ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味   作:むこ(連載継続頑張ります)

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 こんばんはです、大変お待たせ致しました。日常編19話です。今回で待ちに待ったあの人が出てきます。本編では名前すら出ず、公式でもその名前がやっと公表されたあの人です。

 そしてこの場を借りてご報告させていただきます。記念すべき「闘病編第1話~別れ~」のUA数が10000を突破いたしました。そして全体UAは77000、お気に入りは600件を突破し、ランキングにも何度も載せていただきました。ありがとうございます。

 もうすぐ日常編は序盤の節目を迎えます。物語が終わるわけではありませんが、木綿季が大きく変わろうとしています。どうか温かく見守ってください。それでは59話、ご覧くださいませ。
 
 


第59話~桐ヶ谷家 後編~

 

 西暦2026年11月1日 日曜日 午後18:05 埼玉県川越市 桐ヶ谷邸

 

 

「いい木綿季? 焦らずね? ゆっくりでいいから怪我だけはしないようにそうっとよ……?」

 

「わ、わかった……お母さん!」

 

 

 木綿季と和人が14時半頃から合流して手伝っていた晩餐の仕込みはもうほとんど終了していた。テーブルの上には野菜や豆腐、はんぺんが入れられた鍋が弱火のカセットコンロに乗せられ、ぐつぐつと音を立てながら沸騰していた。その横にゆうに七、八人分はあろうかというしゃぶしゃぶ用の豚肉がキレイな赤色に輝いており、その横には木綿季が一生懸命ねりこみ、心のこもった鶏つくね団子の元が大皿に入れられていた。

 

 つくねは一つ一つが小さいものから大きいものまで統一性がない大きさをしていた。中には微妙に楕円を描いたものや、微妙にひしゃげたような形を作ってしまっているものまであった。しかしそれは木綿季が一つ一つに真心を込めて作っていったからであった。形こそ店等で出せるようなものではないが、それ以上に峰嵩を喜ばせたい、美味しいと言ってもらいたいという「心」がこもっていたのだ。木綿季は今夜は何より峰嵩にこれを食べてもらいたかった。

 

 五人分の取り皿と茶碗、箸が並べられ、峰嵩が座るであろう細長いテーブルの端には、酒の友になるであろう塩ゆでしたエメラルド色の枝豆の山が笊に盛り付けられていた。先ほどまで茹でていたためか、まだ枝豆全体から湯気が枝豆独特の食欲をそそる香りと共に立ち昇っていた。その枝豆の横にはビールの瓶が一升とビアガーデン等で見る生ジョッキ、そして日本酒の入ったとっくりとおちょこが置かれていた。現時点で既に峰嵩を迎え入れられる状態は整っているようだった。

 

 

「気をつけろよ……木綿季?」

 

「だ……大丈夫、これでも剣の扱いには慣れてるんだから……!」

 

「……それ剣じゃなくて包丁なんだけどな……」

 

 

 木綿季は晩餐の最後の仕込み、マグロの赤身の刺身を作ろうとしていた。凍ってたマグロの解凍が終わり、ほどよい柔らかさになったところで翠が木綿季に「切ってみる?」と提案したのだ。包丁を握ったことがない木綿季は最初は驚いていたが、初めて包丁を握れる機会に嬉しくなり「うん! やりたい!」とやる気満々で翠からの提案を飲んだのであった。

 

 しかし初めて握るだけあって、赤味を抑えている左手も、包丁を握る右手にも変に力が入り過ぎてしまい、腕全体がぷるぷると震えてしまっていた。その姿ははたから見ても非常に危なっかしい手つきに見えてしまい、一歩間違わなくても指をうっかり切ってしまいそうだった。怪我でもされてはかなわないと見かねた翠が背後からゆっくり木綿季に近付き、自分の腕を木綿季の腕に添わせて、木綿季の手に自分の手を重ねた。

 

 

「わっ、お母さん……?」

 

「一緒に切りましょうか? いい? 最初からいきなり切るのではなくて、左手の第一関節で切るものを押さえるの。力を入れ過ぎないようにね……」

 

「う……うんッ」

 

「そうしたら反対の右手で横から包丁の側面を、左手の第一関節に当てる」

 

「こう……かな」

 

「そうそう、ここまでくればもう準備完了よ。あとはゆっくり手前に引くようにして……こうっ」

 

「わわっ!」

 

 

 合図とともに木綿季の手に重ねられた翠の手が手前に引かれると、包丁は吸い込まれるようにマグロの赤身にすっと切れ目を作りながらまな板に「ストン」という音を立てて接触した。するとまな板の上には立派な形をしたマグロの刺身が一つ、出来上がっていた。木綿季は翠の手を借りたとはいえ、初めて自分の手で包丁を扱えたことに感動を覚えていた。目をキラキラとさせて切り落とされたマグロの赤身を感心するように見つめていた。

 

 

「うん、出来たじゃない木綿季! いい感じよ?」

 

「えへへ……でもお母さんの手を借りたからだよ!」

 

 

 翠と木綿季の間には笑顔が交わされていた。翠は娘に自分の料理を少しずつ覚えてもらっていく嬉しさ、木綿季は母に教えてもらっている嬉しさを感じていた。双方とも今まで経験したことのない嬉しさだった。木綿季は実の母親からは料理を教えてもらう前に他界されてしまっていたし、翠も以前まで仕事でよく家を留守にしており、気が付けば和人や直葉も自分たちで料理が出来るようになっていた。なので木綿季に教えられることが嬉しかったのだ。

 

「今の感覚を忘れないでね? それじゃあ……次は一人でやってみましょう、ゆっくり……ゆっくりね?」

 

「うん! やってみる!」

 

 

 一人で包丁を託された木綿季は気合を入れながらも一度深呼吸をして心を冷静にし、真剣な表情でまな板の上にあるマグロの赤身と包丁を見つめていた。そして先ほど翠に手を貸してもらった時の感覚を思い出しながらあくまでも慎重に、そして力が入り過ぎないように手を動かしていった。そのただならぬ雰囲気を放ってマグロと格闘しようとしている木綿季の姿を、和人たちは固唾をのんで見守っていた。その見守っている様はまるで、運動会の100メートル走で自分の子供がスタートする直前の様な緊張感に包まれていた。

 

