ゆかりさまとほのぼのしたいだけのじんせいでした 作:織葉 黎旺
「…………」
雨で足元がぬかるむことを苦々しく思いながら、獣道を突き進む。鬱屈と生い茂る草木の中を、肌が傷つくのも気にせず抜ける。こんなのは所詮一過性のものだ、直に全てなくなる。
何を探しているのか、何処に向かっているのか、そんなことは分からなかった。考えていなかったといえば嘘になるが、考えたくはなかったし、なるべく思考から切り離していた。ただ一つ、遠くへ、遠くへ行きたいという欲求だけが、俺をつき動かしていた気がする。
険しい獣道は終わりを迎えた。さながら獲物を逃さぬよう口を閉じる蝿取草のように出口を塞ぐ、絡まりあった枝を蹴りでへし折って抜けた。そして現れた光景に、思わず溜息が漏れた。
「……!」
そこは花園だった。降り続く雨を吸い込むように、大きく花弁を広げる紫陽花の数々。見渡す限り
花々が手入れされているようには見えないが、この場所自体の構造には何者かの手が加わっているような気がする。そう思った時、花園の中心に建造物を見つける。ガゼボ、というのだったか。公園の一角によくある雨宿りできそうな場所があった。今更濡れることなどどうでもよかったが、足の疲労は癒したかった。中に入れさせてもらい、紫陽花を眺める。雨足は弱まることなく、それどころか強まっているように見える。ここらが潮時か、と鞄を下ろした。
「あら」
後ろから声が聞こえた。鈴を転がしたような凛とした綺麗な声。もしかしてここの管理人だろうか。だとすれば勝手に間借りしていることを謝らなければ、そう思いながら振り返る。
「こんなところに人間とは、珍しい」
安直な表現で言えば、極めて美しい女性だった。無数のリボンをつけた、流れるような美麗な金髪。整った顔立ち。紫のドレス。
珍しい、という割に驚いたような感情は読み取れなかった。「ご一緒してもいいかしら?」と言われたので、どうぞ、とおざなりに答える。雨粒のついた様子のない傘を閉じ、女は俺の隣に立った。振り返る前に言おうと思った言葉は、見た瞬間に何故か雲散霧消した。お互い何も語らず、ただ紫陽花と、降り続く雨を見ていた。不思議と何も喋る気にはならなかったし、退屈だとも思わなかった。
「貴方は、どうしてここへ?」
どれくらいそうしていたのか。ある時、女はそう言った。どうして。それは俺にもわからないことだったし、聞きたいことだった。
「山登りが趣味でしてね。何気なく登ってたら、ここに。貴女はよく来られるんですか?」
「いえ、ほとんど。ここ数十年くらいは来ていなかったわ」
そうですか、と貼り付けたような微笑へ相槌を打つ。読めない人だな、と思った。
「山にはよく登るの?」
「そうですね、月一くらいで」
「嘘ね」
ザー、と静寂が雨音を強めた。変わらぬ微笑で女は言葉を紡ぐ。
「山によく登るのならそんな軽装で、しかもこんな雨の中進むはずがないわ」
「まあそうですよね」
何となく吐いた嘘だったので、別にバレたことはどうでもよかった。向こうも何となく暴いただけだったのだろう、それ以降また会話はなくなった。
「それで、いつ死ぬのかしら?」
「……え?」
「死ぬつもりできたんでしょう?」
変わらぬ微笑は、しかし印象を変えてみせた。金の瞳は獲物を狙う猛禽のように見える。だがそれでも、恐怖はなかった。
「そうです。多分、俺は死に場所を求めてた。このロープは登山じゃなくて、首をくくるために持ってきた。もっとも、この雨だし丁度いい高さの木はないしで、辟易してたんですけど」
そう、と女の口角が上がった。何か
「それならその命、私に頂けないかしら?」
「ええ、別にいいですよ。なるべく苦しくないなら願ってもないことですけど」
俺なんかの命がこの人の役に立てるなら、俺の苦しみなんかどうでもいい気がした。尤も、この人は人じゃないんだろうけど。何となくそう思った。
初対面の女にそこまで入れ込むとは、死を前に自暴自棄になっているのだろうか。自嘲気味に笑う。
「代わりに一つ、お願いしてもいいですか?」
「何かしら?」
「俺の話を聞いてもらってもいいですか? 俺には何もなかったけど、それでも誰かに覚えていてほしいから」
雨足が弱まっていく。青天井なら死に日和だなと思った。雲の隙間から微かに日が差す。雨粒を受けた紫陽花が、キラキラと輝いた。
「名前を聞いてもいいですか?」
「八雲紫よ」
「やくも、ゆかり」
紫の花弁に目がいった。綺麗だ、と呟く。
「綺麗な名前ですね。俺は──」