ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味   作:むこ(連載継続頑張ります)

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 こんばんは、まさかまさかの日常編第1話スピード投稿です。実は既に闘病編の最終話を考えてたときに、同時にシナリオ案が浮かんできていたのです。それを今日形にしました。そして、UAが30000を突破!お気に入り375件!日刊ランキング7位に居座るという訳のわからない結果にただひたすらニヤニヤしています。本当にありがとうございます。

 さて、今日から木綿季の日常が始まりますが、この41話を読むにあたって少しだけ留意点があります。途中、胸糞悪くなる展開があります。そして、人によってはショックを受けるかもしれない挿絵を挟んでおります(18禁ではないですが) なのでそれを踏まえたうえでお読みいただければと思います。

 それでは新章第1話こと41話、ご覧ください。
 


第二章~日常編~
第41話~木綿季の過去~


 

 西暦2026年10月25日 日曜日 午後15:20 桐ヶ谷邸 和人の部屋

 

 

 今日は紺野木綿季を知る者にとって非常に喜ばしい日だ。およそ半年前に難病と呼ばれているHIVウィルスを、骨髄移植手術によって完全に駆逐することに成功した。それに伴い免疫細胞も活性化し、AIDSを克服したのだ。

 

 病気が完治してからは、懸命にリハビリを重ねた。道中様々なアクシデントにも見舞われたが無事に上半身下半身ともに完璧な身体機能を取り戻したのだ。そして今日、木綿季は横浜港北総合病院を卒業し、受け入れ先となった桐ヶ谷邸へとやってきたのだ。桐ヶ谷邸の人達は暖かく木綿季を迎え入れ、歓迎した。

 

 

 義母の翠、義姉の直葉、そして…義兄でもあり恋人でもある桐ヶ谷和人。この三人の手によって招き入れられたのだ。出張で帰ってきていない義父の桐ヶ谷峰高も帰宅次第、改めて木綿季を歓迎してくれることだろう。

 

 

「あ……」

 

「………」

 

 

 和人と木綿季は、現実世界で初めての口づけを交わしていた。仮想世界での経験は何度かあったが、現実世界での口づけは初めてだった。温かい、唇独特の肌の感覚が直に伝わってくる。空気が乾燥していたので少しだけガサついていたが、そんなことは気にならなかった。

 

 

「……和人…」

 

「…木綿季…温かいな…」

 

 

 お互い顔は真っ赤であった。もう互いに一生の契りを交わしているような間柄ではあるが、いざ事に走るとなると…やはり緊張というか照れくさいものがあったのだ。しばらくお互いに無言の時間が続いた。時々家の表を走る車や、散歩中の犬の鳴き声等がかすかに聞こえてくるだけであった。

 

 

「あ…えっと…和人…その…ありがと…」

 

 

 木綿季は視線を逸らしてもじもじとしながら自分の長い揉み上げをいじくっていた。その姿は16歳とは思えないなんとも言えない色っぽさというか大人っぽい雰囲気を醸し出していた。それを間近で見てしまっていた和人の煩悩と理性は揺さぶられていた。

 

 

「…木綿季!!」

 

「え…? わぁっ!?」

 

 

 和人は煩悩に勝てず、木綿季を押し倒してしまっていた。自分を冷静でいさせることが出来なかった、理性より煩悩が勝ってしまった。

 

 

「木綿季…俺…」

 

「か…ずと…」

 

 

 前にもこんなことがあったな、と木綿季は思い出していた。かつてメディキュボイドの中で和人と日常を過ごしていた時、こうなる可能性があると警告されたことがあった。まさか家に帰った初日に、このようなことをされるとは思ってもみなかったが。

 

 

「う…」

 

 

 和人は木綿季を押し倒してしまいながらも、まだ煩悩と戦い続けていた。ほんの少しわずかだけ、和人の理性が残っていたのだ。

 

 

「あの…かずと…、ボク…いいよ?」

 

「え…」

 

「ボク…かずとなら…いいよ…」

 

 

 木綿季は耳まで真っ赤にしながらゆっくりと淡々と、和人に言葉を伝えていた。和人の手は震えていた、まだギリギリの地点で理性が堪えていた。木綿季はああ言ってくれてはいるが、ここで襲ってしまうのは恋人として如何なものなのかと思っていた。もっとお互いを知って…理解を深めて…絆を深めてから及ぶべきではないのか? …と。

 

 

「木綿季…俺…俺…ッ」

 

「いいよかずと…きて…」

 

 

 しかし和人は煩悩に負けた。完璧に理性を跳ねのけされて、煩悩に競り負けてしまった。息を荒くしながら和人は木綿季の服のボタンを一つ一つ外していった。しかし自分の着ている服ならともかく、通常他人の服のボタンというものは存外に外しづらいものだった。ましてや和人の手はこれでもかというぐらいにプルプル震えてしまっていた。これではとても外すことなどできない。それどころか折角買ってもらったばっかりの洋服の生地を傷めてしまいそうだった。

 

 

(…ボタンが…なかなか外れないな…落ち着けよ…俺…)

 

 

 和人がボタンに苦戦している中、突如として和人の部屋のドアがコンッコンッとノックされた。

 

 

「――ッ!?」

 

「おにいちゃーん? 木綿季のお洋服持ってきたよー?」

 

 

 ドアをノックしたのは妹の直葉だった。明日奈と一緒に買いに行った木綿季の洋服の残りをリビングに置きっぱなしにしてたのを思い出して、和人と木綿季の部屋まで持ってきてくれていたのだ。

 

 

「…スグか…ちょっと待っててくれ、今開けるから」

 

 

 思わぬ邪魔が入ったが、和人は冷静さと理性を取り戻せていた。木綿季はと言うと、心臓はバックバクになり、全身を激しく血が廻っていた。呼吸も荒くなり、肌は全身隅々まで真っ赤っかだった。

 

 和人は押し倒していた木綿季から体をどかし、一回深呼吸すると落ち着かない足取りで自室のドアまで歩み寄った。ドアノブに手を掛け、ガチャリという音と共にゆっくりとドアを開いていった。

 

 

「ハイこれ、4着ほどあるからちょっと重いよ?」

 

「あ…ああ…、ありがとな…スグ」

 

 

 和人は直葉から木綿季の洋服を受け取った。直葉は受け渡したときに和人に違和感を覚えていた。そして和人のベッドに座っている木綿季の姿がチラッと見えると、何となく状況を察してしまった。

 

 

「ははぁ~、どうやら私はお邪魔だったみたいね~」

 

 

 直葉が悪魔の微笑みを見せながら口を押さえ、にやけたジト目で和人を見上げていた。その顔の内面には、これからどうやって和人をいじくってやろうか、奢らせるためのネタにしてやろうか?などと考えていた。

 

 

「あ…いや…違う! スグ、これはだな…」

 

「またまた~、まあ…初日なんだからがっつかないようにね?」

 

 

 全てを見透かされてしまっていた和人は開いた口がふさがらず、何も言い返すことが出来ずに慌てふためいていた。木綿季は木綿季でベッドに丸まるようにして「もう勘弁して」と言いたげな格好で蹲ってしまっていた。もちろん全身真っ赤っかである。

 

 

「アハハ! 冗談よ冗談! 今度何かおごってね!」

 

 

 そう言いながらそそくさと直葉は退散していった。和人はまた直葉に知られてほしくない、よりによって最悪なネタを掴まれてしまった。

 

 

「うう…スグめ…」

 

「あはは…なんだか大変なことになっちゃったね…」

 

「ああ…うん…なんか…ごめんな…」

 

「んーん、気にすることないよ。それに機会は…いつでもあるだろうし…ね…」

 

「…ん? 何か言ったか?」

 

「んーん、何でもない!」

 

 

