マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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第一七話 マミさん、ただただ微笑む

『それは美樹さやかの抜け殻に過ぎない。キミたち魔法少女の魂はソウルジェムにある。そして美樹さやかのソウルジェムはグリーフシードへと孵った』

 

 突如現れた魔女の結界から、美樹さやかの身体を抱えて撤退したマミと杏子は、自室でキュゥべえの声を聞いた。

 美樹さやかの身体をロフトのベッドに横にし、濡れたタオルで顔や腕を拭う。そうしている時にその声を聞いた。

 

『それが魔法少女の宿命だ。穢れなき希望とともに産まれた幼い魔法少女は、やがて現実を知り希望を手放し絶望に沈み、長じては穢れに染まり魔女となる』

「キュゥべえ? ……なにを……?」

『美樹さやかは魔女となった。残念だが、その抜け殻をどうこうしても意味はないよ』

「おい、姿を見せろよ、キュゥべえ!」

『キミがもう少し落ち着いたら考えるよ、杏子』

「キュゥべえ、美樹さんを助ける方法は?」

『現実的な答えとしては、ないね』

 

 それを最後に、キュゥべえの声は絶えた。現時点で伝えるべきことは伝えた、そう言わんばかりの態度だ。その突き放した態度は、魔法少女の精神――特にキュゥべえを深く信頼し拠り所としていたマミの精神を鋭く抉っていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 ――そう、≪今回≫もこうなったのね。どこまでも愚かな人。

 

 コンサート会場を思わせる結界の中で、黒髪の少女は、美樹さやかであったものの成れの果てと対峙していた。

 人としての姿を失い、人魚を模した魔女となった美樹さやかを見つめる少女の瞳は氷点下の様に冷たく凍てついていた。それ故に、いかなる感情の動きも瞳に映ることはなかった。

 

 ――まどかを巻き込まなかったことだけは誉めてあげるわ。

 

 見滝原に戻った彼女は、まず鹿目まどかの安否を確認していた。鹿目まどかは美樹さやかをひどく心配していたが、最悪の結果になったことは把握していないようだった。そして――もっとも重要なことだが――まどかは魔法少女になってはいなかった。

 

 ――≪今回≫は私個人の最大火力でワルプルギスの夜を倒せるか、のトライアルが主目的。だけど、上手く事が運べば――。

 

 静止した時の中で、彼女は美樹さやかであったものの足元に、手元に、胸元に、喉元に、時限式の爆弾を設置していく。いかなる感情も面に浮かべることはなく、ただ路傍の草を摘むような淡々とした作業。

 設置を終えて距離を取ると、左手に備えた盾に内蔵した砂時計を作動させる。カチリと歯車が回る音とともに、静止していた時間が流れを取り戻す。

 その時の流れに押され、僅かな時差さえなく全ての爆弾が一斉に炸裂した。

 美樹さやかであったものの頭が、喉が、肩が、腕が、胸が、腹が、手が、腰が、太腿が、爆発により一瞬で炭化し、蒸発する。

 

 爆発の余波で彼女の濡れ羽色の髪がたなびく様に乱れる。京人形を思わせる絹のように白く艶ややかな頬を暴れた髪が叩く。彼女は白く細い指で梳くように髪を抑えると、地に墜ちたグリーフシードを切れ長の目でみつめた。

 彼女の容姿、所作、それらを総合して表現するなら、美しいという形容詞以外は適切でないだろう。ただ、それは彫刻の美しさであった。爆発により蒸散する≪美樹さやか≫を眉ひとつ動かさず見つめ、かつての同族を葬る痛痒など露ほども感じないその心に、人としての温かさは宿ってはいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 まどかを巻き込むことに最初は難色を示したマミだが、他に代案があるわけでもなく、杏子の案――まどかを連れていって、さやかに呼びかけてみよう――に最終的には同意した。

 同意した時のマミの態度は快く、と言ってよい。無論、内心では鹿目まどかに事実を伝えること、巻き込むことに強い抵抗をおぼえているが、ここで不承不承といった態度を取っては、杏子ひとりに責任を押し付ける形になってしまう、そう考えてマミは努めて明るい態度を作った。

 だが、結果的には無駄な努力だった。

 

