マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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第四三話 マミさんの、神の目の凱歌

 魔女の口腔。

 列状の牙と分泌される腐食性の体液という直接的な脅威に満たされ、腐臭に高湿高温に包まれた、危険で不快極まりない空間。

 その中に、色鮮やかなリボンに包まれた球状の領域があった。

 絶対領域と呼ばれる、マミの防壁魔法。それが築く黄金色の空間が口腔の中に浮かんでいた。

 

「間に合って、というか、近くにいてくれて良かったわ」

 

 マミの口元が綻ぶ。

 とっさに展開した絶対領域だが、効果範囲はせいぜいが数メートル。その範囲内に夜宵かおりがいたことは、両者にとって幸運なことだった。もしそれ以上離れていれば、リボンによってかおりを引き寄せるひと手間が加わり、絶対領域の展開が間に合ったかどうか……そういった微妙なタイミングだった。

 

「もっと引っ付きましょうか?」

 

 冗談か本気か分からない言葉をマミが礼儀正しく無視すると、とりつくろうように言葉を重ねる。

 

「本当に、完璧なガードですのね。巴さんの絶対領域」

「だと、いいのだけれど……」

 

 魔女の口腔は鮫の歯よろしく複数の牙列を備え、それを次々に切り替えてはマミの絶対領域を襲った。

 マミも安穏と受けているわけではない。かおりから見れば金剛不壊の護りに見える防御も、実際は牙を受けたリボンは傷つき疲弊している。マミはそれを高速で新しいリボンへ切り替え、常に万全な状態を保つことに神経を遣っていた。

 

「防御しているだけでは、埒が明かないわね」

 

 マミは、リボンのガードの外に大砲型マスケットを作り出し、砲撃を試みる。しかし、絶対領域の庇護下にない大砲は、生成途中で牙の一撃を受けて砲身を折られてしまった。

 ならばと通常型のマスケットを瞬時に生成し射撃するが、その程度の魔弾では有効な打撃は与えられない。

 

「ほんと埒が明かない……」

 

 そして、そう思っているのは魔女も同様だったのだろう。

 口腔のピンク色の肉の一部に一メートル程度の裂け目が生じた。

 汚らわしい体液を滴らせて開くその裂け目の奥に光るものは――

 

「――ッ!」

 

 見開かれた瞳が固有魔法を消去するのと、マミが反射的に放った魔弾が魔法消去の影響を受け形を失いながらも瞳を射抜くのとは、ほぼ同時だった。

 消された絶対領域を再び展開する刹那の間に、牙はマミの太腿を貫き、かおりの両腕を裂いた。

 

「大丈夫ッ?」

 

 螺旋を描くリボンが侵入していた牙を砕き、再びセーフティゾーンを形成する。さしものマミも治癒に意識を割く余裕はなく、傷口から鮮血が溢れるに任せて意識を防御に集中した。

 

「はい、今、そちらも癒しますわ」

 

 狭い絶対領域の中で、身を寄せ合うようにしているおかげで、治癒魔法はすぐに作用し、太腿の大きい傷をはじめマミの全身が癒されていく。だが、流れ込む癒しの波動の心地良さに頬を緩める余裕はマミにはなかった。

 魔女の口腔の天蓋にあたる肉壁に次々に生まれる瞳。その処理――肉に亀裂が走り、広がり、瞳が開く、そして固有魔法を消す能力を発揮する。その直前に、魔弾で射抜く――に追われ、神経を張り詰めていた。

 

 仮にひとつでも瞳が効力を完全に発揮すれば終わってしまう。

 リボンによって作られた魔弾は瞳を攻撃することはできなくなり、絶対領域を失ったマミとかおりは、瞬く間に全身を牙で貫かれるだろう。

 おそらくはその過程でソウルジェムを砕かれるであろうし、たとえ運良くソウルジェムが砕かれなかったとしても、マミの治癒魔法だけでボロボロになった身体を瞬間的に癒すことは不可能。

 敵だけがこちらを殺す手段を持ち、こちらはただひたすらに対症療法的にそれを凌ぐ。

 精神的に摩耗する作業だが、マミは折れることなく続ける。

 亀裂の出現を見落とさず、爪牙にかからぬよう瞬間的にマスケットを生みだし、裂け目が開き脆弱な瞳が露出する瞬間に魔弾を送り込む。

 

 ――ティロ・フィナーレならともかく、魔弾じゃダメージもろくにないわよね……。

 

「巴さん、わたくしのソウルジェムを預かって頂けませんか」

 

 絶対領域の庇護下で状況を見守っていたかおりが、決然とした表情を見せた。彼女は続ける。

 

