時計の回転が緩やかになっていくのに連れて、周囲の景色も安定してきた。
周りの風景は──あまり変わっていない。
慣れ親しんだマルフォイ邸。その中の懐中時計を回した、あの部屋──ダフネ・グリーングラスの部屋だ。
ただ目の前にあった姿鏡が消えていた。それと、辺りにあった女性用のドレッサーやタンスなんかも。
しかし、シャンデリアやカーペット、壁紙なんかはそのままだ。
魔法界の純血達は、あまり家の改装を行わない。
どの家具も伝統のある最高級品だし、魔法でいつでも新品同様に出来るからだ。
いつもなら流石魔法と感心するところなんだが──今回ばかりは困った。どのくらい昔に来たのか分からない。
一体ここは、何年何月の何日なのか。
先ずはそれを調べなければならない。
……ふと、頭の中で嫌な予感がした。
原作での逆転時計は、一回りにつき一時間しか時が戻らなかった。
もしこの逆転時計もそうなのだとしたら、いくら本気で回したと言っても1日、2日が限界だろう。
──失敗した?
ブワッと汗が吹き出た。心臓も煩くなる。
──いや、それはない。
冷静になって考えて見れば、姿鏡やドレッサーがなくなっている時点で、ダフネ・グリーングラスがマルフォイ邸に住む前──つまり母上が嫁ぐ前という事になる。
落ち着け、冷静になれ。
この程度の事も直ぐに分からないなんて、どうやら俺はかなり動揺しているようだ。
そう、冷静になれ。この世界の母上と父上はまだ死んではいない。冷静になるんだ。
汗は直ぐに引き、心臓はいつも通りの一定音を刻み始めた。皮肉なものだ、ヴォルデモートに教わった精神安定法が役に立つとはな。
──とりあえず、部屋を出よう。
ドアに耳をくっつけて、周囲の様子を窺う……どうやら、幸いにして辺りには誰もいない様だ。
俺は杖を構えてから、出来る限り音を立てないようにしながら部屋を出た。
魔法を使えば臭いで感知されてしまうが……いざとなれば俺は魔法を使うつもりだ。魔法を使ったからって、直ぐに魔法省が来るって事はないだろう。その後の事を考えないのであれば、逃げられる。
それに杖を向けておけば、実際に使わないにしても、威嚇にはなるだろう。
この屋敷はかなり広いが……生まれ育った家だ。地図は完璧に頭の中に入っている。
俺は素早く、しかし静かに出口に向かった。
──!?
向こうの角から足音が聞こえてきた。
俺は直ぐ様『変身呪文』を使い、極小の虫になって隠れた。あいつが生存しているということは、臭いが反応したとしても、魔法省はマルフォイ邸には踏み込めないだろう。
はたして、角からやって来たのは──ヴォルデモートだった。
横に父上と知らない女性、それと陰気な男が付き添っていた。いや、微かに見覚えがある。それに、よく見れば父上とは細部が違うな。
あれは……
「セブルス、その情報は確かか?」
「はい、我が君。今日、ポッター家とロングボトム家に子が産まれました。男の子です」
「そうか……。俺様はお前からの情報に、非常に満足している。お前の望みは叶えられるだろう。──ルシウス、ポッター家とロングボトム家の場所はまだ分からないのか?」
「申し訳ありません、我が君。もう少しお時間をいただければ、必ず……」
「良い。相手はあのダンブルドアだ。元より、お前などが事を成せるなどとは期待していない。期待していないものに、どうして落胆出来ようか」
ヴォルデモートがせせら嗤った。
父上に良く似た男は、悔しそうに顔を歪めた。
間違いない。あの父上に良く似た男は──俺の祖父、ルシウス・マルフォイだ。という事はその隣の女性が祖母、ナルシッサ・マルフォイ。あの陰気な男は、セブルス・スネイプか……
当たり前というべきか、映画とは少し顔が違うな。
しかしポッター家とロングボトム家に子供が産まれたという事は……ここはつまり、1980年、7月31日ということか?