 

 窓際に立つ黒髪の闖入者は、ひとつのグリーフシードをふたりの前に投げてよこした。そして、感情の読み取れない声で告げる。

 

「これはあなたたちが持つべきでしょう。あなたたちにあげるわ。美樹さやかの形見よ」

 

 黒髪の少女が得意とする時間操作の魔法を使うまでもなく、時が凍りついた。

 投げられたグリーフシードを前に、巴マミも佐倉杏子も息をすることさえ忘れたように固まる。巴マミの豪奢な髪だけが、開け放たれた窓から入る僅かな風に揺れて、この場に時の流れがあることを示していた。

 

「キュゥべえに何を吹き込まれたかしらないけど、魔女になったらもう二度と人へは戻れない。呪いを振りまき犠牲者を生む前に狩ってやるのが、せめてもの優しさよ」

 

 優しさを語るにはあまりに酷薄な物言いに、杏子が激発した。椅子から立ち上がると次の瞬間には窓際に達し、少女の胸元を掴み力任せに持ち上げて吠える。

 

「てめぇ、勝手なこと言ってんじゃねぇよ!」

 

 首を絞められる形になった少女はそれでも無表情のまま、持ち上げられた状態から杏子を冷たく見下ろした。

 

「あなたはチェスをする時全ての駒を守ろうとするのかしら? 捨て駒を怖れてゲームには勝てないわ」

「はぁ? 誰が駒だってんだ! 何がゲームだってんだ!」

「この場合は美樹さやかが駒ね。もちろん私も、あなたもそうよ」

「てめぇ……!」

「やめて杏子ちゃん。争ってもしょうがないわ」

 

 黒髪の少女を絞め殺さんばかりの勢いで杏子がさらに両腕に力を込めた時、いつの間にか窓際に来ていたマミが杏子の腕をそっと抑えて制した。

 マミは落ち着かせるように杏子を見つめた後、視線をゆっくりと黒髪の少女に向ける。

 

「暁美さん、美樹さんをチェスの捨て駒と言ったわね。指し手はあなたなのかしら?」

 

 そして、争ってもしょうがない、そう制した人物とは思えないほど、剣呑な雰囲気をまとわせて尋ねた。今の今まで殺気を放っていた杏子が、逆にマミを押しとどめようかと考えるほどに。

 

「……ものの例えよ。指し手なんていないわ。美樹さやかは美樹さやかの意思で魔法少女になり、そして破滅した。それだけよ」

 

 杏子の手から解放された暁美ほむらは視線を逸らして応えた。そして逸らした視線の先に、美樹さやかの身体を認めると言葉を続ける。

 

「美樹さやかの魂は死んだわ。いくら抜け殻があっても、それこそ奇跡でもなければ……」

 

 とりたてて深い意味がある言葉ではなかったが、その言葉を聞いた杏子が反射的に呟いた。

 

「奇跡……そうだ、まどかにさやかのことを祈ってもらえば」

 

 今度は、その言葉を聞いた暁美ほむらが激発した。先ほどと鏡写しの様に、杏子の胸元を掴み、力任せに吊り上げる。

 

「浅慮にも程があるわ、佐倉杏子」

 

 彼女がこの部屋を訪れて初めて見せた感情だった。彼女の灰色の世界は、良きにつけ悪しきにつけ鹿目まどかが関係した時にのみ色を見せる。この場合は非常に暗い色――怨嗟や憎悪といった色が、彼女の世界に満ちた。

 

「確かにまどかの素質なら死者の蘇生も叶うでしょう。≪過去≫に前例もあるわ。でも、魔法少女は魔女となる。咲いた花が風に散るのと同じように、成った実が地に引かれ落ちるのと同じようにね。魔法少女となった以上、魔女となるか、その前に死ぬか、どちらかしかないわ。その上で佐倉杏子、あなたはまどかにその運命を背負わせて、美樹さやかに再びこの運命をなぞらせようというの?」

 

 言い捨てるように吐き出すと、その勢いのまま杏子を床に叩き付ける。そして、杏子の呼吸が整うのを待ってから、マミと杏子に交互に視線を向けて宣言する。

 

