夏休みへ入って、青春に一区切りがついた。
だから湖で泳いでストレスを発散したり、山へ登って自然に浸ったり、或いはデートをして
自分が世界で一番の幸せ者だと増長する――白井はあくびをして、それらを流す。
何の下心も抱かないまま、特別何かの目標も持たないまま、白井は何となく、自分が通う
継続高校前まで来てしまった。
悪い場所ではないと思う。教師は大らかだし、理不尽なイジメを食らっているわけでもない。
入学当初からそれなりに友達は出来たし、定期的に親からの心配の電話もかかってくる。
高校一年にもなれば、十六年も生きていれば、人生に対してそれなりの判断はつく。
部活に入っていないのも、何かに熱心になれないのも、夢を見い出せないのも、これといって
趣味が無いのも、全部自分のせいなのだと。
そんな白井のことを、周りは「良い子」と評価している。
ため息をつく。
そんなんじゃないんだけどな、まあいいか。
休みの間に寮へ引きこもるのももったいなかったから、何か有意義なことがしたくて外へ
出てみたものの、やはり何の一文無しでは外すら出迎えてはくれないらしい。
またあくびが出る。
ここまで来て引き下がるのも、それはそれで何となくもったいない。夏休みは無限では
無いのだ。
セミが所狭しと鳴き続け、白井の背後で車が通りすぎる。遠くから「不要なものを
回収致します。電話番号は~」と宣伝する録音データが響く。
白井は、せめてもとばかりに継続高校へ足を踏み入れる。
夏休みには入ったばかりなので、懐かしさは感じない。
ただ、目立った気配が感じられない継続高校というものは割と新鮮だったし、生徒も
教師も戦車も無いグラウンドを前にして、「静かだな……」と漏らす程度の感慨はあった。
ここに来て、少しは収穫があったと思う。
もう少し散歩をして、何か食ってから寮へ帰ろうかな――白井が振り向き、継続高校の
世界から抜け出そうとして、
楽器から発せられたらしい静かな音が、グラウンド前から響き渡った。
再び、継続高校へ視界を戻す。
最初は部活か何かかと思ったが、それにしてはいくらなんでも静かすぎる。これと
いった人の集団も見かけなかったし、もしかして秘密特訓か何かだろうか。
邪魔をしてはいけないと思ったが、見るだけなら問題はないだろう――そんな浅はかな
建前とともに、白井は音につられるがままグラウンド前を歩き回る。
――いた。
グラウンド前にある草むらへ腰を下ろし、ハープらしき楽器を太ももの上に置きながら、
それを思うがままに演奏している女性の姿を。
たぶん、見逃せない何かを感じたのだと思う。
たぶん、直情的に心惹かれたのだと思う。
たぶん、出会うべき存在と出会ったのかもしれない。
それほどまでに、白井は演奏に――女性に目を奪われていた。
誰、だっけ。この綺麗な人。
継続高校の生徒であることは間違いない。水色のジャージに特徴的なハット、入学して
何度も見た。
継続高校はそれなりの生徒数だ。だから同級生の顔はそれなりに覚えている。
それなのに目立った記憶が無いということは、上級生なのだろうか。
いやでも、どこかで見たような。もう少し顔を覗えれば、横顔ではなく真正面から
こちらを見つめてくれれば、脳ミソから大事な情報を引き出せるというのに。
――演奏が止まった。
はっと、反射的に意識が現実へ戻される。
気づけば、女性が白井をにこりと見つめていた。
「誰かな?」
「あ! ……えっと、継続高校の白井っていいます。一年です」
上級生という可能性を考慮して、敬語で話す。女性は「ああ」と声を漏らし、
「一年か。いいね、私にもそんな時期があったっけ」
ということは二年か三年か。中々決定的な情報を閃けない。
「君は、どうしてここにいるんだい? ――ああ、そんなところで突っ立ってないで
