ほうっと零れる吐息の先に白いもやが現れる。肌を刺すような冷気、その冷たさが吐く息を白く染め上げるのだ。楓はそのもやの行く先を視線で追いながら、少し身体の軸を横へとずらす。こうすることで隣にいる人物と話しやすくなるのだ。
「……寒いですか、プロデューサー?」
彼女の隣に立つ人物――綾霧が自身の手に息を吹きかけているのを見て、楓がそう尋ねた。それを受けて、彼が少しだけ表情を和らげながら答える。
「ええ、少し。正直、こっちの寒さを舐めてました」
「ふふっ。私もです。話には聞いていたんですけど、実際に来るとやっぱり違いますね」
「予報だと氷点下になるみたいですよ」
「あら。それだけ寒いと風も冷たいですし、凍えて身も凍るど、なぁんて。うふふ」
お決まりのダジャレを披露した楓が楽しそうに微笑んだ。そんな彼女の表情を見るのは、綾霧の楽しみのひとつでもある。
「……なんかより寒くなったような気が。気のせいかな?」
「それは大変。プロデューサー、ホットコーヒーでも飲んで身体をホットに温めましょうか?」
「いえ、今は大人しく待っていましょう」
「はーい」
二人とも厚手のコートを着込みマフラーを羽織るなど、防寒対策はバッチリだったのだが、それでも真冬の寒さが上回る。それもそのはずで、二人は真夜中の0時を迎えようとしている時間帯に屋外に佇んでいたのだ。
「でも気温のわりにはまだマシかな。雪も降ってないし、なにより周りの熱気が凄いから」
綾霧がゆっくりと視線を巡らせる。そこにあったものは、人、人、人の山。それはもう数え切れないくらい大勢の人がストリートにびっしりとひしめき合っているのだ。
まるでお祭りのピークタイム。いや、それ以上の密集具合である。その群集と呼べる人々、その中に混ざっている綾霧も楓も含めて、この場にいる全員の目的は同じだった。
「ふふっ。……ふふふ」
そんな大勢の人に視線を向けていた楓が、ふと小さな声で笑いだした。それを不思議に思った綾霧が小首を傾げる。
「どうしたんですか、楓さん?」
「いえ、ここにいる人達は誰も私のことを知らないんだなぁっと思って」
「え?」
「……なんというか、だれも私たちのことを知らない場所へ来るのも、たまにはいいものですね」
「ああ、そういう」
楓の言葉を聞いて、綾霧が納得したというふうに頷いた。
今の日本で、アイドル高垣楓の名前を知らない人はほとんどいないだろう。346プロダクションの誇るトップアイドル。その肩書きは、日本でもっとも有名なアイドルの一人であることを示している。
だから外出する時は基本的に変装しなければならないし、色々と気をつかう場面も増えてくる。だが“この場所”に限って言えば話は変わる。
ここに楓のことを知っている人間はあまりいないはずだ。
「プロデューサーにダメ元でもお願いして良かったです。年越しをこっちで過ごそうって」
「ダメ元って……俺が楓さんのお願いを無碍に断わるわけないじゃないですか」
「でもニューヨークですよ? それが二つ返事でOKだなんて」
「新年を海外でと聞いた時はちょっと驚いたけど、俺だって――」
「俺だって?」
「……楓さんと二人きりで過ごしたかったから」
「プロデューサー……」
綾霧の言葉を聴いた楓が、嬉しそうに眉を下げながら、そっと両の掌を合わせた。その右手小指には、煌くピンキーリングが嵌められている。
そこに込められているのは、相手への変わらぬ想い。
「あっ! 楓さん、カウントダウン始まりましたよ!」
「え?」
綾霧の言葉を聞いた楓が、高くそび立つスクエアのほうへと視線を移す。そこには彼の言う通り電光掲示板にカウントダウンを示す数字が表示されていた。
「ちょうどあと一分ですね! プロデューサー!」
ディスプレイに60と表示された数字が一秒にひとつずつ数字を落としていく。それはやがて10を切り、その段階になった時にあたりの歓声が肉声でのカウントダウンに変わった。
「テン!」
子供のように弾んだ楓の声。
「ナイン!」
周りに負けないくらい張り上げた綾霧の叫び。
場にいる全員が一体となって繰り広げられるスペクタクル。それは否が応にもみんなのテンションを上げていって――
『ゼロ!』
その瞬間に電光掲示板に浮かび上がるHappyNewYearの文字列。そして沸き上がる大歓声。場の盛り上がりは一気に最高潮を迎え、笑顔が波のように一面に広がっていく。
「楓さん!」
「はい、プロデューサー!」
二人は正面で顔を合わせるや、示し合わせたかのようなタイミングで声を重ねた。
『Happy New Year!』
