わたしはガルミッシュ要塞から自分のカロリーナ艦隊に帰り着くやいなや、急ぎ出立の命令を出した。
その慌てぶりはともかく、今度こそガイエスブルクに行くと思っていた将兵は驚くほかない。
今度の行先は何と逆方向、それも最終目的地イゼルローン要塞を指示されたのだ!
考えられない命令だ。今たけなわである帝国の内乱をよそに叛徒側の領域に近付くとは。
そしてイゼルローン回廊の帝国側出口付近に艦隊を停泊させると、わずか二千隻のみ選ばれ、回廊に侵入する。他の艦は入らない。
もちろんわたしは回廊に入った側であり、艦を絞ったのはあまり数が多いと無用に警戒されて話ができないと思ったからだ。別にイゼルローンをどうこうするために来たのではない。逆にあまりにも少ないと要塞に辿りつかないうちに撃退されるか捕らわれるかしてしまう。
考えた末の艦隊規模である。
なるべく遅い方がいいとは願っていたものの、やはり途中で同盟軍の哨戒部隊に発見されてしまった。
だが哨戒部隊だけではせいぜい数百隻の規模だ。わたしの二千隻を相手にはできない。
思惑通りイゼルローン要塞の手前まで行って布陣できた。要塞の方でも二千隻といえば要塞巨砲トゥールハンマーで一瞬にして殲滅できる数であり、いったん静観の構えだ。
「でかいわ、やっぱり。」
目の前にあるイゼルローン要塞はあまりに大きい。
よくこんなものがある。これのために長いこと帝国と同盟が争ってきたのね。
ともあれ、わたしは直ちにイゼルローン要塞へ通信を送らせた。
「カロリーナ・フォン・ランズベルク伯爵令嬢です。応答願います。イゼルローン要塞へわたしは用事があります」
ここまではいい。
しかし、次の言葉に何万何十万もの人間が驚きで声を失った。たぶん一生で一番の驚きになったろう。
「イゼルローン要塞のトイレを貸して下さい」
えっ!? 今、何と言った?
慌ててスクリーンに出てきたのはヤン・ウェンリーではなかった。
まだ若いが落ち着いた雰囲気の整然とした人である。
「自由惑星同盟軍イゼルローン要塞副司令のアレックス・キャゼルヌ中将です。司令官のヤン・ウェンリー大将は間もなく来られますが、その、今何と言われましたか? 何か聞き違い、いや通信障害が起きたようなのですが」
すぐにキャゼルヌは横の士官に向いて、おい、早くヤンを起こしてこい、いいから奴さんを叩き起こせ! と言っている。
聞こえてるわよキャゼルヌ中将。
「通信障害? ではもう一度言いますが、そちらの要塞のトイレを貸してほしいんですの」
キャゼルヌは頭の痛い表情をした。
「小官の聞き間違いであればよかったのですが。伯爵令嬢、それはいったい何の話ですか? 何かの例え話でしたらもう少しばかり平易にお話し頂きたい」
「例え話? いいえ、トイレそのものです! 要塞にある、トイレです! おわかりになりました?」
「…… トイレは分かりました、いや分かりません。そちらの艦艇にもトイレはあるのではないですか。どんな宇宙船にもトイレがついているものです。帝国艦艇でしたら数までは知りませんが」
「それが、婦人用のものは壊れてしまいましたの」
「トイレはまさか一つではありますまい!」
「まあ、キャゼルヌ中将はわたくしに殿方用のトイレを使えと仰る。同盟軍ではご婦人は殿方用のトイレも使うんですの? 聞いたことがありませんわ!」
もう助けてくれ!
なんでトイレの話を要塞と艦隊の間でせねばならないのか。
キャゼルヌはもはやこれが夢か何かだと思うしかない。いや、そう思いたかった。
そのときやっとヤンが来た。制服に袖を半分通して、ベレー帽をユリアンに被せてもらっていた。遅刻をして校門まで走った学生のようだ。
キャゼルヌはとにかく早くスクリーンに出ろとばかりに引っ張り、袖をそのままにした不格好なヤンが出てくる。
「ええと、話は何だろう」
「ヤン司令官ですのね。ええ、そちらの要塞のトイレを借りる話ですわ」
「伯爵令嬢、トイレですか。困ったなあ」
「困っているのはこちらですわ! 同盟軍ではわたくしにトイレは貸さない、適当にそのへんでしてしまえと仰るんですか。それならわかりました。イゼルローンにわたくしのをかけて流体金属の表面を黄色にしてあげますわ!」
「それも困ったなあ。伯爵令嬢に黄色の要塞に変えられては。では仕方ありません。要塞にお越し下さい」
要塞司令部の皆が驚く。
「おい、ヤン! そんなのいいわけないだろうが! 要塞に帝国貴族を入れるとは重大な政治的案件、そもそも欺瞞の攻略部隊かもしれないんだぞ」
「いいじゃないですか、キャゼルヌ先輩。伯爵令嬢はたぶん一人で来ますよ」
わたしはシャトルで発進し、直ちに要塞宇宙港へ向かった。
乗るのはわたし一人だが、それでは操縦ができない。自動操縦のできる位置まで要塞に近づいてからの発進である。もちろんそこはトゥールハンマーの射程内だ。
要塞に着くと直ちにトイレに案内された。
