ソードアート・オンライン マザーズ・ロザリオ ボクの生きる意味   作:むこ(連載継続頑張ります)

61 / 92
 
 一挙投稿第二弾です。前回の60話を読まずにここに来られた方は、是非というか60話からお目通し願います。いよいよ木綿季が過去とのけじめをつけるために、実家へと足を運びます。彼女の行動を見守ってください。

 それでは、61話どうぞ……。
 


第61話~本当の家族 中編~

 

  西暦2026年11月2日 月曜日 午後 12:35 神奈川県横浜市保土ヶ谷区 星川町

 

 

 和人と木綿季ら二人は和人の地元川越からバイクで2時間かけ、60km離れたここ木綿季の地元、横浜市保土ヶ谷区まで足を運んでいた。移動の疲れと昼食を取る為に、星川駅前のファストフード店へ足を運び、ジャンクフードに口をつけていた。

 

 

「ふう……ご馳走様!」

 

「ご馳走様」

 

 

 和人達の座っているテーブルの上に置かれたお盆には、空の包み紙とポテトカートン、そして飲みかけのコーラが入った紙コップが置かれていた。もうあらかた食事は済み、飲み物を残すだけとなっていた。店内は和人達が入ってきた時と比べて、昼食を取るために入店してきた客でごった返し始めてきていた。中でも特に親子連れが多く、それほど広くもない店内は既に満席寸前となっていた。

 

 

「木綿季、ぼちぼち出よう。別に急いではいないけど……席を空けた方がよさそうだ」

 

「あ……うん、そうだね。行こ、和人」

 

 

 後から来た客の為に席を立った二人は残ったコーラを一気に飲み干し、紙ごみをまとめてダストボックスに運び、捨てるものは捨て、トレイは指定の場所へちゃんと片付け、そそくさとアクドナルドを後にした。和人たちが店を出て数歩歩いた後に振り返ると、あっという間に店内は客で満席となっていた。先日のソフトクリームもそうだが、この二人はかなりめぐり合わせ良く外食を済ませられていると思う。混雑に遭遇したことがまるでなかった。

 

 

「美味しかったねー!」

 

「ん、まあ……な。食べ慣れてる味だけどな」

 

「ボクにとってはご馳走だよ! また来ようよ!」

 

「うーん、まあ木綿季が気にいったのならちょくちょく来ようか」

 

「わーい! また来よー!」

 

 

 チェーン店なのだからどこでも食べれるだろうと思った和人であったが、敢えてつっこむのはやめておいた。野暮なこと言って木綿季に機嫌を損ねられても困りものだし、お腹いっぱいになってご機嫌になってる所に水を差すのもあれだ。家に着くまでこのままご機嫌でいてもらおう。

 

 

「よし、それじゃあここからはボクが案内するよ!」

 

「そうだな、それじゃあお願いするよ、木綿季」

 

「うん! お願いされました!」

 

 

 木綿季はそう言いながら楽しそうに右手で敬礼のポーズをとっていた。川越が和人の地元ならここ横浜の保土ヶ谷区、星川と月見台は木綿季のホームグラウンドだ。暮らしていた期間は一年ほどだったが自分の庭も同然だった。どこに何の店があるか、美味しい店はあそこにあるというのも熟知していた。……四年前までの話だが。

 

 木綿季は和人を先導しようと、うきうき楽しそうに星川の街を歩いていた。横浜市の中央にある保土ヶ谷区には小さな山や丘が数多くあり、木綿季の地元の月見台、星川町もその例外ではなかった。

 

 住宅街が坂を昇った上にあるのも珍しいことでもなく、木綿季の家も例外なく丘の上に佇んでいる。良く言えば運動不足解消向け、悪く言ってしまえば普段から生活していくには非常に面倒な地域となっていた。

 

 

「……のどかで緑が多くていいとこじゃないか」

 

「うん、横浜っていってもどこもかしこもみなとみらいみたいな都会ってわけじゃないからねー」

 

「……こういう雰囲気、俺は好きだな」

 

「ほんと? えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな……♪」

 

 

 和人と木綿季は星川駅からみて南西の方角へ步を進めていた。少し駅を離れると、築20年ほどは経過しているであろう長屋の様な建物や、古い飯屋等の小さい家屋が何件もズラーっと軒をつらぬいていた。建物の壁のヒビや、看板や灯りの金属部分の錆びなどが、昔からここに建っていたという年季を感じさせていた。この辺りの道幅もそれほど広くなく、歩道も路側帯にガードレールが置かれているだけという心細いものとなっていた。

 

 車道も満足にも広いとはいえず、バスやトラックがすれ違うのに苦労しそうな道幅だった。その割には駅が近い所為か交通量が多く、昇りも下りも一般車両や公共の車で混雑していた。おそらくビジネスマンや買い物客の車なのだろう。和人たちはそんな細い道の端っこを、辺りをきょろきょろと見回しながら歩いていた。

 

 

「あ……!」

 

「ん、どうした……?」

 

 

 和人を先導していた木綿季だったが、何かを見つけたのかとてとてと一足先に早歩きで少し先にある小さな建物に向かって歩いていった。歩道が大変に狭く、交通量も多いので少し心配そうに和人は見守っていた。木綿季が見つけたのはどうやら飯屋のようで、飛び出ている看板には「肉」と書かれていた。

 

 

「和人! ここのお店美味しいんだよー!」

 

「何だここ……、焼肉屋……か?」

 

「うんうん、昔ね、家族で食べに来たことがあるの、ホルモンがすっごく美味しいんだ! まだやってたんだね……」

 

「へぇ~、ホルモンか……」

 

 