新年を迎えての最初の挨拶。
それは耳慣れた言葉ではなく、現地の言葉で。
「せっかくニューヨークまで来たんですから、こちらに合わせてみました。プロデューサーも同じ思いだったみたいで嬉しいです」
「最初くらいは、やっぱりね」
「ですね。……では改めて」
そう言った楓が少しだけ佇まいを直すと、改めて新年の挨拶を口にした。
「あけましておめでとうございます、プロデューサー。今年もよろしくお願い致します」
「あけましておめでとうございます、楓さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
日本式の挨拶を交わした二人が、ちょっと照れたように頬を染める。ちょうどそのタイミングで、大きな音に合わせて夜空が一際明るくなった。
「あ、花火……」
面を上げた楓の視線の先、夜空には綺麗な光の輪が浮かび上がっていた。
赤、青、そして黄色。打ち上がる花火は色とりどりの姿を見せては消えていく。
それはまさに新年を彩る大輪の花だ。
「綺麗ですね」
「――あ」
新年を祝い舞い上がる花火を、見入るように眺める楓。そんな彼女の横顔を見つめていた綾霧の動きが止まった。
彼女に見惚れてしまったのだ。
「……」
空から降ってくる光が、楓を一際明るく映し出す。それはまるでアイドルを照らすスポットライトのようで。
(楓さん)
綾霧と楓が付き合いだしてからそれなりの月日が経っている。にも関わらず、彼はこうして彼女の姿に見惚れてしまうことがままあった。
ふとした拍子に視線を奪われてしまう。楓という存在に、心を囚われてしまう。
「……どうしたんですか、プロデューサー? 私の顔になにかついてます?」
「あ、いえ――」
じっと見つめられていることに気付いたのだろう。楓が視線を下ろして彼に問う。だが綾霧が答えに窮しているのを見て、彼女の表情にハテナマークが浮かび上がった。
「プロデュー――きゃっ」
そうしたタイミングで人並みが動き、楓が背中から押され、そのまま綾霧の胸元に飛び込んでしまった。
期せずして、お互いの身体が密着するほどの至近距離に身を置く二人。その状態になった楓は、意を決したように唇を噛むと、そっと彼の耳元に顔を寄せる。
「……言ってくれないんですか?」
「え?」
「花火より君のほうが綺麗だって」
「あ――」
囁くような声音。そう呟いてから楓は顔の位置を戻し綾霧を正面に捉える。
そして、一言。
「ここでなら、構いませんよね?」
ゆっくりと瞳を閉じる彼女。
その行為が意味するところを、綾霧は当然知っていて――
あたりにいる人々は、新年を迎えたことで大いに盛り上がっていて、ハグを繰り返しながら歓声を上げている。中には当然恋人同士も含まれていて、熱烈なキスを交わしている姿も珍しくない。
「楓さん」
綾霧は優しく楓の名を呼びながら彼女を腕の中に抱き寄せた。それからそっと唇を重ね合う。
恋人と交わす新年最初のキス。
そしてひとしきり時間が経ち、その行為に満足したのか、楓のほうから身体を離す。
「あの……」
「なんです?」
「プロデューサーは知っていますか? こちらでは恋人と新年を迎えてからキスを交わすと、より親密に、より愛情深い一年を迎えることができるって言われているんです」
「……えっと、聞いたことは」
「実はそれもあって、この場所に貴方を誘ったんです。……迷惑じゃありませんよね?」
「も、もちろん!」
「ああ、良かった」
楓が安堵したように息を吐き、目を細める。
「なんだか、少し恥ずかしいですね」
「……俺もですよ」
「ふふっ。じゃあ一緒だ」
楓が立ち位置を直して綾霧の隣へと並ぶ。
「戻りましょうか、プロデューサー。風邪を引いてしまってはアレですし」
「そういえば、一段と寒くなってきましたね。まあ時間も時間だし」
「でしょう? ですから戻ったらお風呂に入りたいです」
「え?」
「ニューヨークでする入浴、なぁんて、ちょっとお決まりすぎました?」
照れ隠しなのか、ダジャレを披露した楓が腕を伸ばして綾霧の手を取る。
「でも湯船に飛び込んだら、ジャパーンッて音がするかも」
「……楓さん。新年一発目のダジャレがそれって……」
「定番は大事なんですよ。今年はこちらにもより磨きをかけますから、期待していてくださいね、プロデューサー」
「……それは、はい。お手柔らかにお願いします」
「プロデューサーに容赦はしませんから。ふふっ」
苦笑を浮かべる綾霧を引っ張るようにして楓が歩きだす。
こうして二人は、新年を最高の形で迎え、一歩を踏み出していった。