 木綿季はまず翠に言われた通りに左手の第一関節にほどほどに力を込め、しっかり曲げてマグロを掴み、右手の包丁をスライドさせて側面を左手に当てた。そして軽く呼吸をするとゆっくりと包丁をスッと手前に引いていった。引いた包丁はスムーズに刺身に切れ込みを入れていき、やがてまな板に当たるとその動きを止めた。厚さは先ほどよりも少しだけ薄い気がするがマグロの刺身の二切れ目が切り終えられていた。

 

 

「わぁ……!」

 

「おお……」

 

 

 自分だけの力で刺身を切ることに成功した木綿季はたまらず笑顔をこぼしていた。動きは少しぎこちなかったかもしれないが紛れもなく木綿季一人だけの力で包丁を扱えたのだ。その姿に和人は感心し、直葉は木綿季と同じように笑顔で喜び、翠はにっこり微笑んで木綿季に「やったわね」と称賛の言葉を送っていた。木綿季はその言葉を聞くとますます嬉しくなりうっかり右手に包丁を持ったまま肘を曲げてぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいた、非常に危険極まりない。

 

 

「やった! 出来た出来たー!」

 

「お、おい木綿季! 嬉しいのはいいが包丁持ったままはしゃぐな!」

 

「え……? あ……、ご、ごめん……なさい……」

 

 

 包丁を持っているのを忘れたまま飛び跳ねてしまったことを注意された木綿季は、自分が何をしたかということに気付くと途端にしおらしくなってしまい、口をとがらせて首を垂れてしまった。翠は一瞬神経がヒヤリとしたが何事もなかったこともあり、ほっと胸を撫でおろしていた。

 

 

「木綿季、包丁は便利だけどすっごく危ないものなの。怪我をしたからってゲームみたいにすぐ治るわけじゃないの、むしろ治らないぐらいの大怪我を負う危険性もあるのよ? だから、くれぐれも気を付けて使って頂戴ね……?」

 

「は、はい……ごめんなさいお母さん……、気を付けます……」

 

「うん、よろしい。……そしたら私がここで見ててあげるからあとは全部やってみなさい」

 

「りょ……了解!」

 

 

 自分の両頬をパァンという派手な音を立てて平手打ちをして気合を入れなおし「よし!」と気持ちを改めて再び両手に赤身と包丁を握りなおし、赤味に包丁を入れていった。始めこそ動きがぎこちないままだったが、少しずつ回数を重ねていくうちに段々と動きがそれらしくなっていき、翠ほどの包丁さばきとまではいかないがかなり要領よく刺身を作っていった。

 

 

「これなら最後までやれそうね。木綿季、その調子で頑張ってね」

 

「……うん!」

 

「直葉、悪いのだけれどお風呂を沸かして頂戴、和人はあの人にいつ頃こっちに着くか連絡をいれてくれないかしら?」

 

 

 翠が直葉たちに指示を飛ばすと二人とも「了解!」と返事を返し、晩餐前の最後の仕事へと赴いていった。これで木綿季が刺身を切り終えれば、峰嵩を迎え入れる準備はすべて完了となる。あとは肝心の峰嵩が無事帰宅するのを待つばかりなのであった。

 

 翠は食卓の椅子に腰かけながら木綿季の包丁さばきを見守っていた。木綿季は真顔で包丁、赤身、自分の手にじゅんぐりに目線を移しながら次々にマグロの刺身を作っていった。ストン……ストン……と包丁とまな板が接触する独特の心地いい音がキッチンとダイニングに響いていた。やがて塊だったマグロの赤身は木綿季の包丁でお手頃サイズに切り落とされ、全て刺身へと変わっていた。

 

 

「やった……全部切れた……!」

 

「お疲れ様、木綿季」

 

 

 木綿季は先ほど言われた注意の通りに今度はしっかりと包丁をまな板の上に置き、翠に向かって満足のいく結果が残せたよと言わんばかりのほっこりとした笑顔を見せていた。その木綿季の笑顔を見た翠も同じように笑顔で返事を返すと、木綿季に歩み寄り、前のめりに身をかがめて娘の頭にポンと右手を乗せて「よく頑張ったわ、木綿季」と言いながら優しく撫で始めた。

 

 翠から初めて撫でてもらった木綿季は視線を落としつつも嬉しくなり、顔を赤らめながら碧の手の感触を楽しんでいた。やがて木綿季は翠に身を寄せて彼女の背中に手をまわし、母親の胸に自分の顔を埋めて甘えていた。先ほどまで刺身を切っていたので両手とも濡れてしまっていたが、翠は気にせず、拒否することもなく優しく受け入れ、左手で木綿季の背中をポンポンッと優しく叩いていた。

 

 

「……お母さん、ママと同じにおいがする、優しいにおい……」

 

「ママ……、紺野さんのご両親……?」

 

「……うん」

 

「木綿季のご両親って……どんな人だったの?」

 

「んとね、すっごく優しかったよ? でも……家族全員がHIVに感染してるって判明したときはね、一度一家心中しようとしてたんだ……」

 

「……え?」

 

 

 一家心中というワードを聞いた瞬間に翠の顔が強張った。だが無理もない、治る確率が天文学的にまで低いHIVに家族全員が感染してしまったとなってはまず未来はない。そもそも木綿季だけでも助かったということが奇跡に近いものだ。和人が計画を練りに練り、計算して完治の方向までレールを敷いたとしてもだ。それぐらいにHIVは重たく、厄介なものなのだ。

 

 

「でもね、ボクも含めて……全員キリシタンだったからさ、自殺するよりも家族全員で病気と闘う道を選んだの。周りの人達は……そんなボクら家族に嫌がらせとかしてきた」

 

「…………」

 

「やがて、パパとママはボクたち姉妹を残して先に死んじゃった。それから姉ちゃんも必死に病気と闘ったんだけど、二年前にボクの傍からいなくなっちゃった」

 

「……木綿季ッ」

 

 

 倉橋からある程度紺野一家のあらましは聞かされてはいたが、いざその当事者の一人である木綿季本人からその凄惨たる過去を聞かされると、改めて言葉に詰まる想いがした。自分の考えていた以上に紺野家の……いや木綿季の闇は深かった。翠はなんて声をかけてあげたらいいかわからなかった。母親としては、ここで優しく声をかけてあげ、元気づけてあげなければならないところだ。しかし翠にはそれが出来なかった。

 

 何故ならどことなく、木綿季から見えない「壁」のようなものがあるのを感じていたからだった。確かに木綿季は桐ヶ谷家の人間のことは心から信頼してくれている。翠のことをお母さんと呼び、本当の家族のように接してくれている。……いや、既に本当の家族そのものだった。しかし、どことなく少し、あくまでほんの少しだが……僅かによそよそしいような感じがしていた。心のどこかに「何か」が引っかかっているような、そんな印象が感じられた。

