柳「次……少しだけ口を開けてくれ。……よし、もう良いぞ」
胡桃「ん、んん…」
今朝起きてみたら、やけに体の調子が良かった…。
それが良くない事の前触れなのではと思った胡桃は起床後すぐに柳の部屋へと向かい、様々な検査を受けていく事となった。昨日までは歩くのも苦に感じるくらいだったのに、今はそれが嘘のように体が軽い。手足にも充分な力が込められる…。こんなにも好調なのは久しぶりなくらいだ。
幾つかの検査を終えた後、柳は部屋の奥へ向かって何かを調べ始めたようだったが、それは数分で終わり、椅子に腰掛けていた胡桃の前へと戻る。この時、柳は『ふふっ』と声をあげながら満足そうな笑みを浮かべていた。
柳「よかった、昨日の試薬が無事に効いたようだね」
胡桃「はぁっ…?試薬…?」
そんな物、全く身に覚えが無い…。
しかし首を傾げながら昨日の記憶を辿る内、ある事が思い浮かぶ。そう言えば昨日、検査が終わった後で妙な物を注射された。あの時、柳はあれを『ただの栄養剤のような物』と言っていたが…。
胡桃「もしかして、昨日のヤツが…」
柳「ああ、あれは栄養剤なんかではなくワクチンの試薬だ。
嘘をついて悪かったね。変に期待させないようにと気を使ったつもりだったんだが……まぁ、無事に効いたのなら良かった」
ニコニコと微笑みを浮かべる柳を前に、胡桃はただ唖然とする…。
昨日のはワクチンの試薬だった…。そして、それは無事に効いた…。
その結果、自分の身体は以前の調子を取り戻している…。これはつまり、もうあのウイルスに悩まされなくて良いという事なのだろうか?そう考えた途端、胡桃の胸は希望によって高鳴っていく。
胡桃「あっ、あのっ…じゃあ、あたし…治ったの?」
柳「完全にという訳ではないと思う。だが、これで暫くは安全だ。
これでもう、あのウイルスに対する解決法は九割方掴んだ。再び発症してくる頃には完全な治療法を確立出来ていると思うから心配はいらない」
胡桃「っ………っ……!」
完全に治った訳ではない…。
それは少しばかり残念だが、柳が言うにはこれで暫くの時間稼ぎは出来た上、今の自分は健康体そのものらしい…。もうじき皆とお別れしなくてはならないかもと覚悟を決めていた胡桃にとってはそれだけでも凄く喜ばしい事なのだが、更に完全なワクチンの完成も近いという。嬉しい知らせが多すぎて、何から喜べば良いのかすらも分からない。
胡桃「あ、ありがとう…ございます……」
今はとりあえず、この人に礼を告げるのが先だろう。
胡桃は椅子から立ち上がるなりすぐに深々と頭を下げたが、柳は鼻で笑いながら『礼なんていい』と言うだけだった。
柳「おっ、そうだ。彼を呼んできてくれるかな?これからの事について少し頼みたい事が出来たんでね…。そのついでに、身体の事も報告してくると良い」
胡桃「…うん、分かった!柳さん、ほんとにありがと」
柳「いいえ、どういたしまして……」
嬉々とした様子で部屋を出ていく胡桃を見送り、一息つく…。
当初はちょっとした暇潰し、実験感覚で胡桃の治療を引き受けたのだが、ああして元気になった胡桃の姿を見て安堵している自分がいるのは何故だろうか。
柳(少し情が移ったかな…?)