 奥に細長いやや年季の入った建物からは、肉の灼けたいい匂いが漂っていた。白い壁にブラウンの屋根とスライド式の扉、そして入口の前には「焼肉 弥勒」と書かれた長いのれんが風に揺られてなびいていた。どうやらもう営業しているようだった。2013年に創業し、現在も地元民に愛され続けている焼き肉屋だ。木綿季の言った通り、数豊富なホルモン類の品揃えが魅力的であり、安価で安全で美味いをモットーにした店屋だと言う。今度お腹がすいたときに食べに来てみたいものだ。

 

 

「そんなに美味いなら……是非食べてみたいな」

 

「うん、絶対来よう! 味はボクが保証するよ!」

 

「ああ……そうしよう、木綿季のお墨付きなら俺も安心だ」

 

「えへへー♪」

 

 

 いつか一緒に食べにこようと約束を取り付けた木綿季は先ほどよりも嬉しそうにしていた。家族とのけじめをつけるのにいささか緊張しすぎていたようだったが、かつて自分が暮らしていた街並みを見て歩くたびに、懐かしさも感じてきたようだ。木綿季はますますご機嫌になり、引き続き和人を先導していた。

 

 焼き肉屋を通り過ぎた二人は十字路を右に曲がりさらに狭い道へと歩を進めていった。車道も路側帯もさらに幅が狭くなり、文字通り一歩間違えれば車両と接触してしまいそうな勢いだった。実際に原付が和人の十数センチ横を通り過ぎていて、冷や汗をかいたほどだった。

 

 

「あ、あぶねえなあいつ……左に寄り過ぎだろう……!」

 

「大丈夫だよ、ほら、そこの脇道にすぐ入るから」

 

 

 木綿季の先導通りに交差点を曲がり、10メートルほど歩くと中央線が無いやや狭い脇道に差し掛かった。その先には長い長い上り坂が和人たちを待ち受けていた。奥に行けば行くほど高低差が激しくなっており、場所によっては崖の上に建っているんじゃないかと言いたくなるような家屋も視界に映っていた。

 

 

「嘘だろ……ここを上るのかよ……」

 

「この坂あがったとこにボクのお家があるんだ」

 

「……今からバイク持ってきちゃダメか?」

 

「……うーん、別にいいけど途中からすっごい急坂になってカーブもぐねぐねしてるとこがあるんだよ。だから慣れないとバイクは危ないと思う……」

 

「うへぇ……マジかよ……」

 

 

 バイクで楽をしようとする選択肢を消された和人はあからさまに肩を落としてがっくりと項垂れてしまっていた。木綿季は流石にこの坂を何回も上り下りしている身として、余裕の表情を浮かべていた。ついこの前までリハビリをしていたとは思えない様子だった。

 

 

「ほらほら、突っ立ってないで先に行こうよ」

 

「……仕方ないか……、はぁ……」

 

 

 元気な木綿季とは裏腹に、和人は上着のポケットに手を突っ込み、渋々足を動かし始めていた。最初は緩やかな傾斜であったが、40メートルほど進んだあたりから、傾斜が徐々にきつくなりはじめ、さらに10メートルほど進んだ箇所からとんでもない急坂になり、おまけにS字カーブのおまけつきだった。確かにこれでは慣れてないと二輪で通るのは危険だというのもうなずけた。

 

 木綿季はやはり慣れているのかさほど息を切らさずに両手を前後に振りながら、うんせっほいせっと元気よく坂を上っていた。一方で和人は足取り重く、歩く速度が段々と落ちてきてしまい、木綿季からおいてけぼりを喰らう羽目になっていた。息も絶え絶えになり、汗も噴き出て、腿のあたりが悲鳴を上げていた。とても剣道実力者だとは思えない姿だった。

 

 

「ぜぇ……ぜぇ……、木綿季……ちょっと、ま……待ってくれ……」

 

「うんー?」

 

 

 木綿季が和人の声掛けで振り向くと、そこには肩で息をしながら、膝に手を着いてしまっている彼の姿があった。木綿季の家までまだ上り坂は続くのだが、三分の一ほど歩いた時点で和人はもう限界といった様子だった。いつもは何かと和人の案内で色んなところにいっていた木綿季であったが、今回ばかりは地元民である彼女にアドバンテージがあったようだ。

 

 

「ちょっと和人……大丈夫?」

 

「……ぜぇ……ぜぇ……」

 

「……もう、しょうがないなあ……」

 

 

 木綿季は5メートル程下で息があがっている和人に駆け寄ると前かがみで和人の顔を覗き込むようにして声を掛けた。和人は汗が噴き出した額を右手で拭うとやつれたような顔で木綿季を見つめていた。

 

 

「お、お前……こんな坂を毎日上り下りしていたのか……」

 

「うーん、こっちの坂じゃないけど学校行くときは毎日上り下りしてたよ? だから慣れ……かな?」

 

「お前……本当に病み上がりか……?」

 

「和人が体力なさすぎなんだよー! ボクより強いのにさー」

 

「……腕前と……体力は比例しないものなんだ……」

 

「……そこえばるとこじゃないでしょ? ほら、引っ張ってあげるから頑張って」

 

 

 木綿季はそう言いながら和人の左手を右手で掴み、強引に引っ張り上げるようにして坂を一緒に上っていった。和人はまだ息が整っていなかったが、木綿季に腕を引っ張られると、それに導かれるかのように足取りは重いまま先に進んでいった。完全にいつもと逆の立場だった。

 

