マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
マミを失ってからの佐倉杏子は――完璧であろうとした。
彼女の生来の性格と、精神に刻まれた傷痕からすれば、自堕落に、怠惰に、そして偽悪的に日々を過ごしてもおかしくはなかったが――彼女はそうなろうとする自分を律して、完璧であろうとした。
マミが教えてくれたこと、求めていたこと、手本となって見せてくれたこと。
そういったものを、完璧に再現しようとした。
もし、彼女が自堕落に生き、マミが伝えてくれたものを蔑ろにしたとすれば、それこそが彼女の中でマミが死ぬときだと、彼女はそう信じた。
心の中にいつまでも元気なマミが居続けるように――彼女は完璧であろうとした。
誰に起こされるでもなく朝早く起き、誰に促されるでもなく朝の諸事をこなし、誰と連れ添うこともなく家を発つ。
学校では今までよりも熱心に授業を受けた。
放課後はパトロールに明け暮れた。帰宅した後は、食事を作り、洗濯をし、掃除をし、勉強をし、そして寝た。無駄なことはしなかった。
それを繰り返した。
◇ ◇ ◇ ◇
二ヶ月が経過した頃、キュゥべえが現れ、杏子にワルプルギスの夜の出現を告げた。
「どこだよ。今すぐブッ殺してやる!」
感情をむき出しにして吠える杏子に、キュゥべえはその感情を全く受け止めることなく応える。
曰く、出現場所は、ドバイ首長国であり、杏子が戦いに向かえる距離ではないこと。
そもそも、現時点ですでに、ワルプルギスの夜は姿を消してしまっていること。
姿を消すにあたって、風見野であったように、歯車を軸とする天地の反転と大規模な破壊がもたらされたこと。
迎撃にあたった現地の魔法少女五名が落命したこと。
『キミたちが風見野で戦った際とは異なり、ワルプルギスの夜に有効打を与えることはなかった。それにもかかわらず姿を消したということは、逃げるという行動とは思えないよね』
「じゃぁ、なんだよ」
『わからない。しかし逃げる必要がある状況ではなかったからね』
ワルプルギスの夜の行動理由など、杏子にとって意味のあることではなかった。またキュゥべえにとっては、杏子の見解など興味をひかれるものではなかった。故に、それ以上の問答はなされなかった。
そしてそれは、同じ報告を受けた夜宵かおりにとっても同じことだった。
ようやく日常の生活を取り戻しつつあった彼女は、日課のようにマミの形見――花をかたどったアクセサリーと、砕け散ったソウルジェムの破片――に固有の魔法を行使し、魔力を無駄にしていた。
『もしもキミがいずれワルプルギスの夜と戦うつもりなら、魔力は大量にいるだろうね。そうやって浪費するのはやめるべきじゃないのかい?』
キュゥべえの忠告に耳を貸すことなく、形見であるソウルジェムの破片と、それの受け皿として置かれた一枚のプリクラシールに魔力を注ぐ。
過去にマミ、杏子と旅行に行った際のプリクラシールは、マミの写真としてかおりが持つ唯一のものだった。かつてあった温かな時間を懐かしみ、それを自らの幼く愚かな情動で決定的に失ったことを悔やみ、そして我が身を削ることが贖罪であるかのように、魔力を注いでいた。
毬屋しおんの奇跡――傷の永続化――に抗する夜宵かおりの奇跡は単純な治癒の能力ではなく、潜在的にはソウルジェムの再生も不可能ではなかった。
しかしながら、夜宵かおりの持つ魔力では、魂の結晶であるソウルジェムを再生させることはかなわない。結果として、彼女はただ魔力を無駄に注いでいた。
それは、広大無辺な壺に僅かずつ水を注ぐような行い――ではない。それならば、いつかは満ちる。
彼女の行いは、底の破れた壺に僅かずつ水を注ぎ、無為にこぼれさせているに過ぎない。
つまり、彼女の持つ魔力では、その壺を満たすことは不可能だった。
◇ ◇ ◇ ◇
さらに一ヶ月半が経過した。あと数日で、杏子の高校生活が始まる頃。
再び杏子のもとにキュゥべえが訪れ、告げた。
やはり異国の地であるドイツ連邦共和国の名と、今度は七名の魔法少女が犠牲になったことを聞いて、杏子は拳を固く握った。それは命を落とした魔法少女を想っての義憤ではなく、なぜ自らの戦える範囲に現れないのかという私憤であった。
「ちくしょうッ!」
拳が壁を打つ。