 

 

「でもね、ボクは今幸せなんだ。和人がいて、直葉がいて、お母さんやお父さんもいてくれて、毎日がすっごくすっごく幸せなんだ……」

 

「……ゆう……き……」

 

 

 翠は力いっぱい木綿季を抱き締めていた。今すぐ抱き締めなければこの目の前の少女が壊れてしまう気が、この世界から消えていってしまう気がしたからだ。木綿季は先程より深く、翠の温かい胸に自分の顔を埋めて母親からの愛情を受け止めていた。本当に心から満足そうな、幸せそうな表情を浮かべていた。

 

 

「ありがと……おかあさん、ボク……おかあさんから愛してもらって……本当に幸せ……」

 

「私もね、木綿季がこの家に来てくれてから……すっごく毎日が楽しいの。あなたは間違いなく私たちの家族よ、木綿季……」

 

「……ウン、ありがと……」

 

 

 翠の木綿季への愛は本物だ。血は繋がっていなくても本当の親子のように愛を注いでいる。それは紛れもない事実だ。木綿季も翠からの想いは嘘偽りのないものだとわかっている。しかし木綿季自身も心の中で何かが引っかかっているのは薄々感じていた。……いや、わかっていた。この自分の心の中で引っかかっている「何か」それは……。

 

 

(ボク、多分……パパやママ、姉ちゃんのことをまだ引きずってる……のかな。そりゃあちゃんとしたお別れをしたわけじゃないしお墓参りだって出来てない。でもここのお家の人達はボクのことを心から愛してくれてる、本当の家族として接してくれてる。それは分かってる、わかってるんだよ。でも……でも……!)

 

 

 ――それじゃあ何で、こんなに心がズキズキ痛むのさ――

 

 

 翠と木綿季が抱き合っていたその時、家の固定電話で峰嵩に連絡をし終えたであろう和人が玄関から近付いてくる足音が聞こえてきた。その音が耳に入った木綿季と翠は慌てるように互いの体を離し、必死に流した涙を拭い何事もなかったかのように振舞った。木綿季は先ほど切った刺身を皿に盛り付け、翠はパックなどのゴミを片付けようとしていた。二人がそれぞれ作業に戻った瞬間に、いいのか悪いのかわからないタイミングで和人がダイニングへとやってきた。

 

 

「お待たせ、父さんもうIC抜けたってさ、あと15分ぐらいでこっちに着くんだと」

 

「そ、そう……、ならなんとか間に合ったって感じかしらね」

 

「う、うん。ねえねえ、お刺身全部切り終えたよ、見て! 和人!」

 

「お、おお……? 」

 

 

 先ほどまでの引っ掛かりを心の奥底に仕舞い込み、木綿季は切り終えたばかりのマグロの刺身の乗った皿をこれ見よがしに和人の顔の目の前まで持っていった。和人は一枚一枚刺身をまじまじと見つめると「厚さがバラバラだな……」と周りに聞こえるか聞こえないか程度の小声で悪態を吐いていたが、木綿季の耳にしっかりと入ってしまっていて、口をとがらせてムスっとしてしまっていた。

 

 

「ぶー……、でもボク頑張ったもん……」

 

「うふふ、そうね……木綿季頑張ったものね」

 

「まあ俺はわさびつけまくるからあんまし厚さは関係ないけどな……」

 

「……むしろそれならわさびだけ食べてなよ……」

 

「……それもいいな……!」

 

 

 和人の生粋の辛い物ジャンキーっぷりに開いた口がふさがらない木綿季と翠であった。何とも言えない苦笑いを浮かべ、こめかみをピクピクと震わせ、呆れを通り越して唖然としていた。本当に辛いものなら何でもいいのか、この男は……と思っていた。誕生日プレゼントにあらゆるスパイスでも送りつければ狂喜乱舞するのではないだろうか?

 

 

「まあ……和人の味覚の話はともかく、木綿季もお疲れ様。あとは私がやっておくから、あの人が帰ってくるまでゆっくりしてていいわよ?」

 

「あ……うん、じゃあそうさせてもらうね」

 

「なら俺らの部屋で休むか」

 

「うん、いこっ」

 

 

 翠は二人に暫くゆっくりしていいと促すと、晩餐の準備で出たゴミやもう使わないまな板やボウルなどの調理器具の後片付けを始めた。ゴミは白いビニール袋にまとめてゴミ箱に放り込み、調理器具はしっかりと洗剤でこすり洗いをしていた。

 

 晩餐の後の食器も含めるとかなりの量になるので、今のうちに片付けられるものは済ませておこうという算段だった。木綿季の自分たちへの違和感を感じていながらも、目の前の仕事はしっかりとこなす、大人としての役割はしっかりと果たす翠であった。

 

 和人と木綿季は颯爽と階段を登ると、二階に備え付けられているトイレの洗面所で手洗いを済ませ、和人の部屋へと落ち着いていた。ずっと立ち仕事をしていた木綿季と和人はすっかり疲れてしまい、部屋に入るなり一目散にベッドに仰向けにダイブしていた。ベッドは和人たちが飛び込んだはずみでバインバインと弾み、その弾みで二人の身体が上下に揺らされていた。揺れが段々収まってくると二人は大きく息を吸い込み、また大きく吐き出していた。

 

 

「ふぅ……ひとまず大仕事は終わったな、あとは食べて風呂入って寝るだけだ」

 

「え、和人にはお父さんの晩酌の相手があるんじゃないの?」

 

「う……そうだった……。変な話題で絡まれなければいいんだけどな……」

 

「あはは! それも和人の役目なんじゃないの? 多分男同士じゃないと話せないようなこととかあるんじゃないかな」

 

「……それもあるとは思うけどな、なんだったら木綿季が相手してくれよ」

 

「えっ、ボ……ボク!?」

 

 

 和人はいつもは自分がやってる峰嵩の晩酌と言う名の愚痴の付き合いを、木綿季にやってくれと提案を持ち出した。和人自身があんまり父親の愚痴を聞きたくないというのもあるが、電話でしか峰嵩と話をしたことがない今の木綿季にはコミュニケーションを取る絶好の機会だと踏んだのだ。

 

