マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
第四四話 マミさん、キュゥべえとティータイムを楽しむ
見滝原第一高校の文化祭は、例年十月最後の土曜日に催される。
今年もスケジュール通りに開催され、つつがなく終了した。
ほとんどの生徒にとっては良い思い出として記憶されたのだが、ごく僅かにそうでない者も少数ながら存在した。
たとえば、森林りんご、リンリンと呼ばれる少女がそうであった。
「マミ、お願い! うちの部活に入って!」
文化祭を終えた翌週の朝、ホームルーム前の教室。
珍しく早めに登校したリンリンは、常のように時間に余裕を持って登校していた巴マミに両手を合わせて拝むようにしていた。
「突然どうしたの? ええと、黒魔術研究会、だっけ?」
スクールバッグから出した教科書とノートを机の上で整理し、時間割り順に並べていたマミは、手を休めて友人の顔を見つめる。小首を傾げる仕草は、同性のリンリンから見ても愛らしい。
「部員が少なくて、このままじゃ廃部になっちゃいそうなのよ」
文化祭でアピールすれば、一年生の三人や四人軽く勧誘できるだろうと根拠なく考えていた黒魔術研究会メンバー計二名は、ひとりの入会者も得られなかったことに焦っていた。
校則では最低メンバー数が規定されている。顧問の教師には、文化祭で勧誘するから……と猶予をもらっていたのだが、現状ではいつ廃部になってもおかしくない。
「私ひとり入れば大丈夫なの? そういうことなら、幽霊部員で良ければ籍は入れてもいいけど?」
「できれば時々顔を出して」
「えー、私、黒魔術とか興味ないよ」
「興味なくていいから。机で小説でも読んでてくれれば」
「いや、ダメでしょ。まじめに活動してるひとに悪いもの」
「マミがいてくれれば、男子生徒が釣れると思うんだよね」
「なにそれ。そんなワケないでしょ」
「いやいや、そんなワケあるよ。マミはこないだの文化祭で、ミスコン三部門を総ナメにしたコなんだから」
「……え?」
「あれ、知らなかったの? ミスコン」
「そんなのやってたの?」
驚きで声が半オクターブ上がった。気付いて口元を手で隠し、はにかんで頬を染める。そして耳目を集めていないかと視線を巡らし、杞憂であることを確認してから胸を撫で下ろす。
「やってたよー」
「うそ。そんな前時代的なの、学校側が許さないでしょ」
「非公式だからねー」
リンリンと呼ばれる少女の特徴として、自分の求める方向に器用に勘違いすることがあげられる。この場合も、呆れて閉口したマミを、詳しい説明を求める態度と勘違いした。
早口気味になった彼女は、立て板に水とばかりに説明を披露し、マミはそれを慣れた態度で相槌まじりに聞き流す。
開催は写真部と生徒会で、学年ごとに何人かを自薦他薦でエントリーし、行事の時に撮っていた写真を掲示して投票をしてもらったのだと、リンリンは言う。
そして三部門が設けてあって、それぞれでマミが優勝したらしい。
曰く、ガールフレンド(仮)にしたい女子生徒部門で、ダブルスコアで優勝。
曰く、ケッコンカッコカリしたい女子生徒部門で、有効投票数の過半数を集め優勝。
曰く、母になってくれるかもしれなかった女子生徒部門で開票三分で優勝当確。
「すごいでしょ」
なぜか自分のことのように誇るリンリンに、まさに自分のことであるマミは対照的な表情をしてみせた。
「嬉しくないの? 三部門制覇は長い歴史の中でもほとんどいないらしいよ?」
「最後のってダメな賞じゃないの? おばさんくさいって言われてるみたいで……」
