マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~   作:XXPLUS

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第五二話 マミさんの新しい世界

 いかなる天体の光も通さないような厚く黒い雲のカーテンが、見滝原を覆っていた。

 

 春とは思えないほどに底冷えし、降り注ぐ大粒の雨はなかば雹となってコンクリートを穿たんばかりに叩く。

 時おり稲光が走って闇を払うが、それも一瞬のこと。雷鳴が耳に届く頃には世界は再び光を失っていた。

 リボンで編んだフード付きの外套を羽織り、見滝原工業団地と市街地をつなぐ橋のたもとの河川敷にたたずむマミと杏子。

 キュゥべえが告げたバリティニの焔の出現時刻は間もなく。

 

「絶対に倒そうね、マミさん」

「えぇ、冷えたガトーショコラも美味しいわよ」

 

 それを最後に軽口はなりを潜め、ふたりは静かにバリティニの焔の出現を待つ。

 その姿、その気迫は、獲物の到来を樹上で静かに待つ虎を思わせる。異なるのは、訪れるものは反撃の牙を持たない哀れな草食動物ではなく、彼女たちを切り刻む爪牙を持った巨大な魔女であること――くらいだ。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 万や億では数え切れないほどの――いや、数えるという行為が意味を持たないほどの平行世界が存在する。

 平行世界間移動を行う魔法少女は、それら平行世界のひとつだけに特異点として生まれたわけではなく、全ての平行世界に等しく誕生した。

 それらは、世界間移動の際に見えざる手に導かれるように、定められた時間、定められた場所へと転移していたのだが、億を遥かに超える試行数の中、例外――正確に言えば失敗事例も存在した。

 

 転移した時間が異なっていたが故に、そこには魔法少女を受け入れるべき器がなかった。

 あったのは、魂の座を喪い頭蓋も失くした、亡き骸と呼ぶことさえはばかられる物体だった。

 転移してきた魔法少女の魂は、それに宿ることを余儀なくされた。

 

 

 全身の神経を剥き出しにし塩を塗りこませた上で、刃毀れしたノコギリでひくような名状しがたい激痛。

 魂が宿るべき座がなく、長い旅路をここで無為に終わらされてしまうという徒労感。

 そういったものに苛まれ、彼女の魂は一瞬にして絶望に包まれた。

 

 

 

 

 魔女の誕生を示す魔力震が奔った。

 大橋のたもとから微睡みの魔女の方向へ一五〇〇メートルほど進んだところ、そこが魔女の誕生地点だった。

 

 一五〇〇メートルの距離を経て、魔女の巨大な歯車はなお魔法少女たちの傘として機能している。これまでのワルプルギスの夜と比較しても桁の違う巨大さ。

 そこから逆さ吊りにされた魔女は、基部である歯車に見合うサイズの巨躯をくねらせる。頭蓋を持たないその魔女は、貌に残された数少ない器官である口から哄笑を撒き散らした。

 

「やばッ」

 

 予想していた大橋付近ではなく、彼方、すなわち微睡みの魔女に近い位置に出現したことに杏子が悲鳴めいた声をあげ、フードを跳ね上げる。

 だが、横に立つマミは落ち着いた声で杏子に語りかけた。

 

「大丈夫よ。鹿目さんなら、心配いらないわ」

「そっか、そうだったね」

「……鹿目さんのことは、ワルプルギスの夜を倒してからね」

「分かった。じゃぁ、あたしが突っ込むよ。熱線はこっちで引きつける」

「私も行くわ」

 

 外套は手ずから脱ぐ必要もなく、彼女の意思を受けてリボンへと還りはらりとほどけ落ちる。

 風に舞い彼方へ去ろうとするリボンの一本を、マミが優しく掴んだ。

 

「リハビリも兼ねて、ね」

 

