ゆかりさまとほのぼのしたいだけのじんせいでした 作:織葉 黎旺
何もせず、ただそこにいるだけだというのに汗が止まらない。気にするなと自分に言い聞かせて目を瞑ろうとも、瞼の裏でも「暑い」という一言がぐるぐると燃え上がって回る。
困るなあ、と思いながら時計を見た。午前二時半。草木も眠る何とやらだ。いくら草木でも、この季節は寝苦しいんじゃないだろうかとくだらないことを考えて、笑った。笑ってみると、少しくらい重さを感じていた瞼がみるみるうちに軽くなってきて。とてもじゃないが、寝ていられなくなってきた。むくりと起き上がって、小さく欠伸。喉の渇きを感じたので、月明かりだけが照らす、ほぼ真っ暗な居間を捜索して、安い日本酒を調達した。お気に入りのグラスに注いで、縁側に座った。
「……暑い」
思わず口から言葉が溢れた。するとより暑くなったような気がして、嫌な心地になる。盃を煽った。
ふと耳に、蝉の鳴き声が聞こえた。今は夜だぞ、昼夜間違えるなんて阿呆な奴だと微笑ましく思う。でも案外、夜に鳴く習性を持つ妖怪ゼミだったりするのかも、と思って耳をすまして聞いてみた。カナカナカナカナ……と鳴いている気がする。この鳴き方は何だっけ、確かヒグラシだったはずだ。
「ヒグラシねえ……」
その日その日を必死に生きる、って感じがして、ピッタリな名前だと思う。第二候補としてはカナカナゼミなんてのを推したい。
「暑いわね」
「そうですねえ」
グラスを持って現れた彼女が隣に座った。藍色の浴衣に身を包んでいるが、帯の締めが緩いのか若干だらしない感じになっていた。腰までかかる長い金髪も珍しく微妙に乱れ、寝癖がひょこんと付いていた。
「珍しいですね、髪が爆発してますよ」
「あら。お風呂入ってすぐに横になっちゃったからかしら」
まあ私も人のことは言えないくらい普段から爆発させまくってるのだが、彼女にしては珍しい髪型だったのでつい指摘してしまった。二つのグラスに日本酒を注ぎ、小さく乾杯して飲んだ。
「紫さんも寝苦しくて起きてきたんですか?」
私の質問に、紫さんはくすくすと笑って答える。
「夜は妖怪の領分よ? でもまあ、確かに寝るのは苦しいわ」
暑さのせいか、うっかりして阿呆みたいな質問をしてしまった。何分姿が変わらないものだから、こちらの常識をあちらに当てはめてしまう。
「貴方は、寝苦しくて起きてきたんでしょうね」
近頃は本当に熱帯夜だものね、と言って扇子でパタパタとこちらへ扇いでくれた。いい気持ちだ。
「扇風機、早く直りませんかね」
「出したのが三日前だしそろそろ帰ってくるとは思うのだけど」
出した先が河童だからなあ、と嘆息する。一部を直すだけで済むのに、興味本位で丸ごと解体――なんてこともしかねない。
「やっぱりクーラー買うのが早いんじゃないかしら」
「んー、あんまり好きじゃないんですよねえ」
設定温度はいつも健康的に二十八度なのだが、それでも少し寒く感じる。付けないと暑いのだが、付けっぱなしだと寒い。外で動いてきた後の数十分はキンキンのクーラーに感謝するのだが、汗のせいで速攻で寒くなってきて温度を上げるまでがテンプレートな流れだった。懐かしい。
その点、扇風機は優れものだ。首が回るから家族全員に平等に優しい風が行き渡るし、その上温度も丁度いい。当たってないと暑いが、当たりすぎてても体に悪いから偉い。あと扇風機の羽音も好きだ。前に座って「あ〜〜〜〜」と声を出して遊んでいた幼少期を思い出す。
「あら、蝉の鳴き声」
カナカナカナ――と、またもやヒグラシの鳴き声が響く。折角なので先程湧いた疑問を、幻想郷の管理者たる彼女に聞いてみる。
「蝉って普通昼に鳴きますよね? 夜に鳴いてるってことは妖怪の類なんです?」
「貴方はどう思う?」
ニヤニヤと、胡散臭げな笑みを浮かべて彼女は頬杖をつく。わからないから聞いてるんです、と言いかけたが寸でのところで止めた。
「……蝉は夜行性の虫ではないですし、こんな時間に鳴いているのも聞いたことがないです。やはり妖怪――」
言いかけて、しかしどうなのだと首を傾げる。私は普通の人間であるが、妖怪と応対すれば大なり小なり妖気と呼ばれるものを大体感じる。力の弱い妖怪であったり、距離が遠いから――という可能性もあるが、何となく、純粋な蝉である気がする。
「――とも言い難いですね。やれやれ、私にはお手上げですよ」
身振りもいれて、おどけて笑った。彼女が、グラスを揺らしながら言う。
「貴方も相当胡散臭いわよ」
「きっと誰かさんのが移ったんですね」
「あらあら、それはそれは」
移るものでもないでしょうに、という紫さんの言葉に、「好きな人の仕草や性格って、自然と移るみたいですよ?」とこの前何かで見た知識で返した。言いながら、邪念が少し心の端を過ぎった気がした。
「で、あの蝉は何なんですか?」
逸れていた話を戻す。一度気になったものはやっぱり気になるのである。
「あの蝉はね、普通の蝉よ」
多分、という不確定な補足が加わった。どっちですか一体。
「今のところは普通の蝉だけど、直にそうではなくなるかもしれない。だから断言はできないわ」
「本当に普通の蝉なら、こんな時間に鳴かないのでは?」
「昼間寝過ごしちゃった、のんびりさんな蝉なのかもしれないじゃない?」
言い方が可愛らしく感ぜられて、毒気を抜かれた。確かにそうかもしれない。どころか、むしろきっとそうに違いない、という謎の確信が湧いてきた。
「蝉も、寝苦しいのかもしれないですしね」
ヒグラシはまだ鳴き続けていた。あいつも、誰か好きな子の隣にいるのだろうか。何か移せているのだろうか。私は、彼女に何を――――なんて考えたところで、戯言だなと笑い、温くなったグラスを突き合わせるのだった。