 それにきっと峰嵩の方も可愛い三人目の子供である木綿季と話をしたいに違いない。晩酌の話を持ち掛けられた木綿季は物思いにふけったかのように胸に手を当てて仰向けの姿勢のまま、じっと部屋の天井を見つめていた。

 

 

「…………」

 

「なんだ、嫌……なのか?」

 

「……そうじゃないんだ、ボクだってお父さんといっぱいお話したいよ」

 

「……んじゃあどうしたんだよ」

 

「…………」

 

 

 木綿季はゆっくりと目を閉じ右腕を瞼の上に乗せ、しばらく考え込んだ。この心のひっかかりの正体、それは以前の家族である両親や藍子……紺野家への未練であった。桐ヶ谷家という温かい家庭に迎え入れられ、再び幸せを手にできた木綿季であったが、以前の家族のことを忘れたわけではない。それどころかちゃんとしたお別れをしていない、言うなればけじめをつけていないということなのだった。

 

 

「……ねえ和人、聞いてくれる……?」

 

「……言ってみな、聞いてあげるよ」

 

「ありがと……」

 

 

 和人は寝ている体の上半身を起こし、両手を自分の背後に立て、首だけ木綿季の方向を向いて彼女が話してくれるのを待った。木綿季はしばらく無言で考え込み、心の整理がついたのか腕を顔からどけて瞼をゆっくりと開き、静かに語り掛けるように口を開いて話し出した。

 

 

「和人、ボクね……今悩んでることがあるの」

 

「悩んでること……?」

 

「……ウン。あのね……ボクさ、多分なんだけどまだ前の家族……パパやママ、姉ちゃんのことで心にひっかかってることがあるみたいなんだ……」

 

「…………」

 

「あ……でもね、和人や直葉、お母さんのことはすっごく大好きだよ? こんなボクを迎え入れてくれたことにすっごく感謝してるし、皆のこと本当の家族だと思ってる。でも……」

 

「でも……?」

 

 

 和人が優しく声を返すと、木綿季の瞳に涙が浮かび始めていた。やがて木綿季の瞳の許容量を越え、溢れ出ると頬を伝って重力に引っ張られ二人の寝ているベッドを濡らした。それが何の涙なのか、何故自分が泣いているのかは、木綿季にはわからなかった。

 

 

「何だろうね、何で涙が出るのかボクでもわからないの。和人たちに優しくしてもらって嬉しいから泣いてるのか、姉ちゃんたちがいなくなっちゃって寂しくて泣いてるのか、もう……わかんないの」

 

「……木綿季……」

 

「……明日の養子縁組のこともそうなの……」

 

 

 木綿季は溢れ出る涙を上着の袖で拭うと、ベッドから上体を起こし、両腕を膝の上に重ねてしばらく黙り込んだ後、少しの間をおいて再びゆっくりと口を開きだした。今自分が想っていること、感じていることを、和人に語り明かした。

 

 

「ボクね、わからないんだ。明日の養子縁組で ”紺野” と ”桐ヶ谷” どっちの姓を名乗ったらいいのか……」

 

「…………」

 

「ちょっと前まではね、和人たちと同じ ”桐ヶ谷” を名乗ろうと決めてたの。でも……さっきお母さんに抱き締めてもらったときに、ママのこと思い出しちゃって……」

 

「木綿季の……本当のお母さんのことか……」

 

「……ウン、お母さん……ママとおんなじにおいがしたの。優しいにおいが……、そしたら途端に……前のお家で暮らしていた時のことが忘れられなくなってきて……」

 

 

 引っ込みかけてた木綿季の涙は語っているうちに再び瞳から零れ落ちていた。言われてみれば確かにそうだ。新しい家族が出来たからといっておいそれと以前の家族との関係を忘れられるはずがない。年月の問題だけではないが、今の明日奈や和人たちよりもずっと長く、一番近くで木綿季を支えてきた大切な家族だ。むしろそれはちゃんとしたお別れを出来ていない分後悔や未練の方が大きいだろう。たとえ木綿季本人にその機会が与えられてなかったとしてもだ。

 

 

「ボクね、どうしたらいいかわからくなっちゃった。この家に本当にボクがいていいのか、このまま生きていていいのかとか……」

 

「なっ……木綿季、お前……」

 

 

 かつてないほどの弱気な態度を見せた木綿季の姿に、和人は居ても立っても居られなくなり、たまらず木綿季の両肩をがしっと掴み、そのまま勢いよく自分の胸へと寄せて力強く抱き締めた。和人は木綿季の言い放ったことに怒りを感じていた。この家にいていいか? いいに決まっている。生きていていいのか? いいに決まっている! そのために俺は今まで頑張ったんだ、このいたいけな女の子を守るために、がむしゃらに突っ走ってきたんだ。その今まで積み重ねてきた努力を、当の本人自ら否定されているような気がして許せなかった。

 

 

「馬鹿野郎……いいに決まってるだろ! ここはお前の家だ、お前は俺の家族だ! だから……いていいんだ! 俺たちと一緒に……生きていていいんだ!」

 

「……かずと……」

 

「だからもうそんなこと言わないでくれ……! お前がいなくなっちまったら俺は……俺は……ッ!」

 

 

 和人の眼にも涙が浮かび上がっていた。木綿季を抱き締めている腕はぷるぷると震えてしまい、先の木綿季の発言に動揺を隠せないでいた。木綿季の闘いはHIVが治りリハビリをこなして退院して終わりだと思っていた。しかし、木綿季が普通に生きてくためには乗り越えなくてはいけない壁がまだまだたくさんあったのだ。姓のことも、以前の家族のことも、これからどうやって生きていくかということも……。

 

 

「……ごめん、ごめんね……かずと……」

 

「今度そんなこと言ったら、許さないからな……」

 

「うん、ごめんね……、ありがとう……」

 

 

 実の両親、藍子、明日奈、翠、倉橋等、木綿季はたくさんの人達から愛をもらっていた。しかし、やはり和人からの愛が一番嬉しかった。抱き締めてきた和人の身体は温かかった、安心出来たし一番「誰か」を近くに感じることが出来た。ここの家にいていいかと思った木綿季であったが、やはり和人がいてくれないと何も出来ないということを改めて感じていた。

 

 しかし、だからといって心にひっかかるものがあったのも事実だ。それが取れない限りは、恐らく気持ちよくここの家で暮らすことなど出来ないだろう。そう、やはり何らかの形でけじめをつける必要があった。以前の家族である「紺野家」とのけじめを。でなければ養子縁組届を出して正式に桐ヶ谷家の一員になったとして、本当の意味での家族として触れ合っていけないだろう。