 まどかのアドバイスをもとに、頭の中でイメージする。

 魔力の満ちみちた巨大なタンクをソウルジェムとすれば、そこから引き出される導管の太さが魔法少女の素質。そしてそれを制御する蛇口をいかに操るかが、魔法少女の技量。

 マミの素質は良ではあっても優ではない。たゆまぬ努力で技量を鍛え、蛇口を全開に近いところまで開けるようにし、また、単位魔力あたりの効率を上げることで、優れた戦闘能力を維持していた。

 いまは逆に、魔力を導き出す導管の蛇口を絞り気味にして戦え、とまどかに言われた。

 ほんの少し蛇口を開き、手にしたリボンに魔力を与える。デジタルに測れるものではないが、一割足らずといったところだろうか。

 

 ――わ。

 

 声が出そうになった。

 僅かに与えた魔力で、リボンがマミの予想以上に成長しようとする。慌てて抑え込み、長さ五メートル、幅一メートル程度のブレードにしたが、抑え込まなければどこまで伸びたか想像もつかない。

 

「あたしの槍よりおっきいね。扱える?」

「う、うん……。でも大丈夫、杏子ちゃんと出会う前は、リボンの剣で戦っていたこともあるから」

 

 ――今の程度だと、ソウルジェムは濁らないわね。

 

 花をかたどったアクセサリごとソウルジェムを手に取り、確かめる。ソウルジェムは濁りなく、オレンジイエローの温かい輝きをたたえていた。

 マミの仕草を見て思い出したかのように、杏子が手を伸ばす。彼女の記憶にあるマミは、熱線を完璧には避けきれないはずだから。

 

「ソウルジェム預かっていい?」

「そうね、お願いするわ」

 

 手渡されたソウルジェムを、杏子は自身のソウルジェムと並べて身に着ける。

 

「もし完全に濁ったら、砕いていいから!」

 

 冗談と示すかのようにマミは笑い、そして駆けはじめる。

 杏子も遅れまいとダッシュし、併走すると不平をこぼした。

 

「縁起でもないこと言わないでよ。そうなる前に、あたしがアイツ倒すからさ!」

「心強いわね――来るわッ!」

 

 マミの言葉が終わるのを待たずして、バリティニの焔が吐き出した熱線が走り抜けた。丸太のように太く、コロナのように熱く、光のように速い熱線だったが、ふたりの魔法少女は易々と回避した。

 矢継ぎ早に熱線が繰り出され、半壊した状態で放置されていた建造物を着弾地点の大地ごと蒸散させる。着弾のたびに、月面を思わせるクレーターが刻まれていった。

 

 ――さすがに全てのワルプルギスの根源というだけあって強いわね。キュゥべえが特別扱いするのも頷けるわ。

 

 杏子が高く跳躍した。

 それを狙い、バリティエの焔の首が動いた。対象が跳躍していることで射角が浅く、水平に近くなる。それを見て、マミが叫んだ。

 

「だめッ」

 

 杏子の回避技量には一切の心配は無用だ。マミが叫んだのは彼女を心配してのことではない。

 熱戦の射角が浅くなるため、着弾地点は遥か後方に伸びる。工業団地を越えて、いまだ住民がいる見滝原市街地へ。

 

 熱線が放たれる直前に、マミが跳躍。射線上に身体をねじ込ませた。

 熱線が奔る。それは半秒の間もおかず、マミの肢体を飲み込んだ。

 激しいスパークがほとばしり、一瞬だけ周囲が真昼のように照らされる。そして周囲の闇を払うと引き換えにするように、マミのいた場所が周囲のすべての闇を凝集したような黒煙に包まれる。

 

「マミさんッ!」

「……大丈夫よ」

 

 いまだ残る黒煙の中から、温かい声が響いた。次いで、リボンが旋回し黒煙を散らす。

 ちら、とマミが視線を杏子に向ける。正確には、杏子が胸に飾らせたマミのソウルジェムへ。

 

 ――本気の絶対領域を使うと、ちょっと濁るわね。

 

 温かなオレンジイエローの光の中に、どろりとした濁りが見られた。それは、コップ一杯のオレンジジュースに一滴の墨汁を垂らした程度の濁りであり、現時点では無視できる程度の穢れではある、しかし。

 

 ――何度も防御を繰り返すのは危険ね。根元から断っておきましょうか……ッ!