 そう言うと木綿季はぴょんと元気に跳ね上がるようにベッドから立ち上がり、大きく伸びをした。

 

 

「ん~…それにしても…まだこれから本当の家族になるなんて…実感が湧かないな…」

 

「まあ…それは俺もだよ…、多分…養子縁組をする人たちはみんな同じ気持ちなんじゃないか?」

 

「うーん、そうなんだろうなあ…。でもボクはその話を持ち掛けられる前から、お母さんと直葉と仲良くなれたから、全然緊張とかはしてないかな」

 

「そう…だな、母さん…一発で木綿季の事気に入っちゃったからな…」

 

「あはは、そうだったね!」

 

 

 二人っきりの部屋で二人っきりの、何の変哲もない他愛ない会話が交わされ続けた。先ほどまでの緊張気味な空気は既になくなっていた。お互いにお互いのことを包み隠さず話していた。二人は時間が経つのも忘れて話し続けた。ALOでのこと、入院中のこと、和人と出会ってからのこと、いくらでも話のネタには困らなかった。しかし和人には一つだけ、気になることがあった。

 

 

「なあ…木綿季、一ついいか?」

 

「ん、なあに? かずと」

 

「お前の…過去のことを…教えてくれないか?」

 

「え…」

 

 

 木綿季の表情が曇った。木綿季の過去…即ち病院生活が始まる前のことを意味していた。その過去の出来事は…木綿季にとってはほじくり返されたくない、出来れば永遠に自分の心の奥底に蓋を閉めていつまでも封印しておきたい出来事だった。

 

 

「俺…入院してからの木綿季のことはたくさん教えてもらった。でも…木綿季が小さいころの話は…ほとんど知らないからさ…」

 

「あ…その…」

 

 

 木綿季は先ほどまでの明るさがどこかにいってしまったかのように、表情を暗くしていた。いくら和人でもこれは話せない、話したくない。自分の表に出したくない過去を暴かれたくない。それが…大切な恋人の和人であってもだった。

 

 

「ダメなら…いいんだ。誰にでも知られたくないことの一つや二つあるからな…、変なこと聞いてごめんな」

 

 

 そう言うと和人は木綿季の頭をぽんぽんと優しく手を当てて、ゆっくりと撫で始めた。

 

 

「ごめんね…ごめんね和人…」

 

「……気にするな」

 

 

 和人は泣きそうになっている木綿季を優しく抱き締めた。過去のことより、これからの未来の方を大事にしよう。そう思いながら木綿季を優しく抱き締めた。

 

 

「和人…」

 

 

 二人のいる部屋がなんとも言えない空気が漂っている中、階段の下から直葉の声が聞こえてきた。

 

 

『おにいちゃーん! ゆうきぃー! お風呂沸いたよー! 先入っていいよー!』

 

「…だってさ木綿季、先入ってこいよ」

 

「あ…うん。んじゃあ…お言葉に甘えちゃおうかな…」

 

 

 そう言うと木綿季はベッドから立ち上がり、直葉に届けてもらったカバンから自分の下着と寝巻を取り出した。和人はそれを見てはいけないものと認識し、即座に180度方向を変えて見ないようにした。

 

 

「あはは! 何してんの和人、これ買ってきたばかりのやつだよ?」

 

「そ…そういう問題じゃない!」

 

「あははは! 和人かわいー!」

 

「…うるさいぞ! 早く入ってこい! 俺も入りたいんだから」

 

 

 木綿季は笑いながら「はーい」と返事をし、着替えを持ち部屋を後にした。和人は部屋に一人残る形となり、大きなため息を吐きながらほっと胸を撫でおろしていた。

 

 

「…これから…木綿季の部屋が出来るまで…毎日こんなかんじなのか…」

 

 

 等と考えを巡らせていると、いきなりドアがガチャンという音と共に開かれた。

 

 

「オペッ!?」

 

 

 奇怪な声を上げながら和人がドアの方に視線をやると、ドアの隙間から木綿季が顔の半分を覗かせていた。

 

 

「……覗かないでね?」

 

「…それは覗けということか?」

 

「えっ…あっ…うぅ~…、か…かずとのばーかっ!!」

 

 

 顔を真っ赤にして怒った木綿季はドアを勢いよくバタンッという音を立てて閉め、階段を下ってバスルームへと向かっていった。

 

 

「くす…やれやれだな。でも…こういう毎日も…悪くないな…」

 

 

 和人は再びベッドに仰向けになり、これから毎日が今日のように楽しい毎日になるんだろうなと笑顔をこぼしていた。その時、和人のスマートフォンに誰かからの着信が入った。

 

 

「ん…誰だ…?」

 

 

 和人はズボンのポケットからスマホを取り出して、ディスプレイの発信者の名前へと目をやった。

 

 

「…明日奈…? 何の用だろう…」

 

 

 発進の相手は明日奈だった。何でこのタイミングで電話をかけてくるんだろう? 何か緊急の用事でもあるのだろうか?と思いながら和人は通話のアイコンをタップして明日奈からの通話に出た。

 

 

「もしもし…明日奈?」

 

『あ…キリト君? 突然ごめんね、今…ちょっと話せるかな?』

 

「ああ…今自宅で寝転がってるところだ。大丈夫だよ」

 

『そう…それならよかった、あのね…ちょっと誰にも聞かれないところまで…移動出来ないかな」

 

 

 明日奈の様子がおかしかった。何で家の中なのに誰にも聞かれたくないのだろうか。俺以外の桐ヶ谷家の人間に聞かれたらマズいことでもあるのだろうか…?

 

 

「あ…ああ…別に構わないけど…何の用なんだ?」

 

『あのね…木綿季のこと…なんだけど…』

 

「木綿季のことだって…?」

 

『うん…出来れば自宅を出てもらって、誰にも聞かれないところまで移動してからで…いいかな…』

 

「…わかった、移動したらこちらから折り返し電話かけるよ、それでいいか?」

 

『ありがとう…ごめんね…、手間かけさせちゃって」

 

「構うことないさ、んじゃあ今から家を出るからまたすぐ後でな」

 

『うん…また後で』

 

 

 通話を終えると和人は通話終了のアイコンをタップして、スマホをスリープにして部屋を出ると、階段を下りながら大きめのボリュームで家族に外へ出る用事を伝えた。

 

 

「母さん! スグ! 俺ちょっとコンビニいってくる! 10分ぐらいで戻るから!」

 

「はぁーい! 遅くならないでよー?」

 

 

 玄関で靴を履き、扉を開けて家を出る。自宅から50メートルほど離れた人通りの少ない路地に出た和人はスマホのアドレス帳から結城明日奈のページを出して、明日奈に電話を掛けた。呼び出し音が通話のスピーカー越しに聞こえてくる、しばらくして明日奈が電話に出た。

 

 

『もしもし…キリト君?』

 

「やあ…明日奈。もう大丈夫だ、家から離れた路地まで来たから。ここなら通行人も滅多に通らない」

 

『ごめんね…手間かけさせちゃって…』

 

「気にするな、それより…木綿季に関わることって…一体何なんだ?」

 

 

 電話越しに明日奈が深呼吸をする音が聞こえた。もしかしたらよくないことが明日奈の口から聞かされるのかもしれないと思って、和人は少しだけ身構えた。

 

 

『あのね…キリト君、今から話すことは実際に私が確認したわけじゃないから…憶測の域を出ないの。それを前提として…聞いてもらっていいかしら…?』

 

「…ああ…わかった。…で…何なんだ?」

 

『うん…実はね、この前買ってきた木綿季の服を…今日着てもらったでしょ? その際、私と直葉ちゃんが着替えを手伝おうとしたんだけど…』

 

「ああ…」

 

『木綿季ね…私と直葉ちゃんの手伝いを頑なに拒否したの。それどころか一人で着替えるときも物陰に隠れながら着替えていたの…、女の子同士なのに…。ちょっと…変だと思わない?』

 

「…確かに変だな…、男の俺ならともかく…同じ女の子の明日奈たちにすら見せたくないってのはちょっとおかしい」

 

 

 和人は明日奈の話を聞き、木綿季の行動に対して違和感を感じていた。

 

 

『そうでしょ…? 変だよね…やっぱり…。リハビリをする前の介助が必要な時だって…体を拭くときは決して私達じゃなくて全部看護師さんにやってもらってたの…』

 

「……それは本当の話か?」

 

『うん…少なくとも事実だよ。別に木綿季のことを詮索するわけじゃないんだけど…木綿季は…何か知られたくないことを…体に隠してるんじゃないかなって…思うの…』

 

「………そう…か…」

 

 

 和人は考えていた。そういえば手術中も倉橋先生は木綿季の上着は脱がさず、腕を捲って骨髄液を注入していた。もしかしたら倉橋先生なら何か知ってるんじゃないか…?