 その後も急坂は続き、幾度もくねくねしたカーブを曲がり、二人は木綿季の家を目指して歩を進め続けた。頑張って坂を上り続けると急坂が終わったのか、少しずつ傾斜がゆるくなっていった。和人も木綿季に引っ張ってもらっていたこともあり、先ほどよりは体力の消耗が抑えられている様子だった。一方で木綿季は呼吸一つ乱さずに坂を上り続けていた。

 

 

「もうこれで坂道は終わりだよ」

 

「よ、漸くか……、もう……足がガクガクだ……」

 

 

 急坂ゾーンを抜けると、そこには坂の下とは違って新築の家が目立ち、一軒一軒がごちゃっとしておらず、綺麗な住宅街で、まるで坂の下と上で違う街に来ているかのようだった。緩やかな坂を歩いていると前方右手に広めの公園が視界に映っていた。結構上の方まで歩いてきたのだろうか? 坂の下にいたときと比べて随分と風が強くなってきたようだ。真冬に来ればきっと凍えてしまうことだろう。

 

 

「つ……疲れた……」

 

「情けないなあ、明日奈は息一つ切らしてなかったよー?」

 

「……何者だよ、あいつ……」

 

「まあ……明日奈の超人っぷりはともかくとしてさ、ボクのお家……もうすぐだよ」

 

「……どこだ?」

 

「あの公園の向かいに……あるんだ……」

 

「……そうか、本当にあとちょっとだな」

 

 

 木綿季はかつて暮らしていた自分の家の、十数メートル手前の位置にまで近づいていた。途中まで和人のお守をしながらだったためあまり意識していなかったが、いよいよだと思うと改めて自分が緊張していることに気がついた。そして一旦意識しだすと、心臓の鼓動がどんどん早くなっていっているのも感じていた。心臓がドクンドクンと脈打つたびに、呼吸が荒くなり、額からも汗が噴き出ていた。

 

 和人は自分の呼吸を整えながら、すぐ傍で胸の辺りを抑えている木綿季の異変に気が付いていた。彼女の呼吸がどうして荒くなっているのかもわかっていた。だから、握っていた手を再度握り返した。木綿季が一人で遠くにいってしまわないように、お前には俺がいると安心してもらうように、優しく包み込むようにして握り続けた。

 

 

「行こう木綿季、大丈夫だ……俺がついてる」

 

「……う、うん……」

 

 

 木綿季は自分を落ち着けるために大きく息を吸い、また大きく吐き、ゆっくり目を閉じて瞑想するかのように無言で佇んでいた。そして十数秒ほど目を閉じ続け、覚悟を決めたのか目をパッチリと開け「よし」と気合を入れなおし、和人の手を握りながら一歩一歩、歩み進んでいった。和人も今度は置いていかれないように、木綿季の歩行速度に合わせて足を動かしていった。

 

 一歩、また一歩、脚を前に動かすたびに目の前の景色が自分に迫ってくる。左手に見える一軒家を二軒通り過ぎると右手に楕円上の形をした広い「明神台公園」が広がっていた。そしてその方向と逆に視界を移すと、赤い屋根に白い壁の家屋が佇んでいた。左側に見える庭らしき場所には土埃で汚れたイスとテーブルが置かれており、枯れた芝生と朽ちた植木が生えていた。玄関周辺は雑草が生い茂ってしまい、長年誰も足を踏み入れていないということを物語っていた。

 

 その建物の一番外側にある門柱には「紺野」と書かれた表札がつけられており、ここが紛れもなく木綿季の家だということを表していた。四年間留守にしていたが、木綿季は再び故郷に帰ってこられたのだ。今は誰も住んでいないが、数少ない木綿季の居場所の一つだった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「わあ……」

 

「ここが、木綿季の家、なんだな……」

 

「うん……、また直接来られるとは思ってなかったよ……」

 

「…………」

 

 

 木綿季はかつて自分が暮らしていた家を見上げ、隅々までまじまじと見つめていた。何度も出入りした玄関のドア、どろんこになるまで姉と走り回ったり、バーベキューをしたり、父と本棚を一緒に作った思い出のある庭等、次々に視線を移していった。四年ぶりに訪れた自分の家は、懐かしいようでいて、それとなく尊い存在のように感じた。

 

 

「……中に入るか?」

 

「え……、あ……う、うん……」

 

 

 和人は木綿季から預かっている家の鍵を鞄から取り出すと、彼女にそれを手渡した。セキュリティ技術が進んだこの時代に、紺野邸はカードキーではなく、普通の金属で出来たアナログな鍵を使用していた。和人から鍵を受け取った木綿季はそれを握り締め、一歩一歩足を前に動かし、四年ぶりに自分の家の敷居を跨いだ。入院する前より身長が伸びたせいか、その目に映る光景は昔より少し違って見えていた。

 

 倒れている植木鉢を通り過ぎ、石で出来た玄関前に足を踏み入れ、黒い扉の前で立ち止まり、ゆっくりと握っている鍵を鍵穴に差し込み、時計回りに90度捻った。幸い扉は四年間ほったらかしにされていたにも関わらず「カチャ」という音を立てて正常にロックが外された。二つ取り付けられた鍵穴のもう一つの方にも差し込んで、同じようにロックを外した。あとはこのプッシュプル錠タイプのドアレバーを手前に引けば、屋内へと入れる状態となっていた。

 

 

「…………」

 

 

 この扉の先には何が待っているのだろう? 楽しかった思い出? つらかった記憶? 懐かしさ? それとも違う何か? 考えても考えても想像がつかなかった。ただ一つ言えることは、もう一度この家の中に入って、木綿季自身が体と心で、全てを感じ取らなくてはならないということだった。

 