「理解できたわね? だから、まどかにはこの事は伏せておいてほしい。少なくとも、しばらくは」

「分かったわ。そもそもこんなこと、私だって伝えたくはない……」

 

 そのマミの湿り気を帯びた言葉に怯懦と惰弱を感じ取り、暁美ほむらは心の中でマミを面罵した。

 彼女が唾棄すべきと信じる闇。

 世界の本質を知ろうともしない怠惰、真実の重みに耐えられない怯懦、憐憫の情に溺れ成すべき責務を放り去る惰弱、そしてそれらの愚かさを省みようともしない驕慢。

 それがかつて自らが持っていた闇であることなど忘却の彼方にあるかのように、いや、かつて自らが持っていて、克服した――と、彼女は信じている――闇であるがゆえに、彼女は他者がそれを持つことを許せなかった。

 

「あたしだって、好き好んでまどかを悲しませたくはないよ」

 

 杏子の同意を確認すると、暁美ほむらは挨拶さえすることなく去っていった。

 

 

 

 

 

 美樹さやかを――方法は思いつきもしないが――助ける。その想いが、巴マミの精神の崩壊を水際で押しとどめていた。

 その想いが水泡に帰した今、巴マミの精神は衝撃を受けた硝子細工のように粉微塵に砕けていた。

 

「シャワーを先に浴びていいかしら」

 

 今後の話をしようとする杏子を制して、マミは静かに言った。マミはさやかの胃液を浴びているので、タオルで拭いたとはいえシャワーで流したいと思うのも当然だろう、と杏子は頷いて応える。

 

「飲み物用意しとくね。あたし紅茶は下手だからホットミルクでも」

「ありがとう、おねがい」

 

 任せて、と返した杏子は、キッチンに向かうとマグカップにミルクを注ぎ、慣れない手付きで湯煎にする。入れ過ぎにならない範囲で、バニラエッセンスと砂糖を加える杏子は、自分の好みよりもマミの好みを優先させていた。

 だが、そのホットミルクをマミが口にすることはなかった。

 

 

 

 

 ――魔女は魔法少女の成れの果て……。

 

 頭からシャワーを浴びながら、深く信頼していたパートナーであるキュゥべえが告げた事実をマミは反芻する。

 そして、考える。

 街のみんなを守るために、魔女を倒すことは正しいとマミは信じてきた。だが、魔女が魔法少女の成れの果ての姿ならば。

 

 ――私がしてきたことって、人殺しなの……?

 

 彼女が今までに倒した魔女は、ゆうに五〇を超える。

 その屍を糧としてソウルジェムを維持し、今まで生きてきたのならば。

 

 ――私は、ひとを犠牲にして、生きているの……?

 

 そして、暁美ほむらが指摘したように、いつかは魔女になるのが運命ならば。

 

 ――こんな罪深い行いで命をつないで、その果てに魔女となって災いをもたらすの? なんて無意味で無様な生き方なの……。

 

 佐倉杏子と出会ってからは、心の奥底に沈められていた思考が、毒蛇のようにその鎌首をもたげた。

 

 ――やっぱり、あのときに私は死ぬべきだったんだわ。

 

 濡れた黄金の髪をひどく重たいと感じながら、暁美ほむらの言葉を思い出す。『魔法少女となった以上、魔女となるか、その前に死ぬか――』

 巴マミの精神は衝撃を受けた硝子細工のように粉微塵に砕けていた。

 だからといって、同様に心に傷を受けている佐倉杏子をひとり残して死を選ぶのは自分勝手の謗りを免れない。しかし、彼女はそんな風に他人を思い遣る余裕さえ失っていた。

 

 

 

 

 銃声が響いた。

 佐倉杏子は、猫科の動物を思わせる反応でキッチンを飛び出す。湯煎していた鍋がキッチンに落ちてけたたましい音がするが、振り返ることもせずにバスルームへ走った。

 銃声を聞く前から、佐倉杏子には嫌な予感はあった。彼女は巴マミの精神が限界まで疲弊していることを理解していた。しかし、それと同時に佐倉杏子は信じていた。自分を置いて巴マミが安易な選択をするはずはないと。そう信じることで、嫌な予感を否定していた。

 