 

 

「…そうだな…、もしそうだとしても…俺たちが勝手に詮索していいことじゃないと思う…」

 

『…うん…そうだよ…ね…。こればかりは…木綿季本人の問題のような…気がするし…』

 

「だな…、明日奈…話はそれだけか?」

 

『あ…うん…それだけだよ、ごめんね…急に変なこと言って』

 

「いや…木綿季のこと気にかけてくれて嬉しいよ、サンキューな…明日奈」

 

『ううん、平気だよ! 私にとってはキリト君も木綿季も大切な親友だから!』

 

 

 親友か…、そうだな…俺たちが恋人同士だったのは…もう過去の話だ。今の俺には…木綿季が…大切な人がいる。掛け替えのない…大切な人が…。

 

 

「わざわざごめんな、今度何かご馳走させてくれ」

 

『え…いいの? それじゃあ…私のお気に入りのお店でお願いしちゃおうかな~?』

 

「おいおい…あまり高いところは勘弁してくれよ?」

 

『冗談だよ! それじゃあまたね! キリト君!』

 

「ああ…またな、明日奈」

 

 

 通話を終えた和人は通話終了のアイコンをタップして、明日奈との通話を終えた。スマホをポケットに仕舞い、自宅に向かって歩きながら、木綿季のことについて考えていた。詮索してはいけないことぐらい和人は分かっている。しかし…一回耳にしてしまうと気になってしょうがなかった。別に木綿季の秘密を無理やりにでも暴こうというつもりはないが…それでも気になるものは気になるのだった。

 

 

「…まあ…これに関しては…木綿季が自分から口を開いてくれるのを待つしかない…か」

 

 

 うだうだ考えててもしょうがないので、和人はやや重たい足取りで自宅へと向かっていた。多分、木綿季と顔を合わせたら何かあったの?と聞かれるに違いない。木綿季には嘘がつけない、察しが良すぎるのだ。何か誤魔化す方法を考えなくては…。

 

 

「ただいま~」

 

「お兄ちゃんおかえり~、もうすぐご飯出来るからね~」

 

「あいよー」

 

 

 靴を脱いで家に上がった和人は妹に返事を返しながら二階にある自室へと向かっていた。木綿季への言い訳を考えながら階段を登っていた。

 

 

「…まあいっか…適当に嘘をつこう…、バレるかもしれないが…」

 

 

 そう言いながら和人は自室のドアノブを捻り、ドアを開けた。開いたドアの先には、部屋の入口に背中を向け、下着だけ身に着けた木綿季の、今まさに着替えている最中の現場に出くわしてしまった。ラッキースケベである。

 

 

「なっ…木綿季…!?」

 

「へっ!? か…かずと!?」

 

 

 和人は顔を真っ赤にして焦っていた。何で木綿季がここに? 風呂入ってたんじゃなかったのか?いやそれにしてもこの状況はいろいろとマズい、周りの人間に誤解も生む。

噂はたちまち広まってALOでもどんなあることないことが言いふらされるか分からない。即刻誤魔化してこの場を立ち去らなければ。

 

 

「違う! これは違うんだ木綿季!」

 

「み…見ないでっ!!」

 

「ご…ごめん木綿季! 今すぐでてい…く…から…?」

 

 

 和人の表情が変わった。和人の視線は木綿季の背中に刻まれたとある"模様"に向けられていた。タトゥーや入れ墨などではない、赤黒く、生々しく木綿季の背中に張り巡らされた細長い模様、それは…。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

「木綿季…その背中の…なんだ…?」

 

 

「い…いや…見ないで…かずと…」

 

 

 和人は木綿季の言うことに耳を貸さず、早足で木綿季に近付き、その模様の正体を確かめた。

 

 

「これ…木綿季…ひょっとして…痣…か?」

 

「…………」

 

 

 木綿季は声を殺して泣いていた。その様子を見て和人は先ほどの明日奈の言ったことを思い出していた。決して他人に着替えを手伝ってもらわず、知り合いではなく看護師に身体を拭かせていたことを。木綿季はこの背中に出来ている痣を見られたくなかったのだ。恐らく…木綿季の過去の闇と深く関わっているであろうこの生々しい痣を…。

 

 

「木綿季…この痣…どうしたんだ…。昨日今日でついた痣じゃないだろう…」

 

「………」

 

 

 木綿季の体は震えていた。見られてしまった、しかもよりによって一番見られたくない和人に見られてしまった。これを見られてしまったからにはもう…どんな言い訳を並べても誤魔化しきれないということも悟っていた。

 

 

「……俺は…木綿季の過去のことを詮索するつもりはない…、でも…これを見てしまったからには…もう…聞いておかずにはいられない…」

 

「………」

 

「頼む木綿季…話してくれ…、この痣と…お前の…過去のことを…」

 

「かず…と…」

 

 

 木綿季が細く千切れそうな声で和人の名前を呼んだ。和人に見られてしまってどうしようという気持ちと、和人に助けてもらいたいという二つの気持ちを胸に抱きながら。

 

 

「…誰にも言わない…、だから…話してくれないか…?」

 

「………うん……わかった…」

 

 

 木綿季は流れ落ちる涙を拭うと、震える声で自分の過去を…忌々しい過去を話し始めた…。

 

 

「和人…ボクが小学校の頃…HIVが原因でいじめられてたって話…知ってるよね…?」

 

「…ああ…そんな簡単に感染するもんじゃないのに、一方的な偏見だけで…虐げられてたって聞いてる…」

 

「…この背中の痣はね…その時に…ついた…、いや…つけられたものなんだ…」

 

「なっ…」

 

 

 和人の表情が強張った、この細長い痣。余程の強い衝撃でなければつかない。それも素手ではつかない形をしている。ましてや小学生の腕力は元より大人でもつかないと確信していた。それじゃあなんだ? 木綿季の体に一生消えない傷を負わせたものの正体は…?腕力だけじゃ生まれないとすると…腕じゃないもので…殴られたのか…?