 木綿季はドアレバーに手を掛け、ギュッと握りしめた。しかし手が震えて中々手前に引くことが出来なかった。ドアを開けることが出来ずに困っていると、和人が背後から近づき、木綿季の肩越しに腕を伸ばし、彼女の手に自分の手を重ねてた。それに気付いた木綿季はすぐ近くにある和人の顔を見つめた。そこには自分の大好きな男の子が「大丈夫だ」と自信に満ちた表情で見つめ返していた。

 

 和人と視線を交わした木綿季はまだ少し心に不安を抱えながらも、二人で一緒にドアレバーを力強く手前に引いた。扉はギィッという音を立てながらゆっくりと開かれ、その拍子に四年分溜まった塵や埃が少しだけ舞い上がった。

 

 和人と木綿季は舞った埃を手ではらいながら玄関にあがり、紺野邸の一階内部を見回していた。白い壁紙に床はフローリング、奥には二階へあがる階段が見え、左手にはリビングへと続く通路があり、リビングには明るい木目調のテーブルに、同じ柄の椅子が四つ備え付けられていた。その奥にはキッチンがあり、窓からは外からも見えた庭が視界に映っていた。どこも埃などで汚れてしまってはいたが、劣化などはしておらず、ちゃんと掃除すればまだまだ使えそうな印象を受けた。

 

 

「ただいま、なのかな……」

 

「そうだろうな……」

 

 

 和人は鞄から携帯スリッパを二人分取り出し、一つを木綿季に手渡し、一つを自分の足元に置き、靴を脱いで先に玄関から上がり框に足をついていた。先にあがった和人は木綿季がスリッパに足を通すのを待ち、履き終えた彼女に手を差し伸べ、引っ張り上げた。木綿季は小さい声で「ありがと」とだけ言い、一階のリビングへと足を運んでいた。

 

 

「…………ッ」

 

「ここは……リビングか」

 

「……うん、ここで毎日、ママの手料理を食べてた。クリスマスパーティもお誕生パーティもここでやったんだ」

 

「そうなのか……、楽しかったんだろうな……」

 

「……そうだね、すっごく楽しかった……」

 

 

 木綿季はかつて自分の母親が作った料理が並べられていたテーブルの上を見つめていた。母親の愛情がこもった手料理はいつもここで食べていた。時に共に笑い、時にお行儀が悪いと怒られ、時に誕生日をお祝いしてもらい、逆にお祝いしたり……、短い間だったがとてもたくさんの思い出が詰まっていた。木綿季は自分がいつも座っていた窓際の席に近付き、テーブルにそっと手を当てた。掌には少しだけ埃がこびりついてしまっていた。

 

――――――

 

(木綿季、お誕生日おめでとう!)

 

(わぁ……、パパ、ママ、姉ちゃん! ありがとう!)

 

(さあ、ロウソクの火を消そうか……)

 

(うん! ボク、一気に消してみせるからね!)

 

(あははは! 頑張れ、木綿季!)

 

――――――

 

 

「…………」

 

「木綿季……」

 

「……ママが料理してる姿をね、ここで座りながら毎日楽しみに見てたんだ。今日は何が出来るんだろう、どんなものが食べられるんだろう、ってね……」

 

「…………」

 

 

――――――

 

(ママ、今日は何作ってるの?)

 

(さあ……何かしらね?)

 

(えっとね、ビーフシチュー!)

 

(うふふ、当たり! においでわかっちゃったかしら?)

 

(やったー! いっぱい食べるぞー!)

 

(でも、食べ過ぎないようにね?)

 

(分かってるよー!)

 

――――――

 

 

「ママの料理……美味しかったな……」

 

「…………」

 

 木綿季はテーブルから離れ、庭が見える窓際へと歩いていった。開きかけのカーテンをゆっくりと開き、窓の外を見てみると、ところどころ枯れた芝生に朽ちた植木、汚れた白いテーブルと倒れた椅子が目に入った。木綿季はその光景を寂しそうに、切なそうに見つめていた。

 

 

「この家で暮らしたのは、ほんの一年たらずだったんだけどね。でも、あの頃の一日一日はすごくよく覚えてる……」

 

「…………」

 

「あの庭でいつも姉ちゃんと走り回って遊んでた。バーベキューしたり、パパと本棚作ったりもしたよ」

 

「……そう……か……」

 

 

――――――

 

(パパ、これはどうするの?)

 

(それはね、ここの部分にはめてくれないか?)

 

(えっと……こう、かな……?)

 

(そうそう、木綿季は器用だね)

 

(えへへ、ボクだってこれぐらいは出来るよー!)

 

(あははは、そうかそうか!)

 

――――――

 

 

「……パパ……」

 

「…………」

 

 

 和人は木綿季と同じようにリビングの窓から庭を見下ろしていた。確かに朽ち果ててしまってはいたが、それなりに広く、子供なら十分に動き回って遊べるだけの広さがあった。木綿季は幼い頃、父親と一緒に日曜大工をやっていた。幼いながらも父親の役に立とうと、一生懸命に手伝いをしていた。

 

 学校から帰ると毎日庭で姉の藍子とどろんこになるまで遊んでいた、AIDSを発症するまで、毎日毎日夢中で、日が暮れるまで……。

 

 

――――――

 

(木綿季! 待ちなさい!)

 

(こっちだよー! 姉ちゃーん!)

 

(ちょこまかと……そりゃ!)

 

(わわっ!)

 

(さあ捕まえた!)

 

(うぅー! 放してよー!)

 

(遊ぶのはこれまで! まだ宿題やってないでしょ?)

 

(はぁーい……)

 

(終わったらまた一緒に遊ぼう?)

 

(う……うん!)