壁がわずかにめり込み、リビングとキッチンの間を飾っているストリングカーテンが派手に揺れた。
しかし、いつまでも感情に支配されることはない。彼女は表情を消すと、パトロールに向かう。
マミさんならそうする、それが彼女の行動原理だった。
◇ ◇ ◇ ◇
見滝原第一高校に、杏子は通っていた。
マミと同じ制服に袖を通し、同じ学び舎の窓から微睡みの魔女を見張る日々。それももう二ヶ月になる。
微睡みの魔女は、今に至るまで一切の動きを見せたことはない。
ときどき、本当にときどきのことではあるが、いっそ目覚めればいいのに、という思いが彼女の胸に去来することがある。
今の自分なら、戦って倒すことも不可能ではない。倒せれば肩の荷が下りるし、負けてしまっても、やはり肩の荷が下りる――。
気の迷いだとそのたびに頭を振り、頬を張る。
そんなときは、帰宅すると罪を告白するかのようにマミの亡き骸に祈りを捧げた。
魔法で維持されている亡き骸は、低めではあるものの体温さえあった。手を握ると今にも握り返してくるような錯覚をおぼえる。マミの手を両手で押し包むようにして、瞑目した。
亡き骸は何も応えないし、今の杏子は都合のいい幻惑に逃げることもない。
結果として物音ひとつない静謐な時間が流れ――そして、乱される。
『やぁ、杏子』
ワルプルギスの夜の異国での出現を告げるための、キュゥべえの訪問頻度は増えていた。四月の終わりに一度、五月の中旬に一度、六月の上旬に一度。
そして今、六月の中旬。
ドイツ連邦共和国に再びワルプルギスの夜が現れて破壊をもたらしたことを伝えると、キュゥべえは推論を語った。
『もしかしたら、次はドバイにワルプルギスの夜が現れるかもしれない』
キュゥべえは杏子にそう告げる。
見滝原、風見野、ドバイ首長国、ドイツ連邦共和国、ポーランド共和国、ウクライナ、ポーランド共和国、ドイツ連邦共和国と、まるで見滝原とウクライナを結ぶ往路と復路のようにワルプルギスの夜の出現場所が推移していることからの類推だと根拠を示したキュゥべえに、杏子は問うた。
「じゃぁ、その次は風見野に現れるってことか?」
『あくまで推論だ。次がドバイかどうか次第だね。だけどもしそうなら、キミにとっては幸いだね、杏子』
「そうだな」
マミの手をそっとベッドに戻して立ち上がると、勢いよく右の拳で左の掌を打つ。
空気の爆ぜる音。
彼女は、当然のように異国での戦いを経て風見野へ戻ってくることを予測している。
異国の魔法少女に失礼ではあったが、自分以外の魔法少女がワルプルギスの夜を倒せるとは杏子には思えなかった。そこには、戻ってきて欲しいという願望、自分の手で倒したいという切望が多分にバイアスとして機能している。
『もうひとつ、気になる傾向がある。影色の魔女が多数いたよね。あの数が、出現のたびに減少している』
「世界中でさんざん戦ってるんだ、疲弊してるんじゃねぇのか?」
『どうだろうか。正直なところ、ワルプルギスの夜を疲弊させるほどのダメージを与えたのは、キミとマミだけだ。なのに、風見野の次に現れた時は、さして数を減じていなかった。確か、二七だったか』
「とにかく、多かろうが少なかろうが倒すだけだよ」
『そうだね。前回はもはや三体しかいなかった。キミにとってはさしたる相手ではないだろうね。問題はワルプルギスの夜、その本体だけだ』
杏子に返しつつ、キュゥべえは影色魔女の推移について、腑に落ちないものを感じていた。
彼女に告げた内容は虚偽ではないが、正確でもない。正しくは、戦いで命を落とす魔法少女の数だけ、その時に現れる影色魔女が減じている、だ。加えて、減じている影色魔女は、命を落とす魔法少女の写し鏡のような姿のもの。
――しかし、どういうことだ。その戦いで死ぬ魔法少女にあわせるように、現れる随伴の魔女が減っている。まるで、誰が死ぬかをあらかじめ知っているかのように。
「次、いつ現れるかは?」
『なんらかの規則性があると思われるが、現時点では特定には至っていない。だが、出現間隔が狭まっていることはキミも分かっているよね。次にしてもその次にしても、さして先ではないはずだよ』
その返答は杏子にとって望むところであった。好戦的に彼女の口元が歪む。
『杏子、キミはどうしてワルプルギスの夜を倒したいんだい?』
