マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
「ここは、わたしの結界です」
少しだけ言いにくそうに、しかし屈託なく、まどかは言った。そして両手を伸ばしてマミの頭ごと抱き締めるようにした。
手のひらを広げて、マミのつむじに添える。
触れられている部分に穏やかな熱が生じ、全身に沁み入るように行き渡る。それにつれて、マミは記憶を取り戻していった。いや、過去の記憶のみならずマミが現実世界を離れていた間の出来事も、体験したかのように彼女の記憶に刻まれていった。
「マミさんはソウルジェムを砕いて……」
先ほどよりも言いにくそうに。実際に言いにくいのだろう、立ち消えるように語尾が小さくなっていった。
「……でも、私、少しだけ未来を見ることができるんです。私が見た未来では、マミさんのソウルジェムは復活します。だけど、それはマミさんが亡くなってからずいぶん後のことでした。魂の居場所であるソウルジェムを失ったマミさんの魂は、ソウルジェムの復活を待たずに天に召されちゃいます。だから、ソウルジェムがよみがえっても、そこに既にマミさんの魂はなくって……」
一方のマミは、与えられた記憶を整理するかのように、瞳を閉じて集中していた。
確かに自身の体験として記憶が刻まれているのだが、それが今自分自身が持つ意識と充分につながっておらず、全てがデジャブを見ているような気分がした。今の意識は、まどかの結界の中で暮らしていたマミが主となっているため、記憶との間に齟齬が発生している。
「そこで、しばらくマミさんの魂をわたしの結界に捕らえさせてもらいました。だますようなことをしてごめんなさい」
「今まで見ていた……感じていたのは、鹿目さんが作った記憶?」
「作ったっていうのとはすこし違います。これは、わたしたちが辿ったかもしれなかった記憶、そして、次に辿るかもしれない記憶。ううん、たぶん辿ることになる記憶。ほら、わたし未来を見ることができますから」
まどかの言うことを完全に理解できたわけではなかった。特に最後に言ったことは、概念的な話なのか、それとも何かの喩えなのか、そういったものであり、あまり正確に理解する必要はない部分だろうとマミは受け取った。
「その、鹿目さんが言わんとしていることはおおよそ理解できた、と思うわ。でも、どうして? 私は、あなたたちに結局なにもしてあげられなかったし、それに……あなたは魔女なのに」
「なにもしてくれなかった、なんてことはないです。それだけじゃありません、マミさんはわたしたちの希望なんです」
まどかの衣裳も、横に立つさやかの衣裳も、魔法少女のものではなく普段のものへと変わる。
そして、立っている場所も、先ほどまでの結界跡である繁華街の路地ではなく、マミのリビングへと変わっていた。
「わたし、未来が見えるって言いましたよね。だから、分かるんです。近い将来、マミさんはわたしもさやかちゃんも救ってくれるんです。でも、その時わたしたちは、もうお礼を言うことはできないから……。今、伝えますね。ありがとうございます、マミさん」
まどかが頭を下げた。
そして、しばらくは思案するように黙り込んだマミを優しく見つめていたが、ふっと口を開く。
「あっ、言い忘れてました。気をつけてくださいね、マミさん。マミさんの力は、たぶんわたしの影響でとても強くなっちゃっています。だから、今まで通りに魔法を使うと、魔力がもたないかもしれないです」
「魔力が?」
「はい、わたしはそれで一瞬で魔力を使い切って、魔女になってしまいましたから……。できるだけ、力を小出しにしてください。蛇口で、水をちょろちょろ出す感じで、といえば伝わるかな?」
魔女であることを感じさせない庶民的な喩えに、マミの口元が緩んだ。そして、彼女の使命感とささやかな悪戯心が、小さな微笑をともなった問いをなす。
「あなたを倒せるほどに?」
「そうですね。いまのマミさんなら、きっと、わたしを含めて、どんな悪い魔女だって倒せちゃいます。マミさん、倒してくれますか?」
「私は魔法少女よ。ひとに仇なす魔女を倒すのが私の使命。あなたは……そうじゃないわ。あなたは優しい魔女だもの」
「ありがとうございます」