 

――――――

 

 

「…………」

 

「二階は何があるんだ?」

 

「……二階はパパとママの寝室と、ボクと姉ちゃんの……お部屋があるんだ」

 

 

 二人はリビングを出て左手にある、二階へと続く階段のある方を見つめていた。紺野邸は全体的に細長く、無駄に広い桐ヶ谷邸と違って比較的シンプルな間取りとなっていた。しかし高台の上に建てられていることもあってか、星川町と月見台の街並みを見降ろせる光景は目を見張るものがあった。

 

 

「……行くか?」

 

「…………」

 

 

 和人に声を掛けられた木綿季は廊下まで足を運ぶと、二階へと通じる階段の前で立ち止まり、じっと二階のある方を見つめていた。階段の上にも埃が積もっており、やはり誰もここを行き来していないということを物語っていた。物音一つせず、ただただ静けさと屋外からの小さな雑音だけが、紺野家の屋内に響いていた。木綿季はしばらく階段を見つめた後、両手を胸に重ねて物思いにふけっていた。

 

 この二階には木綿季の両親の寝室と、姉である藍子と共同で使っていた子供部屋がある。木綿季を誰よりも近くでずっと見守り続けてくれた、たった一人の姉と過ごした部屋が。誰よりも大好きだった姉ちゃんとの思い出の部屋が……。

 

 和人は玄関から上がったときと同じように一足先に足を階段に踏み入れ、木綿季の手を引っ張って二階へ上がろうと彼女に手を差し伸べたが、木綿季は床を見つめて項垂れてしまっていた。楽しい思い出がつまった家だったが、生活感がなく、もぬけの殻だということを目の当たりにすると、自分以外の家族はもうどこにもいないんだなということも、肌で感じ取ってしまっていた。

 

 

「……木綿季?」

 

「……和人、もう大丈夫。帰ろう」

 

「えっ……?」

 

「もう充分だよ……帰ろ?」

 

「いや……、でもまだ全部見てないんじゃないか? お姉さんとの部屋とか……」

 

「いいの、もう充分だから、満足だから……帰ろう?」

 

「…………」

 

 

 まだ家の中全てを見ていないというのに、木綿季は階段を背にして玄関に向かい、そそくさと歩いて紺野邸を後にしようとしていた。和人は木綿季の突然の行動に呆気にとられ、目を丸くしてきょとんとしてしまっていた。本当に木綿季は満足なのか? たったこれだけを見て回って、心に決心がついたというのか? 全部感じ取れたというのか? 過去と……家族とちゃんと向き合えたのか?

 

 

「お、おい……木綿季!」

 

「…………」

 

 

 スリッパを脱いで靴を履こうとしている木綿季に慌てて和人が駆け寄り、肩に手をやり制止させると、木綿季は無言でその場に立ったまま動かなくなってしまった。和人の手からは、木綿季の身体が小刻みにぷるぷると震えているのが感じられた。一見懐かしい思い出に浸って、心静かに家族と向き合っていたかと思えたが、家族がもういないということを感じ、決して表に表さないよう心の中で我慢をしていたのだった。

 

 

「大丈夫……だから……」

 

「木綿季……」

 

「だい……じょ……ぶ……だか……ら……」

 

「……木綿季……?」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 木綿季の目からは、かつてないほどの大粒の涙が滴り落ちていた。流れても流れてもその勢いは止まらず、どんどん次から次へと溢れ出ていた。彼女はやはり無理をしていたのだ、温かい家庭に迎え入れてもらったとはいえ、肉親を全て失った悲しみはそう簡単に消えはしなかった。病気が治り、仮想世界から現実世界に無事帰還し日常に溶け込めば溶け込むほど、尚更その悲しみは強みを増していくばかりであった。

 

 

「ゆ、木綿季……」

 

「あ……あ……」

 

 

 和人はかつて見たことがないぐらい悲しい顔を見せた木綿季に駆け寄り、たまらず両手を彼女の背中に回し抱き締めていた。木綿季が背負っていた悲しみは家族を亡くしたことだけではない、生まれたときからHIVウィルスに蝕まれ、凄惨な想いをしながらいじめられた幼少時代を過ごしていた。

 

 やがてAIDSを発症し、親離れするよりも早く無菌室に隔離され、メディキュボイドの狭く暗い部屋の中で三年もの長い間、たった独りで孤独な時間を過ごし続けていた。その小さい背中に積み重なり続けた悲しみが、今どっと一気に重みを増してのしかかってきたのだ。

 

 

「あ……ああぁ、あああぁぁぁ……、うああああぁぁぁぁあ!!」

 

「木綿季……」

 

「あああぁぁ……あ……ああ……ッ」

 

 

 木綿季は和人に抱かれると、和人の胸倉を掴み、耳をつんざくように泣き叫び、大粒の涙を滝のように流し続けた。流れ続ける涙は木綿季の頬を伝い、和人の衣服を濡らし続けた。和人は木綿季の悲しみを受け止めるかのように、優しく木綿季を抱き留め続けた。

 

 

「パパ……ママ……、ねえ……ちゃん……、あ……あぁ……」

 

「…………」

 

「何で……? 何で死んじゃったの……? 何で……? 何で……?」

 

「ゆう……き……」

 

「何でボクだけ置いて逝っちゃったの……、何で……」

 

「…………」

 

「やだよ……独りはやだよ……ボクを独りにしないでよ……」

 

 

 普段中々弱音を吐かない木綿季であったが、今まで積み重なってきた分全てを吐き出すかのように、涙と共に表に出していた。和人はそんな木綿季の涙や言葉全てを受け止め、震える彼女を抱き締め続けた。苦しみ悲しみを分かち合い、共に将来の糧とするために、木綿季の全てを受け止めていた。