「ヘンなことを聞く奴だな。それが魔法少女の使命だろ? それに――マミさんなら倒そうとする」
『既に二九の魔法少女がワルプルギスの夜との戦いで命を落としている。エントロピーの回収もできずにこんなに魔法少女が落命するのは異常事態だ。ボクはできれば杏子からはエントロピーを回収したいとは思っているよ』
「戦うと死ぬって言いたいのか?」
『可能性の話だよ』
「確かに死んじまうかもしれねぇな。まぁ、それはそれでアリだよ」
呵呵と笑う。
彼女にとって死はさして忌避すべきものではなくなっていた。少なくとも、マミなら行ったであろうことを行わないことは死よりも忌避すべきものになっていた。
『そうかい。まぁ、キミの気がすむようにするといい』
「意外とあっさり引くじゃねぇか」
『既に鹿目まどかから得たエントロピーは、ボクたちのノルマを大幅に上回っているからね。あとは、まぁ余禄みたいなものだ』
「そうかい。ま、せいぜい死なないようにするさ」
『それがいい。キミからもかなりのエントロピーが回収できるはずだしね』
また、呵呵と笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
それから一週間と経たずに、ドバイ首長国においてワルプルギスの夜は顕現した。
影色魔女の随伴はわずかに一体のみ。
前回の顕現の際には三体いた。そして、今回ドバイ首長国での戦いでふたりの魔法少女が命を落とした。
命を落とした魔法少女は大槍で戦う者と二刀流の剣で戦う者。前回の顕現の際には存在して、今回いなかった影色魔女は、大槍で戦う魔女と二刀流の剣で戦う魔女。
――なんらかの因果律的なものだろうか。だとすれば、あとひとり魔法少女が死ねば、ワルプルギスの夜による被害は終息する。つまり、ワルプルギスの夜を倒せる、ということだろうか。
――幸い、残った随伴の魔女は槍を扱うものではない。杏子がワルプルギスの夜によって死ぬことはない。そう理解していいのだろうね。
原形も留めぬほどに毀された魔法少女の亡き骸のそばで、キュゥべえは思考を巡らせていた。
もちろん、その思考には死亡した魔法少女への追悼の意というものは欠片すら含まれていない。
あるのはただ、どのようにすれば得られるエントロピーが最大化されるかという事象のみ。
――そうなると、杏子にワルプルギスの夜を倒させるのが一番か。
ドバイ共和国で行うその思考を、遠く離れた見滝原のマミの家にいるキュゥべえも共有する。
そして、杏子に語りかける。
『予測通り、ワルプルギスの夜はドバイに出現したよ。次は風見野に出現すると思われるね。今から一週間以内。そしておそらく、影色の魔女の随伴はゼロ、もしくは一匹だ』
「なんだよ、もしくはって」
『これまでの戦闘記録から、戦うごとに随伴の魔女の数は減じている。加えて、前回時点で一匹だったからね。増えるということはないと思う』
――おそらく、風見野で死者が出るようならゼロ、出ないなら一匹のはずだね。まぁ、そこまで杏子に教える必要はない。
キュゥべえにとって、地球は牧場であり、魔法少女は家畜。その観点からすると、ワルプルギスの夜は牧場を荒らす害獣に他ならない。
既に充分な利益を得た牧場であり、放棄してしまっても腹は痛まないとはいえ、継続して搾取できるのならばそれに越したことはない。
佐倉杏子は、害獣を駆除する可能性を秘めた猟犬である。それと同時に家畜でもある。必要以上に知恵をつけることは避けるべきであるし、知恵を与えないことで御しやすくもなるはずだ。
そういった考えが表情に出ることはキュゥべえにはない。能面のような顔で杏子を見つめ、そして杏子の好戦的な反応に満足する。
「ま、どっちでも大差ないな。倒すだけだよ」
『そうだね。キミならばきっと倒せるだろう』
「あたしが死ぬ心配はしなくなったのか?」
『止めても無駄じゃないか』
「はは、その通りだな。よく分かってるじゃねーか」
杏子は最近よく笑うな、とキュゥべえは思った。しかし、その原因まで考えを及ばせるようなことは彼はしない。
◇ ◇ ◇ ◇
キュゥべえの来訪から、四日後の深夜。
七ヶ月ほど前のワルプルギスの夜の顕現により、自然の植生はもとより、地形すらえぐりとられた風見野の土地に、杏子はいた。
激しい雨が頬を叩き、激しい風が髪をさらう。