こっちへ来て座るといい」
手のひらで、こいこいと動かす。白井はたまらなく緊張しながらも、「は、はい」と
返事をし、「失礼します」と女性の隣へ腰を下ろす。
よく見えるようになる。何物も把握しそうな鋭い目つきに、自然と流れている長髪。
それらの要素に継続高校のジャージが組み合わされば、思考の片隅から何の違和感もなく
戦車がかっ飛んできた。
「あ、あなたは……あ、あの、ミカ先輩!?」
大声になってしまった。
けれど、ミカは動じない。ただ、関心を持たれて「ああ」と返事をするだけだ。
「そうだね。いつの間にか、ミカ、と定着されていたミカ先輩だよ」
はて、と白井は首をかしげる。
「まあ、私が適当にそう呼んでくれと友人に言ったのだけれどね」
どういうことなのだろう。
ニックネームにしては、それらしさが無い。本名は別にあるが、あまり好きでは
ないのかもしれない。
「あ、会えて……光栄です。ミカ先輩のお陰で、ウチが特集されて……」
「ああ、大学選抜との時の。気にしないで欲しい、私は風に流されるがままに戦っただけさ」
風って凄いなあと白井は思う。
自分も、風に従えば何がしかの熱意を持てるようになるのだろうか。
「もう俺らの間でも話題になってましたよ。すげーすげー、ウチの戦車道すげーって、
ミカ先輩素敵だったって」
ミカは、両目をつぶりながら「そうか」と、だけ。
「私はともかく、ここの戦車道が評価されるのは嬉しいね。称賛があれば、憧れを
抱き、戦車道を歩む生徒も多くなるだろう」
楽器を鳴らす。透き通った音だった。
「戦車道は女性のものですけど、やっぱり、格好良いものは良いですね」
「そうだね。ただ、あれらはたまたま結果が出ただけさ。大抵は地味な失敗続き、
私だって例外じゃない」
まるで、良い思い出でも語るかのように微笑んでいる。
「失敗ばかりして、それすらも仲間と語り合う。それでも憤りが収まらない時は、何も
しないのがいい。戦車道は、そういうことも教えてくれる」
戦車道のことは、テレビでちらりと目にするだけで詳しくは知らない。
ただ、戦車道のことを流暢に、心から愛でながら話すミカの顔が、目が、手振りが、
今の白井にとっての全てだった。
――この人は。
「もし許されるなら、私はずっと戦車道を続け、戦車道から色々と学んでいきたいね」
「いいですね。そこまで、夢を語れるなんて」
この人は、自分が未だ見つけられていない夢や熱を持っていて。
「語るだけならタダだからね。だが、実現させるとなるといつだって困難だらけさ」
「……まあ、そうですけどね」
「まあ、戦車道は行う事だけが全てじゃあない。見て、何かを感じ、学ぶこともまた
戦車道だ」
この人は、譲れない大切が何なのかを自分で分かっている。
「おっと、すまない。語りすぎたね。男に戦車道の話……退屈だったろう?」
こんな風にものを言っているはずなのに、目はきらきらとしていた。
この人は、とても素敵な女性だ――
白井は、あっという間にミカの雰囲気に、声に、顔に、熱意に惹かれた。
一目惚れだった。
「そんなことないです、まだまだ聞きたいです。ミカ先輩の、戦車道への想いを」
今日初めて、白井に下心が生じた瞬間である。
「そうかい? ……けれど、今度は君のことを話してほしいかな」
「えっ!? 俺ですか!? ……困ったな」
ミカが、楽器を軽く鳴らす。
「生きているだけで、人は語れる何かを得ているものさ」
「そ、そうかもしれませんけど……なんというか、何もないんですよね」
「まさか」
「そのまさかなんですよ」
あはは、と苦笑する。
指を草むらに置き、何度も軽く叩く。
「俺はミカ先輩と違って、夢中になれるものも、将来も、これといった趣味も