 

 

「木綿季……頑張った、よく頑張った……。あの暗い部屋でたった独りで三年間も……本当によく頑張った……」

 

「えぐっ……ひぐっ……」

 

「でもな、もう頑張らなくてもいいんだ、16年間も頑張り続けたんだから……。もうゆっくりしていいんだよ……」

 

「かず……と……かずと……」

 

「俺が傍にいる、ずっとお前の傍にいる。何があってもお前から離れない、絶対に寂しい思いはさせない……」

 

「かずと……かずと……、う……あ……あ……」

 

 

 それから木綿季は16年間心の中に溜め込んだものを、すべて吐き出し、泣き続けた。泣いても泣いても涙は止まらずに溢れ続けた。一生分の涙をここで出し尽すかのように、ただただ和人の胸を借りて泣き続けた。後にも先にも、ここまで木綿季が涙を流すのはもうここだけだろう……。

 

 

――――――

 

 

「……ッ……ッ」

 

「木綿季……」

 

 

 木綿季はあれからひたすら悲しみと一緒に涙を流し続けた。十数分間泣き続け、和人の衣服をぐしょぐしょに濡らしていた。和人は木綿季が落ち着くまで抱き続け、彼女が泣き止むのを待っていた。やがて抱き留めていると、次第に木綿季の涙は引っ込み始め、顔を真っ赤に染めながらも呼吸も落ち着いてきていた。

 

 和人は木綿季の背中に回していた右手をゆっくり彼女の頭へと運び、優しく丁寧に掌で撫で、ぽんぽんと叩いていた。和人の胸に顔を埋もれさせていた木綿季は閉じていた瞼を開けると、ゆっくりと和人から体を離し、自分の目を上着の袖でゴシゴシと擦って涙を拭った。目と頬っぺたは泣きじゃくった影響ですっかり真っ赤になってしまっていた。

 

 

「ごめんね和人……、もう大丈夫……」

 

「……無理してないか?」

 

「うん、大丈夫。泣いたら……少しすっきりしたから……」

 

「……そうか……」

 

「ありがと……かずと……」

 

「……気にするな」

 

 

 木綿季はひとしきり泣いてすっきりすると、和人の手を握り、玄関とは反対の方向の階段へと向かって歩き始めた。ようやく本当の意味で心の整理がついたのだろう。まだ全部とまではいかないがこれまでの人生の悲しみを吐き出し、少しだけ家族の死を乗り越えられたようだった。二階へと続く階段に足を踏み出し、一歩、また一歩と、一段一段階段を上っていった。和人も手を引かれながらそんな彼女の後に続いて階段を上がっていった。

 

 階段を上がると目の前には廊下と、部屋の扉が二つ視界に映っていた。手前の部屋は木綿季の両親が使っていた寝室、奥の部屋は藍子と共同で使っていた子供部屋。木綿季はまず手前の寝室のドアに手を掛けて、中の様子を覗いてみた。この部屋には数えるほどしか入ったことはないが、思い出深い場所だった。両親が寝ている深夜にこっそり忍び込み、間に挟まるようにして寝たこと、四人仲良く川の字になって愉快に寝たこと、楽しい思い出があったのだ。

 

 

「……あはは、すっかり埃だらけだね……ここも」

 

「……そうだな、流石にマットとかは劣化しちゃってるみたいだな……」

 

 

 寝室の奥にあるかつて両親が使っていたダブルベッドは、時の経過ですっかり繊維がボロボロになり、朽ち果てていた。掃除でどうこうなるものでもなく、使うにはマットや掛布団を全て買い直さなければならないほどだった。他に目立った家具はなくここもやはりあちらこちらが塵や埃ですっかり汚れていた。

 

 

「昔……かくれんぼでここのベッドに隠れたことがあってさ、シーツとか滅茶苦茶にして……ママに怒られたことがあるんだ」

 

「あはは、確かに木綿季の小さい体じゃ隠れやすいかもだな」

 

「む……昔の話だよー! 今は成長期だから身長伸びてるもん!」

 

 

 四年前の身長が、今とそんなに変わってないだろうと思った和人であったが、下手なこと言って機嫌を損ねられても面倒なので、またもや敢えてコメントを控えていた。木綿季はそんな和人の表情を見て、何か腹に一物持っているなと踏んでおり、どうせ野暮なことでも考えているのだろうと見抜いていた。木綿季の前で和人は隠し事は出来ないのだ。

 

 両親の寝室を後にした二人は残された最後の部屋、木綿季と姉の藍子が使っていた子供部屋へと足を運んだ。ドアの真ん中には、紺野姉妹の手作りだと思われる「あいことゆうきのおへや」と書かれた可愛らしいプレートが吊り下げられていた。そのプレートを見て、木綿季は思わず笑みをこぼしていた。もう過去との思い出で悲しい想いはしていないようだった。

 

 

「開けるね」

 

「……ああ」

 

 

 木綿季は自分の部屋のドアレバーに手を掛けるとゆっくりと反時計回りに捻り、手前に引いた。部屋の中はフローリングの床の上にボロボロになった藍色と紫色を基調としたカーペットが敷かれており、その上に姉妹が使っていたと思われる、淡い木目調の勉強机が二つ隣り合わせに並んで置かれていた。机の上には何もなく、勿論引き出しの中も空っぽになっていた。昔使っていた筆記用具やノートの一冊や二冊でもあると思ったが、全てもぬけの殻となっていた。

 

 