それはまた、随分と過去に戻ったな。
【1980:07:31:18:06:15】
【1980:07:31:18:06:16】
【1980:07:31:18:06:17】
俺は屋敷を出て、ゴドリックの谷へと向かった。
交通手段は箒だ。マルフォイ家には沢山の箒がある。一つくらい失敬しても、バレはしないだろう。
飛んでいる間は透明マント──勿論ハリーが持っている本物ではなく、透明化の魔法がかけられているだけの消耗品──を着用した。
──ここが、ゴドリックの谷。
ふむ。特に派手な所はないが、情緒があって良い所じゃないか。なんと言えばいいのか……そう、ノスタルジックというやつだ。
俺がいた世界では、ゴドリックの谷は既に焼き払われていた。
あの世界ではヴォルデモートが、純血こそが正義。それに反抗したハリー・ポッターは悪だったからだ。
悪が生まれた場所は、根絶やしにしなくてはならない。
事実、そうやって教育された俺と同世代の子供たちは、本気でそれを信じていた。
まあそんな事はどうでも良い。まだ始まっていないことなのだから。今はこっちの世界のことだ。
ここゴドリックの谷には──『忠誠の術』が掛かっている為見る事は出来ないが──ポッター家があるはずだ。
──先ずは一年、ここで待つ。
リリー・ポッターとジェームズ・ポッターが死に、ヴォルデモートが死ぬ日を見届けなくてはならない。
無いとは思うが、ここでハリー・ポッターが負け、ヴォルデモートが死なないという事もあるかもしれないのだから。
それに、他にやるべき事もある。
良し、じゃあ一年間待つか。
「……」
──どうやって?
金も無いし、未成年だから魔法も使えない。それに、逆転時計を使っての逆行中は、あまり他人に干渉すべきではない。こんな状態で、どうやって生きていけば良いんだ?
人が生きていくのに必要な衣・食・住が一つもない。
さて、どうしたものか……
◇◇◇◇◇
あれから一年と三ヶ月。
今は1981年10月31日。つまりは、ヴォルデモートとポッター夫妻が死ぬ日。
寒い。
ゴドリックの谷は雪に包まれた。
魔法が解けてただのマントになった、旧透明マントを羽織って、下に降りる。
良い匂いが鼻を駆け抜けた。
「おはようございます、神父様」
「おはようございます、ジョン。ちょうど良いタイミングでしたね、朝ごはんが出来ましたよ」
古びた木製の机に、スープとライ麦パンが置いてある。
味は薄いが、温かいスープ。
マルフォイ家の豪華な食事とは比べるべくもないが……ふむ、美味しい。
俺はゴドリックの谷にある教会にやっかいになっている。ここの神父様はお優しく、何も聞かずに俺を置いてくれた。
普段はここで掃除をしたり、神父様のお手伝いをして過ごしている。
ちなみにジョンと言うのは俺の事だ。今はジョン・タイターという偽名を使っている。もし神父様が俺の事をマルフォイと呼んで、それがポッター夫妻の耳に入ったら事だ。
最初の頃は森で鹿でもとって自生して暮らそうかとも思ったのだが……一週間もせず諦めた。
野生動物はとてもじゃないが捕まえられないし、食べられる野草やキノコの知識もない。
少なくとも17歳──成人になるまでは、誰かの手を借りなければ生きてはいけないだろう。
「僕、表を掃除をしてきます」
「おや、いいのかい。それならお願いしようかな。教会が綺麗だと、お祈りに来てくれる人も気分がいいだろうからね」
俺には大き過ぎるほどの神父様の修道服を着て、すっぽりとフードを被り、外に出た。父上譲りのプラチナブロンドは誇りでもあるが──こんな時は目立ってしまってしょうがない。
教会の前を掃除しながら、辺りを警戒する。
月に二、三度、ダンブルドアと思わしき老人がここを訪れる。恐らく、ポッター家に食料や情報を届けているのだろう。
俺はその様子をこっそりと観察し、ポッター家の位置に大体の当たりをつけていた。
教会前の赤い屋根の民家とレンガ造りの家の間。間違いなく、そこにポッター家がある。
──来た。
ヴォルデモートだ。
たった一人。死喰い人は連れていない。当然だ、あいつが自分の弱味を他人に見せるわけがない。
ヴォルデモートは何やら羊皮紙を広げて見た後に、何もない空間に入っていった。
──羊皮紙を捨てた!