 

 

「ボクね…"バイ菌"って呼ばれて毎日…いじめられてた。殴られたり…蹴られたり…。最初は小突かれる程度のものだったんだけど…、日に日にそのいじめはエスカレートしていったの…」

 

「………」

 

「でね…ボクが…ボクの家族が引っ越す一週間前…だったかな…。ある事件が起きたの…」

 

「事件…」

 

「ボクへのいじめはね…主犯の子が一人いたの。その子が先頭になっていじめてて、その周りの子は取り巻きというか…便乗していじめてるって感じだったの」

 

「………」

 

「それでね…その事件のあった日ね…、ボク…一度死にかけたんだ…」

 

「なっ…」

 

 

 和人が息をのんだ。木綿季の命を脅かしていたのはHIVだけではないと聞かされて、全身に戦慄が走った。

 

 

「ボクへの暴力は…その主犯の…神田君って子が…ほとんどだったの。お腹にめり込むぐらい殴られたこともあったし…顔を殴られて血が出たこともあった」

 

 

 和人の表情が穏やかではなくなっていた。拳を震わせ、木綿季をいじめていたというその神田というやつに対して怒りの炎を燃やしていた。

 

 

「でも…それですら生ぬるいって感じたのか…ある日ね…、神田君は…野球のバットを持ち出してきたの」

 

「な…バットだと…?」

 

 

 和人の予想が的中した。木綿季の背中の痣はバットで殴られたものであると。痣の出来ている場所から背骨は外しているように見えるが、一歩間違えれば背骨が折れていたかもしれない。そう考えてしまった和人はますます神田という男に対して怒りを燃やしていた。

 

 

「うん…今までだまって暴力に耐えてたボクだったんだけど…そのバットが構えられたときは…やめてって言ったの。そんなもので叩かれたら…死んじゃうよって…」

 

 

 木綿季は涙を流していた。自分の過去を和人に晒しながら涙を流していた。一生涯思い返したくなかった過去を話しながら…。

 

 

「でも…神田君はボクの言うことを聞かず殴りかかってきた。周りの子たちもその時は神田君のことを止めたんだけど…神田君は構わずボクに襲い掛かってきた」

 

「…神田…」

 

「神田君は…"お前なんか死んだ方が世の中のためなんだよ、むしろ殺してくれる俺に感謝しろ"って言って…ボクを…ボクの背中を…殴ったの…」

 

 

 和人は聞いてていたたまれなくなり、木綿季を抱き締めた。どうして俺はもっと前から木綿季の傍にいてやれなかったんだ。もっと早く出会っていれば、木綿季をつらい目に遭わせずに済んだかもしれない。もっと早く守ってあげられたかもしれない…とそう思っていた。

 

 

「そこからは意識がぼやけてたんだけど…、一発背中を殴られたボクは…呼吸困難になって…体を痙攣させてたらしいの…。そしたら担任の先生が駆け付けて、神田君を止めてくれたの」

 

「…その先生は…木綿季の味方じゃなかったんだろ? それでもその神田ってやつを止めたってことは…」

 

「うん…多分ボクを助けようとしたんじゃなくて、問題を起こされたくなかったから止めたんだと思う。先生も内心じゃボクにいなくなってほしいって思ってたはずだから」

 

「………ッ」

 

「あの後…神田君はボクの頭を狙おうとしてたらしいんだ…。だから…あの時先生が止めてなかったら…」

 

「…………」

 

 

 和人は再び木綿季を力強く抱き締めた。己の無力さを痛感していた。決して和人が悪いわけではない、悪いのは木綿季をいじめていた連中だ。神田という男だ。にも関わらず和人は自分を責めていた。

 

 

「ごめん…ごめん木綿季…」

 

「どうして…和人が謝るの…?」

 

「俺が…俺がもっと…もっと早く…木綿季と出会ってれば…、木綿季のことを守ってあげられたかもしれない…それなのに…!」

 

「そんな…和人の所為じゃ…ないよ…」

 

「ごめん…ごめんな…ごめんな木綿季…」

 

「か…ず…と…」

 

 

 和人も涙を流していた、木綿季の壮絶な過去の闇の悲しさ。それから木綿季を守ることが出来なかった自分の無力さに対して悔しさの涙を流していた。

 

 

「木綿季…俺は…どんなことがあっても…お前を守る…。仮想世界だけじゃない…。この現実世界でも…絶対にお前を守り切って見せる…」

 

「う…ん…、ありがと…かずと…」

 

 

 和人と木綿季は、お互いを力いっぱい抱きしめた。木綿季は決して表に出したくない過去を和人に話してしまった。話すことで和人からどう思われるか分からない、もしかしたら今まで通り接してくれなくなるかもしれない。そう思っていた。

 

 しかし、それどころか和人は自分のことを一生守ってくれるという。嬉しい涙もあったが、それ以上にもっと和人のことを信用していればよかったと、後悔の涙も少しばかり混じっていた。

 

 二人はしばらく抱擁した後、体を離した。木綿季は自分が下着姿だということを忘れて、自分の状態に気付くと慌てて体を隠して和人に「出てって!」と言い放ち、和人を追い出した。和人は若干の理不尽さを感じつつもまあ致し方ないかといった感じで部屋のドアの前で頭をポリポリかいていた。程なくして寝巻に着替えた木綿季が「入っていいよ」とドア越しに声を掛けた。

 

 

「…入るぞ」

 

 

 和人がドアを開けて中に入ると、木綿季はベッドに腰かけていた。いつものヘアバンドは外していて、パジャマ姿で和人を出迎えた。

 

 

「可愛いパジャマだな…明日奈の選んだやつか?」

 

「う…うん…ちょっと派手すぎるけど…」

 

 

 木綿季の着ているパジャマは白地にピンクのチェック柄にデフォルメされた動物のイラストがあちらこちらにプリントされている可愛らしいパジャマだった。実に女の子らしい外見だ。

 

 

「いいじゃないか、可愛いぞ?」

 

「あ…うん…ありがと…」

 

 

 木綿季は照れくさかったが、褒められて悪い気はしなかった。満更でもないような顔をしていた。

 

 

「さてと…んじゃあ俺も風呂入ってくるぞ」

 

「あ…うん、いってらっしゃい」

 

「退屈だったら棚に入ってるマンガとか読んでくれて構わないからな? パソコンもロックかけてないから自由に使ってくれ。なんならアミュスフィアを使ってくれても構わない」

 

「うん! ありがと!」

 

「ああでも…押入れのナーヴギアだけは…やめておいてくれ」

 

「え…あ…うん。わかった」

 

「別にSAOだけがおかしかったわけだから…ナーヴギアが悪いわけじゃない。悪いわけじゃないんだが…あまり良くない思い出もあるから…封印してるんだ」

 

「…そっか」

 

「アミュスフィア…もう一台買ってこないとな、今月分の予算……オーバーしちまうか……」

 

「和人、お風呂!」

 

「あ……ああ、行ってくるよ」

 

 

 和人はぶつぶつ独り言を言いながらバスルームへと向かった。木綿季は和人が完全に行ったのを確認すると、部屋にある押入れをガサ入れし始めた。

 

 

「……ん…これかな…」

 

 

 木綿季が押入れから探し出したのは…過去に和人が使っていたナーヴギアだった。塗装はあちらこちら剥げておりひびが入っている箇所もある。ケーブル類も劣化している。とても今も動くとは思えない。

 

 

「これを使って…和人はSAOを生き延びてきたんだ…」

 

 

 木綿季はSAOの世界でも和人と冒険してみたかったなという思いを胸に、再びナーヴギアを押入れに戻した。

 

 

――――――

 

 

 程なくして15分ほど経過し、和人が風呂から上がってきた。和人は先ほどの二の舞を演じないように自室であるにもかかわらずドアをコンッコンッとノックした。

 

 

「はぁーい! どうぞー!」

 

 

 木綿季の元気な声が返ってくる。病室でのやり取りと似た光景だった。

 

 

「ふう…さっぱりした」

 

「和人…髪の毛まだ濡れてるよ? ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうよ?」

 

「あ…ああ…これから拭くんだよ」

 

「あ、じゃあボクが拭いてあげる! バスタオル借りるね!」

 

「あ……、まあ…いっか。頼んだ」

 

 

 木綿季は和人から半ば強引にバスタオルを奪い取ると、和人の頭を楽しそうに拭った。

 

 

「ふんふんふーん♪」

 

「木綿季…頭がごわんごわんするんだが…」

 