巴マミは自覚こそしていなかったが、これまでも鹿目まどか、すなわち微睡みの魔女との戦いを避けようとしていた。勝てるか勝てないか分からない、そういう意味で避けていると彼女自身は思っていたが、実際のところは勝てるか勝てないか思考することをせず、盲目的に「勝てるはずがない」と断定していた。
そして、倒すに足る力があると認められたことで、マミは自覚した。
戦うべきでない、戦ってはいけないと言ってきたが、本音は戦いたくない、であると。
「……でも、魔女はやっぱりいちゃいけないと思います、マミさん」
寂しく微笑む。
マミが言葉を選ぶように黙りこくっていると、まどかがマミの背後に回りこんだ。部屋の出口に向かって、マミの背中を押す。
「さ、行ってください、マミさん。もうソウルジェムはマミさんの部屋にあります。杏子ちゃんが待ってますよ」
「あ、うん、また会いましょう、鹿目さん、美樹さん」
「はい、ぜひ」
部屋の出口、敷居を一歩踏み越えると、マミの意識が溶けるように薄くなり、そして消えた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ワルプルギスを倒すなって言ったよな。どういうことだよ」
ドアを隔てたリビングから、杏子の声が聞こえた。外は風雨が激しいのか、雨が窓を叩く音と窓が風にきしむ音が激しかったが、杏子の声は明瞭に聞こえた。
主観においても客観においても、ずいぶんと久しぶりに聞く声だった。喜びと悔恨でマミの胸がかぁっと熱くなる。すぐにでも飛び起きて駆け付けたかったが、まだソウルジェムに馴染んでいないのか、身体が思うように動かせない。
『ワルプルギスの夜の出現規則が分かったんだよ。おそらく、次の出現が最後になる。場所はこの見滝原だ』
「最後って?」
『次の次、を計算したが、結果は先ほどの風見野での出現時間を示している。次の次の次、はその前のドバイでの出現時間――時間が巻き戻っているかのようにね。宇宙の終末論のひとつにビッグクランチというものがあるが、ワルプルギスの夜の出現規則はビッグクランチとそれに伴う振動宇宙――宇宙の巻き戻りを示す式と合致していた』
振動宇宙、という言葉に聞き覚えがあった。記憶を紐解くと、友人のリンリンが楽しそうに語っていたことを思い出す。曰く、宇宙は限界まで膨張すると収縮に転じ、限界まで収縮すると膨張に転じて、何度も繰り返している。今の宇宙は五〇回目の宇宙で、私たちには四九回の前世がある――だったか。前世について光の戦士だとか月の王宮だとか熱っぽく語っていたが、そこは聞き流したのであまり覚えていない。
――キュゥべえが言うものとは言葉が同じだけで、たぶんだいぶオカルトに偏ってるんだろうけど。
くすりと笑う。笑うことができる程度には身体が馴染んできていた。試みると拳に力を込めることも、足を動かすこともできた。
マミはベッドからゆっくりと下り、ドアへ向けて歩いた。
「次はもう逃げない、ってことか?」
『いや、随伴している魔女が出現のたびに減じている、と言ったよね。逆だったんだ。過去に戻るほど増えている、と表現するべきだったんだ』
「……?」
『つまり、ワルプルギスの夜は未来で生まれ、過去に向かっているんだ。そのさなかで倒した魔法少女を随伴する魔女として捕らえ、その数を増やしていた。それがボクたちには、その戦いで命を落とす魔法少女の分だけ、随伴する魔女が減っている、そういう風に見えていたんだ』
「……よく分からねぇけど、それがなんて倒すなってことになるんだ?」
魔女を倒すな、とキュゥべえが示唆するからには、なんらかの理由があるのだろう。おそらくはインキュベーターの利益に直結する利己的な理由が。
魔女を倒さない、という選択肢にもし正当な理由が与えられるのならば、とマミはわずかに思った。それは彼女の思考の裡に、倒したくない魔女が存在したからだが、彼女は首を振ってその考えを追い払った。
そして、ドアを開け、自らに言い聞かせるようにして言った。
「そうよね。魔女は倒すべき存在。それはなにがあっても変わらないわ……つらいけれど」
マミを視覚情報および聴覚情報として認めた杏子は、まずそれを自らが創り出したファンタズマではないかと疑った。