 バスルームのドアを開けると、タイルの床に落ちたシャワーヘッドから迸る温水が杏子の足を叩いた。

 そして、シャワーヘッドの横にうつ伏せに倒れる血塗れのマミを認めた杏子は、彼女の名を何度も呼びながら、彼女の裸体にすがる様に取りついた。

 鼓動はなかった。

 杏子はマミの身体を仰向けにすると、傷を確認する。探すまでもなく一目瞭然だった。左の豊かな乳房の付け根に刻まれた銃創。そこから、杏子のソウルジェムよりも鮮やかな紅色の血が溢れ、タイルを赤く染めている。

 杏子は治癒魔法を銃創に集中させ、心の中で何度も彼女の信じる神にマミの無事を祈った。

 

 ――お願いだよ、もうこれ以上あたしの家族を奪わないでよ……!

 

 シャワーヘッドから放たれる温水が、タイルを染めた鮮血を流しつくすまで、ひたすらに彼女は祈った。

 しかし、彼女の神がその敬虔な祈りに応えることはなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

『最悪の結末だね』

 

 物言わぬマミを抱き締め、いまだに迸るシャワーの飛沫を受けている杏子に、バスルーム入り口に現れたキュゥべえが話しかけた。

 

『キミたち魔法少女の魂、本質はソウルジェムだ。心臓が破れようと死にはしない』

 

 その言葉は、マミの生存をほのめかすようにも取れる。しかし、そんな希望を杏子が抱くよりも早く、キュゥべえは言葉を連ねる。

 

『だが、死んだと思い込むことで、事実上死に至る魔法少女もまた多い。戦いで頭部や心臓が破壊された時、自らを死んだと認識したソウルジェムは、そのまま活動を止める』

 

 杏子はマミを見つめる。濡れた金髪が張り付く頬は柔らかく、閉じた瞳は眠っているようにしか見えない。既に血は洗い流され、銃創も治癒で塞がれた肌は、陶器の様につややかで生命力にあふれている。

 

『巴マミはそのケースのようだね。残念だよ、魔女になることなく死ぬなんて』

 

 瞬間、召喚された大身槍がキュゥべえの鼻先に突きつけられる。キュゥべえの話す内容も、明るい声も、そして今まで騙していたことも、全てが杏子の感情を逆撫でていた。

 

『ボクに怒りを向けるのはお門違いだ。マミは自分で自分の胸を撃って死んだんだろう? ボクだって被害者だ、勝手に死なれたら奇跡の貸し倒れだよ』

「てめぇは、もう何も喋るな」

 

 やれやれ、といった態度で首を振ると、キュゥべえは現れた時と同様に音もなくその姿を消す。

 あとに残った杏子は、シャワーの飛沫が一定のリズムで奏でる音を聞きながら、いつまでもマミの身体を抱き締めていた。

 

 

 

 その日は、明け方から激しい雨が窓を叩いていた。

 ベッドに横たわるマミの身体に覆いかぶさるような姿勢でいる杏子は、マミの乳房に顔を埋めて独りごちた。

 

「マミさん、あたし治癒魔法うまくなったでしょ。傷ひとつ残ってないよ。頑張ったんだよ」

 

 その言葉の通り、マミの身体から銃創は痕跡ひとつ残さず消えている。

 豊穣の女神を思わせる熟した乳房は、指で撫でると上質の絹のような手触りを杏子におぼえさせた。指に力を込めると、張りのある乳房は柔らかく歪み、指を包み込むようにしてくる。それは、体温と鼓動がないことを除けば、完璧な肉体だった。

 甘えるように、弄ぶように、人形のようなマミの身体にまとわりついているうちに時間は過ぎる。空腹も渇きもおぼえることなく、涙を流すことも懊悩にとらわれることもなく、杏子はいつまでもそうして蠢いていた。

 

 

 

 

 

 日暮れの頃、インターホンが鳴った。

 静寂を破って響く電子音に杏子の動きが一瞬止まるが、すぐに何もなかったかのように頬をマミの乳房に押し付ける。

 さらに間隔をあけて二度、インターホンが鳴った後に、玄関の方からかすかな声が届いた。

 

「マミさーん、杏子ちゃーん」

 