何もないんです。まあ、外面は良いんで悪い扱いをされたことはないんですが……
まあ、それだけです」
教師に言われれば可能な限り従ったし、目立った悪さもしでかしてはいない。
漫画やテレビは普通に読んだり見る方だが、涙を流したり、心が熱くなった、
なんてことはまるで無い。モロに影響されて、真似事を始めたケースも
恐らくは無い。
この何もなさを受け入れていたつもりだが、今となってとても後悔した。
ミカが戦車道について語ってくれたのに、自分がこれではてんで対価にならない。
つまらない男と思われても、仕方がないと思う。自分だってそう認識する。
じっと見つめてくるミカに対し、白井はたまらなくなって目を逸らす。何か
面白い話をしてくれるのだろうかとばかりに、ミカの目の輝きは未だ消えては
いなかったから。
「そうか」
白井が、諦めたように鼻息をつく。
「なら、これから何かを見つければいいだけじゃないかな?」
白井が「え」と、ミカに視線を向ける。
「これからね、私は夏休みを利用して旅行へ出かけようと思うんだ。といっても
学園艦巡りだけれどね――私的な旅行は初めてだから、一人で歩いては退屈かなと
思ってみれば、君が流されてきた」
ミカが、片目をつぶる。
「私は、将来のことを考えて旅行慣れしておきたい。君は、そうだね、
自分探しの旅なんかどうかな?」
来るかい? とミカが手のひらを作る。
「い、いいんですか? ミカ先輩の、大事な旅行に付き合って」
「無意味な出会いなんて存在しない。こうして出来た人の縁を大切にしておけば、
私にとっても、何かが得られそうな気がしてね」
白井は、
「分かりました、同行させてください!」
全力で頭を下げたと思う。
旅行という浪漫溢れる響きが、他の学園艦という好奇心が、ミカと一緒に
いられるという欲望が、白井の中でごちゃごちゃと旋回していた。
「いい返事だ。じゃあ、荷物をもってここへ集合しよう」
「分かりました。――あ、ちょっと待ってください」
白井はポケットから携帯を引っこ抜き、アドレス帳から実家の番号を選択する。
「もしもし、あ、母さん。夏休みさ、ごめん! 帰省は難しいかも……実は
友人と旅行へ出かけることになってさ――ちょっと、何大袈裟に喜んでんだよ。
ああはいはい、車には気を付けるから。お金も振り込まなくていいから!
全くもう……じゃ、切るよ。元気でね」
通話を切り、納刀するように携帯をポケットへ入れる。
そのままくるりと振り向けば、憧れのミカが待ってくれていた。
「お待たせしました。それじゃあ、後で合流しましょうッ!」
「……へえ」
―――
こうして何の予定も道順も無い旅行が始まって、はや数時間が経過する。
道筋が整えられた登山コースを雑談交じりで歩み、山頂に到達して
「あれを叫ぶんですかー?」と白井が言えば、ミカが「やっほー!」と叫ぶ。
透き通った女性の声が空気を震わせ、白井の耳の中で強く残響する。ミカは
何でもなかったような顔をしながら「さあ、次は君の番だ」と無言で促し、白井は
他でもないミカの指示に従うように、「やっほーッ!」と叫ぶ。
ミカの後なので、何だかめちゃくちゃ恥ずかしい。こういう場合は先に言って
おいた方が良かったか。
その後は何の未練も無く下山し、山とくれば湖だろという発想のもと、白井と
ミカは、この学園艦では数多く存在する湖エリアへ足を踏み入れる。
水着は持ってきてなかったから、釣りをしたりボートを漕いだり、そこで
ミカの演奏に耳を傾けたりした。思うと、ボートに乗ったのなんて家族旅行以来な
気がする。
多少不慣れながらもボートを泳がせている間、ミカはそんな白井を信用している
かのように、ただただ湖の真ん中で楽器――カンテレというらしい、それを