「この状況では巴さんの絶対領域しか安全な場所はありませんわ。ですが、ソウルジェムを護って頂ければ、わたくしが外に出て暴れられまわ。もちろん牙でやられるでしょうが、ソウルジェムさえ無事ならわたくしの治癒魔法で」

 

 マミは首を横に振る。その仕草で髪に留まっていた汗が一筋、うなじを流れた。

 

「そんな身体を犠牲にすることが前提の戦い方、賛成できないわ。それに、いつまで絶対領域で耐えられるか分かったものではないわ」

「では他にどうすればよろしいのですか! 大丈夫です、巴さんがわたくしの魂を護って下さると信じれば、身体ごときどうなろうと構いませんわ。それに、絶対領域がもたないというならそれこそ一蓮托生。巴さんと一緒に天国に行けるなら、命を落とすのも悪くありませんわ」

「……無理ね。たぶん、私は天国に行けないもの」

 

 既に絶対領域を構成するリボンは、初期のものと全てが入れ替わっている。いや、正確には全交換を三度行って余りあるほどに入れ替わっている。その過程における魔力の消費は軽微だが、精神の消耗は無視できるものではない。

 

「そんなつれないことを仰らずに」

「そういうつもりじゃないの、本当のことなのだけれど……」

 

 

 油断ではなく、不注意でさえなく。

 コップに注ぎ続けた水がやがて零れるがごとき当然の帰結として、魔女の牙が絶対領域を貫き、マミの肩を裂いた。

 

「このっ!」

 

 スプレッドニードルの接射が侵入した牙を砕き、マミはリボンを操り絶対領域を再構築、再びセーフティゾーンが築かれる。

 かおりはマミの傷を癒しながら、キャビンアテンダントのようなベレー帽からソウルジェムを外し、マミの手に押し付けた。

 

「お願いします」

「……分かったわ」

 

 ぎゅっと、蒼銀のソウルジェムを握りしめる。

 訓練の時にいつもしていることだが、今日ほどマミの手の温かさをソウルジェム越しに感じたことはない、とかおりは目を細めた。そして、覚悟を宿した瞳でマミを見つめる。

 

「五秒後、一瞬だけ絶対領域を解いてくださいますか。そこで外に出ますわ」

 

 首肯するマミ、しかし、状況はその五秒さえ許さず、次の異変が発生する。

 左側方、ピンク色の肉に裂け目が走る。今までの裂け目よりも早く、長い。縦に伸びるそれは、四メートルを超える長さ。

 

 ――大きすぎるっ! 魔弾だけで止めきれるのっ?

 

 出そうになる悲鳴を押し殺して、マミは三〇ほどのマスケットを作り出し、魔弾を撃つ。

 裂け目が走る速度は従来より早かったが、裂け目が開く速度もやはり従来より早かった。結果として、マミの魔弾が届く前に、裂け目は開き切る。

 

 ――間に合わないっ? 目との相討ちならともかく、魔弾だけが消されたらっ!

 

 金属音が響く。魔弾が、金属に弾かれる音。

 

 それは、槍の穂先が魔弾を次々と叩き落とす音だった。

 続いて響く、聞きなれた声。

 

「やめてよマミさん。マミさんに撃たれるなんてごめんだよ」

 

 声の主は、だらしなく開いた肉の裂け目に立っていた。大身槍を構えた佐倉杏子が、彼女の常である不敵な笑みを浮かべて。

 この巨大な裂け目は、彼女の槍の一撃が切り開いたもの。

 咀嚼行為に集中していた魔女は杏子の接近に気付くことなく、彼女の大振りの一撃をその身に受け、内部の口腔まで続く傷を受けたのだった。

 

「キュゥべえから、マミさんが中に喰われてるって聞いてね。とりあえず出れる?」

 

 ダメージからか一時的に蠕動を止めた口腔に入り込むと、杏子は大身槍を垂直に伸ばして穂先と石突きで魔女の両の顎を固定。魔女の咀嚼行為の制限を試みる。

 ちょうどそれが終わると、魔女の口腔が再び動き出した。

 さすがに魔女の力は凄まじい。上下から圧を受ける大身槍は、軋みたわんで悲鳴をあげる。

 それでもマミたちが口腔から逃れる時間は確保できた。彼女たちが裂け目から飛び出した数瞬後に、槍の柄はへし折られ、魔女は口腔を歪ませる――しかし、既に咀嚼すべき対象は魔女の口の中にはいなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 魔女の巨躯に並ぶ数多の瞳は、再び見開かれていた。