 

「杏子ちゃん、ちょっとだけ囮お願い、下でね!」

「うん、ごめん!」

 

 巨大ソード状にしていたリボンを小太刀サイズにすると、マミはそれを構えた。

 左腰に添えた刀身を左手で支え、柄を右手で握る。身体をやや前傾させ、あごを起こして視線を数百メートル先に浮かぶ逆さ吊りの魔女の首元に叩きつける。

 居合を思わせる構えのまま、一呼吸だけ深く吸い込む。

 そして、リボンの剣を鋭く抜き放った。

 振り抜きながら、リボンに魔力を与えて伸長を促す。どこまでも長く、細く、だけど硬く。

 

 ざくり。

 

 瞬間的に刀身を数百メートルまで伸ばしたリボンの剣は、たやすく逆さ吊りの魔女の首を両断した。百合の花が根元から縊れ落ちるかのように、魔女の首はごとりと地に墜ちた。

 首が落ちたことで、危険な熱線と不快な哄笑がやむ。

 

 ――これでアレくらい……。本気でティロ・フィナーレを撃ったらダメそうね……。

 

 マミの視線を受けたソウルジェム。その濁りは進行していた。

 先ほどはコップに数滴の墨汁を垂らした程度であったが、今回はコーヒーフレッシュほどの墨汁を注いだようになっている。

 

「でも、もう熱線は来ないし、あとは倒すだけ。杏子ちゃん、ふたりで倒しましょう!」

「応ッ!」

『いや、タイムアップだね』

 

 ひょこり、とキュゥべえが顔を出した。

 

『ボクたちはワルプルギスの夜、つまりバリティニの焔の出現周期のみならず、時間遡行を始めるまでの滞在時間も算出しているんだ。もう間に合わないよ、ほら』

 

 キュゥべえの言葉が合図であったかのように、バリティニの焔が上下逆転するべく旋回を開始する。

 本来の逆さ吊りの魔女の頭の位置を時計盤の六時とすれば、時間遡行を行う際のそれは時計版の零時にあたる。

 早回しの時計のように、逆さ吊りの魔女の巨躯が時計回りに進み――そして、止まった。

 

「だぁーめっ。逃がさないわよ」

 

 マミのリボンだ。

 バリティニの焔は体躯を反転させようとしたのだが、マミのリボンに拘束された。その結果、逆さ吊りの魔女の頭は八時の位置でぴくりとも動かなくなった。

 リボンと言っても、尋常のリボンではない。幅は数十メートル、長さは数百メートルもあるものが、幾重にもバリティニの焔の歯車と逆さ吊りの魔女の体躯に絡みついている。

 魔力の消費も尋常のそれではなく、いまやソウルジェムは漆黒が主であった。漆黒の闇の中に、ちらりちらりとオレンジの光が覗くその様は、ガトーショコラに埋められたオレンジピールが顔を覗かせているかのようだった。

 

「私が大砲を作るから、杏子ちゃんは大きな槍を砲身に!」

「分かった! 待ってろよワルプルギス! 今度こそ引導わたしてやる!」

 

 そして、拘束の維持にもやはり魔力を必要とした。

 漆黒の中にまたたくオレンジイエローの光は、小雨に晒された灯火のごとく、ぽつり、ぽつりと消えていく。

 さらに、バリティニの焔を杏子とともに倒すために射撃兵器を構築するために魔力が消費される。オレンジイエローの灯火は驟雨を前にしたかのように、次々と消えていった。

 