好きなように奏でていた。
湖は空を映し出し、周りにはいくつかのボートが目的も無くさまよっている。
夏休みを利用して、湖へ遊びに来た家族やカップルだろう。いつか自分も、ミカと
恋人関係になったり、結婚して家族関係になるのだろうか。
――そうなったらいいな、と思う。二人きりが望まれる人間関係になって、ボートで
白井とミカが向き合い、背筋が伸びた白井が「あの日を思い出すね」なんてほざいて、
ミカは「そうだね。人の縁とは、わからないものだね」といつもの調子で
返答してくれて。
相変わらず風のように生きるミカだが、薬指には指輪が光っていて――
くすりと笑ってしまう。ミカはちらりと眺め、呼応するように口元を曲げる。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
この後は、この学園艦名物のサウナに入って一休みだ。
ミカはバスタオルを巻いて相変わらずの微笑、白井も腰に巻いて腕を組んでいる。
「学園艦巡りって、『ウチ』も入ってたんですね」
「そりゃあそうさ。まずは地元から慣らす、当然だろう?」
まあ確かに。
サウナ特有の熱らしい匂いが、鼻をつく。
「だが、けして無駄じゃあなかった。地元にはこんなにも歩きがいのあるスポットが
数多く存在する。誇らしいね」
白井は、小さく頷く。
「君は、この一日をもって何かを得られたかな?」
そうだなあと、白井は顎に手を当てる。
見上げれば木目の天井が目に入り、なんとなく「遠いところなんだな、ここ」と、
どこか懐かしい感じが心を覆った。
「……正直、」
諦めたように、天井から床へ視線を移す。
ミカは、たぶん嘘が嫌いだと思う。
「なんというのか、楽しかった、というだけで、これといって何も」
「そうか」
ミカが頷き、
「それは決して無意味じゃない。行動して、何も得られなかったとすれば、それも
立派な収穫さ」
サウナ特有の高温の中で、ミカは涼しげな調子で白井の意見を肯定した。
「そう、なんですかね」
「ああ。だから、次の学園艦へ行ってみる、という動機にも繋がるだろう?」
確かに。
やはり、自分は馴染みきった地元から離れてみないと、新しいものなど何も
得られない男なのかもしれない。
この先どうなるか少し不安になったが、サウナが余計な感情を洗い流し、精神を
清めてくれる。サウナ施設は継続学園艦では頻繁に見受けられる施設で、男は
勿論、女性の利用者も数多い。
なのでバスタオル姿の女性は見慣れたつもりであるし、露骨な反応を示す勇気も
白井には無い。
だが、ミカのバスタオル姿は――
首を左右に振るう。煩悩を燃やし尽くすよう、サウナに身も心も捧げる。
「どうしたのかな?」
「あ、いえ――それより、次の学園艦は何処へ?」
「そうだね」
これから楽しいことが起こる。そんな風にミカは笑いながら、天井を見上げ、
「風の吹く方向で決めよう」
―――
風に導かれるがままに、白井とミカは黒森峰学園艦の地を踏んだ。
黒森峰学園艦のデカさは前々から耳にしていたし、その都会っぷりも
クラスメートから時折聞かされてはいた。
前に一度来たことがあるらしいクラスメートは、「あそこで一生暮らしてえ」と
評価していて、大袈裟だなあと思っていたが、
「すげえ」
無慈悲に高層ビルが立ち並び、今もこの瞬間も人という人が白井とミカを
横切っていく。信号が赤になれば、車の行列が出来るのは当たり前であり、誰も
「渋滞が起こった」なんて口にもしない。
この地に住もうものなら、たぶん白井の頭では整理が追い付かないと思う。
住んだところで、継続学園艦の程よい寂しさが恋しくなると思う。
それほどまでに、黒森峰の世界は大きすぎた。
――そんな強大な場所でも、観光客として来客すれば話は別だ。黒森峰学園艦の