 控えめにふたりの名を呼ばわるその声は、ベッドルームに届くころにはカーペットに針を落としたような小さな音になっていた。杏子の蠢動が引き起こすシーツの衣擦れの音に容易にかき消されるような、頼りなく儚い音だった。

 

「マミさん、まどかが来てるよ、ほら、起きて。出迎えて、お茶淹れてあげて」

 

 その音を聞き取った杏子は、瞼を閉ざしたままのマミの頬を撫でると、生者に話しかけるように言葉を紡いだ。だが、そこにあるのは巴マミの肉体でしかなく、言葉を返すべき彼女の意識はそこにはなかった。

 

「いらっしゃいって笑って。召し上がれってお茶とお菓子を出して」

 

 反応を示さないマミに焦れるように、杏子が続ける。そして、返事を促すようにマミの肩を揺らし、首筋を噛む。

 数瞬の後、杏子の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。

 

「どうして何も言ってくれないの……」

 

 

 

 

 

 

「ふたりともいない……。さやかちゃんもいないし、どうしたのかな……」

 

 お気に入りのピンクの傘をさしながら、鹿目まどかは巴マミと記された表札の前で溜め息をついた。

 開放廊下様式のマンションのため、横殴りの雨が傘を叩く。その音は激しく、鹿目まどかの声も溜め息も押し流してしまうようだった。

 時間にして一〇分程度、インターホンを押し、遠慮がちに声をあげていた鹿目まどかだが、やがてがっくりと肩を落とすとその場を後にする。

 

「仁美ちゃんと上条くんに、なんて言おう……」

 

 その姿を見つめる目があった。

 ひとつは向かいのマンションの屋上に鎮座するキュゥべえ。この世の法則を逸脱したその身体は、大粒の雨を無数に受けてなお濡れることなく渇き、その血の色に染まった瞳は遠く離れた鹿目まどかの一挙手一投足を捉えていた。

 

『鹿目まどかのことは佐倉杏子の末路が決まってからでいいだろうね。今、下手に手を出して万が一にでも佐倉杏子が立ち直るようなことがあっては困る。なに、もういつでも契約は出来るだろう』

 

 そう呟くと、猫が眠るようにその場で丸くなってみせた。雨はやはり、彼を濡らすことはなかった。

 

 

 

 もうひとつは地上から見上げる暁美ほむら。病的なまでに白い肌と理想美とされる濡れ羽色の髪を大粒の雨に蹂躙されるに任せ、感情の窺い知れない昏い瞳で鹿目まどかの行いを見つめていた。

 

「巴マミ、佐倉杏子……」

 

 交わした約束を果たそうとしない巴マミと佐倉杏子への呪詛を吐くと、彼女は巴マミの部屋へ向けて歩を進めた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「何故まどかに応対しないの? まどかには美樹さやかは健在と伝えると約束したはずよ。巴マミのことも同様に伝えて。まどかを不安定にさせないで」

 

 再び訪れた暁美ほむらは、巴マミの遺体にも何ら感情の動きを見せず、佐倉杏子に言葉を叩き付けた。

 開け放たれたテラスへ通じる窓から風雨が飛び込み、暁美ほむらの髪と服からしたたり落ちる水滴はベッドルームのカーペットを濡らしたが、それを気にする人間はその場にはいなかった。

 雹のような暁美ほむらの言葉を受けて、佐倉杏子は焦点の定まらない、夢を見ているような瞳をほむらに向けた。そして、しばらく無言を通したが、痺れを切らしたほむらがベッドへ近寄り杏子の頬を叩くと、ようやく口を開いた。

 

「そうすればマミさんは起きてくれる? 朝ご飯作ってくれる? 勉強みてくれる? 叱ってくれる? 笑ってくれる?」

「無理よ。死人は喋らない、笑わない、動かない。……あなたのせいではないわ。美樹さやかは魔法少女になった以上破滅しかなかった。巴マミも魔法少女の真実を知った以上こうなるしかなかった。むしろあなたを巻き込まなかっただけ僥倖と言えるわ」

 

 吐き捨てるようなほむらの言葉に、徐々に杏子の顔が歪んだ。

 

「マミさんのことも、さやかのことも、知らないくせに……」

 