彼女達がやって来てからというもの、真冬の雰囲気が変わった。
自分達と過ごしていた時は殆ど笑ったりしなかった彼女がよく笑うようになり、感情が豊かになった。また、穂村も前より柔らかな雰囲気になったような気もする…。まぁ、圭一だけはわりと変化無い気がするが、自分は真冬や穂村と同様、彼女達と過ごす内に少しばかり甘い人間になってきたらしい。
柳(まぁ、それはそれで悪くはないか……)
胡桃が部屋を出て数分が経ち、扉がノックされる。
彼がやって来たようだ…。
柳「ああ、入ってくれ」
言葉を放って招き入れると、彼が扉を開けて中へとやって来る。
最初こそ無表情の彼だったが、そのまま柳のそばへ寄ると小さな笑い声を漏らして微笑み、先程まで胡桃が座っていた椅子へ腰を下ろした。
「…お疲れ様です」
胡桃から全てを聞いたのだろう…。
その笑みからは喜びが溢れており、柳も自慢気に笑みを返す。
柳「まぁ、少しばかり苦労はしたが…これで暫くは安全だ。…が、まだ全てが終わった訳ではない。また近い内、君にも力を貸してもらう事になるかもね」
「柳さんには世話になっているから、そのくらいは構わない」
柳「ふふふっ、ありがとう。圭一君や穂村君、狭山君にも協力を頼むつもりでいるんだが、効率を考えるとあともう一人くらいは人手が欲しくてね…。君が手伝ってくれるというのなら本当に助かる」
だが、その仕事を頼むのはもう少し先の事となるらしい…。
つまり、これから少しの間は特に予定無し…。自由な時間を過ごして欲しいとの事だが、胡桃を救ってもらった手前、ある程度の恩返しはしておきたい。
「何もせずにダラダラしてるのもどうかと思うし、物資集めでもして来ましょうか?」
柳「いや…物資には困っていなかったはずだから大丈夫だ。
それに、君だって毎日何もせずにダラダラしてるだけでは無いだろう?若狭君と勉強をしたり、恵飛須沢君と庭でランニングしたりするのをよく見かけた気がするが…」
「まぁ……はい……」
確かに柳の言う通り、皆と共に勉強したり、身体を鍛えたりしている。
だが、そうして普通の学生らしい生活が出来ているのはこの屋敷が安全な場所だからだ…。こんなにも良い場所に住まわせてもらっている恩を少しでも返したいところだが、柳は気遣い無用と言わんばかりに微笑むだけだった。
柳「ふむ…どうしても何かしたいと言うのなら、また今度穂村君達と共に外の探索にでも出掛ければ良い。多少の危険は伴うだろうが、君も彼女らもそんなのは慣れっこだろう?」
「探索…。そうですね、また皆と一緒に行ってみるか…」
自分一人で行っても良いくらいだが、恐らく由紀達も来たがるだろう。
何か必要な物を探したり、服を探したりしたいハズだ。
柳との会話を終えた彼は椅子から離れてその場から立ち去ろうとするが、最後に改めて礼を告げる事にした。
「胡桃ちゃんの事、本当に感謝してますよ。
もしもあの娘がいなくなったら、僕は…………」
彼女がいなくなるなんて、想像もしたくない…。
だが、それが現実になる可能性は大いにあった…。胡桃がいなくなったら、悠里は絶望するだろう…。美紀は落ち込むだろう…。由紀は悲しむだろう…。そして、自分はきっと―――――。
「……まぁ、とりあえず元気になったようで良かった。
柳さん、どうもありがとう」
柳「ふふん、どういたしまして…」
部屋から出ていく彼を見送り、柳はまた小さく微笑む。
先程の胡桃といい、今の彼といい、今日はやけに感謝される日だ…。
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胡桃の調子が良くなったという事は本人の口から告げられ、由紀や美紀、悠里達はとても喜んだ。昨日までの彼女はかなり辛そうな状態だった為、心から心配していたのだろう…。特に由紀なんかは元気になった胡桃を前にして瞳を潤ませたりもしていたが、すぐにそれを拭うと眩し笑みを浮かべて談話室の中を飛び跳ねる。
由紀「えへへっ、ほんとによかったぁ~♪よしっ!今日はお祝いだね!