 

 

「なあ、木綿季はどうしたい?」

 

「え……?」

 

「これから木綿季がどうしたいか、言ってみな……」

 

「あ、え……、えっと……」

 

 

 和人が優しく問いかけると、木綿季は今の自分がやりたいこと、やっておきたいことを考えた。このモヤモヤを消し去る為にはどうしたらいいか、これから何をすべきかというのを考えていた。暫くの間無言でじっくりと考えていた。二人の部屋は静まり返り、時計の針が「チッチッ」と秒針を進める音だけしか聞こえなかった。木綿季は暫く黙り込んだ後、心の整理がついたのか、今自分が考えたことを和人に打ち明かした。

 

 

「あのね和人、養子縁組の件、もうちょっとだけ待ってほしいんだ……」

 

「……待ってほしい?」

 

「やっぱりボク、姉ちゃんたちのことが……ほんのちょっとだけ心で引っかかってるみたいなんだ。だから今になってどっちの姓を名乗るか、悩んじゃってるんだと思うの」

 

「……そう……なのか……」

 

「ごめんね、こんな突然に……」

 

「いや、無理もないさ。姓が変わるってのはそんなに軽く済ませていいような問題じゃない、悩むのは当然だ……」

 

「そこで……さ、ちょっと相談なんだけど……いいかな?」

 

「今更畏まるなよ、俺に出来ることだったら何だってやってやるぞ」

 

 

 木綿季は和人が恋人で、家族で良かったと心から思っていた。こんなボクのためにここまでしてくれて、これっぽっちも迷惑だなんて思ってない。今回の件だって単なるボクのわがままだ、だけど和人は快く聞いてくれる。本当に嬉しい、さっきはあんな弱音を吐いちゃったけど、やっぱりボクは和人達と、桐ヶ谷家の皆と一緒にいたい。それなら……つけるべきけじめはしっかりとつけないといけない、そのためには……。

 

 

「ありがとう和人、えっと……実はね……」

 

 

 木綿季は自分の顔を和人の顔に近付け、口を和人の耳元まで持っていき、ささやくように小声で話して聞かせた。この部屋には二人しかいないので誰かに聞かれてしまうといったことはないが、抱き締められてたことと、顔が近くにあったことから、ついつい耳の近くでささやいてしまった。

 

 和人は木綿季からの相談を聞き届けると、安心させるように木綿季の左肩を右手でポンと叩き、笑顔で木綿季からの相談に前向きな姿勢を取った。木綿季は和人の表情から、肯定的な態度を取ってくれたんだと安心していた。そして、やっぱりボクは和人のことが何よりも大好きなんだな、ということも感じていた。

 

 

「ごめんね、迷惑かけちゃって……」

 

「気にするなよ、お前のためなら……俺は何でもやってやるから」

 

「……嬉しいな、本当にありがとう和人、大好きだよ……」

 

「俺も木綿季が……大好きだ……」

 

「……ね、キスして、和人……」

 

「…………」

 

「ンンッ……!」

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 和人は下から覗き込んできた木綿季に口づけを求められると、左手はそのまま彼女の背中に当てたままにし、右手を後頭部にあて、目を瞑って自分の方へと抱き寄せ、半ば強引に一気に木綿季の唇を奪っていった。木綿季は甘い声を出しながらも全てを和人に委ね、強引な彼にされるがままになっていた。口付けは十数秒続き、ほどなく時間が経過すると和人は木綿季から唇を離していた。

 

 和人に唇を奪われた木綿季は顔を赤らめて放心してしまっていた。自分から口づけを求めてきたにもかかわらず、前よりも強引な和人の態度にいつもよりも心臓がドキドキしてしまっていた。まだ唇に和人の体温が残っている木綿季はそっと手をあて、口付けの余韻に浸っていた。

 

 

「……木綿季?」

 

「……へ?」

 

「大丈夫か?」

 

「あ……う、うん。大丈夫……ありがとう和人……」

 

「……温かかったな、木綿季」

 

「和人も……ちょっと強引だったけど、ちゃんと優しかった」

 

 

 一週間ぶりに互いの唇を重ねた二人には、恥ずかしいながらもほっこりとした笑顔が浮かんでいた。和人からの愛情をいっぱいに受け取った木綿季には先ほどのもやもやは少しだけなくなっていたようだった。現実世界も仮想世界も合わせてこの退院してからの一週間は、非常に濃い毎日であった。病院の中と外での違いがこんなにも差があるとは思わなかった木綿季は、少し疲れていただけなのかもしれない。

 

 

「えへへ……♪」

 

「母さんや父さんたちに言わないとな。二人とも明日にも養子縁組届を提出するつもりだったから、きちんと事情を説明しないと」

 

「うん、そうだね……。あと倉橋先生にも連絡取らないと……」

 

「それは母さんたちに話してからでもいいだろ。大丈夫だ、待ってくれるよ」

 

「……うん、ごめんね、何か……」

 

「いいよ、気にするなって」

 

 

 和人はばつが悪そうにしている木綿季の頭を右手でさっと優しく撫でていた。木綿季は目を閉じ和人の掌を受け入れていた。そして暫く木綿季が和人の手の優しさを感じていると、窓の外から車のエンジンの音が聞こえてきた。その音は段々と大きくなってきており、和人達のいる部屋のすぐ下の方まで近づいてきた。その音は、和人がよく知る車のエンジン音であった。そう、父親である峰嵩が普段プライベートから出張の時まで乗り回している桐ヶ谷家のマイカーの音だった。

 

 和人と木綿季は音の正体を確かめるために部屋の窓に身を寄せて、自宅敷地内の玄関先へと視線をやった。そこには和人のよく知る六人から最大八人ほどまで乗り込める白のワンボックスカーが駐車をしようとバックしてきている光景が目に入った。木綿季は玄関先で前後に行ったり来たりしているワンボックスカーをきょとんとした目で見つめていた。

 

 

「ねえ和人、あれってもしかして……」

 

「ああ、帰ってきたな、酔っ払いが……」

 

「よ、酔っ払いって……まだお酒飲んでないでしょ」

 

「ははは、それもそうだ。よし出迎えに行くぞ」

 

 

 和人はそう言うと一足先にベッドから足を降ろし、峰嵩を迎えるためにそそくさと部屋を出ようとした。その姿を見て慌てた木綿季は「お、置いてかないでよー!」と言葉を漏らしながら我先に一階に行こうとしている和人を追いかけていった。