 ベッドの横で片膝をつく暁美ほむらの胸を、拳で叩く。赤子が駄々をこねるような力ない殴打を、暁美ほむらは避けるでも止めるでもなく、叩かれるに任せた。

 

「確かに《今回》は知らないわ。私ひとりの火力を極大にすることに時間を費やしたのだから。でも《過去》の統計から、分かるのよ」

 

 今回の時間軸において、暁美ほむらは退院後の数日を鹿目まどかへの忠告、マミや杏子への牽制に使用した後、考えうる最大火力を求めて国外を巡っていた。日本に戻ったのは昨日のことだった。

 

「あなたは強いわ、佐倉杏子。ここから立ち直って、ワルプルギスの夜との戦いに駒を進める。そう確信しているわ」

 

 ワルプルギスの夜、という単語に、杏子の殴打が止まった。

 

『佐倉さんとふたりなら、きっとワルプルギスの夜だって倒せるわ』

 

 一年近く前にマミと交わした言葉を思い出す。杏子の脳裏にその時の情景が鮮やかに甦る。マミと約束したことだ、ふたりで戦おうと――ならば、マミ抜きで戦うなど。

 

「ぜったい、いや」

「そう、残念だわ」

 

 佐倉杏子がここまで精神的に脆いとは、とほむらは臍を噛む気持ちだった。

 暁美ほむらの知る佐倉杏子は常に精神的に非常に強い存在だった。《今回》ここまで脆いのは、巴マミの悪影響に違いない。そう断じると、ほむらはベッドに横たわるマミの裸体に汚物を見るような目で一瞥をくれた。

 

 ――あなたの弱さは罪よ、巴マミ。

 

 心の中で呪詛を投げつけると、暁美ほむらはその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

『キミは佐倉杏子を煽りに行ったのかい?』

 

 テラスから身を躍らせ、地上に下りた暁美ほむらを待っていたかのようにキュゥべえが姿を現す。

 キュゥべえにとって、暁美ほむらはイレギュラーだった。突如として現れた魔法少女、魔法少女としての能力を誰から与えられたのか、どのような能力を持っているのか、目的は何か、全てが未知の存在。彼女を包んでいるそのベールを一枚でも剥がせればと、彼は言葉を投げかけた。

 

「いいえ。立ち直らせようとしたのだけどね」

『キミはボクたち以上に感情に無頓着だね。感情のないボクたちでも、過去のデータからこう話せばこう反応するくらいは推定してるんだけどね』

「それは私も同じよ」

『そうかい。それで、佐倉杏子には袖にされたわけだが、キミの目的は果たせそうなのかい?』

「心配は無用よ。私ひとりでなんら問題はないわ」

『想定外の事態じゃないのかい?』

 

 降り注ぐ雨を仰ぎ見るように顔を上向けると、瞳だけをキュゥべえに向けて、彼女は呟いた。

 

「雨にかみあらい風にくしけずる――この程度の状況、今さらのことよ」

 

 さらに言葉を連ねるキュゥべえを無視して、暁美ほむらは夕闇の中に消える。幾百回と浴びた山茶花梅雨の水滴が彼女を打つが、もはや痛みも冷えも彼女にはもたらさなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「待ちなさい、まどか」

 

 名を呼ばわる声に、鹿目まどかはピンクの傘を傾けて振り返る。大粒の雨が大地を叩く音の中でも、それはよく通る澄んだ声だった。

 

「……ほむらちゃん?」

 

 濡れそぼった服は肌に吸いつき、水を吸った黒髪は背中にしがみつく様に張り付いていた。そんな暁美ほむらの姿に、まどかは小走りに駆けよって傘をかざす。

 

「えっと……お久しぶり?」

「そうね、少し見滝原を離れていたから」

「大丈夫? 風邪、ひいちゃわない?」

 

 心配そうに覗き込むまどかに、ほむらは素っ気なく大丈夫と応えると本題を切り出した。

 

「あと数日で大型の魔女が来るわ。巴マミ、佐倉杏子、美樹さやかも今はそのために余裕がないの」

「それでみんな連絡が取れないの……?」

 

 瞳を閉じて頷くと、ほむらのあごから水滴が落ちる。と、ほむらの額を柔らかいものが拭った。

 

