ゆかりさまとほのぼのしたいだけのじんせいでした 作:織葉 黎旺
「こっちよ」
目の前の妖しげな女性──八雲さんに着いて、細い山道を歩く。先程までのガゼボのような建築物などとうに消えており、進めば進むほど道は何処か寂しげに──いや、人の痕跡などが消えていくようになっていく。深い森、寂れた道路、苔むした階段、古びた鳥居。そしてその鳥居の前で、八雲さんは立ち止まり、こちらに振り向いた。
「この鳥居が境界。一度ゆけば、二度と還ることはない。戻るなら──これが最後のチャンスよ?」
こちらを貫くのは鋭い視線だった。金の瞳は俺を射抜き、磔にする。威圧といっても過言ではないだろう。文字通りの最後通牒をくれたのだと、そう思った。しかし今更
「それでは貴方を、別の世界にお招きします」
右手に柔らかな、暖かな温もりがあった。驚く暇も感じる暇も与えず、彼女は強く俺の手を引く。
「──ようこそ、幻想郷へ」
鳥居を抜けた先は、鳥居だった。先程まで見えていた淋しい本殿は何処へやら、俺は振り向いたように階段を見下ろしている。しかしそれが先程までのものと違うのは明確で、今目の前にあるのは少し汚いながらも、人の手で整備されている様子の見られる参道だった。顔を上げる。そこには、幻想の世界が広がっている。
──夕日に照らされる山があった。
──橙に染まる湖があった。
──賑わいを見せる里があった。
そして何より、その光景を尊ぶように見つめる隣の彼女の姿があった。風に揺れる長髪を、黄昏を帯びた金糸を撫でながら、優しい微笑をたたえている。
「ここが、貴方を求めている世界。人と神と妖怪が集った、最後の楽園」
「──それはそれは、素敵なところですね」
「ええ──さて」
彼女が徐に指を鳴らす。するとどういう理屈か足元に浮遊感を感じ、落とし穴に落ちるように不思議な空間の裂け目へと落下した。目玉だらけのその不思議な空間は数秒で終わり、どこかの居間の、柔らかなクッションへとおしりから落ちた。どういう理屈か彼女は先回りしていたようで、恐らく台所の方から、盃と酒瓶を抱えて帰ってきた。
「難しい話は抜きにして、飲みましょうか?」
「……実は酒、飲んだことないんですよね。苦手意識もあって」
「あらあら。それなら、ここで飲んでみましょうか?」
どうやら意地でも飲ませたそうなので、嘆息して、観念して頷く。くすりと笑った彼女が、二杯の盃に液体を注いでいく。ラベルを覗き見る。学がないせいで名前はわからなかったが、どうやら日本酒らしい。
「それでは、この出会いを祝しまして」
茶化すように言って、彼女が盃を掲げる。つられて俺もそうした。
「乾杯」
「……乾杯」
盃を交わし合うと、すぐさま彼女はゴクゴクと水でも飲むように酒を煽っていく。つられて自分もそうしようとしたが、鼻腔をつく独特の香りに一瞬だけ躊躇して、それでも口に運んでいく。最初に感じたのは、米の芳醇な香り。慣れない味に戸惑ってすぐ飲み込むと、喉を伝い、食道を通り、胃へと届くのがハッキリと伝わってきた。同時に徐々に、身体は熱くなり、少しだけ視界が揺らぎ出す。
「どうかしら、初めてのお酒は? 比較的飲みやすい物を選んだとは思うのだけれど」
「不思議な感じですね、でも悪くない──いや、むしろいいです」
もう一度、今度は先程よりも多く酒を口に含む。もうすっかり独特な香りにも慣れ、確かにこれは美味いな、とごくごく飲んでいく。熱の時のような火照りと、世界が回るような感覚に、これが酩酊感かと納得する。でも決して、悪い気分ではなかった。
「酒なんて、生涯飲むことはないと思ってましたよ」
「あら、なんて勿体ない。死ぬ前に飲めてよかったわね」
