平和の使者   作:おゆ

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第六十話  1年 11月 大事な夜

 

 

 だがそれはあまりに大きな事件だった。帝国にとっても、個人にとっても。

 

「アンネローゼ・フォン・グリューネワルト、襲撃され重体」

 

 このニュースがオーディン中を駆け巡り、最も衝撃を受けたのはもちろんこの二人だ。

 銀河帝国皇帝ラインハルトの意識は、いきなり無彩色の世界に閉じ込められた。

 

「皇帝として命ずる! オーディンを直ちに封鎖! 事件の犯人は死亡したとはいえ、関係者を絶対に逃すな。手引きした者がいるはずだ。どんなことをしても真相を究明しろ。これが全てに優先する。なお、しばらく公務については余に代わりオーベルシュタインがとる」

 

 これだけ言うともはや動けなかった。

 誰もが病院にすぐ駆けつけ、アンネローゼの傍に行く思っていたのだが、ラインハルトにはその現実さえ見る気力がなかった。その事実を直視もできないほどアンネローゼの存在が大きい。

 

 キルヒアイスも似たようなものだ。この衝撃はラインハルトに優るとも劣らない。

 しかし責任感を振り絞り、一応病院に行き、アンネローゼの眠っているような顔を見てからラインハルトの元へ報告に向かった。

 

「キルヒアイス」

「ラインハルト様、アンネローゼ様は目をお明けになりませんが、医師の話では回復に向かってるそうです」

 

「キルヒアイス」

「ラインハルト様…… 何でしょう」

「お前は、どこへも行くなよ」

「行きません。ラインハルト様」

 

 宇宙を手に入れるのはこの三人が笑って暮らすため。それが唯一最大の望みだ。それが絶たれるかどうかの瀬戸際、ラインハルトにはその悲痛な言葉しか言えるものがない。

 

 

 だがラインハルトの立場は帝国皇帝である。

 それが動きを止めれば、代わって政務をとるものは多忙である。

 しかし、そのたった一人の者に同情したり気の毒に思っていたりする人間は皆無であった。

 政務を一身に引き受けているオーベルシュタインはそんな空気など無視し、やるべきことを行っている。

 

「オーベルシュタインの帝国だな。実質を言えば」

「口を慎め、ロイエンタール」

「ミッターマイヤー、卿が俺より人間ができていることは知っていたが、こんなに差があるとは思わなかった」

「俺だって平気なわけではない。このままあの方が前へ進めないとは思ってないだけだ」

 

 それは元帥に昇進したばかりの帝国の双璧、ミッターマイヤーとロイエンタールだ。半ば公然とそんなことを言っている。

 

「今回の襲撃の裏に誰がいるのか、アンスバッハ一人がこんな大それたことをやれるはずはない。利益を得るものが一番怪しい」

「だからうかつなことは言うなロイエンタール。それにローエングラム公が元に戻れば全ては杞憂に終わる」

 

 襲撃の実行犯、アンスバッハ准将とその部下は全員死亡しているが、その裏にいた者はどんな努力をしても突き止められなかった。

 

 

 一方、政治的なこととは関係なく、ラインハルトのことを心配し、心を痛めている者がいる。

 ヒルダ、つまり秘書官長ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフである。

 

 皇帝ラインハルトは一人で執務室に籠って、ぼんやりと過ごしている。アンネローゼは目を閉じて眠っているが、皇帝ラインハルトは目を開けていても意識は眠っている。

 ヒルダは衝撃に打ちひしがれた少年に強い同情と憐れみの心を持った。

 皇帝はまだ一人の少年なのだ。普通よりもひどく繊細なままの。

 

 いけない。このままでは、いけない。

 

 

 ヒルダはオーディンの封鎖に対する商業者の悲鳴を文書にしたものを手にして、執務室に入った。商業者にとって物流の停止は死活問題である。

 一つ大きく息を吸って吐き、勇気をもって執務室に踏み込む。

 

