろ姿はなんとなくまだ若いような気がする。
――ん? というかどこかで見たことが……。
「ん?……あれって桜内か……?」
俺がのんびりと歩きながら距離を縮めたとはいえ、俺とその少女距離はまだ結構あった。目が悪い俺ではまだその女子の輪郭が何となく分かるくらい。だから、とてもじゃないが俺のその呟きは波風に浚われてどこかに消えて彼女には届いていないのだが、それでも少女は俺のつぶやきが終わったタイミングでこちらを向く。
「…………」
「…………」
そして目が合った。
「あっ、先生」
どうやら、桜内は目が良いようだ。
「おう、桜内。おはよう」
まさか休日の、しかもこんな場所で生徒と合うなんて予想だにしてなかった。この前の一件と言い、もしかして、高海にしても桜内にしてもこの辺りに住んでいるのか……?
こんな早朝にしかも歩いて十分もしない内に出会うなんて……。
まぁ、俺のこの疑問は後々分かることになるので、今は置いておこう。
「おはようございます。先生」
そう言って一つ頭を下げる。
――礼儀のなった子だなぁ。
俺の高校時代とは大違いである。俺なんてしょっちゅう担任に出席簿投げられていたし……。いや、これは忘れてくれ。遠い過去の話だ。
「お早いですね、散歩ですか?」
「まぁ、そんなところだ。桜内は……まさかあれか、また海に入るつもりか? なら、あと一か月は待っておいたほうがいいぞ」
最近はGW過ぎれば気温もぐんとあがるし、海にだって入れないことはないだろう。逆に海水温が上がる前でクラゲも出ずにいいかもしれない。
「入りません!」
「あははははは、悪い悪い」
まぁ、もちろんこれは冗談だ。生徒と仲を深めるための先生ジョークってやつだ。
「もう、全く……先生と言い、千歌ちゃんといい……」
小さく漏らしたその言葉は浜風に運ばれてしっかりと俺の耳に届いた。
――千歌ちゃんね……。
金曜日までとは違った呼び方。高海さんから、千歌ちゃんへ……。なるほど、なるほど。
「なんだ、高海がどうかしたのか?」
「先生のさっきのセリフ、金曜日の放課後にこの場所で千歌ちゃんにも言われたんです」
「へぇーそうか、それは先を越されちゃったな」
「先ってなんですか……」
「まぁ、そんなことは置いておいてだ。どうして桜内はこんな時間にここにいるだ? 海の音が聞きたいとかいう奴か?」
俺の質問に桜内は小さな間合いを取る。
明らかに何か悩んでますと、桜内の顔を見ればすぐに分かる。桜内と言い、高海と言い、ほんとに嘘がつけないやつらだ。これは将来苦労するぞ……いい意味でも悪い意味でも、な。
「いえ、それは昨日千歌ちゃんと曜ちゃんと潜りに行って……」
「そうか、そうか。それで作曲は出来そうなのか……?」
「はい、どうにかイメージは湧いて、曲は出来そうなんですが……」
そう言って桜内はうつむく、
「それなら良かったじゃないか」
「はい、新曲については大丈夫なんですが……」
「他に悩みがあると」
「……はい」
さて、ここからが問題だ。悩みがあるのは元より分かっていた。そうじゃなけりゃ、二、三話して直ぐにこの場を立ち去さっている。いくら日曜の早朝とは言え、誰がいるとも限らん。話し込んで変な噂でもたったら事だ。火のない所に煙は立たぬ、君子危うきには近づかず。男性教員だと学外で生徒と話し込むと言うのは非常に大きな問題へと繋がりかねんのだ。
全く、世知辛い世の中だよ。本当に。
でも、流石に悩んでいる生徒を見て見て見ぬ振りはできない。ここで見過ごしたら俺は何のために教員になったのか分からない。
しかし、だ。俺は教師で、桜内は生徒。悩みがあると分かったところでそれを話すか、話さないか、それを決めるのは桜内本人だ。
「先生、今お時間ありますか?」
「あぁ、まぁ今日は暇だしな」
「じゃあ少し、話を聞いてほしいんです」
そう言うと桜内はポつりポつりと言葉を紡ぎ始めるのだった。
「そうか、高海のスクールアイドル活動に協力して、曲は作るけどメンバーに入るかどうかは迷っている……と」
「はい」
俺のアドバイスという言葉というか、それが功をせいしたのかどうかは俺には分からんが、高海は上手く勧誘して、桜内は曲を作ることを承諾したらしい。本当言えばそれだけでも十分すぎるんだろうが、高海は桜内とスクールアイドルがどうしてもしたいのか、メンバーになって欲しいと懇願してきて……。それでいま桜内は悩んでいると。
大まかにまとめるとそんな感じだ。
俺は説明が下手なのでいまいちよく分からん奴もいるかもしれないので、もし分からない奴がいたら、メールでも手紙でも電話でもくれ、分りやすく順序を追って説明する努力はしたいとおもう。
まぁ、そんなことは置いておいてだ。
「何だ、スクールアイドルになっちゃまずいことがあるのか? 例えばピアノの大会に出られないとか……」
「いえ、そんなことはないです。大会に出られます。でも、スクールアイドルをやりながら、ピアノをやるってなると……どちらも中途半端になりそうで……一生懸命やっている人の足を引っ張ったり、その人を馬鹿にしているような気がして……」
なるほど、ね。
「なぁ、桜内」
「はい」
あの日の桜内の言葉を思い出す。
『……スクールアイドル? なにそれ?』