「いやいや、それだけ母性が溢れてるってことだよー。しかも彼女としてもお嫁さんとしてもいいなんて、良妻賢母そのものだよ、マミ。世が世なら性格、容姿、そして家庭的、全て三拍子揃ってるぜって言われてるわよ」
「良妻賢母っていわれても……」
「マミなら立派な良妻賢母になれるよ。引く手あまただし」
「んー……、私はたぶん結婚はできないかなぁ」
「どして」
「だって、いつ死ぬともしれない身だし……」
「……なにそれ、カッコイイ!」
しまった、とマミは思った。うっかり本音を口走ったこともだが、それよりも友人が好みそうな話を振ったことを、だ。友人がそれ以上食いついてこないうちに、慌てて打ち消す。
「冗談よー、普通の高校生が死ぬわけないじゃない」
「ですよねー」
あっさりと引き下がったのは、彼女の目的がそこになかったから。今の彼女にとってマミの勧誘が焦眉の急であって、中二病っぽい話で盛り上がっている場合ではなかった。
「それはさておいて、入ってよ、部活」
「だから、籍だけならいいよ」
「そうじゃなくてさー」
「顔だすのは勘弁してー」
ホームルームが始まる直前まで粘ったリンリンだったが、マミの色よい返事を引き出すことはできなかった。
それでも、マミが入部するという事実は大きく、数日で何人かの男子生徒が入部し、黒魔術研究会は廃部の危機を逃れることができた。
その結果に、リンリンは「さすがマミ」とあらためて認識するとともに、ミスコンに推薦した甲斐があったと深く頷いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
その日の深夜、マミの部屋の窓を叩くものがいた。
あまりにささやかな音であったため、マミは最初は風に運ばれた砂がガラス窓に当たっているのだろうと思い、勉強を続けていた。
やがて、音が何度も繰り返されることに訝しんだマミが席を立ち、窓に近寄るとそこにキュゥべえの姿があった。
「どうしたの、キュゥべえ?」
窓を開けつつマミが問う。その問いは、どうして訪れたのかという意味ではなく、どうして入ってこずに窓を叩いていたのか、という意味でなされたのだが、キュゥべえは前者で受けとったようだった。
「突然すまない、キミと話がしたくてね」
窓から部屋に入ってくる。普段の軽やかな足取りはなく、ともすると倒れそうなくらい不安定な足運びだ。いや、普段と違うという点では、それよりも大きい事象があった。
「キュゥべえ……? テレパシーじゃない……?」
「テレパシーで力を使いたくないからね。ボクに残された力は僅かだから」
マミの用意したクッションに倒れ込むように横になる。すぐ横に腰を下ろしたマミが観察すると、普段と違う点は他にもあった。
いつもはシリコンゴムのように滑らかで、汚れ一つなかった身体が、今は使い古した筆先のように毛羽立ち、荒れていた。
いつもは床に触れていないのかと思えるほど静かに、なんの痕跡もなく歩いていたのに、今は床に汚れた足跡を残していた。
「一体、どうしたの、キュゥべえ……?」
「ボクは感情という疾患を患ってしまってね。インキュベーターとしてのあらゆる権益からシャットアウトされているんだ。最後の力もそう遠からず尽きるだろう」
無言で片手を伸ばすと、マミはキュゥべえの背中を撫でる。そして、治癒の魔法を送り込んだ。
オレンジイエローの温かい光がキュゥべえの身体を包み込む。目立った効果は見えない。
「マミ、どうしたんだ。キミはボクを憎んでいるはずだよ。それはボクも当然のことと受け止めている。だから最後に謝りたいと思ってここに来たんだが」
「確かにインキュベーターは憎いけど、あなたはもう違うのでしょう? だったら、ただの弱っている生き物だもの、助けるのは当然よ」