 

 一階に降りてみると和人たちと同じように車のエンジン音に気付いたのか、直葉と翠も同じように玄関に足を運んでいる様子が見て伺えた。どうやら考えていることは同じようだ。和人は翠たちとアイコンタクトを済ませるといつ峰嵩が玄関の扉を開けてもいいように横一列になるようにして並び、峰嵩の到着を待った。家の玄関の前には、扉越しに後ろ向きに停車している車のブレーキランプの光が、桐ヶ谷邸の入り口周囲を赤く染めている様子が見えていた。

 

 

「き……緊張してきた……!」

 

「大丈夫だよ、父さんは見た目はアレだけどとても気さくな人だから」

 

「そうよ、あの人……今の職に就く前は噺家やってた時期もあって、とっても面白い人なのよ」

 

「誰だったっけ、確か……三遊亭なんとかって人」

 

「五代目三遊亭圓樂師匠だよ、だから父さんに酒飲ませたくないんだよな……喋りまくるから……」

 

「ほぇ~……お父さんって落語家だったんだ」

 

「前座止まりだったんだけどね、あの頃はあの人も夢を追いかけてたのよ」

 

 

 翠があの頃が懐かしいわと言わんばかりの表情で佇んでいると、玄関先に停まった車のエンジン音が鳴りやみ、それと同時にブレーキランプとフロント部分のロウビームの灯りも消えていった。そして運転席のドアを開ける音がし、すぐにバタンと閉める音があたりに響き渡った。やがて扉の外には人影が浮かび上がり、ゆっくりと確実に和人たちの待つ玄関へとザッザッという足音と共に近づいてきた。

 

 やがてその人影は扉の取っ手に手を伸ばしガラガラという音を立てながらスライドさせて開いた。するとそこには地面から190センチほどの高身長に白髪が混じった短髪のヘアスタイル、コワモテながらもどこか優しさが漂う顔、しっかりとしたガタイをしつつもすらっとした体に紺色のビジネススーツと明るいブラウンのトレンチコートに身を包み、左手にビジネスバッグを持った四十代前半ぐらいの男性が姿を現した。

 

 そう、この男性こそが桐ヶ谷家の大黒柱であり、翠の夫であり、和人と直葉、そして木綿季の父親である桐ヶ谷峰嵩その人であった。年相応の堅物さを感じさせつつも、どことなくフランクな空気が漂い、仕事面では部下からも上司からも好まれそうな、家では愉快な父親として家族全員から愛されていそうな雰囲気が感じ取れた。

 

 

「ただいま……」

 

「おかえりなさい、あなた。長い間ご苦労様でした……」

 

 

 まずは妻である翠が数ヶ月ぶりに自宅へと帰ってきた夫の長期間の労をねぎらった。峰嵩は上着を脱いで鞄と一緒に翠に手渡すと玄関のあがり框に背中を向けて腰を下ろし、使い込まれた黒い革靴を脱いで下駄箱に仕舞うと、近くに立てられてるスリッパラックからグレーのスリッパを取り出して足を通した。

 

 

「おかえり、父さん」

「おかえりなさい、お父さん!」

 

 

 翠に続いて長兄である和人、次姉の直葉が父親の帰宅を歓迎した。久方ぶりに見る父親はとても大きく感じた。この父親が桐ヶ谷家を支えてきたのだ。家にいる時間こそ多いとは言えないが、毎日毎日家族の為に必死に働き、汗を流して収入を得ているのだ。和人たちもそんな峰嵩の苦労がわかっているので、家族サービスが少ないとしても、決して文句は言わなかった。むしろ自分たちの為に毎日ありがとうと、お礼を言いたいぐらいだった。

 

 

「ただいま、和人、直葉」

 

 

 峰嵩は静かな口調で自分を出迎えてくれた息子と娘にただいまの挨拶をすると父親らしい温かい笑顔で受け入れた。そのやり取りを数歩離れたところから少し戸惑うように木綿季が見つめていた。その視線に気付いた峰嵩はゆっくりと木綿季に歩み寄り、ただいまの挨拶をするために彼女の身長に合わせるように前のめりになり、目線の高さを木綿季に合わせた。木綿季は少し戸惑いながらも父親と挨拶を交わすために両手ををお腹の位置で重ね合わせて口を開き始めた。

 

 

 

「お、おかえりなさい! おとう……さん」

 

「うん、ただいま、木綿季」

 

 

 自分の想像以上に背丈も肩幅も大きかった峰嵩の姿に動揺の気持ちを隠せない木綿季であったが、峰嵩の笑顔を見るとそれまで抱いていた緊張感が少しずつ和らぎ、自然と笑顔が零れていた。よかった、和人の言ってた通りだ、ちょっと怖くておっかないかもって思ったけどすっごく優しそうなお父さんだ。

 

 

「直接は初めまして……だね。私が和人達の父親の峰嵩です、今日からよろしく……木綿季」

 

 

 峰嵩はそう言いながら木綿季を怖がらせないように先ほど以上に精一杯にっこりと笑い、右手を差し伸べて彼女に握手を求めた。峰嵩は手も大きく、木綿季の手をすっぽりと覆ってしまうほどで、木綿季は両手で峰嵩の手を握っていた。彼の掌や手の甲にはシワや肌荒れが見受けられ、年相応の中年男性らしい手といった感じだった。

 

 だが木綿季はそんなことはどうでもよかった、この目の前の父親の大きな手を見ると不思議と安心出来た。この手が今まで和人や直葉を守ってきたんだと思うともの凄く暖かく、頼りになるんだなといった印象が感じられた。それはこのボクに対しても……変わらず続けていってくれるのだろう。

 

 

「は……はい! よろしくお願いします! お父さん!」

 

「ははは、電話でも言ったけどもっと気さくに話しかけてくれて大丈夫だよ。まあ……こんな顔だからよく怖がられるけどね」

 

「そ、そんな、そんなことない……だよ! お父さんすっごく優しくていい人だもんッ……ですッ」

 

「……クスッ」

 

 

 木綿季が敬語なのかどうかよくわからない言葉で峰嵩をフォローすると、おかしな言葉遣いに一行に笑い声が交わされた。木綿季もぎこちない自分の日本語が恥ずかしかったが峰嵩が楽しそうに笑っている姿を見ると、恥ずかしさより嬉しさの方が勝り、木綿季からも笑い声がこだましていた。桐ヶ谷家は全員集合早々に楽しい雰囲気となっていた。