「あ…ごめん…、楽しくてつい…」

 

「まあでもすっきりしたよ、サンキュな」

 

 

 和人は木綿季からバスタオルを返してもらうとそれを首にかけて、木綿季に向かって笑顔を見せた。

 

 

「ん…どういたしまして♪」

 

 

 そういうと木綿季はベッドに腰かけている和人目掛けてダイブした。

 

 

「んほっ」

 

「てぇーい!」

 

「いつも急だな…、まあもう慣れたけど…」

 

「えへへー♪ 和人の体…石鹸の匂いがする」

 

「お前の髪の毛もシャンプーのいい匂いがするぞ?」

 

「…和人、女の子の匂いのこというのはマナー違反だよ?」

 

「あ…そうなのか…すまん」

 

「まあ…ボクは気にしないけどね♪」

 

「なんじゃそりゃ…」

 

 

 二人が仲睦まじくしていると、一階から直葉の呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 

『おにいちゃーん! ゆうきー! ご飯出来たよー! 早く食べよー!』

 

「…だってさ、いくか」

 

「うん!」

 

 

 

 二人は仲良く部屋を出ると、足並みをそろえてリビングへと向かっていった。和人の着ている寝巻はぱっと見真っ黒なので寝巻なのか私服なのか分からない見た目であった。

 

 

「あ、きた」

 

「おう、おまたせ。…今日は鍋か」

 

「ええ、最近寒くなってきたし、木綿季がうちに来た記念の意味も込めて…豪華にすき焼きにしちゃった!」

 

 

 翠は楽しそうに色とりどりの野菜やお肉をテーブルに並べていった。赤色に染まった生の牛肉がキラキラ輝きを放っている。野菜も新鮮そうでどれも美味しそうだ。

 

 

「母さん…ちょっと奮発してこれ買っちゃったの」

 

 

 翠は鍋の具にしたであろう牛肉のパックを取り出して和人に見せた。

 

 

「えっと……はっ!? これ…最高級松坂牛じゃないか!? これをすき焼きにしたのか母さん!?」

 

「すき焼きにしたのかって…そもそもすき焼き用の松坂牛よ?」

 

「あ…いやそういうことじゃなくてだな…、…100グラムいくらするんだこれ…」

 

「えっと…確か2000円だったかしら…」

 

 

 和人と木綿季は開いた口がふさがらなかった。本当にボクらがこれを食べてもいいんだろうか…そんなことを頭の中を巡っていた。

 

 

「あたしも最初こんな高いのをこんなに買っちゃうの?って思ったんだけど…木綿季のこと考えたら納得だなーって思ったんだよね」

 

 

 直葉が若干の苦笑いを浮かべながらコメントを残した。流石に少しだけ気が引けてるようだ。

 

 

「まあでも遠慮することないからね、むしろ食べてくれないと困るわ」

 

 

 そういって翠は野菜と松坂牛をどんどん鍋に入れ始めた。

 

 

「木綿季…覚悟を決めよう、潔く…お上がりよ!!」

 

「あ…う…うん! ボク、頑張る!」

 

 

 何を頑張るんだという野暮なツッコミはさておき、木綿季は初めての松坂牛に目を輝かせていた。

 

 

「すごい…これが…まつざかぎゅう…」

 

「俺も食べたことあるけど…ホントにうまいぞ…これ」

 

 

 木綿季は唾を飲み込んだ。紺野家にいたときもフグなどの高級食材を食べてないわけではなかったが、松坂牛は食したことがなかった。若干緊張にも似た感覚に見舞われていたが、段々と火が通り色が変わっていく松坂牛を見ていくうちに食欲の方が増していった。

 

 

「はい木綿季、このお肉もう食べられるわよ?」

 

 

 翠は火が通った松坂牛と白菜、白滝、豆腐を取り皿に入れて木綿季に差し出した。

 

 

「あ…ありがとう…お母さん」

 

 

 木綿季は両手で取り皿を受け取り、自分の前に置くと箸を取り出しお行儀よく手を合わせた。

 

 

「…いただきます」

 

「はい…召し上がれ」

 

 

 木綿季は取り皿からいきなり本命の松坂牛を箸でつまんだ。松坂牛からは程よい湯気が立ち上り、肉汁と一緒にすき焼きのたれが滴り降りて、何とも言えない食欲をそそる香りを放っていた。

 

 木綿季はゆっくりと、最高級の松坂牛を口に運んだ。若干熱かったようだが口をほこほことさせながら熱さに耐え、じっくりじっくりと肉を噛み続けた。噛むごとにタレのコクと松坂牛の肉汁が口の中に広がっていった。チェーン店で食べるような牛丼の肉とは…一味も…ふた味も…違っていた。

 

 

「は…ほ…」

 

 

 松坂牛を飲み込んだ木綿季は、放心状態となっていた。

こんな美味しいものがこの世の中にあるのか…そんな感覚になっていた。

 

 

「どうだ…? 木綿季」

 

 

 和人が感想を訪ねると、木綿季の目から涙が流れ出ていた。その様子に三人は驚きの表情を浮かべていた。

 

 

「ゆ…木綿季? 大丈夫か?」

 

「あ…あれ…ボク…何で泣いてるんだろう…」

 

 

 木綿季は自分が何で泣いてるか分からなかった。あまりにも松坂牛のおいしさに感動したのだろうか?…いや違う…これは…素材のおいしさとかじゃない。

 

 家族の…温かさだ…。今日、木綿季が口にした夕食は…およそ数年ぶりに味わう、家族で食卓を囲んで味わう夕食の味だった。松坂牛に感動したのもそうであったが…家族で食べるこの味が、何よりも嬉しかった。

 

 

「おい…しい…、ボク…こんな美味しいの…食べたこと…ない…」

 

 

 木綿季は涙が止まらなかった、折角の美味しい夕食なのに…頑張ろうと思っても涙が止まらなかった。

 

 

「…俺のお粥と…どっちが美味い?」

 

「その質問は…ずるいよ…和人…」

 

「あはは…そうだな…」

 

 

 笑顔で泣き続ける木綿季の涙の理由を悟った三人に、思わず笑顔が零れていた。

 

 

「ほら…他の肉が固くなっちまうぞ…野菜も煮えすぎたらとろとろに溶けちまう。早く食べようぜ」

 

「うん…うん…」

 

 

 木綿季は途中まで泣き続けながら、家族での夕食を楽しんでいた。心から温かくて、嬉しくて、楽しくて、安心出来て…。程なくして涙が引っ込んだ木綿季は、他愛のない談笑を楽しみながらテーブルの上のお鍋に箸を進めていた。そして気が付くと、肉も野菜も食べつくしていて皿も鍋も空っぽになっていた。

 

 

「ご馳走…様…」

 

「お粗末様」

 

 

 木綿季はお腹を押さえていた。本当に心から満足のいく夕食だった。これから毎日こんな夕食を楽しめるんだとしたら…ボクは感動しすぎてどうにかなってしまうんじゃないか? そう考えていた。

 

 

「でも本当に美味しかったねー! たまにはこういうのも…いいかもね!」

 

「たまには?よ…直葉。毎回こんな高いの買ってたら家計が火の車だわ。今日は特別なんですから」

 

「分かってるよー!」

 

 

 翠が買い込んだ松坂牛は100g 2000円の肉を1kg。この日の夕食だけで20000円を軽く超える出費となっていた。しかし、買い物をしているときの翠は躊躇なく松坂牛を手に取っていた。それだけ…木綿季を桐ヶ谷家に迎えるということを特別だと思っていたからだろう。

 

 

「木綿季、今日から…よろしくね」

 

「あ…はい!…じゃない、うん…よろしくお願いします! お母さん!」

 

 