せっかくだし、みんな同じ部屋で寝ようよ。わたしの部屋で良いよね?」
胡桃「…そうだな、今日くらいは一緒に寝るか」
胡桃がそう答えると由紀は笑顔のまま抱き付き、胸元に頬を擦り付ける。胡桃はそんな彼女の事を優しく抱き返しながら頬を摘まんだりしていたのだが、それと同時に由紀はハッとしたような表情を浮かべた。
由紀「お~っ…胡桃ちゃん、手も凄く温かくなってる!!」
悠里「どれどれ……あら、本当ね」
由紀の言葉を確かめるようにして悠里は胡桃の横に立ち、彼女の手……ではなく、頬をむにむにと引っ張る。柔らかな頬は指で摘まむとぷにっと伸び、確かな温もりを感じられた。もっとも、当の本人は眉をしかめて少しばかり痛そうな顔をしているが…。
胡桃「りーさん……ほっぺ取れる…」
悠里「ふふっ、ごめんなさい」
美紀「あっ、私も触りたいです」
漸く悠里が手を離したかと思えば、今度は美紀がそばへと立って胡桃の頬を撫でていく…。胡桃と向かい合い、両手を頬へと添えながら、美紀はただジーッと胡桃の顔を見つめた。
美紀「…………」
胡桃「あ、あの……美紀、あまり正面から見つめられると…その……」
美紀「えっ?あ、あぁ…ごめんなさい」
いくら女の子同士とはいえ、真正面から見つめ合い続けていると流石に照れがくる。胡桃が小さく目を横に逸らすと美紀は申し訳なさそうに言いながら両手を離し、笑い声を漏らす。
美紀「本当に温かいですね…」
胡桃「そう…かな…?自分だとあまり分かんないんだけどな…」
ただ身体の調子が良くなっているだけではなく、体温も通常に戻りつつある。やはり、柳の言っていた事は本当らしい。自分は、健康な状態になってきているんだ…。皆の反応からそれを実感したら嬉しくなり、胡桃もまた笑みを浮かべる。
穂村「どれ、俺も少し触ってみるかね」
真冬「穂村はダメ…」
ニヤニヤと微笑みながら立ち上がろうとした穂村を手で制し、真冬は冷たい視線を送る。まるで虫けらを見ているかのような視線を受けた穂村は仕方なくソファーに腰を下ろし、そばにいた彼の方へ視線を移す。
穂村「お前は胡桃に触らせてもらったか?」
「いいや、触ってないよ」
穂村「へ~、そっか。ま、お前も俺と同じようなタイプの人間だからな…。そう易々と触らせてもらえる訳が――――」
と、そこまで言いかけて頬を緩めた時だった――――。
これまで部屋の隅で由紀達と戯れていた胡桃がこちらの方へスタスタと歩みより、穂村や彼の腰掛けているソファーの後ろへと回り込む。そして、そのまま彼の背後を取ると両手を彼の頬へと押し当てた。
胡桃「ほっ!どうだ?温かいか?」
どこか不安げな表情をしつつ、背後から伸ばした手で頬を撫でる。
真正面を向いていた彼は背後から伸びてきたその掌の感触を感じながら瞳を閉じ、『う~ん』と唸り声をあげてから頷いた。
「……そうだね、温かいよ」
胡桃「マジ?へぇ~……そっかそっかっ♪」
満足そうな笑みを浮かべ、胡桃はその場を去る。
由紀達の会話を聞いていて分かっていた事だが、胡桃の手は本当に温かくなっていた。ほんのりと柔らかで、それでいて温かだった掌の感触をしっかりと感じた彼がそっと微笑みを浮かべる中、穂村は驚きの表情を浮かべたまま石像のように動かなくなる…。
「ん?どうした?」
穂村「どうした?じゃねぇよ。くそっ、俺とお前の違いは何なんだ?」
彼も自分も同じ変態なのに、こんなのは不公平だ…。
穂村がブツブツ文句を溢す中で彼は苦笑し、真冬は呆れたようにため息を放つ。
真冬「穂村はもっと自分を見つめ直した方が良い……」
穂村「見つめ直すって……俺、わりとイケメンだと思うぞ?」
真冬「見た目ではなくて中身の問題…。穂村は中身が酷すぎる。バカだし、クズだし、変態だし…変態だし…変態だし………あと、髪の毛が少し長い。見てるだけでも鬱陶しいから切った方が良い」
中身の問題と言いつつ、然り気無く外見に関してもダメ出しをしていくと、穂村はムッとしたように眉をしかめて自身の茶色い髪の毛を弄る。確かに、少しばかり長くてチャラチャラしているようにも見える…。
穂村「自分で切っても良いが、上手くやる自信がねぇ…。
狭山先生、切ってくれるか?」
真冬「え……嫌だよ…。ボクも髪の毛とか上手く切る自信無いし…」