歩み寄り、触覚情報として確認する。肩を、頭を、腰をと、最初は遠慮がちに、やがて力強く撫でさする。
されるがままにしていたマミだったが、杏子の手が乳房を揉みしだくに至って、彼女の頭を軽くチョップした。
チョップでひるませてからのコンボ、といったかたちで杏子を抱き締め、ぼそりとつぶやく。
「ごめんね」
返事ができないくらいに、強く抱き締めた。
理解がおいついていないのか、杏子は抱き締め返すでもなく、言葉を紡ぐでもなく、呆けたようにしていた。
マミもなんと話せば――いや、謝れば良いか思案が定まらず、口をつぐむ。激しい雨が窓を叩く音だけが部屋に満ちた。ふたりは、キュゥべえが語りかけるまでそのままだった。
『マミ、キミの魂はとうに霧散していたはずだよ。どうやって今この場に現れたんだい?』
ちら、と視線を落とす。見上げるキュゥべえと目が合うが、さして感慨を持つことはなく、静かな声で応えた。
「助けてもらったのよ、鹿目さんに」
『まどか? あの微睡みの魔女のことかい?』
「そう、そうね。その鹿目さんよ。微睡みの魔女というよりは、狸寝入りの魔女だけどね」
『ワケがわからない。魔女にキミを助ける道理はない、そもそも魔女にそんな自我も自由意志もないだろう』
「じゃぁ、夢を見ていたのかもね」
まともに取り合うつもりもない。そんなマミの気持ちが透けて見える態度だったが、キュゥべえは鼻白むこともなく、飄々として言った。
『話を戻そう。ワルプルギスの夜を倒さないでおくべきだということについて』
理由はどうあれ、マミが生きているという事実はキュゥべえにとっても悪くはないことだ。いずれは魔女となってくれるかもしれないし、また近視眼的に見ても、杏子を説得する材料が増えたと言える。
「……そうね。杏子ちゃん、座りましょうか」
こくりと小さく頷き、しかし離れようとしない杏子に、マミの慙愧の念はいや増したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
『タイムパラドックスという言葉は聞いたことがあるかい?』
並んで座るマミと杏子の対面に座したキュゥべえが問いかける。そしてきょとんとしたふたりの表情を返事と判断したのか、そのまま続ける。
『簡単に言うと、過去であったはずの出来事が改変されることで、現在との間に矛盾が生じることだ。ボクたちの知る限り、そういった場合は矛盾を修正するために世界の改変が発生する』
「世界を改変するって、どういうこと?」
『変えられた過去に合わせて、現在が変わってしまうということだね。本来ワルプルギスの夜は、二年前の秋に鹿目まどかによって倒された。それが今倒されてしまえば、二年前の秋までワルプルギスの夜が時間を遡って辿りつくことはできなくなる。つまり、二年前に見滝原にワルプルギスの夜が現れたという過去はなかったことになってしまう。それだけではないね、この一年にあった出来事もなかったことになる。そうするとどうなるだろうか。今ボクたちがいる現在は、異なったものになってしまうだろう』
「それは、過去のワルプルギスの被害がなくなる、ということ? 良いこととしか思えないけれど」
そもそも、見滝原にワルプルギスの夜が出現するというなら、戦う以外の選択肢はマミにはない。魔女は倒すべき存在というだけではなく、先の風見野であったようなワルプルギスの夜の消失時――キュゥべえの言を信じれば時間遡行時――に発生する大災害を座して待つなど論外に過ぎるから。
一方のキュゥべえとしては、なんとか倒させないように誘導したいと考えていた。
――彼女たちをどうにかして翻意させられないものか。もしも鹿目まどかが魔女となった過去がなくなったとしたら――それは宇宙的な損失だ。
『だが、過去が変われば今がどう変わるか分からない。マミと杏子がこうして肩を並べて戦うことなどできない今に変わってしまうかもしれないよ』
「それはおかしいわ。私と杏子ちゃんが出会ったのはワルプルギスが見滝原に現れる一年も前よ。キュゥべえの言うタイムパラドックスが起こったとしても、それより過去は変わらないでしょう?」