そして考える。
その言葉の真意を。
今なら何となく分かる。彼女がそこでスクールアイドルを知らないと言った意味が。
「――μ’s」
「え?」
「μ’sだよ。μ’s」
「μ’sってあの千歌ちゃんが好きで、ラブライブ!って大会で優勝したっていう、あのμ’sですか?」
「そそ、あのμ’s」
もう既に日は完全に登り朝日というよりも日光という言葉が当てはまる。空には雲一つない、こりゃ今日も快晴かな。
「そのμ’sだけど、桜内。お前、何時から知ってる?」
――っ。
小さく息を飲む音が聞こえた。
敢えて表情は見ない。ただひたすらに大海を見つめる。
「それは最近ですけど……」
「そうかそうか……」
「それがどうかしたんですか?」
「……いや、少しな」
ここまで言うと少しばかり沈黙を選ぶ。
人生において重要なのはタイミング。特に話なんてテンポとタイミングが命だ。
「なぁ、桜内。俺はお前じゃないし、お前の事はまだ、あまり知らない。だから、お前が俺と高海と初めてあった時に言ってたあのセリフの真意は分からない」
あのセリフとは勿論、スクールアイドルを知らないといったあのセリフだ。
「でも、な。お前なら知っていたはずだ。μ’sというスクールアイドルの存在を」
――っ。
もう一度息を飲む音。
音ノ木坂学院スクールアイドル「μ’s」
これが桜内ではなくただの普通の生徒なら知らないと言われても納得できた。スクールアイドルが巷で大人気とは言え、アイドルに興味のない奴なんて未だにゴロゴロいるだろうし、そんな奴の中には、μ’sなんて知らない奴とかスクールアイドルがどんなやつか、なんて知らない奴がいても何の不思議ではない。
でも、桜内は違う。桜内なら必ず、スクールアイドルμ’sの存在を知っている。
「――西木野 真姫。この名前を知らないとは言わないよな」
「――っ!」
桜内ならこの名前を知らないはずはない。
西木野 真姫。
μ’sの一員であり、作曲担当。その歌唱力もさることながら、彼女の特筆すべき点と言えば、二年連続全国ピアノコンクール大賞と言う成績だろう。
高校と二年、三年時に彼女は他を寄せ付けない演奏でぶっちぎりで大賞に輝いた。その点数は日本記録として、未だに抜かれていないとか何とか。それ以来音ノ木坂はスクールアイドルとピアノの名門校へと変わっていく。
ピアノをやっている桜内なら、全国に出場するほどの実力をもつ桜内なら、西木野真姫を知らないはずがない。
「まぁ、あの時お前が何を思ってそう言ったのか、聞く気はないし、このことを誰かに言うつもりも無論ない。――で、だ。話は変わるが、さっきお前は言ったよな。スクールアイドルに入れば、スクールアイドルもピアノもどちらも中途半端になるって……。それなら、どうすればいいのか」
答えはこれまた単純明快。複雑なのは嫌いだ。
「答えは簡単な話さ――なればいいんだよ。両方とも完璧に」
「――え?」
「え、じゃないよ。両方とも完璧にこなすんだよ。単純だろ? 西木野真姫に出来て桜内に出来ない道理はない」
「でも、彼女は! 彼女は天才で! 私にはそんなことは……」
確かに彼女は天才だ。いやむしろ化け物といって良いだろう。スクールアイドルをしながらピアノも続け、そして勉強をも続け、今では医学部に通っている。どれか一つでも、一般人には無理だろう。でも、西木野 真姫は全てをこなした。そんな彼女を現すのに天才と言う言葉じゃ生ぬるい。
「出来るよ。桜内ならきっと、スクールアイドルもこなしながらピアノもきっと……」
彼女のこれまでの言動と表情を見ていれば分かる。
彼女は本心ではスクールアイドルに心を惹かれているのだ。切っ掛けが欲しいだけ。……そう後はきっかけが欲しいだけなんだ。
「そんなこと……。それに何の根拠があって……」
「根拠なんて特にないけど……それでも桜内なら、きっと両方上手くできる。何なら賭けるか? 何でも賭けてやるぞ」
別に無責任にこんなことを言っている訳ではない。桜内は「持っている」少女だ。あのμ’sとなんら変わり映えのしない才能を持っている。「持たない」人間からすれば一目で分かる。桜内 梨子には才能がある。
そう、あの西木野真姫にも匹敵するような才能が。
「そんな無責任です……」
「二兎追うものは一兎も得ず。でも、二兎追わないと、二兎は得ることはない。要は二兎追って二兎捕まえればいいんだよ」
「何ですか……もう、なんですかそれ……先生も千歌ちゃんも勝手です」」
そう言って横から聞こえるのは笑い声。
――さて、もういいか。
隣を見ずに歩き出す。
「まぁ、俺の事は置いといて、もう一度高海と話し合ってみろ。そして、最後に自分のしたいようにすればいいさ。それじゃあ話し込んで悪かったな。風邪は引かないようにな」
結局俺が何と言ったところで決めるのは桜内だ。俺がとやかく言うことは出来ない。
「先生!」
歩き出した背中に声がかかる。
「先生は、本当に、本当に私ならピアノとスクールアイドル、両立出来ると思いますか!?」
「あぁ、もちろん」
今度はもう、声がかかることはなかった。
ったく、柄でもないことをぺちゃくちゃ話してしまった。
……はぁ、まったく歳をとるって怖いねぇ。