カロリーナ艦隊の人間もイゼルローン要塞の人間も、誰もわたしがトイレのことで来たとは思っていない。
しかしわたしは本当にトイレに入りそして出てきた。シャトルでまた戻る。
そしてもちろん礼を言う。
「ありがとうございます、ヤン司令官。おかげで助かりました」
「それはどういたしまして。お互い様ですよ。またいつでも、とは言いかねますが」
「とにかくありがとうございます。お礼に今度は家に遊びにいらして下さい。キャゼルヌ中将のオルタンス夫人より料理は下手ですが、菓子ならそこそこ作れましてよ。これでも評判はいいのです」
「菓子ですか。せっかくですが甘いものは苦手なんです」
この会話に政治のせの字も入っていない。聞いているキャゼルヌやムライ少将以下要塞司令部の皆は困惑と拍子抜けの両方にある。
「あら、ヤン司令、ではお好きなブランデーでも入れて差し上げますか?」
「それなら食べられます」
「ふふ、お待ちしておりますわ」
会話はそれだけであった。
帝国の情勢とか、何らかの交渉とか、政治的なことは最後の最後まで一切言っていない。本当に道すがら寄っただけのような塩梅だ。そしてあっさりイゼルローン回廊から帰って行った。いったいどういうことなのか。
それと同じ時、ひどい騒乱に陥っている場所があった。
ガイエスブルク要塞である。
先のキフォイザー星域での戦いの様相が伝えられたからだ。
それは思いもよらぬ敗戦、戦力的にも精神的にも痛手は大きい。
貴族連合軍が艦の数では大いに優っていたのに、いいようにしてやられたのだから。
しかも、ラインハルトどころか辺境平定の任についていた赤毛の部下を相手に。
短慮な貴族の中には報復だ! すぐに雌雄を決すべし! と大声を上げる者もいた。逆に戦いに恐れをなして陰に隠れる者も、希望を失って後悔する者も、自暴自棄になる者もいた。ついにラインハルト陣営の軍事的実力が判明して思考が麻痺しているのだ。こんなはずではなく、一捻りで終わり、勝ち組に入れるはずだったのに。
しかし騒乱を抑える者もいた。
サビーネ・フォン・リッテンハイムである。
遺言に従い、今はリッテンハイム侯爵家の当主の座についている。母クリスティーネ・フォン・リッテンハイムは痛手から立ち直れず塞ぎ込んでいるのと対照的に泰然としたものだ。
「皆の者、うろたえるな。見苦しいぞ。妾は何も諦めてなどいない」
サビーネ、この少女とて父親を喪っているのだ。しかし表面上サビーネが取り乱しているのを見たものはいない。どのようにして悲しみを消化したのか、誰も知らない。サビーネは傲然とした態度に当主としてのオーラまでも身に付け、誰もを納得させる雰囲気を纏っていた。
そしてリッテンハイム派閥としてキフォイザーの戦いに艦隊を同行させていた貴族たちはサビーネの言葉によって落ち着きを取り戻した。
「うろたえた者は後で皆の笑いものになるだけじゃ。これからどんな戦いになろうとも、カロリーナがおる! まだあの者がおるのだ。我らは決して負けなどしない!」
具体的な軍事的方策としては貴族連合軍を統括するメルカッツ上級大将が既に定めてある。当初からのその案を繰り返した。
「よく分かったろう。兵の錬度も指揮能力も残念ながら向こうと大差がある。下手に分散せずこのガイエスブルク要塞の力を生かすしかない。ここから離れることなく冷静に対処するのだ。ガイエルブルクはイゼルローンに次ぐ強固な要塞であり、簡単には陥とされない」
しかしそのガイエスブルクへラインハルトから強烈な挑戦状が叩きつけられた。
「無能で臆病な貴族どもよ。そこの穴倉で死ね。せめて掃除の手間だけはかけさせるな」
この侮辱に貴族たちは一気に要塞から出て戦う意見に満ち満ちた。
もう抑えられない。盟主たるブラウンシュバイクも抑えようとしない。ここへきてもブラウンシュバイク自身はラインハルト陣営を侮っていたのだ。どうせ平民、この意識が正常な判断を致命的に歪めてしまう。
ついにガイエスブルクから主力となる艦隊が出兵した。
サビーネを中心とするリッテンハイム派貴族たちは静観した。どのみち艦隊はリッテンハイム侯の遺命に従いカロリーナに預けられていて、ガイエスブルクにはない。
これで更にブラウンシュバイクは上機嫌になる。
もうリッテンハイム家とは大きな差をつけた。負けて萎れたリッテンハイム家などいい気味だ。後は生意気なローエングラム公ラインハルトに勝てば、いよいよ帝国貴族の唯一の盟主の座は揺るぎない。
一貫して要塞から離れることに反対を続けるメルカッツは、一万五千隻の戦力と共にガイエスブルクに留まった。
それでもブラウンシュバイク公を中心とした貴族連合の十万隻以上が出撃していく。
対するはラインハルト陣営だが、こちらも続く戦いで多少数を減らしているとはいえ総数九万隻になる。
あのアムリッツァの輝きからそう時を経ないうちに、宇宙は再び大きく輝こうとしていた。