『それは分からない。時間を大河のようなものとすれば、タイムパラドックスはそこに投げ込まれた石だ。生じた波紋はそのタイミング以降にしか波及しないというわけではなく、それ以前にも影響を与えるだろう。ましてや数百人規模の死者を出したワルプルギスの夜だ、小石ではなく大きな岩が投げ込まれるに等しいだろうね。杏子、経緯はどうあれキミはいまマミとともにいる。この事実を失いたくはないだろう?』
会話はマミに任せ、マミの横で静かにしていた杏子が笑った。嘲りに近い感じで笑うと、キュゥべえに言い返す。
「バカいってんじゃねーよ。過去がどう変わろうが、あたしとマミさんは一緒に決まってんだろ」
「そうね。もしも、私たちの出会いがすこし変わったとしても、最終的には家族になれるって、私は信じてるわ」
ダメか、とキュゥべえは思った。彼女たちに、タイムパラドックスによって引き起こされる世界の改変がいかに大きいものか解説したところで、翻意を促すことができるとは思えないし、そもそもこの調子では理解もできないだろう。知らず、尻尾がへたり込むように床に伸びる。
――いや、次のワルプルギスの夜の滞在時間は三分。それを伏せておけば大丈夫だろう。
そう考えてへたり込んだ尻尾が持ち上がり、ろうそくの炎が揺れるようにくねる。
出現規則を識るにあたって、彼はワルプルギスの夜が顕現してから時間遡行を行うまでの猶予時間についても法則性を識っていた。それによれば、次の、最後のワルプルギスの夜は、顕現からわずか三分で時間遡行を行う。
事前にそう分かっているならともかく、知らなければそのような短時間で倒せるものではない。
『そうか。まぁ、どちらが倒すかはよくよく考えた方がいいよ。ボクたちが持つ知識によると、タイムパラドックスのひきがねを引いた者だけが、改変前の世界の記憶を引き継ぐらしいからね』
加えて、少しでもかく乱になればと情報を出す。情報自体はキュゥべえたちの共有知識にあるものなので、正確なものではあるはずだ。
「そのひとり以外は忘れてしまうのね……」
「ひとりだけ、覚えちまうのか……」
『そういうことだね。ふたりでよく相談することだ』
「ワルプルギスの夜の、次の出現時刻は?」
『最後のワルプルギスの夜……いや、今までの過去で発生したワルプルギスの夜の根源とでもいうべきもの。伝承に倣えば、ワルプルギスの夜の到来を祝い、前夜に煌々とした炎を焚くという。ワルプルギスの夜を迎える暁に燃え上がる炎の名を借りて、バリティニの焔と呼ぶべきだろうね。そいつは今日の朝六時すぎに現れる。もう三時間もないね』
「教えてくれてありがとうね、キュゥべえ。杏子ちゃん、魔力は大丈夫?」
杏子はニッと笑うと、ソウルジェムを持ち上げて見せた。鮮やかなクリムゾンレッドに輝くソウルジェムを。
マミも自らのソウルジェムを取り出し、乾杯するようにコツンと合わせる。
「三時間……、眠るわけにはいかないわよね。お菓子でも作りましょうか」
「あたしも手伝うよ。けっこう上達したから」
「あら、それは楽しみね」
『ボクはいったんお暇するよ。では、三時間後にまた会おう』
キッチンでお菓子作りをしていても、窓が雨に叩かれる音と、風に揺さぶられる音は届いた。
一年半前の見滝原でのワルプルギスの夜出現時と比べても、半年ほど前の風見野での出現時と比べても、風雨は激しい。その激しさは、次に現れるワルプルギスの夜――キュゥべえの言を借りればバリティニの焔の強さを表しているのだろう。
しかし、その音を聞くふたりには怯えも不安もなかった。
「すごい雨風だね」
「そうね。こんな時間だとみんなの避難も充分にできないし、なんとしても倒さないとね」
「もちろん。任せて、戦いの腕も上達してるから」
「ふふ、お料理もずいぶん上手になってるし、期待できそうね」
お菓子作り自体を練習していたわけではないのだが、普段の料理を行うことで手際が格段に上達していた。そのおかげで、簡単な指示で適切に動いてくれる。マミの贔屓目で見れば、もう自分と遜色ないレベルで動けているように思えた。
それを嬉しいと思う反面、それほど上達するだけの期間を彼女ひとりで辛い思いをさせたのかと胸が痛む。
かすかに翳るマミの表情を横目に、杏子がことさらに明るい声で「おいしい」とつまみ食いを働いた。杏子の目論見通りにマミの表情が柔らかくなり、作りかけのお菓子をひとかけ、口に運んだ。