現実を知ることなく、ただただ良い場面を探せばいい。
大きい分だけ楽しいことも、そうじゃないところもある。世界とはそんな感じで
出来ている。
心が躍る、黒森峰学園艦で踊りたくなる。
「大きいねえ」
「そうっすね」
高層ビルを眺めているのか、単に空を見つめているのか。ミカは斜め上に視線を
傾けたままで、簡素な感想を述べる。
白井は今か今かと観光したい気分で、ミカはそれを察してか「よし、行こう」と
行動のきっかけを作ってくれた。
買い物のしすぎは今後の行動に関わる為、最低限の食料と飲料を購入する。
後は様々な場所へ足を運び、目で見て思い出を作ればいい。都会という新しい
世界の中で何かを見い出せれば、白井の目的は達成される。
――黒森峰学園艦は何でも揃いすぎているから、逆に何をしていいのか迷いに
迷った。ミカも「どうしたものかな」と観光ガイドを眺めているが、
「あ」
ここで閃けたのは、まさに自画自賛モノだと思う。
「ミカ先輩」
「なんだい?」
「……風の吹く方向へ、歩んでみましょう」
一瞬、ミカが言葉を無くす。
だが、ミカは「ふっ」と声に出して笑うのだ。
「馴染んできたね」
「ええ」
あとは自然の成り行きで、白井とミカは黒森峰学園艦を脈絡無く歩んでいく。
風の導き先が映画館だったので、一緒に戦車道映画を見て「戦車道はいいものだね」
とミカが感想を漏らしたり、今度は水族館へふらりと立ち寄り、「この個性的なタコの
色は、意味を求めた結果なんだろう。深いね」とミカが称賛したり。
――その後は、夕暮れも近くなったということで夕飯を取ることにした。
何処で何を食うのか、それはもちろん、すぐに目についた店でだ。
「いらっしゃいませ」
店員に出迎えられ、レストランの一席によいせと座る。勿論向かい合わせ。
かれこれ数時間は座っていない気がする。どこにも寄らず、ただただ歩くだけの
時間を長くとってしまった。
以前の自分とほぼ変わらない行為であるはずなのに、それがひどく楽しい。理由は
一人じゃないからだ。隣にミカがいるからだ。
話しかければ、ストレートな物言いではないものの、きちんと答えを返してくれる。
言葉の意味を多少考える必要があるものの、ミカの言い回しそのものが白井は
好きだった。惚れた弱みと言いたければ言うがいい、男なんてそんなものだ。
「さて、メニューだが、今夜は……」
ミカがじっとメニュー表を眺めるものの、白井は分かっていた。
レストラン前に展示されているある食品サンプルを、ミカが物欲しそうに眺めて
いたという事実に。
そしてそれは、結構いい値段がするという現実に。
「ミカ先輩」
「何だい」
「特盛りチキンカツカレー、注文しましょうか? 二人分」
ミカの眉が、ぴくりと動く。
「……自分だけならまだしも、どうして二人分なんだい? 押しつけは良くない」
「いえいえ、ちゃんと見てましたから」
事実を指摘され、ミカが黙る。
「カレー、好きなんですか?」
「食べられるものなら何でも好きだ」
食うことが好きなんだなと、白井は察した。一見すると小食そうに見えるが、
特盛サイズしか見ていなかったあたり、腹いっぱいに食うことがミカの幸せに
繋がるのかもしれない。
ならば、
「はい」
注文ボタンを押し、すぐさま店員が駆け付けてきた。ご注文は何にしますかと
言われれば、
「特盛チキンカツカレー二人分でお願いします」
「かしこまりました」
店員が引き下がっていく。ミカが「うーん」と声を出し、
「決意を促してくれたことはありがたいが、特盛は決してただじゃない。
思い付きで注文するのはよくないと私は思うな」
「俺が二人分払いますから」
「――その選択は、君にとって何の意味も成さないんじゃないかな」
「いえいえ」