 大型マスケットを基本にして、バリスタに似た弓と弦をあわせもった射撃兵器がマミによって作りだされた。

 杏子によって作り出された長大な三叉槍が弦につがえられる。

 

 技の名前は前もって相談したわけではなかった。

 しかし、相談せずとも技の名前は決まっていた。ふたりが持てる得意の技を併せて放つ以上、ふたりにとって当たり前のことだった。

 

「ティロ・フィナーレ……」

「アパシュナウト・トリデンティ……」

『やめるんだふたりとも! そいつを倒したら何もかも終わってしまうよ!』

 

 キュゥべえが、彼にしては珍しく声を荒げる。

 だが、今さら掣肘などできようはずもなかった。キュゥべえの悲鳴は、ふたりの声にかき消されていく。

 

「ヴェルシオーネ・イリミタータ……」

「デュエット!」

 

 ふたりの唱和にあわせて、引き絞られた弦が風を切る音を響かせ、飛ばされた三叉槍が空気の壁をぶち抜く音を轟かせる。

 マミは、飛翔する三叉槍を目で追うことはせず、横に立つ杏子を見た。

 杏子の胸に飾られたマミにソウルジェム。

 もはや、マミのソウルジェムに暖かい黄色の領域はほとんど――いや、まったく残っていなかった。

 

 

 

 

 しかし、漆黒の染まったわけでもなかった。

 漆黒であった領域は、もともとそうであったように、別の色に置き換えられていた。桜の花びらに春霞をまぶしたような優しい桃色と、穏やかな南洋の海を思わせる水色に。

 

「……助かるわ。なんでもありね、あなたたち」

 

 マミの呟きに、なにか声が返ってきたような気がしたが、それを聞き取ることはできなかった。

 バリティニの焔が絶命したため、過去のワルプルギスの夜に関するすべてが無かったことになった。

 そして、過去が変わったため、現在もそれにあわせて在りようを変えたからだ。

 ――世界の改変が一瞬にしてなされる。

 そこには、感謝の言葉を呟くマミも、それに応えようとする微睡みの魔女もいない。

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

◆  ◆  ◆  ◆

 

 

 ワルプルギスの夜が倒され、その体躯を雲散霧消させていく。

 それにつれ、降り続いていた雨もやんでいく。そこかしこにできた水溜りに踊る数多の波紋は、潮が引くように急速に絶えていった。

 杏子が見回すと、見滝原工業団地はほとんど被害を受けていない。

 立ち入り禁止区域になり、長きにわたり人の手を離れ、荒れるに任せた過去。そして今まさにワルプルギスの夜によって思う様に破壊されたこと。それらがなかったかのように、整備の行き届いた街並みが広がっている。

 

 杏子は振り返り、マミを見た。マミもこちらを見て、そして微笑んだ。

 杏子は、少しの違和感をおぼえた。いつも通りの優しいマミの笑顔ではあったが、ほんの少しなにかが異なるような気がした。

 そして、杏子の違和感は、マミの言葉で確信に変わった。

 

「やったわね。ふたりが協力してくれたおかげだわ、ありがとう、夜宵さん、佐倉さん」

「あ、あぁ……。お疲れさま、マミさん」

「あら、突然どうしたの? いつも呼び捨てなのにマミさんだなんて。ううん、そう呼んでくれる方が嬉しいけれど」

「巴さんが大活躍なさったから、遅まきながら敬意の念が芽生えたのでしょうか。佐倉さんにも目上の方への敬意があったとは驚きですわね」

 

 なんと言ってよいか分からず、杏子は力なく微笑んだ。普段はマミへ敬意がない、という意味で言っているのだろうが、どこをどうすればそのような関係性が築かれるのか、彼女には想像だにできない。

 

「そうだ。これから鹿目さん、美樹さんとパーティの予定なんだけど、おふたりもどうかしら? 多い方が楽しいと思うし」

「申し訳ありません、わたくし、本日は午後から試合で……。またの機会にお誘いいただければ、嬉しいですわ」

「そう、残念だわ。佐倉さんはどうかしら?」

「あ、あたしもやめとくよ」

 