そこまで言うと、マミはくすりと笑みを漏らした。抑えようとしても溢れてくるような笑いを何度か繰り返す。
「何がおかしいんだい?」
「ううん。酷い毛並みに酷い汚れ。捨て猫みたいだわ。あなたも、こうして見ると普通の生き物なんだなって思ったら、おかしくなっちゃって」
「そこらにいる哺乳類と同じに扱われるのは心外だ」
部屋に来た当初よりも、キュゥべえの声に少し張りがあるようにマミは感じた。マミはそれを治癒魔法の効果と信じることにして、さらに魔法を続ける。
「はいはい。とりあえず、お風呂いれてあげる。そこらにいる哺乳類みたいに、お湯を怖がったりしないわよね」
「もちろんだ」
「ドライヤーも怖がらないわよね」
「くどいよ、マミ。ボクが怖いのはまんじゅうくらいだ」
「ヘタな冗談ね」
「ダメかい。難しいものだね」
マミが笑いを漏らしているのだから成功したのではないかとキュゥべえは思うのだが、本人がヘタな冗談と指摘している以上、ダメであったのだろうと失望し、耳をぺたんとたたませた。
その仕草に小動物の姿を重ねたマミは、治癒魔法のオレンジ色の光に染まった頬を緩ませ、目を細める。
やがて、毛羽立っていた肌が滑らかなものへと回復を見せる。キュゥべえは片耳をぴんと持ち上げた。
「エネルギーがなくてテレパシーを使いたくなかったんだが、このままでいいね。声を出した方が話をしている気になるよ」
「そうね。同感だわ」
言外にテレパシーを使えるくらいには回復したとキュゥべえは告げ、マミもそれは諒解した。治癒魔法が彼に回復をもたらしていたことに安堵し、彼の身体を胸に押し付けるようにして抱き上げた。
「じゃぁ、お風呂はいりましょうか。杏子ちゃん寝てるから、廊下では静かにね」
「テレパシーにした方がいいかい?」
マミはゆっくりと首を左右に振って応えた。
◇ ◇ ◇ ◇
ゴシゴシと音が出んばかりに激しく、膝に乗せたキュゥべえをボディスポンジで磨く。
聞くと、キュゥべえが感情に目覚め、インキュベータの権益から放逐されたのが八月の半ば。ちょうどマミが一度魔法を失い、再契約をした時のキュゥべえが彼にあたるらしい。
それから二ヶ月以上も経っている。その間に身体にこびりついた汚れは酷く、磨いても磨いてもなかなか綺麗にはならない。
マミはキュゥべえの身体磨きに熱中していた。汚れが残ることを看過できない性格と、綺麗になっていくことに充足感をおぼえる性格が合わせ技として作用している。
それだけ激しく扱われたボディスポンジは、汚れを吸い込み、また表面もくたびれてきていた。
「スポンジ、ダメになっちゃいそうだわ」
「それはすまないね。浴槽やトイレを洗うようなもので洗ってくれて構わないんだが」
「大丈夫、このスポンジはあなた専用にするから。それにしても遠慮するなんて、可愛いわね」
上半身を前に倒し、太ももと乳房で挟み込むようにしてキュゥべえを抱き締める。愛玩動物にするような無邪気な愛情表現だが、されている方がおずおずと抗議を返した。
「マミ、その、胸が当たってるんだが」
「あら、そんなこと気にするの? おませさんな子ね」
顔を綻ばせたマミが上半身を持ち上げる。そのタイミングで、キュゥべえは全身を小刻みに震わせた。濡れた猫が行うような身体中の水分を撥ね飛ばす仕草は、彼の全身を覆っていた泡を周囲に弾き飛ばす。
「あっ、こら、泡が跳ねちゃうから」
「ボクをからかった仕返しだよ」
「もう……あっ、そうだ。もうインキュベーターじゃないのなら、名前がいるわよね」
目尻についた泡を指で拭うと、マミはそのまま指を口元にあてて考える仕草をみせた。キュゥべえは仕返しに満足したのか身震いをやめると、マミの膝上で丸まって言った。
「イタリア語はいやだよ」