穂村「だよな…。じゃ、もう暫くはこのスタイルでいくわ」
それより、真冬の口から『変態だし』という言葉が三回連続で出た事には触れないのだろうか…?穂村と真冬の会話を聞いていた彼はひっそりと苦笑し、そのまま何気ない一時を過ごす。
そうして夜がやって来て、皆と共に夕食を終えた後…。
穂村「おい、このあと暇か?」
と、穂村が廊下を歩いていた彼に声をかける。
夕食を終え、その片付けも終え、もう特にやる事は無い…。
彼がそう答えると、穂村はニヤニヤと微笑む。
穂村「そりゃ良かった!じゃあさ、これから少しだけ遊ぼうぜ?」
「遊ぶ?何をして?」
この後は部屋に戻ってもう寝ようと思っていたところだが、遊びの内容によっては付き合ってやらない事もない。彼がその内容を尋ねると、穂村は後ろ手に隠し持っていたそれを見せ付けた。半透明の入れ物に詰め込まれている積み木のような物……タワーのように積み重なっているそれは、"ジェンガ"と呼ばれる物だった。
「おお、これはまた珍しい物を…」
穂村「ふふん、そうだろ?前、外に出た時に見付けたんだ。今から俺とお前…それから圭一さんも誘ってさ、三人でやろうぜ?」
「僕は構わないけど、圭一さんは来ないだろ……」
穂村「さ~て、それはどうかな?あの人、ああ見えて結構単純なとこあるからな…。『俺に負けるのが怖いのか?』とか何とか言って煽れば簡単に乗ってくるさ」
「ん~…そんな簡単にいくかね……」
疑いの眼差しを穂村へと向けつつ、彼は一足先に談話室へと向かう。
穂村はああ言っていたが、本当に圭一は来るだろうか…?
テーブル前のソファーに腰掛けながら待機する事数分……部屋の扉が開き、穂村がそこへと訪れる。
穂村「お待たせ~。じゃ、始めようぜ!」
満面の笑みでそう告げる穂村の後方には、冷めた表情をして立ち尽くす圭一がいた…。一見するとただ冷めているだけの表情に見えたが、その瞳の中には『
(なるほど…穂村の言う通り、結構単純というか…負けず嫌いなんだな)
穂村の煽りくらい難なく受け流すくらいに冷静な男だと思っていたが、案外そうでもないらしい…。いや、どれだけ冷静な人間であろうとそう簡単には受け流せないくらい、穂村の煽りが鬱陶しいものなのかも知れないが…。
圭一はテーブルを挟んで向かいにあるもう一つのソファーへ腰掛けると、向かいに座る彼の方を見て呟く。
圭一「なんだ、お前もいたのか…」
「まぁ、暇潰しくらいになれば良いと思って」
ほんの少し言葉を交わした直後、穂村が彼の横へと座り、目の前のテーブルにジェンガを置く。そしてその横に何十枚か積み重なったカードのような物を置き、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる。
「カード…?」
圭一「おい、それは何だ?」
穂村「ふふん…いやぁ、普通にジェンガだけやっても盛り上がらないだろ?だから少しでも展開を盛り上げようと思って、罰ゲームカードを用意した。負けたヤツはこのカードを引いて、その罰ゲームを受ける!どんな罰ゲームだろうと拒否とか出来ねぇから、逃げるなら今の内だぞ?」
圭一「馬鹿言え…。お前こそ、負ける覚悟は出来てるだろうな?」
穂村の作戦通りというべきか……圭一はかなりやる気に満ちている。
彼はその様子を見て苦笑したが、彼自信もまた少しだけやる気を出していた…。穂村が用意した罰ゲームにどんなものがあるのか知らないが、そういったリスクがあると少なからずドキドキしてくる。絶対に負けてたまるものかと言うような気持ちが、胸の奥から溢れてくる…。
穂村「よしよし、全員乗り気なようで何よりだ…。んじゃ、始めようか。絶対に負けられない、男同士の戦いってヤツをな…!」
時刻は午後の8時を過ぎた頃だろうか…。
外はすっかり暗くなり、女性陣達がそれぞれの部屋へと戻り始めた頃、屋敷の一室にて……男達の戦いが始まった。
久しぶりの本編でしたが、いかがだったでしょうか?
胡桃ちゃんの体調はある程度改善されたので、また暫くは安全なハズ…。
最後は男性陣が集まり、ゲームを始めたところで終わりました。
次回からの数話はちょっとしたおふざけ回となりそうですが、その合間合間でメインの話自体も少しずつ進めていく予定です!