 翠からは以前から家族となるからには他人行儀な話し方はやめて気さくに話しかけてねと言われていたのだ。しかしそう簡単に慣れるはずがない。つい半年前ほど前までは恋人のお母さんでしかなかったからだ。

 

 でもいずれ…木綿季は完全に桐ヶ谷家の一員になるだろう。今は少し難しいかもしれないが、時間はたっぷりある。少しずつでいいのだ、少しずつ…この日常に馴染んでいけば…いいのだ…。

 

 

――――――――

 

 

 木綿季と和人は食事の食器を流しに片付けて、洗い物を済まして部屋へと戻っていた。両親共働きの桐ヶ谷家は仕事の都合もあって夜になっても家に帰らないことが少なくない。なので家事に関しては子供たちでやらないといけない場面もあるのだ。木綿季もこの日、洗い物を進んで手伝っていた。

 

 

「ぷはー!」

 

 

 木綿季は部屋に戻るなり、一直線に和人のベッドにダイビングしていた。心地よい弾力のあるベッドは木綿季を少しだけ上にはね上げた。その状況を木綿季は楽しんでいた。

 

 

「こらっ、埃が舞うだろ!」

 

「えへへ、ごめんなさーい♪」

 

 

 木綿季はすっかり上機嫌だ。自分の居場所がここにあること、温かい家族がいてくれること。それを肌で感じ取り、嬉しくてたまらなくなっていた。

 

 

「なあ木綿季、明日…暇か?」

 

「え…うん…暇っていうか…多分勉強するとき以外は…時間あると思うけど」

 

「そうか、ならちょっと生活必需品を買いにいかないか?」

 

「あ…そうか…ボク着替え以外何も持ってないんだった…」

 

「ああ、財布に雑貨に…買い込むものは色々あるだろ。ケータイも持たせてやりたいが…これは母さんか一緒じゃないと難しいから来週末になるけど…」

 

「けーたい…すまーとほん…だっけ。ボク…使い方さっぱりだよ…」

 

「安心しろ。仮想世界で触ってたタブレットみたいなもんだ、俺が教えてやる」

 

「わーい! やたっ♪」

 

「んじゃあそうと決まれば…今日はもう寝ちまうか、明日多分大荷物になるぞ。多分俺のバイクじゃ運べないから徒歩で行くことになる」

 

「場所近いの?」

 

「ここから1kmほど離れたところに朝早くから営業してるでっかいホームセンターがある。そこで多分全部そろえられるはずだ。混むと面倒だからオープン時間に間に合うように出るぞ」

 

「はぁーい!」

 

 

 木綿季は元気よく返事を返す。やはりこういう何気ない日常の出来事一つ一つが楽しくてしょうがない。明日は買い出しだが和人と一緒に出掛けられる。デートとは呼べないかもしれないが楽しいに違いない。そう考えていた。

 

 

「んじゃもう…電気消すぞ?」

 

「あ…うん」

 

 

 和人はそう言うと、部屋の灯りのスイッチを切った。

真っ暗になった部屋を外から差し込む街灯の光だけが照らしていた。和人は木綿季が横たわっている自分のベッドに身体を潜り込ませた。広くも狭くもないベッドに、二人が体を揃えて寝ている状態になった。

 

 

「えへへ…なんか…ドキドキしちゃう…」

 

「俺もちょっと…、仮想世界では…何回も寝てたのにな…」

 

「やっぱり現実は…違うや。何もかもが…」

 

「…いつか仮想世界もそう変わらなく感じる時代が来るさ」

 

「そう…なのかな」

 

「ああ…時代はどんどん進んでるからな…」

 

「…そっか」

 

 暗い部屋に男女が二人きり、お互い意識しないはずがなかった。和人は木綿季の手をぎゅっと握った、握られたことに気付いた木綿季もぎゅっと和人の手を握り返した。お互いに手のぬくもりを感じると顔を合わせて笑顔をこぼした。

 

 

「おやすみ和人…大好き」

 

「おやすみ木綿季…俺も大好きだ」

 

 

 この日、二人は身を寄り添わせて夢の世界へ旅立っていった。木綿季は仮想世界にいたときよりも、病院の部屋で寝ていた時よりも、心から安心して眠りに入れていた。

 

 

――――――――

 

 

 翌朝、西暦2026年10月26日月曜日午前6:05

 

 

「和人っ! 朝だよ!」

 

「ん…あと…1時間…」

 

「だめ! 起きてー! 今日一緒にお買い物に行くんでしょ!」

 

「んあ…そう…だったな…うう…」

 

 

 和人は眠気に襲われながらも必死に体を起こした。上半身は起きたがまだ頭がぼーっとしていた。

 

 

「かずとっおはよっ!」

 

「ああ…おはよう…ゆうき…」

 

「お母さんが朝ごはんもう出来てるって言ってたよ? 早く顔洗って歯磨いて食べちゃおうよ!」

 

「ああ…うん…そう…だな…」

 

 

 和人は半分寝ている状態でベッドから立ち上がり、木綿季に背中を押される状態で歩き出していた。木綿季が「ほらほら早く!」と言いながら和人を導いていた。病院でリハビリをしていた光景と真逆の立場になっていた。

 

 和人と木綿季は洗面場で洗顔、歯磨きを済ませると寝巻から私服に着替え、朝食を済ませた。朝食はトーストだった。付け合わせにバターやソーセージ、ベーコン、スクランブルエッグ、目玉焼き、レタス、トマトなど朝から豪華なラインナップだった。

 

 目をキラキラさせた木綿季は全ての付け合わせを試し、朝からトーストを3枚も食べてしまった。胃がいっぱいになると「おなか一杯…」とご満悦な表情を浮かべていた。病気が治り、退院してからの木綿季は大変に食欲旺盛であった。非常に喜ばしいことである。

 

 そして二人は食器を片付け洗い物を済ませると、生活に必要なものを買い揃えるためにホームセンターへと足を運んでいた。時刻は午前6:55。早朝ともあって出勤するサラリーマンや、遠くの学校に登校する学生や朝練に向かう運動部員の姿がちらほら見えていた。

 

 

「そういえば和人…お金は大丈夫なの? なんか…昨日はアミュスフィアがどうとか…」

 

「ん…それに関しては大丈夫だ。一応無駄遣いはしてないし使うと決めた所でしか使ってないからな。それに今回は母さんから軍資金も貰っている」

 

 

 和人はそう言うと財布から福沢諭吉が描かれたお札を2枚ほど出した。はたから見ると成金の息子みたいでいやな光景であった。

 

 

「んじゃあ…大丈夫そう? だね! ボク…こんなまとまった買い物したことないから…和人に任せるよ!