「なんでよー」
「なんででもだよ」
「むー」
何度かシャワーで流し、何度かソープを垂らして泡立ててから、マミは彼に新しい名前を告げた。
「じゃぁ、感情をおぼえたキュゥべえで、カンべえにしましょう」
「別に好きに呼んでもらって構わないんだが……もう少しカッコイイ名前はないのかい」
「じゃぁ……」
「イタリア語は却下だよ」
「もー」
マミが笑うと、つられてキュゥべえも笑った。それはマミが初めて聞くキュゥべえの本当の笑い声であった。
マミは彼の笑い声を聞きながら、とても穏やかな気持ちになっていくことを自覚していた。
◇ ◇ ◇ ◇
お風呂をあがり、マミの髪とカンべぇの体表をドライヤーで乾かすと、マミは紅茶とお菓子を用意した。リビングで頂いては音と匂いで杏子が起きてくるかもしれないので、マミの部屋に運ぶ。
「キュ……カンべぇは大人だし、これいけるわよね」
「これ、とはなんだい?」
マミがトレイに載せた小さな容器を持ち上げてみせる。ジャム瓶程度の容器には、氷砂糖とスライスされたオレンジが半透明の溶液に浸されていた。
「オレンジキャンディス、氷砂糖をオレンジリキュールで浸けたものよ。ちょっとアルコールが入ってるんだけど、大丈夫なら紅茶に入れちゃう」
「大丈夫とは思うが、ひとつ疑問がある。マミ、キミの家には大人はいないはずだが、なぜアルコールが入っているものがあるんだい」
慣れた手つきでふたを開けると、小さなスプーンでキャンディスのひとかけをカンべぇのカップに静かに沈ませる。それから、隣に座るカンべぇに悪戯っぽい視線を送り、ちろりと舌を出した。
「鋭いわね」
「鋭かったのかい?」
「でも、教えてあげない。ヒントは、私も飲みます」
続いてマミのカップにも、キャンディスをひとかけ沈ませる。
「それはヒントではなく正解ではないのかい」
「そうかしら?」
杏子が一緒に飲む時は控えているが、深夜の勉強時などはマミひとりでこっそり楽しんでいる。決して意地悪ではないのだが、もしこの事実を杏子が知れば間違いなく「ずるい!」と非難することだろう。
結局マミは笑顔を返すだけで応えず、カンべぇも追及する気はないようで、氷砂糖が溶けてオレンジの香りが漂ってくるまで、それ以上は何も言わなかった。
「それじゃ、お茶をいただきながらお話ししましょうか。何か話があってきたんでしょう?」
「そうだね……」
紅茶をひと舐めして舌を湿らせる。が、カンべぇはうまく言葉を紡げなかった。
急かすでもなく、穏やかに彼を見つめるマミ。
やがてマミの手は彼の背を撫で、ついには彼を抱き上げて膝に乗せる。
「気軽にね。大丈夫、紅茶を飲みながら不幸になることは難しい、っていう言葉もあるもの」
「なるほど、真理だね。残念ながらインキュベーターとしての共有知識にアクセスできないボクには、誰の言葉か知る由もないが」
「たぶん、アクセスできても分からないかも。パパの言葉だから」
控えめにマミが笑う。カンべぇはともに笑うことはせず、顔をマミの柔らかい腿に押し付けると、小さく呟いた。
「そうだね。ボクがここに来た理由は、ボクたちがキミたちにしたことを謝りたいと思ったから……」
「それはいいの。あなたはインキュベーターじゃないのだから、謝ることはないわ」
「いや、しかし、ボクがインキュベーターであったことは事実だ」
「意外とガンコなのね。わかったわ、それじゃぁ罰を与えてあげる」
「わかった、そうしてくれると助かる」
呟き、カンべぇは身を硬くした。両の手をマミの腿にぎゅっと押し付ける――もし彼に爪があれば、マミは悲鳴をあげていただろう。
怖がるような仕草に、マミは微笑ましく思うと同時に脅かしたようで申し訳なくも思う。