「ほむらちゃん、魔法少女だから平気なんだろうけど……」

 

 まどかの清潔感のある空色のハンカチが、ほむらの額を、頬を、あごを拭う。すぐに水を吸って重くなったハンカチを、まどかは傘をさしたまま器用に絞ると続けて喉や耳を拭った。

 

「……ありがとう」

「こんなことしかできないけど……あ、そうだ、ほむらちゃんの家までこのまま送ってあげる」

「ありがとう、でも結構よ。さっきも言った通り大型の魔女が来るの。災害の形を取ってね。まどか、あなたはその災害が去るまで、決して外に出てはだめ」

「ほむらちゃんや、さやかちゃん、マミさん、杏子ちゃんが頑張ってくれるの?」

「えぇ……それが魔法少女の使命だから」

「じゃぁ、安心だね」

「えぇ、安心よ」

 

 言葉とは裏腹に不安げな表情を見せるまどかを、抱き締めて安堵させてやりたいと暁美ほむらは思った。

 しかし、雨に打たれひどく濡れそぼった自分の有様を顧みると、それはとても許されないことだと理解した。そして、自嘲の笑みを浮かべた。汚れた手で、今さら何を掴もうというのか……、と。

 自分の手は、何かを掴むためにあるのではない、ただ鹿目まどかの未来を切り開くためだけにある――暁美ほむらは、決心をあらたにしていた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 夜が明けても、まだ空は涙を零し続けていた。

 天は誰のために泣いているのだろうか。巴マミか、美樹さやかか、佐倉杏子か、暁美ほむらか。それとも、間もなく訪れる災厄を予感して怯え泣いているのだろうか。

 その理由の如何を問わず、天の涙を止める存在があった。

 涙をもたらした原因を取り除くのでもなければ、涙ぐんだ心を慰撫するわけでもなく、力尽くで涙を虚空に留め置く。

 暁美ほむらの固有魔法である≪時間停止≫。

 彼女の能力によって静止した世界の中で、彼女は数日のうちに訪れる災厄への迎撃準備を整えていた。

 その絶後の能力は、累計四三二〇〇分の時間を押し留めることを可能とする。

 さらに固有魔法の常として、魔力消費は軽微だ。巴マミの当意即妙の万能性を誇るリボンも、美樹さやかの過剰なまでの治癒魔法も、その優れた能力に反して魔力消費は控えめである――そして、佐倉杏子の幻惑魔法も。

 

 

 

 

「マミさん、トーストと牛乳でいい? きちんとしたものは作れなくて……」

「うん、ありがとう、杏子ちゃん」

 

 リビングのテーブルに座るマミが、明るい声で応えた。その声を聞いて杏子は微笑むと、トーストにマーガリンとママレードを塗り、瓶入りの牛乳をコップに注ぐ。

 

「牛乳は温める?」

「ううん、そのままで」

「はーい」

 

 聞くまでもなくマミの朝食の好みは理解しているが、確認のために行った問い。それにマミは、杏子の知る通りの答えを返した。杏子の知る通りの声、杏子の知る通りの笑顔、杏子の知る通りの仕草、そこには杏子の知る巴マミの姿があった。

 淡いブルーのトーストプレートと、切り株を模したコースターに載せたグラスを二つずつテーブルに並べ、蜂蜜を容れたディスペンサーを置く。どれも駅前のデパートで、ふたりで選んだものだった。

 

「いただきます」

 

 唱和する声が響いた。杏子はトーストを口元に運ぶと、頬張る様にかぶりついた。美味しい、と自画自賛する。マミのようにフライパンで焼くような本格的なものではなくトースターで焼いたものだが、ナイフで厚切りに切ったおかげで表面は程よくでこぼこしていて食感が心地好い。

 勢いよく食べる杏子と対照的に、マミはトーストにも牛乳にも口をつけず、杏子の食べっぷりを柔和な笑みを浮かべて眺めていた。

 