 

 

「さて……あなた、お食事にします? それともお風呂にします?」

 

「そうだな……風呂に入りたいところだが折角皆揃ってるんだ。今日は御飯をいただこうかな」

 

「わかりました」

 

 

 翠は峰嵩に返事を返すと彼の仕事用の鞄とトレンチコートを仕舞うために寝室へと足を運んだ。峰嵩は久しぶりに父親が帰ってきてご機嫌になっている直葉と早速仲良くなった木綿季に両腕を引っ張られながらダイニングへと連行されていった。本当なら寝室で私服に着替えてから食卓につきたかったのだが二人の娘がそれを許さなかった。和人はそんな三人を見つめ「やれやれ……」と言葉を漏らしながら後を追っていった。

 

 娘二人にダイニングへと連行された峰嵩は帰宅して息つく暇もなく食卓の椅子へと座らされると、次から次へと何がなんやらと頭をぽりぽりとかき、困った様子で木綿季たちの動向を見守っていた。木綿季と直葉はそれぞれ刺身ととりつくね団子の元を両手に抱えて、峰嵩の目の前に自分が手掛けた献立をこれ見よがしに並べてみせた。

 

 

「お、マグロの刺身に鶏つくねか……嬉しいねえ」

 

「両方ともボクが作ったんだよ! 初めてだったけどうまく出来たんだ!」

 

「ちょ、ちょっと! つくねはあたしも手伝ったじゃない!」

 

「でもボクの方がたくさんやったもーん!」

 

 

 自分の方が貢献している、お父さんが喜ぶためのことをやってのけていると主張する木綿季と直葉のやりとりに、峰嵩は思わず「あははは」と笑い声を響かせていた。和人ととのやり取りにこのような光景はなかった。なんだか新鮮な気持ちがして、とても楽しく感じられた。この先の桐ヶ谷家の毎日は今まで以上に楽しい日々になりそうだなとも思っていた。

 

 

「いやいや、ありがとう二人とも。そこまで気持ちを込めてくれたんならきっと美味しいに決まっているさ」

 

「え……えへへ……♪」

 

「や……野菜はあたしが切ったよ!」

 

 

 マグロを切ったのは木綿季かもしれないが、この色とりどりの野菜に包丁を入れたのはあくまでも自分と、木綿季に負けないよう手柄を主張する直葉であった。料理は自分の方が何歩も先を進んでいる身として、今の木綿季にはちょっと負けたくないという子供らしい気持ちが現れていた。

 

 本当に峰嵩のことが大好きなのだろう、普通は家を長い間開けてしまっていると親子の間柄は段々と薄まっていってしまうものだ。しかし桐ヶ谷家は違っていた、離れていても父と子の絆は揺るがなかった。それはきっと、和人と直葉がSAOの世界に囚われたという影響も少なからずあるだろう。あの事件を経て、現実世界で生きていけることの、普通の毎日を過ごせていけることのありがたさを身をもって知ったからだ。

 

 現に翠はひたすらに二人の帰還を待ち続けた。何かの間違いで死んでしまっていたかもしれない二人の子供の帰りをずっと信じて待っていた。峰嵩も気が気でならない状態で会社に勤めていたことだろう、そしてやがて二人は現実世界へと帰ってきた。二年間の空白は確かにあったが、その空白があったからこそ、今こうして昔以上に親子の絆を深められたのだ。

 

 

「そうか……、木綿季も直葉も私のために頑張ってくれたんだな。ありがとう」

 

 

 峰嵩からの温かいお礼の言葉を受け取ると、木綿季はもちろん直葉にも笑顔があふれていた。そして三人が仲睦まじい父と娘のやりとりをしていると、後から遅れてやってきた和人と、寝室に峰嵩のカバンと上着を置いた翠がダイニングへと足を運び、食卓に腰を落ち着けた。

 

 長い食卓には一番奥の端に本日の主役である父親峰嵩、そこから時計回りに母親翠、その隣に次姉の直葉。反対に回って末妹の木綿季、そしてその隣に長兄和人の順番で並んでいた。翠は一足先に木綿季が作ったつくねの元を鍋に放り込み、他の家族に飲み物を配り始めた。

 

 和人ら未成年組と翠は烏龍茶やカルピス等のソフトドリンク、峰嵩は一杯目に強い日本酒をいただこうとしていた。峰嵩がおちょこを人差しと親指だけで持つと、慣れた手つきで翠がとっくりから透明で透き通った日本酒をちょろちょろと注ぎ始め、おちょこの口から5ミリほどの位置まで注がれたところで注ぐのをやめた。酒を注いでもらった峰嵩は「ありがとう」と一言だけ感謝の言葉を送り、子供たちが自分のグラスに飲み物を注ぐのを待っていた。

 

 

「ようし、全員そろったか?」

 

 

 和人が椅子から立ち上がり、全員に飲み物がいきわたったことを確認すると、左手を口元に当てて「ゴホン」とわざとらしく咳ばらいをし、右手にグラスを持ち、左手を背後に回して乾杯の音頭を取ろうとしていた。酒を飲まない組は和人と翠が烏龍茶、直葉と木綿季がカルピスをグラスに入れて和人からの言葉を待っていた。

 

 

「それでは、父さんの長い長い出張の終わりと、木綿季が新しい家族の一員になったことを祝しまして……」

 

 

 一足先に和人が音頭のセリフと共にグラスを掲げると、それに釣られるように峰嵩ら残りの四人も合わせて飲み物の入った器を同じように掲げた。次の和人からの合図を待つために、桐ヶ谷家のダイニングは一瞬だけ静まり返った。和人は全員が器を掲げていることを確認すると大きく息を吸い込み、喉と肺に力を込めて精一杯の乾杯の合図を送った。

 

 

「乾杯ッ!」

 

「かんぱぁーいッ!」

「かんぱーい!」

「かんぱい!」

「乾杯!」

 

 

 和人が乾杯の合図を送ると、残りの四人が一斉にそれに合わせ互いの器をコツンコツンという音を立てながら次から次へと乾杯を交わしていった。和人らグラス同士は勢いよく、峰嵩の持つ小さなおちょこには手加減して器を当てていった。中でも木綿季は楽しそうに皆と乾杯を交わしていった。家族が全員集合したことと、この楽しく温かい場に自分もいられることを嬉しく感じていた。このひと時だけは、先ほど感じていた心のひっかかりは気にならなくなっていた。

 

 