「今晩、一緒に寝てくれる? 私、ぬいぐるみ抱いて寝るの好きなの、その代わりをお願い。それで許しちゃう」
「……それは、罰なのかい」
「ええ、私こう見えても寝相悪いから、朝にはどうなってるか分からないわよ」
カンべぇは膝の上から器用に紅茶を舐めると、「お手柔らかに」とだけ応えた。
◇ ◇ ◇ ◇
豆球の明かりだけが部屋を照らしていた。
そのささやかな明かりさえ拒絶するように、マミは掛布団の中に頭まで潜らせていた。赤子のように身体を丸めて胸にカンべぇを抱き締める。
「キミにとって有益な情報でも提供できれば良かったんだが、ボクたち個体の記憶容量はかなり少ないんだ。必要ないからね。いつでも共有知識にアクセスすればいかなる情報も手に入るんだから。だから……そこから切り離された今のボクには、あまり知識はないんだ。役に立てなくてすまない」
マミはカンべぇの頭に顎を当てて、弄ぶように軽く力をかける。
マミの顎と胸と両腕と太腿、全身で包まれた形になったカンべぇは、もし自分たちが胎生なら、親に抱かれこのような感覚を味わうのだろうかと想像した。その想像が温かく幸せだと思える事実に、あらためて感情をおぼえたことは間違いではなかったと思う。
「あなたのような子がいると分かっただけで嬉しいわ。来てくれてありがとう。その……あなたみたいな子は、他にもいるの?」
「感情という精神疾患になった事例は少なくはないよ、一世紀にひとりは出るくらいだったはずだ……データを参照できないので、正確な数字ではないが」
「百年にひとり……かぁ。それって充分少ないわよね」
「そうか。そうだね、確かにマミが再び感情をおぼえたインキュベーターに出会う確率は低いだろうね」
「あなたひとりで充分だわ。ずっと一緒にいてね、カンべぇ」
返事はなく、その代わりに寝息のようなものが聞こえた。感情をおぼえても、「ウソをつけない」という縛りは彼の精神にいまだ残っており、それ故に沈黙を以って答えるしかなかったからなのだが、マミはカンべぇが眠りに落ちたものと解釈した。
「寝ちゃった?」
マミは呟き、それにも返事がないことを確認すると、自らもゆっくりと夢の世界へ誘われていった。
時計の長針がひと回りするほどの時間が過ぎた。
規則正しい寝息をたてるマミの胸元で、白い生き物がもぞもぞと動いた。掛布団を小さく変形させながら、やがて白い生き物は布団から顔を出す。
そして、掛布団の下で夢を見ている部屋主へ視線を向けると、
「最期にキミに会いに来て良かったよ、マミ。ボクは感情を持ったことを後悔していたんだ。同胞からは切り捨てられた。インキュベーターを嫌っているキミたちの前に出れるはずもない。感情を持ってもそれを発露する場所も交感する相手も持たず、ただ朽ちていくしかないと思っていた。でも、今は感情を持てて幸せだったと、自信を持って言えるよ」
カンべぇは自らの手に視線を落とす。
マミの治癒魔法により活力を与えられたはずの手には、腐りかけた果実のように黒い斑点が浮かんでいた。それは、彼の身体が遠からず朽ち果てようとしていることを意味する。
「キミたち魔法少女の魔力と、ボクたちのエネルギーは少し違うから、キミの魔力ではボクは延命できないんだ。だから、ボクはもうおしまいだ。でも、キミの魔法で痛みが消えてとても楽になったのは本当だよ、ありがとう」
ベッドから飛び降りる。落ちる、という表現が適切な不恰好な降り方のため、相応の音が響いたが、マミが目覚める様子はなかった。
「なにかお別れを書き残すべきだろうか……いや、黙って消えた方がいいだろうね」
寂しげな表情でしばらくベッドを見上げていたカンべぇは、「これが未練という感情か」と自嘲気味に呟く。そして、振り払うように頭を振ると、外へ出るべく窓へ向けて歩き出す。