 反射的に、そう口にした。

 自分のことを佐倉さんと呼び、態度にもよそよそしさがあるマミを見ることが嫌だったのかもしれない。

 

「わかったわ。佐倉さんも、また機会があれば……ね」

「うん、また」

 

 マミの性格からすると、しつこく誘うことはない。そう杏子は理解している。

 それでも、あっさりと諦めてしまうことに一抹の寂しさはおぼえた。そして、その感情は表情に出た。

 表情の変化に気付かないほどマミは鈍感ではなかったが、理由はまったく思い至らず、杏子が去った後に首を傾げてつぶやいた。

 

「佐倉さん、どうかしたのかしら。体の調子、良くなかったのかしら? んー、でも、戦いはすごかったわよねぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 マミの前から辞し、風見野に向かう途中、杏子は夜宵かおりをつかまえて聞いた。

 

「なぁ、あたしどこ住んでるか知らないか?」

「は? おかしくなってしまったんですの? まぁいいですわ。以前あなたから、風見野駅前のホテルで暮らしている、と伺った記憶がありますが……」

「そっか、サンキュ」

「本当に大丈夫ですの? なにか問題があるようでしたら、相談に乗るくらいはしますわよ」

「いや、なんでもない。引き止めて悪かった。それじゃ、またな」

 

 軽く笑い、足早に去る。ホテルで暮らしていると聞いても、そのような心当たりはなかった。

 今まで何をしてきたのか、何も分からない。

 記憶喪失になったようなものだろうか。いや、なまじ以前の世界の記憶があるだけに、それとのギャップに歪みが生じてしまう。そして生じた歪みは、彼女の精神を容赦なく削ろうとする。記憶喪失というよりも、間違った記憶を植えつけられた狂人、が正確なのかもしれない。

 

 世界が変わるとキュゥべえが言っていたことの意味を理解した。

 と、足を踏み外して体がよろめく。

 たたらを踏む彼女は自嘲気味に笑った。

 

 ――足を踏み外せばよろめく、当たり前だよな。じゃぁ、今のあたしは何だ。生きてきた過去がなくなったんじゃ、あたしって存在そのものが、踏みしめるべき地面をなくしたようなもんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 足は、自然と教会へ向かった。

 定期的に掃除を行い、庭も建物も清潔に維持されていたはずの教会は、その面影を露ほども残していなかった。

 庭には雑草が伸び放題だった。特にキク科の多年草は杏子の背丈の倍ほどもあり、庭の奥にある教会の姿を人目から隠していた。背の低い下草に至っては文字通り足の踏み場もなく、土の地面が見えない。

 右腕で生い茂る草を薙ぎ、両足で下草を踏み固めながら教会まで歩く。

 背の高い雑草の向こうに見えてきた教会は、窓ガラスは破れ、壁面はツタに覆われていた。

 

「んだよ、荒れ放題じゃねーか。掃除のひとつもしてないのかよ」

 

 責める言葉が指すものが、この世界の自分自身と自覚して、杏子は表情を暗くした。

 

「よっぽど荒んでたみたいだな、こっちのあたしは……」

 

 入り口の扉はひどく重く、開けると軋んだ音がした。

 中に入ると、すえた臭いが鼻を突いた。床にも机にも埃が層をなしており、少し歩くだけでぶわっと舞い上がっては瞳や鼻の粘膜を刺激する。

 窓はおろか採光塔までツタに覆われているため、日中というのに教会は薄暗かった。

 杏子はまっすぐに歩き、地下室へ下りる。

 

「とりあえず、ここで寝るか」

 

 横になる。

 考えないといけないことは山のようにある、それは杏子も自覚していたが、今は何も考えたくなかった。いや、考えられる状態ではなかった。

 季節は春というのに地下室は冷蔵庫の中のような気温。石畳の床は刺すように冷たい。

 