「陛下。オーディンの封鎖に対して、見通しを求める陳情書でございます」

「全てオーベルシュタインに任せよ。そう言ってあるはずだ」

「陛下、敢えて申します。オーベルシュタイン閣下に全て任せるには政務が過重であるように思います」

 

 これは嘘だ。

 ヒルダはラインハルトの精神を鼓舞しようと大嘘を言った。何でもいいから意識を他に向けて活動してほしい。

 

「わかった。机に置いておくように。そうしたら出ていってよい。」

「陛下、お言葉を返すようですが、きちんと目を通し、決定をお伝え下さいますよう」

「何! フロイライン、余がいつもあなたの忠告を喜んで聞くと思ったら大間違いだ!」

 

 ラインハルトはいきなり激昂する。

 覇王の裂帛の気迫を受け、ヒルダは身じろぎしたがそれでも出ていかない。ヒルダは純粋に良かれと思って行動しているのだ。それは打算とは対局のものであり、ヒルダは自覚していなかったが、ラインハルトのためを思う心は強くそれがヒルダ自身に力を与えている。

 

 やがてラインハルトは急速に熱を失った。自分が苛立ちを単に八つ当たりしている自覚はあった。ヒルダの方が正論なのだから。

 

「わかった。フロイライン、そこに座って待っててくれ」

 

 

 ラインハルトはうわの空で書類に目を通し、まともな決定をした。

 

「調査は行き詰まり真相はわからずじまいだ。これ以上の封鎖は無意味だろう。オーディンの封鎖は明日をもって解く、そう伝えよ」

「承りました。封鎖が解かれれば商業者も安心するでしょう」

 

 二人は時間のことなど考えてはいなかった。

 ヒルダが時計を見直すと、思いがけず夜もだいぶ更けた時分だった。

 

「陛下、この時間ですと伝えるのは遅すぎます。明日早く通達いたします。もう夜ですので陛下もお帰りになられましたら」

 

 

「待て、フロイライン」

「はい、陛下」

「余を一人にしないでくれ」

 

 ヒルダは傷ついた少年のため、この夜は自分のなしうるどんなことでもやってあげたいと思った。

 

 

 

 まるでそれを待っていたかのように、翌日アンネローゼは目を開いた。

 

「長い夢を見ましたわ」

「どんな、どんな夢ですか。一生分の夢ですか。アンネローゼ様」

 

 横に詰めていた侍女マリーカが勢い込んで尋ねる。

 

「いいえ、カロリーナさんのお菓子を全部つくろうと…… でも上手にできなくて」

「えっ」

「夢でも味がわかりますのね。初めて知りました」

 

 ここまでの天然だとは。

 思わず返答に窮したマリーカだった。

 

 

 オーディンの封鎖が解かれた。

 待機していたわたしたち一行もようやくオーディンに降り立ち、ルッツのいる病院へお見舞いへ向かった。

 アンネローゼ襲撃の事件とケスラー、ルッツの活躍のことは詳しく聞いている。

 

「一対一で肩を撃ち抜かれるなど、不覚をとりました。カロリーナ様」

「何言ってるの。見事よルッツ。その働きがなかったらアンネローゼ様はもっと大変なことに」

 

 そう、たぶん襲撃は遂げられたはずだ。もしそうなれば歴史の歯車は大きく狂ってしまったに違いない。ラインハルトとキルヒアイスの心に深刻な影響を与え、常に戦いを仕掛けなければ満たされない傷になっただろう。

 

「それに一対一で相手を倒したんでしょ。凄いわ。世の中にはただ撃たれただけの人もいますからね」

 

 してやったり!

 横にいるファーレンハイトに我ながらしつこい復讐だ。

 

「なるほど、ただ撃たれただけの人ですか…… しかしそのただ撃たれた人をただ見ていただけの人もいますからな」

 

 ぎゃふん!

 

 

 

 

 


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