「ほんと、美味しいわね」
「……キュゥべえの言ってたことだけどさ。その、倒した人だけが、記憶を持つって」
「ふたりで倒せば、どうかしら」
「ふたりで?」
「えぇ。私がリボンで大砲をつくって、そこから杏子ちゃんの槍を撃ち出して倒すの。これならふたりで倒したことにならないかしら」
「そう……かもね」
応えながらも、杏子はそうはならない気がしていた。
マミの大砲で撃ち出したにせよ、バリティニの焔を直接的に倒すのは杏子の大身槍。であれば、杏子が倒したことになってしまうのではないだろうか。
それでもいい、と杏子は考えた。
世界がどう改変されるにせよ、改変される前の記憶をひとり覚えているということは、とても辛いことだと思ったからだ。辛いことであるならば、自分が受け持てばいいと、そう考えた。
「きっとそうだね、そうしよう」
「えぇ、そうしましょう」
そしてマミは真逆のことを考えていた。
記憶を失ってしまうことこそが辛いことと思い、そちらを自分が受け持てばいい、と。
そうこうしているうちに、色とりどりのお菓子が焼き上がる。
半ばお菓子作りのレクチャーをしながらであったため、普段より時間がかかり、紅茶含めてすべてがリビングのテーブルに並べられる頃には、時計は五時を刻もうとしていた。
日の出の時刻は過ぎていたが、分厚い黒雲とそれがもたらす篠突く雨のため、外は暁闇にさえ至っていない。
マミの許可を得て杏子がつけたテレビが、見滝原に避難警告が発令されたことを伝える。
「キュゥべえの言った通りっぽいね」
「あと一時間ね。ゆっくり頂いて、それから出かけましょう。たぶん、あの橋よね」
「一昨年の秋に現れたのはそこだし、そうじゃないかなぁ」
テレビモニターに映る映像は 見滝原各所にいくつか設けられた定点カメラの映像を数十秒単位で切り替えている。どこも天の底が破れたような大雨が大地を叩き、ソフトボールほどもあるミルククラウンを咲かせている。側溝はとうに溢れ、窪んだところは冠水し、そうでないところも膜が張ったように雨水で覆われていた。
窓が激しく揺れる。まるで顕現を前にしたバリティニの焔が、見えない手で住居を握りつぶそうとしているかのように。それは、見滝原のどの家も例外ではなかった。どの家の住人も異常な風雨に怯えているのだろう、とマミは思う。
そして、こんな悪天候の上に暗闇の中、避難と言われてもみんな困るだろう、とも思う。
だから、確実に、迅速に、倒さねばならない。そう決意をあらたにしていると、杏子が口を開いた。
「それにしても、これはさすがに食べきれそうもないね。ちょっと作りすぎちゃったかな」
「そうね。満漢全席に比べればたいしたことないとはいえ……」
「満漢全席?」
「あ、ううん、なんでもないの。じゃぁ、冷凍向きのものはとっておく?」
「マミさん、あたしこのオレンジガトー好きなんだ」
テーブルの中央にある四号サイズのホールケーキに視線を落とす。
柔らかな茶色の生地は純白の粉糖で彩られ、空気の澄んだ冬山を想起させるそれは、ずっしりとしたショコラ生地に小指ほどもあるオレンジピールが散らされたオレンジガトー。粉糖のデコレーションに描かれた猫の足跡は杏子のデザインだ。
そこまで杏子が考えているかは疑問が残るが、焼き菓子なので冷凍保存にも向いている。
「私も好きよ。チョコレートとオレンジピールって、とっても合うわよね」
既に想像の世界で味わったかのように、頬を手のひらで押さえてマミが微笑む。その様を見て、杏子も微笑んだ。
激しい戦いを前にして。世界が変わるかもしれないというキュゥべえの脅しを受けて。不安がまったくないというわけではないが――少なくとも、昨日よりは前向きでいられる自分を、杏子は自覚する。
「これ、取っておこうよ」
「あら、杏子ちゃん、好きなものは最後まで取っておくタイプだった?」
「違うけどね。今日は特別」
「そうね、そうしましょうか。じゃぁ、早速……」
ケーキケースに入れて、ケースごとラップに包むために腰を浮かせかけたマミを、杏子が手を掴んで制した。
「ゆっくり食べてからにしようよ。時間がなくなったら、このまま置いて行ってもいいしさ」
「わかったわ。私も、なにがあったかゆっくりお話ししたいし」
「うん、あたしも」