 

「でも今回の買う物に関しては領収書ちゃんと切らないといけないからな? 無駄な買い物は出来ないぞ?」

 

「そこらへんは…和人の財布から…ね?」

 

「う…あまり高いものはダメだからな…?」

 

「わーい! やったー!」

 

 

――――――――

 

 

 和人と木綿季はその日、朝6:30からオープンしている地元のホームセンター「ロワイヤル・プロ川越店」にて生活に必要な雑貨などを買い込んでいた。

 

 

「歯ブラシ…、財布…、筆記用具…、メモ帳…、まだ何か買い忘れてるものあるか?」

 

「ん…多分大丈夫だと思う。まあ買い忘れてたらまた来ればいいよ、近いんだし!」

 

「まあ…そうなんだけどな、出戻るのはちょっと面倒くさいぞ」

 

「まあまあ! とりあえずこれでなんとかなるよ! ありがとね! 和人!」

 

「ああ…気にするな。重たいものやでっかいものはあとで宅配で届けてくれるみたいだからな。ひとまずこんなもんか」

 

「んじゃあ…帰りはちょっとゆっくり帰ろうよ!」

 

「そうだな…そこそこ広い公園があるから…そこに寄ってくか?」

 

「うん!」

 

 

 木綿季は楽しそうにしていた。暗い過去の闇を背負ってるとは思わせない明るさを振舞っていた。それが心から楽しそうにしているのか、無理をして明るくしているのかは…和人にはわからなかった。

 

 でも…俺はこの笑顔を守る、守り続ける。和人は心にそう誓っていた。後遺症が残るかもしれないと言われた時から決心していたことだった。何があっても木綿季を一生傍で支え続ける。そう決めていた。

 

 そんなことを考えてるうちに、二人は先ほど言っていた公園についていた。この公園は2つのスペースに分かれており運動スペースと遊具スペースがある大変に広い公園だった。運動スペースは団体も使用することが出来、社会人のスポーツチームや学生の部活動の練習にも使われる地元では大変に人気と需要のある公園だった。この日も朝練を終えた地元の野球部員が2、3人帰る様子が見えた。

 

 

「広いねー! ボクこんな広い公園見たことないよ!」

 

「そうだな…東京とか横浜と比べるとこっちは土地は広い方だからな。こういう公園は珍しくないぞ」

 

「へぇー! そうなんだ! ちょっと走ってきていいかな?」

 

 

 木綿季は嬉しそうに目を輝かせながら和人に許可を求めてきた。この顔に勝てるはずもなく、和人はあっさりと承諾した。

 

 

「はしゃぎすぎて転ぶなよ?」

 

「分かってるよー!」

 

 

 木綿季はそう言うと両手を左右に目いっぱい広げて飛行機の真似をするかのように元気に走り回っていた。本当に来年度から高校生になるとは思えない無邪気さだ。

 

 

「木綿季ー! 自販機で飲み物買うけど何がいいーー?」

 

「えっとねー! ボク! ココアが飲みたーい!」

 

 

 和人は「了解!」とだけ言うと入口の近くにある自販機まで足を運んでいた。木綿季は引き続き楽しそうに広い公園を走り回っていた。AIDSを発症してから、外の世界をこんな風に走れるとは思ってなかっただけに、この広くて自由な世界を楽しんでいた。その無邪気で元気で楽しそうに走る木綿季は自然とその場にいる人間の視線を集めていた。そこに、木綿季に歩み寄る一人の男の姿があった。

 

 

「おい、バイ菌」

 

 

 声を掛けられた木綿季はピタッと足を止め、声のした方を恐る恐る振り返った。振り返った先にいたその男の顔を…木綿季は知っていた。身長が伸びて大きく成長しているが…この男は…。

 

 

「もしかして…かんだ…くん…?」

 

「…お前…やっぱり紺野木綿季か…」

 

 

 男の正体は、かつて小学生時代に木綿季をいじめていた主犯格の男、神田であった。神田は地元の中学を出た後、スポーツ推薦でこの川越の高校へと進学してきていたのだ。よりにもよって和人の地元のこの川越市にである。

 

 

 木綿季は固まってしまっていた。何でここに神田君がいるの…。ボク…またいじめられるの…? いやだ、やだ…逃げないと…。かずと…かずと…。

 

 

「自分のことを"ボク"なんて言うやつおめー以外にいるかよ。ていうか何で生きてんだよ、おめーAIDSだっただろうが」

 

 

 木綿季は体を震わせながら細い声で言葉を発した。

 

 

「ボクのAIDSは…HIVは…治ったんだよ…神田君…」

 

「は?」

 

 

 HIVが治ったと聞かされた神田の顔には驚きの表情が浮かんでいた。しかし神田はすぐその表情を変えた。

 

 

「嘘つくんじゃねーよ、HIVが治るわけねーだろうが! おめーまたそうやって人をだまして病原菌をまき散らしてるのかよ!」

 

「ち…ちがう…ボクの…病気は…本当に…治ったんだもん…」

 

 

 木綿季の頭に、過去の光景がフラッシュバックしていた。殴られて、蹴られて、しまいにはバットでもって殺されかけた。この男に関してはいい思い出など何もない、むしろ…消し去りたい最悪の過去だった。

 

 

「うるせーよバイ菌、近づくんじゃねーよ。また殴られてーのか?」

 

 

 そう言うと神田はスポーツバッグから自分の愛用してる金属バットを取り出した。

 

 

「あ…ああ…」

 

 

 木綿季は恐怖で怯え、そこから足を動かすことも出来なかった。頭では逃げなきゃと思っていても、怖くて足がすくんでしまっていた。

 

 

「やだ…やめて…やめてよ…そんなので殴られたら…」

 

「死んじゃうってか?気にすんなよ、おめーなんか死んでた方が世のためだからよ?」

 

「いや…やだやだ…たすけて…かずと…かずと…」

 

「でも病原菌をまき散らされたらかなわねーし…俺も退学になりたくないから、記憶が飛ぶ程度にしてやるよッ!!」

 

 

 神田は右手でバットを上に振りかざし、足がすくんで動けない木綿季に向かって金属バットを振り下ろした。

 

 

(いやだ…助けて…かずと…ッ!!)

 

 

 

 

 

 

 

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(か…ず…と…)

 

「な…何だよてめえ!!」

 

 

 和人は間一髪、殴られる寸前の木綿季を身を挺して守った。かつてSAOでクラディールからアスナを守ったときのように、自分の左手で最愛の人を守った。

 

 和人は神田を睨みつけていた。木綿季に襲い掛かる男、バットを持っている、そしてこの木綿季の怯えよう…。すぐに和人は悟った。こいつが木綿季の言っていた"神田"だ…。

 

 

「お前…神田だな…?」

 

「だったら何だってんだよ…おめえは誰なんだよ!!」

 

「俺か…? 俺は…木綿季の…恋人だッ!!」

 

 

 和人はそう名乗ると、バットを右手で掴み、(かいな)を返して神田の手首をひねった。ひねった痛みで思わず神田はバットから手を放し、後ずさりをしながら痛みの走った手を押さえていた。

 

 

「木綿季…こいつが…昨日言ってた…神田…なんだな?」

 

 

 木綿季は腰が抜けたまま茫然としていたが、和人が声を掛けてくれたことによって、正気に戻ることが出来た。

 

 

「あ…う…うん…この子が…いや、こいつが…ボクを…いじめてた神田だよ…!」

 

 

 その返事を聞いた和人は表情を強張らせた。その表情は…、SAOで二刀流を使う時の…キリトと全く同じ顔をしていた。

 

 

「そうか…わかった」

 

 

 和人はその言葉だけ聞くと、ゆっくりと神田の方へ歩み寄っていった。過去にない殺気めいた表情をしながら、じりじりと歩を進めていた。

 

 

「お前みたいなやつが…お前らみたいなクズがいるから…木綿季は安心して…暮らせないんだ!!」

 

「し…知るかコラァ!! てめぇ……ぶっ殺してやる!!」

 

 

 神田は和人に襲い掛かった、しかし和人は剣道経験者だ。直接剣道では使われることはないが、祖父から武器をもっていなくとも、武器を奪われたときの対処法などを教わっていた。逆に相手の武器を奪う方法、素手での攻撃のいなし方等、様々な護身術も学んでいたのだ。

 

 そんな武道経験者の和人を、力しか能がない野球部員の神田が勝てるはずもなかった。闇雲に和人に襲い掛かる神田であったが、和人の右手が伸びてきて神田の喉を掴む形で迎撃されていた。相撲などでもよく見る、"喉輪"である。

 

 和人は神田の手が自分に届かないよう腕を伸ばして喉輪をかけていた。次第に呼吸が出来なくなり苦しくなった神田は、たまらず力が抜けてしまい膝をついてしまった。

 

 

「苦しいか…? 痛いか?」

 

 