 その視線を浴びる魔法少女たちは、それぞれが得意とする魔法を消去される。

 影響が甚大なのは明らかに巴マミ。そして影響が軽微なのは佐倉杏子と言えるだろう。幻惑系の魔法が消去されるが、そもそも彼女の戦闘は幻惑なしでも完成されている。「不便だな」といった言葉で片付けられる程度の影響だ。

 

 だから、マミが最初に行おうとした「地道」な討伐を、杏子ならばよりスムーズに遂行することができる。

 それが性格に合わないのか、それとも他の思惑か。

 杏子は、一旦距離を取った状態で提案した。

 

「マミさん、遠くからがんがん狙撃してよ」

「でも、魔弾そのものがリボンでできているのよ。遠くから撃ったとしても、魔弾が近付いたところで消されてしまうわ」

「あれがあるじゃん、魔弾じゃなくてビームの」

「ヴェルシオーネ・イリミタータ?」

「名前はおぼえてないけどさ。アイツの魔法消すのだって、そんな遠くまでは効かないだろうし、二、三キロ離れて、そこから撃ってよ」

「そうすると……移動で一分、イリミタータの準備に五分。けっこうかかるわよ」

「よゆーよゆー。時間稼ぎしつつ戦っとくよ」

 

 会話を聞きながらも、かおりは烈風とそれが運ぶ弾丸の回避に神経を集中させており、口を挟むことはしなかった。しかし、「最初から接近せずにそうすれば良かったのでは」という疑問が喉まで出かかっていた。

 無事戦いが終わったら聞いてみよう、ベレー帽に戻ったソウルジェムを撫でながらそう考えると、彼女は足を引っ張らないことだけに専念した。

 

 

 

 

 

 烈風の中、フクロウが飛ぶようにしなやかに、ハヤブサが飛ぶように鋭く、マミは駆けた。

 そして、魔女を遠くに見据える位置まで移動すると、高層ビルの屋上に舞い降りる。

 屋上に設けられたヘリポートの中央に着地したマミは、片膝をつき両掌を重ねあわせて足元に力強く叩きつける。

 瞬間、掌を中心におびただしい数のリボンが湧出し、全方位へと津波のように波打ち走った。

 土台としての役割を持つリボンがヘリポート全域に根を張ると、その上に幹たる砲身が築かれていく。

 ティロ・フィナーレに用いるマスケット大砲を数秒で組み上げるに至っているマミだが、その要因としては知識と経験があげられる。マスケットの構造を余すことなく理解し、その上で何千回と作成経験を積んだことで、彼女のマスケット大砲の生成速度は飛躍的に向上していた。

 ひるがえってヴェルシオーネ・イリミタータは、彼女にとって理解の難しいYAGレーザの機構を参考とし、生成経験も両手の指で数えられるほどしかない。

 そのため、ヴェルシオーネ・イリミタータと称する大口径魔力粒子砲の生成には、マスケット大砲の一〇〇倍からの時間を要する。

 

「でも、杏子ちゃんに甘えてばかりはいられないわ。今日ここで、最短で作ってみせる」

 

 二キロ以上の距離を取ってなお、魔女の引き起こすカマイタチは彼女を襲い、巻き上げられたコンクリートの弾丸は彼女を狙った。それらを的確にリボンで防御しつつ、マミはヴェルシオーネ・イリミタータを築いていく。

 

 

 

 

 

 カマイタチも、コンクリートの弾丸も、杏子の影を捉えることさえできなかった。

 踊るように緩急をつたけ動きで魔女を翻弄しつつ、槍の刺突を繰り出していく。既に潰した瞳の数は三〇を超える。もし魔女に体力を示すゲージがあれば、一割は減っているはずだが――

 

「埒が明かねぇな」

 

 吐き捨てる。

 潰しても、新たな裂孔が生じ、新たな瞳が湧く。それは徒労に近い感覚を戦うものに与え、戦意を挫こうとする。あるいは焦れさせて、動きを乱暴なものにさせようとする。

 しかし、どちらも杏子には効果はなかった。彼女の精神力が強靭なこともあるが、なにより彼女には戦いの終結に至るまでの道筋が見えていたからだ。

 

 その道筋を照らす光が、遥か後方に見えた。

 マミがつくりだした大口径魔力粒子砲が、内部で魔力を増幅させている光だ。

 

「かおり、ソウルジェム預かろうか? ティロ・フィナーレが来るぞ」

「結構ですわ! それに、ティロ・フィナーレではなく、ティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータ! 間違えては巴さんに失礼ですわ!」

「はいはい……来るぞっ! 巻き込まれんなよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 細い、糸のような閃光が奔った。