「死ぬ前にパパとママがね、家の中の整理を全部やってったんだ。捨てるものは捨てちゃって、大事な物は全部倉橋先生に預けていったの。この家の権利書とか、通帳とか……」

 

「そうだったのか、だから思ったより片付いてたんだな」

 

「……うん」

 

 

 木綿季はかつて自分が使っていた勉強机の上に手を当て姉との懐かしい思い出にふけっていた。一緒に勉強したこと、二人そろってごろんとだらしなくカーペットに横になってダラダラしていたこと。両親に内緒で誕生日パーティの計画を企てていたこと等、さまざまな思い出が脳裏をよぎっていた。試しに横になってみたかったが、敷いてあるカーペットがボロボロになっていたのでそれは叶わなかった。

 

 

「懐かしいな……、姉ちゃんとはいつも一緒だったんだ。勉強してる時も、遊んでいるときも、入院してるときも、仮想世界でも……ずっとずっと一緒だった。」

 

「……木綿季は、姉さんのことが大好きなんだな……」

 

「うん、一番大好きだった。パパとママより、誰よりもボクのことを気にかけてくれてて、いつも面倒見てくれてた」

 

「……そうか、俺も会ってみたかったな……木綿季の姉さんに……」

 

「会って……どうするつもりなのさ」

 

 

 藍子に会ってみたいと一言漏らした和人の顔を、木綿季なジト目でじぃーっと見つめていた。そんな彼女からの視線に気付いた和人はただならぬ雰囲気を木綿季から感じ取っていた。そして少しだけ怒っているかのような印象も感じられた。

 

 

「べ、別にどうもしないって! ただ……会って話をしてみたかったなってそう思っただけだよ! 別に他意はないって!」

 

「……むぅ、それなら別にいいんだけど……」

 

「……お前、もしかしてヤキモチ妬いてるのか?」

 

「べ、別に! そんなんじゃないもん……」

 

 

 先ほどまで悲しく泣いていた時とは打って変わって、今度は感情豊かに実の姉に対してヤキモチを焼いていた木綿季であった。ボクの和人に手を出すなら、例え姉ちゃんでも承知しないよとすごみそうな勢いであった。

 

 ほどなくして木綿季たちは部屋の窓を開け、ベランダに出ていた。そこからの景色は絶景であり、星川と月見台の街並みが一望できる素晴らしい眺めとなっていた。横浜のシンボルでもあるランドマークタワーも遠くにしっかりとその姿を確認出来ていた。和人たちはしばらくベランダに佇み、一緒に遠くの風景を眺めていた。高台の上に建っているせいか風が強く、少々寒かったがさほど気にはならなかった。

 

 

「このお家ね、ボクがもし死んじゃった場合、権利が叔母さんに移る予定だったんだ」

 

「……叔母さんに……?」

 

「うん、叔母さんはここをコンビニにするか売っちゃいたかったんだって」

 

「……随分勝手な叔母だな、自分の家でもないくせに……」

 

「前に明日奈と一緒に来た時もね、似たような話をしたんだ」

 

「……明日奈と?」

 

「……うん、ここがゆくゆくは取り壊されちゃうことを話したんだ。そしたら明日奈なんて答えたと思う?」

 

「え? さ……さあ……」

 

 

 木綿季はベランダの柵に両腕を乗せ、さらにその上に自分の顔を乗せて外の風景を眺めながら、嬉しそうに、そして切なそうに語り続けた。

 

 

「明日奈がね、16になったら好きな人と結婚すればいいって言ったんだ。そしたらその人がずっとこのお家を守ってくれる、ってね……」

 

「も、物凄いこと考えるな……アイツ……」

 

「ホントだよね、ボクも驚いちゃったよ! ジュンといい雰囲気じゃないーとか言い出してさ」

 

「……そうか」

 

「でもボクは、だめだめあんなお子様じゃー! っていってフっちゃった♪」

 

「あははは! 付き合う前からフラれちゃったんだな、ジュンは」

 

 

 密かにジュンから寄せられてた想いに気付くことも無く、本人がいないところで木綿季はジュンをフッてしまっていた。しかしそんなジュンも、叶わぬ恋と知っていながらも、木綿季のことを応援していたのだ。和人にまかせれば木綿季を幸せにしてくれる、そう信じて木綿季を和人に託したのだ。互いに男同士の誓いを立ててまで……。

 

 

「ねえ、和人……」

 

「……何だ?」

 

「も、もしもね……、もしもボクが……け、結婚してって言ったら……か、和人は……受け入れてくれる……?」

 

「…………」

 

 

 木綿季からの突然のプロポーズにも近い質問に対し、和人はすぐに返事を返さずに空を見上げて考え込んでいた。時に目を瞑り、時にランドマークタワーに視線を移し、時に木綿季本人を見つめていた。大胆な質問を投げかけた木綿季は先ほど泣いていた時とは別の意味で顔を真っ赤に染めていた。しかし和人は一向に木綿季からの質問に答えるような仕草は見せなかった。

 

 

「……やっぱり、答えられないよね……」

 

「…………」

 

「ご、ごめんね? 変なこと言って困らせちゃって……」

 

「…………」

 

「も、もう戻ろうか、倉橋先生にも連絡して病院に行かないと……」

 

 

 木綿季が先ほどのやり取りの恥ずかしさと気まずさを誤魔化すかのように、そそくさと来た家の中に戻ろうと足を動かそうとした瞬間、和人が途端にむんずと木綿季の手首をがっちりと捕まえた。急に腕を掴まれた木綿季は和人の方を振り返り、目を丸くして驚いていた。

 

 

「な……、何? かずと……」

 

「……木綿季、聞いてくれ」

 