 和人はわずかながら呼吸が出来る程度の力加減で神田に喉輪を決めていた。その顔からは怒り、恨み、殺意などなど様々な感情がこみ上げていた。神田は息を荒げて和人の手を振りほどこうとしていたが、和人の握力と腕力は凄まじく、いくら暴れても振りほどけなかった。

 

 

「お前が木綿季に与えた苦しみや痛みは…こんなもんじゃないだろうがッ!!」

 

 

 右手をぱっと離した和人は神田の顔に膝蹴りを入れていた。鼻の頭からまともに和人の膝をもらった神田は、1メートルほど吹き飛び、鼻から血を吹き出していた。仰向けに吹っ飛ばされた神田は和人にはかなわないと悟ったのかうつ伏せになり、その場で和人に土下座をした。

 

 

「お…俺が悪かった! 昔のことも謝る! あんたらにも近付かない! 高校も転校する! だから…許してくれ!!」

 

「…………」

 

 

 和人は神田のとったその行動を、過去のクラディールに重ねてみていた。クラディールがアスナたちに命乞いをしたとき、クラディールは卑怯にも隙をついてアスナを殺そうとしたのだ。和人はその光景を思い出していた。

 

 

「た…頼むよ!! ゆるしてくれぇ…!!」

 

 

 和人の足元には金属バットが転がっていた。かつて木綿季を殴ったのもこのバットなのだろうか?と考えを巡らせていた。しかし、今の和人にとってはそんなことはどうでもよかった。

 

 

「なあお前…野球部員なんだよな?」

 

「え…あ…はい…そうです…」

 

「んじゃあ…その右手を自分でぶち折ったら許してやる」

 

 

 その返答を聞いた瞬間、神田は顔面蒼白となった。

 

 

「え…な…そんな…そ…それだけは…!!」

 

 

 神田が返事を返したその瞬間、和人はもう一度膝を顔に入れていた。

 

 

「何がそれだけは…だ?骨折したってせいぜい3ヶ月も入院すれば済む話だろうが。それに比べたら…木綿季は16年だ…。16年も…病気で苦しんできたんだ…」

 

 

 和人はそう言いながら、足元に転がっているバットを手に取った。

 

 

「その16年に比べたら…安いもんだろうがッ!!」

 

 

 和人はバットを握りしめ、神田の右腕目掛けて骨ごと、神経ごと破壊するつもりで振りかぶった。

 

 

「和人!! もうやめて!!」

 

 

 木綿季が大声を上げて、和人を制止した。その声が聞こえた和人の右腕はピタッと動きを止めた。木綿季は涙目になりながら和人に近付き、後ろから抱き着いた。

 

 

「もういい…もういいよ…和人…」

 

「木綿季…」

 

「これ以上やったら…和人も同じになっちゃうよ…、今日の和人…なんか怖いよ…。いつもの優しい和人に戻ってよ…」

 

「あ…あ、お…俺…」

 

 

 木綿季の泣き顔をみた和人は冷静さを取り戻していた。目の前に突っ伏している神田は失禁してしまっていた。

 

 

「…そう…だな…。すまん…、ありがとな…木綿季…」

 

「かずと…!」

 

 

木綿季は背中から和人に抱き着き、涙を流していた。

 

 

「和人…来てくれてありがと…ボク…すっごく怖かった…」

 

 

 和人は左手で木綿季を優しく撫で、木綿季を元気づけた。右手のバットを投げ捨て、ポケットからスマホを取り出すと警察に通報した。やがて警察が駆け付けるとその場で事情聴取が始まった。神田は俺の方が先に襲われた、悪いのはこいつらだと悪あがきをしていたが、一部始終を見ていた目撃者が名乗りを上げ、今回の事を証言してくれた。

 

 神田は顔面蒼白となり、警察に連れていかれた。和人たちも調書を取るために任意同行を求められた。その後の事情聴取は7時間にも及んだ。警察の事情聴取は事を細かく聞いて書き上げなければならないため、様々な可能性を考察しながら進められる。実際の事件は短時間の出来事でもかなりの時間がとられてしまうのだ。和人達が解放される頃には既に午後の15時になろうとしていた。

 

 結果だけ言うと神田は逮捕された。今回の事件は明確な悪意を持って行われたため、木綿季に対しての殺人未遂、和人に対しての傷害、暴行事件として埼玉県警に逮捕された。更に過去に万引きや恐喝まがいのことまでやってたことが発覚し、余罪を追及されて、重くて少年犯罪としては珍しい実刑か、良くて少年院行きは免れないだろうといった結果になった。

 

 当然問題を起こしたため、高校は退学、野球の道も捨てることになった。和人は過剰防衛も懸念されたが、木綿季が殺されかけてたことと、目撃者の人が和人のやったことをソフトに伝えてくれたため、正当防衛が認められた。

 

 和人と木綿季は帰りはパトカーで送ってもらった。自宅まで届けてもよかったのにと言っていたお巡りさんだったが、和人が少し離れたところで降ろしてほしいと願い出たのだ。ただ単純に、木綿季と歩いて帰りたかったからであったが。

 

 

「…木綿季、大丈夫か…?」

 

「うん…まだちょっと混乱してるけど…大丈夫…」

 

「ごめんな…一瞬とは言え…傍から離れちまって…」

 

「ううん、和人は悪くないよ…」

 

「でも…何とか…守りきれた…」

 

 

 和人は笑顔で木綿季を見つめていた。大切な人を守れたことに安堵していた。

 

 

「あ…そういえば…腕…大丈夫…?」

 

「大丈夫だ、鍛え方が違うからな」

 

 

 バットで打ち付けられた和人の左腕は、表面こそ打撲を負っていたが、骨には異常が見られなかった。つくづく運の強い男である。

 

 

「そっか…よかった…」

 

「…今回は無茶しないでって言わないんだな」

 

「…うん…だって…かっこよかったから…」

 

「え?」

 

「さっき…ボクを助けてくれた和人…すっごくかっこよかった…」

 

 

 素直に褒められた和人は照れくさそうに顔をぽりぽりかいていた。

 

 

「やっぱり…和人はボクの…ヒーロー…なんだなって…思ったんだ」

 

「…ありがとな」

 

 

 和人はそう言うと、右手で木綿季の頭を撫でた。

 

 

「えへへ…」

 

 

 撫でられている木綿季は幸せそうな顔を浮かべていた。

 

 

「ねえ和人、手…繋ごっ♪」

 

「あ…ああ、いいぞ…」

 

 

 和人は撫でていた右手をそのままおろして木綿季の左手をぎゅっと握りしめた。木綿季もその左手で和人の右手から伝わってくるぬくもりを感じ取っていた。

 

 

「えへへ…和人の手…あったかいな…」

 

「木綿季の手は…ちょっとだけ冷たいな」

 

「女の子は冷え性なんだよ?」

 

「そうなのか…知らなかった」

 

「えへへ…♪」

 

 

 自宅への距離は1kmもなかったが、敢えて二人はゆっくりと歩を進めていた。今この幸せな瞬間を、少しでも長く感じようとしていた。最愛の人が隣で一緒に歩いてくれている、この今の幸せを踏みしめていた。

 

 

 

 

 

 

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 お読みいただき、ありがとうございます。
もう長文化するのが普通になってしまってますね。
今回も20000文字突破…。これ何話か重ねるまでに日常のネタが尽きるってことなんじゃ…。


さあ、過去のトラウマを和人のお陰で乗り越えることが出来た木綿季でした。静かに暮らしてあげるはずだったのにいきなりトラブらせてしまってごめんよ…。

 次回からは本当にのほほんとした日常が展開されますので、安心してお読みいただけると思います。木綿季の幸せな日常にご期待いただければと思います。

 それでは以下次回!
 
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