 熱を感じさせないそれは、針が薄絹に突き刺さるかのように、魔女の体躯中心を貫いた。

 

『杏子ちゃん、夜宵さん、離れてねっ!』

 

 警句の後に、閃光が膨張する。

 糸のようだったか細いその身は、天を翔ぶ龍のように雄々しく、針のように真っ直ぐだったその身は、堰を切った濁流のように荒々しく、魔女の体を貫きながらうねり暴れる。

 魔女の巨躯が、光の濁流が暴れるごとに千切れ、蒸散していく。ティロ・フィナーレ・ヴェルシオーネ・イリミタータの熱量は、魔女の体液さえ飛び散ることを許さず煙へと変える。

 

「すっげぇな」

 

 見上げる杏子が呟く。それはマミの攻撃と、魔女の防御双方に向けた言葉であったが、かおりには前者の意味しか理解できなかった。

 もし、かおりに杏子と同等の魔力を感知する能力があれば、魔女が自身の核である巨大な瞳を体躯の最奥に置き、全魔力でもってマミの攻撃を何とか凌ごうとしていることが理解できたであろう。

 その事実は攻撃を行っているマミにも手応えで伝わっており、それ故に次のテレパシーをマミは発する。

 

『杏子ちゃん、そろそろこっちおしまい。とどめお願いね!』

『応っ!』

 

 光の奔流がはじけた。

 太陽のごとき眩さと熱さ、それが消えた後には元の巨躯から見ると非常に小さな――それでも乗用車ほどのサイズだが――眼球のみが残った。

 自身の肉の全てを防壁とし、さらには持てる魔力の全てで防御壁を築いてマミの攻撃に耐えた魔女だったが――そこに地上から跳躍した死告天使が舞い降りた。

 先端が開き、三叉となった杏子の槍。それは疲弊し浮遊することしかできなくなった魔女の核を、容赦も慈悲もなく鋭く貫いた。

 

「お疲れさん、だな」

 

 口の端を歪めると、三叉の中央に位置している魔力によって作られたニードルが魔女の中で爆散した。

 もはや魔女は抗う術を持たない。魔力の爆散に煽られるままに、その身を散らしていった。

 

 

 

 

 

 

 雨がやみ、風が徐々に凪いでいく。

 烈風によって真横に流されていた杏子のポニーテールが本来の位置に収まる頃、マミが合流した。

 

「お疲れさま、杏子ちゃん、夜宵さん」

「すみません、わたくし、お役に立てないばかりか足を引っ張ってしまって……」

「ま、それが理解できるだけ成長したんじゃねーの? 気にすんな、最初からあてにしてないし」

 

 大身槍を両肩で担ぎ、リラックスした姿勢の杏子の軽口に、かおりが吠える。自覚していることでも、いや、自覚していることだけに、杏子には指摘されたくないのだろう。

 

「あなたは見てないでしょう! わたくしが足を引っ張ったところ!」

「見なくても想像つくしー」

 

 マミは口元を手で隠すと、声にならない声を漏らす。それを見とがめたかおりが「巴さんまで!」と叫んだが、それは無視してマミは表情を硬くした。

 

「杏子ちゃん、私の置き手紙見なかったかしら?」

「見た……けど?」

「どうして言いつけを守らないのかしら? 魔法少女にならないようにって書いてあったよね?」

「そ、そう言われても……ほら、押すなよ、押すなよ的なものかと」

「そんなわけないでしょう?」

 

 マミのむすっとした態度に、杏子は心底たじろいだ様子を見せる。足元をふらつかせ、あまつさえ、かおりに助けを求める有り様だ。

 

「な、なぁ、かおり、助かっただろ、あたしが来て」

「どうでしょう?」

 

 肩を叩こうとする杏子をひょいと避け、かおりはマミに寄り添う。そして甘えるように寄りかかると続ける。

 

「巴さんおひとりでも倒せたと思いますし、助かったのかどうかと言われますと……」

「マジかよ。いや、マミさんだけで倒せたとは思うけどさ」

「ですがまぁ、わたくしが足を引っ張った分をチャラにする程度の働きではありましたし、一応は感謝いたしますわ」

「一応かよ」

「一応ですわ」

 

 ふたりのやり取りを仏頂面で眺めていたマミだが、不意に笑いがこみあげてきた。杏子の手前もあり抑えようとするが、口元が綻び、笑う声が溢れる。一度笑いが漏れると、もう歯止めが利かなかった。

 ひとしきり笑うと、ひとつ咳払いをして息を整える。そして目尻を指で拭うと、

 