俺は慌てて駆けつけ、ヴォルデモートが捨てた羊皮紙を拾った。そこにはポッター家の住所と思わしき座標が、汚い字で書いてあった。
気がつくと、目の前に家が表れていた。
ここが、ポッター家!
近くて遠かったこの場所に、漸く来れた!
玄関に立っていると、家の中から女性の悲鳴と赤子の泣き声が聞こえてきた。
鍵は──開いている!
俺は扉を音を立てないように慎重に開けて、静かに階段を上がった。
そこには、赤毛の女性の死体と、ヴォルデモートの死体と、泣きじゃくる赤子がいた。
間違いなく原作通り、ハリー・ポッターがヴォルデモートを殺したのだ。
「ハリー・ポッター……」
「あだ」
俺がその名を呼ぶと、彼はクリクリとした目でこっちを見た。
弱い力で、俺の指を握ってくる。
「なあ、どうしてお前は負けたんだ……?」
「だあ?」
答えが返ってくるはずもない、か。
そんな事より、早く隠れなくては。これから来る本命に備えて。
「……」
タンスの中に隠れていると、ドタドタと階段を駆け上る音が聞こえてきた。
──来た、シリウス・ブラックだ。
過程を変えずに、結果を変える。
逆転時計を使う際の制約。
大元の『ハリー・ポッターシリーズ』に干渉せず、周囲の環境を変え、結果を変える。あの世界を回避する。
俺が思い描くプランには、シリウス・ブラックともう一人、あの人物の協力が必要不可欠。
だが、今はまだその時ではない。
今日は顔を見ておくだけだ。然るべき時に備えて。
「ジェームズ! リリー! ハリー! そんな……ピーターっ!」
シリウスはポッター一家の顔をそれぞれ見た後、杖を握り締めて立ち去った。
顔は見たぞ、シリウス・ブラック!
続いてやって来たのは、セブルス・スネイプ。
リリー・ポッターを抱き締め、涙を流した。
次にやって来たのはダンブルドア──ではなく、死喰い人達だった。
気がつけば、空には闇の印が上がっていた。彼らは異変を察知し、主人の元に馳せ参じたのだろう。セブルスは一瞬迷った後、リリーの遺体を置いて、ハリーを抱きしめて姿くらましした。
俺はタンスを出て、窓から下を眺めた。
下には死喰い人達がウヨウヨしている。しかし『忠誠の術』の効果でポッター家に入る事は出来ない。
「おやおや、ジョンが居ませんね。何処に行ったのでしょう……」
──なっ!?
神父様が俺を探して、教会から出てきてしまった!
奴らは、死喰い人は喜んでマグルを殺す。
どうする。どうすればいい。
──呪文は知っているだろう。
それは、出来ない。
ここで戦う事は、最も愚かな選択だ。
「すみません。プラチナブロンドの髪の少年を──」
閃光の音が聞こえてきた。
その直後に“ドサッ”という音。
俺はそれでも、ポッター家から出なかった。
ポッター夫妻の死体が、俺を見つめている気がした。
ポケットの中の懐中時計が、急に重さを増した様な気がした。
だが──しかし──時を戻したところで、どうすればいい?
魔法も何も使えない状態で、どうやってあの人を助ける?
俺一人で戦ったとして、倒せるのは精々二、三人。死喰い人どもは二十人以上いる。
俺は結局、何もせずその場を後にした。
最初の過去改変、それは一年間俺を育ててくれた人を殺す事だった。