数歩進み、カンべぇの足が止まった。部屋の一隅を睨みつける。
「なんの用だい?」
『キミ個人に用はないよ。ただ、遺骸をそのままにするのはもったいないからね』
薄明りの下にインキュベーターがいた。剣呑な物言いにもかかわらず、彼の言葉には抑揚もなければ示威の色もない。
「なるほど。まぁ、亡き骸を残さないですむのはありがたい。好きにするといいよ。だが、場所は選ばせてもらうよ」
『構わないよ』
インキュベーターは痕跡さえ残らずに遺骸を食べるだろう、そういう意味では場所は何処でも良かった。ただ、咀嚼中にマミが目覚めた場合のことを考えると、目の届く範囲は避けたいという想いがカンべぇにはあった。
「そんなに遠くまで行く気はない。ついてくるといい」
窓に手をかける、その時にマミの声がした。
「カンべぇ……」
呼ばわる声にカンべぇは振り返るが、どうやら寝言のようだった。安心したのか落胆したのか、彼は小さく笑う。
『カンべえ?』
「ボクの名前だよ。今日つけてもらった」
『個体名か。それにしても疾患のカンかい。なかなか辛辣な名前だが、キミには相応しいね』
「感情のカンだよ」
『どうだかね』
「そういう意味合いでつけてくれた名前じゃない。怒るよ」
『怒る、か。キミの疾患もかなり酷いようだね。名は体をあらわすとはよく言ったものだ』
「……ボクの名前を馬鹿にするな」
やおら、カンべぇの身体が宙を舞った。インキュベーターに飛びつき、短い手足で殴る蹴るの暴行を加える。
組み敷かれ、殴られるインキュベーターは抵抗する素振りも見せず、冷ややかに告げた。
『暴力とはキミは本当に野蛮な存在になり下がったんだね。でも、ろくにエネルギーの残っていないキミでは何もできないよ』
「野蛮なのはお前らだ。他人の心を踏みにじるような存在が、どうして野蛮でないものか」
『キミも散々してきたことだろうに。ワケがわからないよ』
「分かってる。だからボクが死ぬのは天罰だ。だけど、いつかお前らにも天罰が下る。誓ってもいい」
『……天罰とか誓うとか、聞くに堪えないね。どこまで非科学的になったんだ、キミは』
「黙れっ!」
カンべぇの怒号をかき消すように、乾いた炸裂音が響いた。
次いで魔弾がインキュベーターの身体のすぐ横に着弾し、爆ぜる音とともに床板を抉った。
カンべぇが振り返ると、ベッドの上で上半身を起こしたマミが、パジャマ姿のままマスケットを構えていた。マスケットの銃口と火蓋からは白煙が立ち上り、射撃直後であることを示している。
「次は当てるわよ。出ていって!」
『状況を見ていなかったのかい? ボクは被害者だと思うんだがね』
「出てって!」
『やれやれ。しょうがない、お暇するとしよう』
銃をつきつけたままの姿勢でキュゥべえを睨みつけていたマミは、彼が消えたことでようやく息を吐き出す。
マスケットをリボンに還し、ベッドを下りてカンべぇに駆け寄り、彼をかき抱いた。
「マミ、ごめん、起こしてしまったね」
「ううん、それより大丈夫?」
「大丈夫だ。それにしても、キミが警告なしで射撃するのは初めて見たね。よくどっちがボクか分かったものだ。適当に撃ったとか言わないでおくれよ」
「分かるわよ」
「そうかい?」
臭いがしただろうかと言わんばかりに、カンべぇは顔を手足の付け根に寄せて鼻をひくつかせる。
「ばかね、そうじゃないわよ。だってあなただけ、喋ってるんだもん」
「そうか。喋るという行為は、やはりいいものだね」
彼を抱くマミの手に、ぎゅっと力が込もった。
少し痛い、とカンべぇは思ったが、抗議することはせず、マミのするままに任せていた。