「ええ」
死ぬほど物騒な会話ではあったし、不謹慎とか失礼とかそんな言葉も思い浮かんでくるが、別に不快じゃないし、むしろその通りだと頷いている。
「おかわり、いいですか?」
「勿論。ペースには気をつけてね」
とくとくとく、と音を立てて注がれる様が気持ちいい。盃に、溢れんばかりに入ったそれを、おっとっとと戯けて零さぬように啜る。早くも程度の低い酔っ払いだな、と自嘲気味に笑った。
「酒に苦手意識があったのは、親の酒癖が悪かったからなんですよね。だから自分は同じようにならないように、って飲まないようにしてたんですけど……この分じゃ、蛙の子は蛙になりそうで怖いです」
唐突によく分からないことを語ってしまう辺りも酔っ払いだ。密かに自己嫌悪を強めていると、盃を揺らしながら八雲さんは言った。
「お酒を飲むと、人の認識の境界は揺らぐ。モラルが下がったり、人が変わったり、記憶が混濁したりね。でも本音を吐けるし、酩酊は気持ちいいし、何よりお酒は美味しいし、悪いことばかりじゃないでしょう?」
そもそも、と彼女は続ける。
「酒に飲まれる方が悪いのであって、酒に罪はないわ。節度が大事よね、何事も」
「まあ、そうですよね」
「ああ、ちなみに私は素面ですわ。酔っぱらいが管を巻いたわけじゃないわよ?」
「それ、酒入れたら絶対言っちゃいけないやつですよね?」
二人、静かに笑って酒を飲む。酩酊感は尚のこと強まり、少しだけ目が回ってきた。調子に乗りすぎたかなあ、と立ち上がった。
「結構、酔ってきました。少し風に当たってこようと思います」
「そこの廊下をいくと縁側よ。お水持ってくるから、ごゆっくり」
歩き出すと尚のこと、酔っている自分を感じて、最早笑えてきた。言われた通りに廊下を抜けると、縁側はすぐそこだった。夜風は優しく火照った体を冷やしてくれる。縁側に座り込んで、何気なしに風景を眺める。息を飲んだ。
何処からか聞こえる虫の声。電灯一つない庭先において、一寸先は闇。しかし見上げればそこには、藍色の空を星が満たしていた。都会だろうと田舎だろうと、こんな空にはお目にかかれないだろうという幻想の産物。星座なんて特定できなさそうなくらいに、淡い光で満たされていた。
「綺麗でしょう?」
隣から響いてきた声。二つのコップを手に、彼女は優しく笑っている。瞳には星が写っている。月明かりを受けた金髪は夜に映えている。
「ええ、とっても」
絞り出すように俺は言う。言いきれなくて、すっかり覚めてしまった酔いを恨んだ。
「はい、水よ」
「ありがとうございます」
ごくごくと飲んでゴホゴホと噎せた。口内も喉も胃も焼けるような感じがする。そして仄かに香る芋の香り。
「こ、これ絶対芋焼酎じゃないですか!!」
「ええ、よくわかったわね。そろそろ酔いの覚めてきた頃かと思っていたから、気を遣って差し上げましたわ」
「気の遣い方絶対間違ってますよ……」
なんてボヤきながらも、あまり嫌な感じはなかった。不思議な感覚である。とりあえず、酒のせいにしておくけど。
「……あの、八雲さん」
「紫」
「え?」
「八雲だと少し紛らわしいのよ。気にせず紫でいいわ」
「……紫さん。あの、俺──」
言いかけた言葉は、口に当てられた人差し指で塞がれた。
「大丈夫。急ぎじゃないし、少しくらいは待ちますわ」
彼女は全てを察したように笑う。
「何も知らない、無垢な人間を無慈悲に屠殺するような真似は出来ません。幻想郷は全てを受け入れるのよ──それはそれは、残酷な話ですわ」
彼女は、誤魔化すように胡散臭く笑う。満月に優しく照らされた姿は、それはそれは、素敵な笑顔だった。