あるのだ。またとない意味が。
「男ってのは、女性の役に立てるとめっちゃ嬉しいんです。ここは一つ、俺の
見栄を立てるつもりで」
ぽかんと、ミカが口を開く。
たぶん、こういった経験をしたことはないのだろう。嬉しさも苦難も浪費も
仲間たちと半々で分け合っていたに違いない。
余計なことをしたかな、と思う。
やりたいことが出来た、と思う。
「……こう見えて貸しを作るのは苦手でね。いつか、お金は返す」
「すぐじゃなくてもいいですからね」
あはは、と白井は笑い、ミカはしかたないなあと苦笑していた。
最高の気分だった。
さて、後は夕飯を待つだけだ。雑談でもしてようかなと白井が思い立った
その時、
「おや、そこにいるのは……継続高校のミカさん、かな?」
ミカ以外の女性の声が耳に通り、白井がはっと目を横にやる。
ショートヘアの、鋭い目つきをした女性が、いつの間にか白井とミカの真横に
立っていた。
「おや、あなたは……」
「この前の試合では、大いに助かりました。黒森峰女学園の代表として、心より
お礼をさせてください」
頭を下げる。
知っている。
戦車道に疎い自分でも、この人は知っている。
「あなたは……西住まほさんですね? ど、どうも」
まず、まほをまとっている空気だの存在感だのが、白井とは段違いだった。
「あの」西住流の後継者として名高い、西住まほが自分の目ん玉の内に
入っているとなると、もはや蛇に睨まれた蛙でしかなくなってしまう。
「君は……」
「ああ、彼は私の旅行の付添い人だよ」
「継続高校一年、白井といいます」
まほが「ほう」と頷き、
「恋人同士かと思いました」
白井とミカが、
「違うんですよねえ」
「ただの同行者さ」
その通りだが、「まだ」ミカの域には達していないんだなあと白井は
痛感する。メシを奢るだけでは、まだまだということか。
「なるほど――では、同席させてもらってもよろしいですか?」
「構わないよ。食事は多い方がおいしくなる」
白井も、同意するように頷く。まほは「失礼します」とミカの隣の席に
腰を下ろす。
服装は黒いカジュアルジャケットにデニム、とても似合っている。
「それにしても、旅行ですか。とても羨ましい」
「やろうとすれば、あっさり出来るものだよ。最悪な結果には、意外と
転ばないものさ」
なるほど、とまほは頷く。そして注文ボタンを押して店員を呼び、
「特盛チキンカツカレーで」
「かしこまりました」
白井とミカが、「え」とまほに目をやる。まほは「え、何」といった
調子で目を泳がせている。
三人分の注文が届くまで待機し(まほが羨ましそうにミカのカレーを
見つめていた為)、最後にまほのカレーが到着すれば、白井とミカとまほが手を合わせて
「いただきます」と宣言する。
その後はカレーを食いながら黒森峰学園艦の凄さを述べたり、ミカが相手を
選ばない言い回しで映画の感想を喋ったりと、西住流の後継者相手とは
思えない雑談っぷりを繰り広げていた。
――だが結局は、戦車道の話に軟着陸する。ミカとまほは生粋の戦車道
履修者であって、心の底から戦車道を信じ、愛している同志のような
ものだ。
ここはひとつ、ガールズトークに付き合おうといった感じで、白井が
ミカとまほの話をほうほうと聞いている。
継続高校の強さは何か、黒森峰女学園の戦力が羨ましい、ミカの
戦い方は是非見習いたい、黒森峰女学園の戦車を貸して欲しい、今度また
継続高校と練習試合したい、黒森峰女学園の戦車に今度乗せて欲しい――
互いが互いを肯定し、称えあい、決して否定しない。
戦車道とは武であり、礼であり、争う為の手段ではない。だからこそ
ミカとまほはライバル同士でありながら楽しく語り合い、知識を
拝聴したがっている。
西住流とか、信念とか、色々な動機があるだろうが、結局は