 結局、杏子がトーストを平らげ牛乳を飲み干すまで、マミが食事を口にすることはなかった。

 正確には、マミは食事を口にすることはできない。

 何故なら彼女は佐倉杏子の幻惑魔法が作り出した幻影だから。美樹さやかが苛まれたような、錯乱の結果生み出され自分だけに見える幻影ではなく、魔力によって形成された万人がその存在を知覚できる幻影――ファンタズマだった。

 

「マミさん、食欲ないの?」

「そうね……せっかく作ってくれたのに、ごめんなさい」

「ううん、あたしが食べるから大丈夫だよ」

「ありがとう、でも、お腹壊さないでね?」

 

 自ら作り出した幻影とおままごとに等しい会話をすると、杏子はマミのプレートからトーストを奪い、幸せそうにかぶりつく。杏子にとって、もう現実には何ら価値がなかった――いや、杏子にとっては、こちらこそが幸せな現実だった。

 

 

 

 

 

 

 雨はあがり、月が出ていた。

 長雨で傷んだ大地を癒すように、燐光のような月光と星の光が降り注ぐ。

 だが、それらの光もこの部屋に届くことはなかったし、この部屋を癒すことはなかった。

 光を吸収するような瘴気が、癒しを拒むような瘴気が、部屋を包んでいたからだ。

 その部屋の中で、佐倉杏子は眠気を堪えるようなとろんとした目でマミを見つめていた。

 

「眠いの?」

 

 マミは猫を撫でるような声で問う。その顔は、今日一日絶えず微笑みが張り付いていて、まるで他の表情を失くしてしまったかのようだった。それも道理ではあった、幻影を操る佐倉杏子は、巴マミの微笑み以外の顔――悲しむ顔も苦しむ顔も、思い出したくなかったのだから。

 

「……うん」

「じゃぁ、ベッドに行かないと。立てる?」

 

 力なく頷いた杏子は、マミに促されるままに寝室へ歩く。

 照明の灯されていない寝室は、白い闇のような世界を築いていた。その薄闇の中にうっすらと浮かび上がるベッドに吸い込まれるように杏子は近づき、そこにあるものと閨を共にした。

 

 

 

 

 明け方から再び降り始めた豪雨が硝子を叩く音も、時ならぬ強風が窓を揺らす音も、ふたりだけの世界にいる杏子の耳には届かなかった。

 だから、杏子が目覚めたのは外界からの刺激によるものではなく、眠ることに倦んでのことだったのだろう。

 

「おはよう、杏子ちゃん」

 

 艶のある甘えかかるような声で、杏子の目覚めをマミが迎えた。

 

「おはよう、マミさん。……もうこんな時間。起こしてくれればいいのに」

「ごめんね、とっても気持ちよさそうな寝顔だったから」

 

 微笑んで応えるのはマミの幻影だ。幻影は操り手である杏子の意思がないと何も出来ない。つまり、杏子が眠っている間に幻影が何かを自発的にすることはありえない。幻影のマミに起こせといっても、それは無理難題だ。

 だが杏子にはすでにその道理は理解できていなかった。そもそも、幻影であることを認めておらず、本物のマミと信じ込もうとしていた。

 

「でも、なんだかまだ眠いや……」

 

 倦むほどに寝た杏子が感じるそれは眠気ではなく、この世界を倦み現実逃避しているが故の気怠さであったが、どちらであっても彼女にとっては大差なかった。

 

「あらあら。熱でもあるのかしら? 二度寝しちゃう?」

「そうしていい?」

「もちろん。疲れたときは休んでいいのよ」

 

 冷たくなったマミの身体に抱きつくと、杏子は鼻を鳴らして甘えた。

 

「無理しないで、ゆっくり休みましょう、杏子ちゃん」

 

 ――そうだよ、あたしは一年以上街を守って戦い続けてきたんだ。マミさんに至ってはそれよりも半年以上長く。もう充分だろ? どうせあたしにもマミさんにも、守るべき肉親もいないんだ。ゆっくり休ませてもらったっていいだろ?

 

 眠るように、杏子の意識の光が途絶えた。そしてそれに従い、幻影のマミもその姿を散らした。

 冷たくなったマミの枕元に置かれたソウルジェムは、本来のオレンジイエローの輝きを失い暗黒色に染まり、その横に並べられたソウルジェムは、本来の真紅の輝きを失い烏羽色へと堕ちていた。

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