彼方からワルプルギスの夜を目視した杏子は、右手に大身槍を作りだし、もとより精悍な表情をさらに引き締めた。
そして、視線はワルプルギスの夜に向けたままで言った。怒鳴るでもなく、叫ぶでもなく、落ち着いた声で。
「帰んな。お前じゃ足手まとい、無駄死にするだけだ。マミさんの想いをムダにすんな」
振り返り、目視していれば、もっと棘のある言葉になっていたかもしれない。
夜宵かおりは、マミを真似るように、形見である花をかたどったアクセサリーを右側頭部に飾っていたから。それを見れば、杏子は気分を害していたはずだから。
「足手まといと言われて引き下がった結果、以前はどうなりました。そもそも、わたくしを見たら殺す、と仰っていませんでしたか?」
「そうだな……。ワルプルギスの前に、お前をやるか」
やはり視線はワルプルギスの夜に向けたまま、腕を横に伸ばし、槍の先端をしならせる。雨粒を弾き飛ばした先端が、ぎらんと輝く。
かおりは頭を下げた。杏子の視界にその動きは入っていなかったが、彼女は気配で察する。
「挑発するような物言い、申し訳ありません。嫌な性格ですわね。巴さんにも、あなたにも、本当に詫びる言葉さえないというのに……」
発する声は湿っていた。
だからといって杏子の溜飲が下がるわけではなかったが、彼女は巴マミならどうするか、に従う。
「ですが、力及ばずとも戦いたいのです。後悔しないためにも、二度とひとのせいにしないためにも」
「一切、助けねぇからな」
「えぇ、それで結構ですわ。むしろあなたの足を引っ張っては、巴さんに顔向けできませんもの」
「あんまりマミさんの名を口にするな」
「……分かりましたわ。ひとつだけお願いがあるとすれば、わたくしの亡き骸は家の庭に置いて欲しいですわね」
「知るかよ。自殺ならよそでやれ」
「むろんそんなつもりはありませんわ。ソウルジェムさえ守れば、わたくしの治癒をもってすればどうにでもなりますもの。万が一の話です」
右手を側頭部にかざし、マミのアクセサリーを撫でさする。そして、半ば習慣となっている行為――アクセサリーへの固有魔法の行使を行う。
力を貸して欲しいとも、戦いを見守って欲しいとも、マミに対して望む権利などないことは重々理解していたが、それでも無意識の仕草で、マミにすがるようにアクセサリーを撫で続けた。
やおら、杏子が駆けはじめる。
遅れて、かおりが後を追うように駆ける。
一切助けない、と言った杏子であったが、駆けながら魔力を大きく昂らせる。ワルプルギスの夜の攻撃を、自らに引き寄せるために。
杏子の魔力に誘引されるがままに、ワルプルギスの夜の熱線が杏子に向かって走り、そしてむなしく空を切る。
烈風は激しいものの矢弾として運ばれる樹木や岩石は乏しい。加えて熱線が杏子に集中していることもあり、回避能力に劣る夜宵かおりも比較的安全に距離を詰めることができている。彼女とワルプルギスの夜との間は、五〇〇メートルほど。
「この巨体にフローズンが通用するとは思えませんが……」
つぶやきが終わるころには、呪装魔具は氷の長銃への変形を完了していた。
射撃、着弾。
着弾点から根を伸ばすように氷が成長する、が、本来ならば魔女の体表を覆い尽くすはずの堅氷が、成長の半ばで打ち砕かれた。
「あんまり近付きすぎんなよ! 狙われんぞ!」
「はい! ですが、攻撃を重視しませんと、また逃げられては!」
ワルプルギスの夜を一〇〇メートルの距離に捉えた杏子が、やはり振り返ることなく叫ぶ。そして、かおりの返答に口元を歪める。
もとより、長期戦にするつもりはなかった。
前回の風見野戦のみならず、各国での戦いでも、ワルプルギスの夜は遁走している。今回もそうだと、杏子も予想はしている。
――今度は、逃がしはしねぇ。
ワルプルギスの夜がマミの直接的な仇ではない。しかし、杏子の心の中ではイコールで結ばれている。そうしないと、彼女の心はもたなかった。
マミの仇と明確に規定し、それを倒すという目的を持つことで、彼女は心が崩れることを、折れることを押しとどめていた。
ぎらんと、彼女の瞳が光り、彼女の槍の穂先が光った。
彼我の距離は三〇メートル。逆さ吊りの魔女の頭部を貫くべく、跳躍する。
不測の事態が起こった。
なんらかの全力攻撃を行おうとした夜宵かおりの魔力に魅かれ、ワルプルギスの夜の熱線が彼女を襲った。