「好き」だから戦車道を歩めるのだろう。仕方がないという気分のままで
火をつけても、風が吹けばあっさりと消えてしまうはずだ。
ミカとまほの言葉に頷きながら、黙ってカレーを食っている白井を
察したのだろう。まほが「す、すまない」と焦るように謝罪する。
「ああいえいえ、俺のことは気にせず」
「いやいや、旅行の同行者をそっちのけで話すなんて……」
そんなそんなと、白井はなんともない顔をして手のひらをつくる。
「白井君は、学校では何を?」
「えげっ……そ、それは、」
妙な声が出る。戦車道一筋の人から、一番苦手な質問が飛んでくる。
「ああ。彼は、それを見つける為に旅行をしているのさ」
「ほう」
「彼はまだ十六、どうやって生きるかを考える年頃さ。だが彼は空虚に
生きることなく、何かを見つけようと、こうして両足を
動かしている――それは、とても立派なことじゃないかな?」
まほが、「確かに」と頷く。カレーを食う。
「ミカ先輩はこうしてフォローしてくれていますが、実際は単なる
暇な奴なんです。最低限、失礼が無いように生きるだけの無趣味
野郎です」
言い切り、誤魔化すように水を飲む。しかしまほは、そんな
白井のことを決して否定したりはせず、
「……いや、それはとても立派な生き方じゃないかな?」
「そ、そすか?」
褒められて、思わず口調が砕けてしまった。
いかんいかんと、首を振るう。
「礼儀を忘れない、それは誠実さや恥を知っているからこその
生き方だ」
「――単に、怒られるのが嫌なだけですよ」
「それも大事な感覚だ。――あと、無趣味といったな? それも大丈夫、
私も『遊び』に目覚めるまで大分時間がかかった」
白井が「へえ」と軽く返事をする。
「目が覚めれば勉強、そして戦車道。休暇といえばジョギングに
戦車道の予習と……まあ、戦車道向けの人生をしていたわけだ」
そこで、まほが使用済みの映画のチケットを取り出した。
「全国大会も終わって、大学選抜チームとの試合も勝利して……
なんだろうな、少し気が抜けてな。しばらくは戦車道はいいかなと
思って、何か遊んでみようと考えたわけだ」
それで映画を見たのか。白井は納得するように、うんうんと首を
振るう。
「他にも音楽を聴いたりしている。そうだな、ジャズとかかな?
音楽はあまり知らないから、なかなかいい気分転換になる」
なるほどなあと、白井は水を飲む。ミカは「それもいいね」と同意している。
「白井君、君はまだ十六だ。今はまだ何も見いだせなくても、いつか必ず、何かが
したくてしたくてたまらなくなる時期が来る。戦車道のことしか考えられなかった
私も、緊張の糸が切れたというキッカケで、音楽や映画に目覚めたわけだしな」
なぜ、西住まほが、強豪黒森峰女学園の戦車隊隊長を務められるのかが分かった
気がする。
「君は、それを見つけ出そうと行動にまで移している。若いのに立派じゃないか。
そうした人間には、必ず報いが来る――私が保障しよう」
この人は、誰かを納得させられる言葉を口にすることが出来る。誰かを安心させられる
顔を表に出せる。
まるでミカ先輩みたいだ、と思った。
「西住、さん」
うん、とまほが頷く。
「ありがとうございます。俺、もっともっと人生を歩いてみます」
「そうか」
まほは、まるで自分のことのようにほっとしてくれた。
――その後は、特に面倒くさい話題は口にしなかった。特盛カレーを食べあって、ミカが
「少しくれないかい?」とまほにねだり、まほが「ダメだ」と火花を散らす。
戦車隊隊長とは思えない等身大のやりとりに、白井は心から笑う。
完食後にまほと別れ、「旅行といったらこれだろ」的なノリでキャンプ場に赴き、
テントを張って、カンテレの音を聴いて寝た。