「冷たいな……」

 

 その言葉は、床の冷たさのみを指すものではなかった。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 翌日。

 目覚めた杏子は、見ていた夢を反芻した。

 見滝原第一高校の制服に身を包み、並んで登校しているマミと杏子。

 同じ高校に進学したのだから、そうあって然るべき光景。バリティニの焔を倒したその翌日にでも、そうなるべき光景だった。

 

 ――マミさんは休学扱いだったから、同級生か。マミさんびっくりするだろうな。

 

 くくっと笑い、そして、笑みは消えた。今朝見た夢は、もはや本当に夢の中にしかないものであることを理解したから。そう自覚すると、ひどく寂しかった。

 

 ――だけど、せめて思い出してもらうことはできるかもしれない。あたしとマミさんは一緒にワルプルギスを倒したんだ、だからマミさんにだって記憶があるはずなんだ。

 

 

 

 

 

 

 マミのマンションの前で、木陰に隠れるようにして杏子は彼女を待った。

 春の朝日が木々の隙間からこぼれている。石畳に一晩押しつけられていた杏子の頬は冷たく固かったが、木漏れ日の温かな熱がそれを融かしていくようだった。

 彼女の知るマミの登校時刻はそろそろ。彼女の知るマミの出発時間の日による誤差は、せいぜい二分未満。

 

 ――ありのままを話してみよう、マミさんなら、きっと。

 

 それが根拠も何もない希望的観測でしかないことは、杏子にも分かっていた。

 それでも、それくらいしかすがる術はなかったし、何かにすがらないと頭がおかしくなってしまいそうだった。

 ともすると、自分は既におかしくなっていて、ありもしない過去をあったと思い込んでいるだけではないかと考えてしまう。それは、間違いなく絶望に至る思考であり、彼女はそれを追い払うべく頭をぶんぶんと振る。

 

 しばらく待っていると、からんと控えめな音がして、エントランスの扉が開いた。

 そこから、マミが出てきた。

 

 「――っ」

 

 声をかけようとして、杏子は身体をこわばらせた。

 駆け寄ろうとした足も、伸ばそうとした手も、開こうとした口も、動かなくなった。

 

 マミが、杏子の知らない制服を着ていたからだ。

 女子高校生にしては長めのスカートに、縦にラインの入ったブレザー。杏子は知らないが、見滝原女子短期大学付属高校の制服だ。

 それは、ただ単に見滝原第一高校に通う必要がなくなったマミが、より相応しい高校に進学した、それだけのことだ。

 だが、それだけのことで、自分の知っているマミと、いま小走りに駆けてきたマミが別人なのだと、あらためて杏子は認識した。その認識はいいようのない疎外感を杏子に与えて、彼女を金縛りにした。

 

 結局、声をかけることはできず、木陰に隠れてマミの後ろ姿を見送った。

 マミの姿が視界から消え、しばらく経っても、彼女は硬直していた。

 

「あたしの知ってるマミさんは、もうどこにもいないんだな……」

 

 杏子は深く息を吐いた。

 

 

◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 拳が埃まみれの長机を叩き、教会中に打撃音が響いた。

 手加減することすら忘れた一撃は、長机にひどい亀裂を生じさせていた。

 しかし、血は流れない。魔法少女の身体は頑丈にできていて、それほどの打擲をなしても、固めた拳は皮が剥けることさえなかった。

 その代わりに、涙が流れていた。

 

「なんだよ、あたしたちは、いっぱい人を助けたんじゃないのかよ。なんでこんな仕打ち受けなきゃいけないんだよ。贅沢なんて言わない、人並みの幸せだけでいいんだ、神様」

 

 しかし、荒れ果てた教会は祈りを捧げるに適した場所ではないのだろう、彼女の神はその祈りになんの返報ももたらさなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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