「しょうがないわね。済んだことだし……それに、本当に助かったわ、ありがとう。私ひとりじゃ危なかったわ」

 

 杏子の表情がぱぁっと明るくなる。それを見て、マミは温かい気持ちになりつつも釘を刺した。

 

「でも、帰ったらお説教はしますからね」

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

「明日から学校かぁ」

 

 数日が経った。

 八月も末日となったが、夕方のパトロールを控えたこの時間もまだまだ残暑は厳しい。杏子は暑気払いにアイスバーを咥えながら、出かけるための身支度をしている。

 

「そうね、杏子ちゃんも受験生なんだから、二学期からは勉強時間増やさないとね」

 

 既に支度を終え、リビングからぼんやりと外を眺めていたマミが応える。日は傾きはじめてはいるものの、いまだ紅には染まらず、今しばらくの日照時間を約束していた。

 

「えー、あたし成績いいよ?」

 

 言葉の通り、杏子の成績は上位に属する。それも当然ではある。マミという家庭教師が常に生活を共にしているのだから。

 

「ダメよ。他のみんなも頑張るんだから、杏子ちゃんも頑張らないと追い抜かれちゃうわよ」

 

 正しくは、厳しい家庭教師か。さらにはお菓子というアメも使い、その上で生徒から慕われているのだから、家庭教師としては極上の部類に入るだろう。

 

「まぁ、それはいいんだけどさ」

「どうでもよくないわよ?」

「いや、そうじゃなくて……。勉強時間増やすのはいいとして、志望校とか考えないとなって」

「好きなところにすればいいわよ。なんなら夜宵さんのところに編入してもいいし」

「それはない」

 

 支度を終え、リビングへ入ってきた杏子が言下に否定する。マミは杏子の気配を感じてそちらに向きなおすと、ゆっくりと歩を進めた。

 

「したいことがあるなら、普通科じゃなくてもいいし」

「ちょっと考えとく」

「そうね、きちんと考えた方がいいわ。しっかり考えた結果なら、どんな選択でも応援するから」

 

 そして歩み寄ると杏子の首に手を伸ばし、少し乱れていた襟元を整える。アイスバーは既にアイスの部分が完食されて棒切れとなっていた。それを口に咥えた杏子は、されるがままに任せる。

 襟元を皮切りに、袖、裾、ソックスと順番に整えられていた杏子は、棒切れを口から取ると独語した。福音派の父を持った杏子からすると宗派は異なるが、宗派を超えて尊敬している偉人の言葉だ。

 

「神は私たちに成功することを望んではいません。ただ挑戦する事を望んでいるのです、か」

「いい言葉ね、なにか挑戦したいことがあるの?」

「んー」

 

 身だしなみの確認をすべて終えると、マミは合図のように杏子のふくらはぎを軽く叩いた。

 それは「チェック完了」を示すふたりの間の符丁のようなものであり、そのような符丁が存在するということは、これは常のことなのである。常のように杏子の身だしなみは不充分で、常のようにマミのチェックを受けている。

 合図を受けて、杏子はじっとしていることを止める。軽い足取りでリビングの角のゴミ箱まで歩くと、手にした棒切れを入れようとし――その直前で手を止めた。

 

「少し調べてみて、それでも考えが変わらなければ、マミさんに伝えるよ」

 

 マミはその返答に満足する。既に杏子に、うっすらながらとはいえ進路の希望があり、それについて自分の手で調べると言っているのだから、期待した以上の答えといえた。

 これ以上は急かすことになると考えたマミは、一連の会話を打ち切ろうと話題を変える。

 

「はい。じゃぁパトロール、行きましょうか」

「うん、マミさん」

「なにかしら」

「アイス当たったから、帰りにもらっていいよね」

「いいけど、食べるのは明日以降にね。今日の分はいま食べたでしょ」

「でも、帰ってくる間に溶けるよ」

「じゃぁ、いま食べたアイスどうやって持って帰ってきたのよ」

「冬の間に買っておいた」

「昨日買ったの、覚えてますよ」

 

 マミはくすりと、杏子はにやりと笑みを浮かべた。

 

「マミさん細かくない?」

「杏子ちゃんは言い逃れが適当すぎない?」

「平行線だなぁ」

「えっ、そ、そうかしら?」

 

 明らかに自分に理があると思っていたマミは、杏子の言葉に僅かに動揺する。そして、じゃぁ、と前置きして、

 

「今日、結界を先に見つけた方が決めることにしましょう」

 

 と、折衷案を提示するのであった。これもまた、ふたりにとって常のことであった。

 

 

 

 

第六部 マミさんの、魔法の国が消えていく   完

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