一閃、二閃。
三閃めを放とうとしたところで、大身槍が逆さ吊りの魔女の口腔を貫き、それ以上の熱線の発射を阻止した。
槍を振るいながらも、後方で夜宵かおりが被弾したことを察知した杏子は、追撃をあきらめて踵を返す。
追い風に乗って一息に駆けつける杏子の姿は、以前の東京の大型魔女戦においてやはり後方で被弾したかおりに駆けつけた、マミの姿と相似していた。だが、先のケースとは大きく異なることがひとつある。
救助される者の生死だ。
一撃目の熱線で腹部を貫かれ、くの字に身体を折ったところで、頭の上にちょこんと乗った帽子を、ソウルジェムごと砕かれた。
駆けつけた杏子は、彼女の絶命を確認した。
ソウルジェムは微塵に砕かれ、横たわる身体には鼓動もなければ魔力も宿っていない。
その事実に、あまり感情は動かなかった。喪失感を伴う悼む気持ちも、逆に快哉をあげたくなるような高揚感もなかった。ただ――
――マミさんのしたことを、ムダにしやがって。
ワルプルギスの夜への憎しみの理由が、またひとつ増えた。
槍を両手で強く握りしめる。ワルプルギスの夜を睨みつける。
大身槍で貫いた魔女の口腔が、かたちを取り戻しつつあった。再び口のかたちとなったそれは、歪み、哄笑し、炎を放つ。
「当たるかよ!」
レーザーと表現しても良いほどの飛来速度を誇る熱線が放射される。
稲妻のようにジグザグに駆けては距離を詰める杏子。
高速の機動と吹き荒ぶ烈風により、花が開くように彼女の裾の長いドレスがはためく。その際に熱線がかすめ、ドレスを焼くことはあったが、彼女の身体を傷つけることはかなわなかった。
キュゥべえは演算していた。
この場にいる個体が演算しているわけではない。キュゥべえとしての共有の記憶や知識を蓄えたキュゥべえの集合意識とでもいうべきものが演算していた。
そして、その結果が出た。
――今回の情報で、ワルプルギスの夜の出現法則が算出できた。
――次は七時間後……ずいぶんとすぐだね。場所はおそらく見滝原だろう。その次は……。
――今?
――「今」とはどういうことだろうね。じゃぁその次を計算すると……前回のドバイの時間か。時間を遡るような結果だね。
――さらに進めると一昨年の見滝原の時間か。そこから反転し、再び同じ間隔を経て今に向かう。振り子のような振る舞いだね。
――これは……ビッグクランチに至り、再び膨張する宇宙。つまり、振動宇宙へと移行することを示している式に相当するね。
――そうか、わかったよ。
得られた結果から、事象を推測する。そして、その事象から引き起こされる事態を推測する。
ちょうど、この事象によって引き起こされると思われる理論があった。
タイムパラドックスと呼ばれる理論。彼らの知識の中において、それは空理空論ではなく実学としてカテゴライズされていた。
『杏子、ワルプルギスの夜を倒してはいけない!』
「なにッ?」
わずかに気が逸れた。
しかし、それであっても杏子はワルプルギスの夜が放った熱線を、紙一重で回避する。
だが、今回の熱線は、いつもの熱線ではなかった。
いつもの熱線を幹として、おびただしい数の炎の枝が放射状に伸びる。
過冷却状態の導電体中を金属イオンが析出するかのように一見無軌道に、しかし樹枝状のフラクタル構造を描きながら。
伸びた枝が杏子の身体を貫く。ざくり、ざくりと。
手も、足も、胴も、首も、炎の枝に貫かれ、空中に捕らえられた。その姿は、はやにえにされた獲物のようにも見える。
握力がなくなり、槍がどさりと落ちる。
一瞬の後に熱線が消え、炎の枝による支えを失った彼女の身体はぼとりと地に墜ちた。
彼女の回避能力は、そのような窮地にあっても、ソウルジェムへの直撃を回避していた。
が、それが限界だった。ソウルジェム以外の箇所を構う余裕はなく、手も足もそこかしこに穴を穿たれていた。
膝や肘で身体を起こすことさえできず、地を舐めることしかできない。
喉に血があふれ、悪態をつくことすらできない。
わずかに首をもたげ、ワルプルギスの夜を見やると、下卑た哄笑をくり返し吐き出す口腔に、魔力が満ちつつあった。
――畜生。
掌中にあらたな大身槍を作りだす。
これで受けるしかない。
ろくに動かない腕で熱線を受ける位置に差し込めるか。大身槍が保つのか。
そんな思考を回す余裕もなく、熱線は放たれた。