「ねね、お父さん! お刺身食べてみて!」

 

「お……、それじゃあいただこうかな」

 

 

 峰嵩は自分の傍に置かれているマグロの赤身を箸で掴み、あらかじめ翠が鮫肌おろしですっておいたわさびを乗っけて醤油を絡めてそのまま口へと運んだ。すると口へ入れた途端に鼻を貫くようなつーんとした辛さに襲われ、目を瞑り涙を浮かべて辛さに耐えていた。この鮫肌おろしですりおろしたわさびは、普通のおろし金ですったわさびとは辛さも舌ざわりも全然違うものになっている。

 

 ふつうのおろし金より摩擦面が細かくなっている鮫肌おろしはわさびをより細かく丁寧にすりおろせるのだ。その小さくすられたわさびから感じる辛さと奥深さは他では味わえないものとなる。わさびも醤油に混ぜ合わせるのではなく、身に乗せたまま口へ運ぶと、より刺身とわさびの相性は最高となる。一度お試しあれ。

 

 

「くぅ~……美味い! これは日本酒が進むよ、木綿季」

 

「ほ……ホント!? えへへ……やった♪」

 

 

 海の幸と最高の相性を持つ日本酒をご機嫌で口に運ぶ峰嵩から素直に褒められた木綿季は心の底から嬉しくなっていた。わさびの手助けもあっただろうが、木綿季が初めて包丁を入れた献立を、峰嵩は美味そうに食べ、日本酒も一杯、また一杯とどんどん進めていった。娘からの初めての贈り物に大変にご満悦といった様子だった。

 

 

「私たちもいただきましょう」

 

 

 翠はそう言うと菜箸で豚肉を掴み、次から次へと鍋に投入していった。高温の鍋の中に入れられた豚肉は真っ赤な色からピンクへと変色していき、あっという間に真っ白になっていった。次々に火が通った豚肉を子供たちがつつき、自分の好みのタレが入った取り皿に入れて翠と直葉は葱ポン酢、木綿季と和人、そして峰嵩はゴマダレに肉を漬けこんでいった。程よく煮えた豚肉にあっさり風味の葱とポン酢、そして濃厚な味わいのゴマダレが絡み、肉汁と共に小皿に滴り落ちていた。

 

 肉の素材独特の風味とタレが絡み合った濃厚な香りが、湯気と共に桐ヶ谷家の天井に立ち上っていた。最高級の黒豚、それだけで食欲をそそるのには充分だというのに、それをタレに漬けると更に美味さの世界が広がる。しゃぶしゃぶを編み出した人は天才と言えるだろう。和人達は自分の小皿のタレに肉を絡め、ゆっくりと口へ運んで黒豚のしゃぶしゃぶを味わっていった。口に入れた瞬間に熱々の豚肉から肉の旨味、タレの旨味がジュワッと広がり、絶妙に重なり合い、何とも言えないハーモニーを奏でていた。

 

 

「ん~~……、美味しいー!」

 

「本当、すっごく美味しいよお兄ちゃん!」

 

「そりゃ最高級の黒豚だからな、美味しいに決まっている」

 

「ほう……大分奮発したんだな、母さん?」

 

「うふふ、今日は特別な日ですもの……♪」

 

「……ふふ、そうだな……」

 

 

 峰嵩が今日飲んだ酒は普段とはまた違って格別の美味さだった。久しぶりに帰宅し、木綿季という新しい家族を迎え、その娘が長い勤めの労をねぎらってくれた。美味くないはずがない。この桐ヶ谷家という家庭に新しい風を吹かせてくれるかもしれない木綿季の家族入りが嬉しかった。今までになかった新しい「楽しさ」をもたらしてくれるに違いない。

 

 

「あー和人! だめだよ! それお父さんに食べてもらおうと狙ってたのに!」

 

「な、何を言う! 俺の近くにあったんだからこれは俺のもんだぞ!」

 

「だめー! お父さんのだよ! 返してー!」

 

「やなこったっ!」

 

 

 程よく煮えたいい頃合いのつくねを、和人と木綿季が醜く取り合っていた。どうやらこの鍋の中で一番大きく、食べごたえのあるつくねを狙っていたようだった。それをたまたま自分の傍で煮えてたのをいいことに和人がすっと自分の取り皿に入れてしまったのだ。木綿季はそれに偉くご立腹といった様子だった。

 

 その兄妹らしい微笑ましいやり取りを峰嵩は日本酒をひっかけながらにっこりと見守っていた。ほらやっぱり、こうやって楽しい風を吹かせてくれる、きっとこれからだって楽しくなる。こいつは……これから先はあまり出張には行きたくなくなってきたな、なんとか支社勤務にならないかと思っていた峰嵩であった。

 

 

「ああ! それボクが狙ってたお肉!」

 

「ふふふ、悪いな木綿季君、しゃぶしゃぶは戦争なのだよ」

 

「か……返してよー!」

 

「いやだっての!」

 

 

 その夜の桐ヶ谷邸は、今までのどの時よりも騒がしく、楽しい晩餐となった。毎日がこうなるとは限らないが、楽しい思い出は一日一日、こうやって積み重なっていくのだろう。そしてそれを気持ちよく過ごしていかれるようにするためにも、木綿季は過去との決着をつける必要があった。

 

 しかしそれは今この瞬間だけは忘れても構わないだろう、折角家族五人全員が揃ったのだから、楽しい時間の中にいるのだから……。

 

 




 
 ご愛読ありがとうございました。活動報告やTwitterをご覧になった方はご存知だと思いますが、私先週の連休を利用しまして、木綿季の地元である神奈川県横浜市保土ヶ谷区の、月見台と星川に足を運びまして、現地取材という名の聖地巡礼をしてまいりました。

 明日奈が降り立った星川駅、明日奈が昇った坂、木綿季の家、明日奈と話し合った公園、そして……最終回で出た教会と横浜港北総合病院も観てまいりました。色々と心に感じるものがありました。ここで木綿季は暮らしていたんだな、病気と闘っていたんだなと感慨深いものを感じました。

 59話の時点でかなりお待たせをしてしまっているのですが、60話はもっと時間がかかると思います。文字数は多くなりますし、挿絵もバンバン入れ込みます。まるで闘病編の最終話みたく……ですね。絶対にいいものに仕上げますので、首を長くしてお待ちいただければと思います。木綿季を幸せにするために、これからも尽力してまいります。

 それでは……60話でお会いいたしましょう……。
 
 
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