「え……? あ、う、う……ん……」

 

 

 木綿季が和人の方に体を向かせると和人は木綿季の両肩を両手で掴み、彼女をまっすぐと見つめ、真剣な表情でゆっくりと語り始めた。至近距離で見つめられている木綿季はまた顔を真っ赤にし、心臓の鼓動が激しく早くなっていくのを感じていた。

 

 

「俺な、今の学校を卒業したら大学に進学して、将来……こっちで職を探そうと思ってるんだ」

 

「……え?」

 

「それでな、そ、そのな、……い、一緒に……」

 

「……一緒に?」

 

 

 和人は一瞬木綿季から目を逸らし、大きく深呼吸をし、心の準備を済ませ、勇気を振り絞って新たに決意したことを彼女に伝えた。今世の一大決心ともいえる、和人の気持ちを……。

 

 

「一緒に、この家に住もう」

 

「……え……?」

 

「そ、それで……大学を卒業して、就職先が決まったら、その時に……お前に大切なこと(・・・・・)伝える……」

 

「……ッ」

 

 

 木綿季にはその先の大切なこと(・・・・・)の意味が何となくわかっていた。わかってはいたが、敢えてそれを今この場でほじくり出す様なことはしなかった。和人が決心してくれたことに水を差したくないし、差すようなものでもなかった。

 

 そして何より嬉しかった。ここで暮らすようになれば、思い出の詰まったこの家がまた息を吹き返すことが出来る。楽しい思い出をまた作っていける。大好きなこの場所で、大好きな人と、たくさんの思い出を作っていける。

 

 

「……ッ……ッ」

 

「えっ!? あ……す、すまん! 泣かせるようなこと言っちまって……」

 

「……違う……違うの……」

 

「……へ?」

 

 

 自分の一言で木綿季をまた悲しませてしまったと勘違いした和人は、慌てて木綿季の涙を持っていたハンカチで拭い、謝り続けた。しかし木綿季は首をフルフルと横に振り、それは違うと否定の態度を示して見せた。木綿季は自分の手で涙を拭いながら泣いていたわけを説明し始めた。

 

 

「嬉しかったの、和人の気持ちが……、嬉しくてたまらなくて……」

 

「……そ、そうだったのか……、よかった……」

 

「うん、ありがとう和人、ボク……すっごく嬉しい、本当に幸せ……」

 

「……俺も……木綿季がいてくれるだけで、幸せだよ……」

 

 

 和人は木綿季と新たな約束を交わしていた。実質、互いを一生の伴侶として認めたようなものだったが、敢えて答えを明確にはしなかった。まだ互いに未成年であることと、この他にもやらなくてはならないことが山ほどある。互いの気持ちを伝えるのは、それからでも遅くはないだろう。何しろ、今の木綿季には時間はたっぷりあるのだから……。

 

 それから20分ほど景色を眺めるとやがて木綿季は満足したのか、和人にそろそろ出ようと促し、紺野邸を後にすることにした。今日ここに来たことにより木綿季の迷いが吹っ切れたかどうかはわからないが、これからの人生を生きるための心の整理を、ある程度は出来た様子だった。少なくとも、木綿季の心に傷を残すと言う最悪のシナリオだけは避けられたようだった。

 

 ベランダから部屋に入り、窓のロックを閉め、部屋を出て階段を下って一階に降り、スリッパから靴に履き替えて玄関から外に出て、しっかりとドアの鍵も閉め、思い出の詰まった自分の家を後にした。敷地の外に出て、向かいの明神台公園の入り口の柵に腰かけ、最後にもう一度だけ、紺野邸の全貌を見上げていた。

 

 

「…………」

 

「……もういいのか? 木綿季……」

 

「……うん、今度こそ本当に満足だよ。少し気持ちの整理もついたし、大丈夫」

 

「……それなら構わないが……」

 

 

 和人も木綿季の隣に腰かけ、一緒に紺野邸を見上げていた。紺野邸の真後ろには丁度太陽が重なっており、後光が差し込んでいるかのような神々しい光景に見えていた。まるでこの家はまだ輝ける、活躍できるぞと和人たちに語り掛けているようだった。

 

「……戻るか」

 

「……そだね、戻ろっか」

 

 

 和人たちはそう言うと、柵から腰を上げバイクが置いてある星川駅目指し、来た道を戻るべく歩を進めていった。木綿季は来た道を戻りながら後ろを振り返り、いつかまた住むことになる真っ白な自分の家を笑顔で見つめていた。

 

 この時の木綿季には、ここに来る途中までの暗い雰囲気はまるで感じられなかった。木綿季は和人にここまで連れて来てくれたことと、これからの未来を見据えて返事をくれたことに心から感謝の気持ちを抱いていた。

 

 和人と木綿季は後方から浮ついた視線を感じながらも、しっかりと手を繋ぎ、月見台を後にした。ここにやって来たことで、木綿季の今後は大きく変わっていくことだろう。姓のこともそうだし、生き方そのものにも影響されていくことだろう。それがどのような形になるかはわからない。しかし、大好きな和人と一緒に共に前に進んでいくということだけはこれからも変わらないだろう……。

 

 木綿季は強く生きるために、新たな一歩を踏み出していた。

 

 




 
 何とか木綿季は過去と向き合えることが出来たようです。木綿季の歩んできた16年間は悲しいの一言では言い表せませんよね……。自分なら暗い空間に3年間もいたら耐えられません。おそらく死を選んでたことでしょう。

 木綿季は本当に強いです……。さて、日常編序盤も佳境です。次回で決着がつくことでしょう。どのような結果になるかは、皆様自身でお確かめください。
 
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。