マミさんの歩く道に祝福がありますように ~やがて円環へと導かれる物語~ 作:XXPLUS
カツン、カツンと。
金属が剥き出しになったキャットウォークを、黒のニーハイブーツで靴音を響かせながら歩くひとりの少女がいた。
レモン色のセーターの上から羽織った縞模様のポンチョが、歩に合わせて裾を揺らす。
ニットキャップ、マフラー、手袋は白で統一され、彼女の黄金色の髪を明るく浮き上がらせる。
彼女の名は巴マミ。見滝原を守り戦う魔法少女。
午前中に初詣を済ませ、午後は新年に浮かれた雰囲気の溢れる繁華街をパトロールしていた彼女は、魔女の反応を追い、拡張工事中で立ち入りが禁止されているショッピングモールに辿り着いていた。
工事機械や資材が散乱するフロアを見降ろし、幅一メートルにも満たない高架通路をソウルジェムの瞬きに従って進む。
やがて、彼女は魔女の結界に行き着いた。
「……ここね」
魔力を操り結界をこじ開けると、魔法少女へと変身して侵入する。騙し絵のように入り組んだおびただしい数のエスカレーターを、マスケットを携えて進む。
似た結界を見たことがある、とのマミの思考を肯定するかのように、見覚えのある使い魔が数匹視界に入った。
湾曲した胴体に触角と羽を生やした使い魔――佐倉杏子と追いかけ、取り逃がした使い魔だ。あれが成長して、魔女になったのだろうか? それとも、ここの魔女があの使い魔の親なのだろうか? そんな疑問をマミは思う。
しかし、どちらであろうと行うことは変わらない。マミはマスケットを次々と生み出し、視界に入った使い魔を淡々と蹴散らしていく。
「あっちの使い魔はいないわね……」
あっちと称したのは、佐倉杏子に痛撃を喰らわせた、貝状の顎を持つ食虫植物に似た使い魔のこと。
魔女が複数の種類の使い魔を使役することは珍しくないが、はぐれの使い魔の結界に他の使い魔がいることは初めてだった。この結界でも、伏兵に気を付ける必要があることを肝に銘じておく必要がある、と巴マミは自戒した。
奥と思われる方角へ歩を進める。
結界に入って三〇分は過ぎただろうか、依然として遭遇した使い魔は、蜂タイプのみだ。
辿り着いた最深部は、体育館がまるまる入りそうな程に広大で丸い板状のステージだった。
床には六角形の模様が幾何学状に並び、ボードゲームのタイルを想像させる。
中央に、蜂の使い魔を従えた魔女が浮いていた。
魔女の姿は、使い魔をそのまま大きくしたような印象を受ける。異なるのは翼が三対六枚に増えていることと、明確な頭部が存在すること、そして臀部に毒針を思わせる突起物があること。
使い魔はざっと見て三〇といったところか。多くはあるが、はぐれにすらなれない使い魔はマミにとってはものの数ではない。
マミの右腕が弧を描いて振り上げられると、周囲にマスケットが生成され浮遊する。その数は使い魔に数倍した。
マスケットの無数の銃口が、マミの視線とシンクロする――
「無限の魔弾よ、私に道を拓いて……パロットラ・マギカ・エドゥ・インフィニータ!」
天を指していた腕が振り下ろされると同時、全てのマスケットが魔弾を放つ。
無限と冠された技名に相応しい数の魔弾が撃ち出される。
夥しい数の魔弾は、点を射抜くという射撃の命題を逸脱した。魔弾によって形成された『壁』は勢いよく進み、奔流のごとく敵の群れを押し潰す。
悲鳴なのか哄笑なのか分からない声が、そこかしこで響いた。
そして、魔弾の壁が過ぎ去った後には、魔女しか残っていなかった。
その魔女も数発の魔弾を受けて地に墜ち、苦痛にあえぐかの様に羽をひくつかせている。
「擬態……じゃなくって、本当に弱っているようね。ずいぶんと弱い魔女だこと」
そんな感想を抱きつつも油断はしない。
リボンを数本飛ばして魔女を拘束した上で、大砲型のマスケットの生成を行う――彼女のソロ戦闘における必勝ルーチンと言っていい。
生み出されたのは、長さにして五メートル、口径にして一メートル、ライフリングの溝すらマミの拳ほどもはあろうかという巨大なマスケット。それを抱きかかえるように保持すると、拘束され蓑虫のように転がる魔女に照準する。
完全に拘束された魔女とそれを一撃で葬りさる巨砲、この条件が揃っても、彼女は決して油断はしていなかった。もう一種類の使い魔の可能性を考慮し、どのようなタイミングで現れようと、対処できるように身構えていた。
だが、結界自体がその姿を変えることは、想像の埒外にあった。
ティロ・フィナーレの射出の瞬間、マミの足元が波打つように大きく揺れた。
「なっ、なんなのっ?」
大きめの地震に匹敵する揺れの中で、しかし大砲型マスケットの銃口は過たず魔女を捉え続けた。
「かまうものですか。ティロ・フィナーレ!」
巨大な魔弾を魔女に向けて放つや、マミは不穏な動きを見せる足元を嫌い、垂直にジャンプする。
そして空中に浮かべた小さな花冠につま先で降り立つ。
花冠に立つマミは魔弾の行方を目で追う。
震動していた床がさらに変化を示した。
床に並んだ六角形の模様のそれぞれから、緑の柱が天に向けて勢いよく伸びる。
ひとつひとつがマミの身長ほどの径を持つ巨大な柱。魔弾は弾道上にある全ての柱をへし折ったが、徐々にその軌道を逸らされ、魔女を撃つには至らなかった。
「結界の形を変えて防御したの……? いえ、あの魔女とは別の魔力が影響しているわね……」
そこかしこから柱が立ち伸びた。
柱は校舎ほどの高さまで育つと、中程から幾つもの細長い蔓を垂れさせる。その蔓の先には、杏子に痛撃を与えたあの食虫植物の使い魔の姿があった。
マミの付近に生えた柱から、蔓が一斉に伸びる。
それぞれの先端に据えられた食虫植物の使い魔が、牙を唸らせてマミに迫る。
「ムダだわ」
囁く様な声で呟くと、マミの周囲を螺旋を描いてリボンが走り、ドーム状の防護壁を形成した。
絶対防御と名付けられたリボンのシールドは、使い魔の牙を寄せ付けない。リボンの強度自体はそれほどのものではないが、絶えず高速で螺旋運動を続けることで、近寄るものを弾き砕く。
防護壁の中で一息つくと、周囲に視線を巡らせる。
「あれね……あれが二匹目の魔女」
リボンに拘束されて蠢く蜂の魔女の横に、新たな魔女はいた。
陸亀のような丸い甲殻に覆われた巨体。
その巨体を短い四肢で支え、首のあるべき箇所には花を生やしている。
花弁の一枚一枚が畳一枚はあろうかという巨大な花だ。この魔女が新たな結界の主にして、食虫植物の使い魔の主なのだろう。
「それじゃ、倒しちゃいましょうか!」
絶対防御を解放すると同時に、紫電のごとき勢いで駆け出す。
遅れて数十の使い魔が上空から襲いかかるが、マミの速力には追いつけなかった。使い魔の牙は、マミの影を捉え、地を噛むに留まる。
ある程度駆けたマミは、振り返って牙を地に食い込ませている使い魔たちに矢継ぎ早に魔弾を浴びせ殲滅する。
そのさなか襲い来る使い魔は、あるものはリボンで拘束し、あるものはマスケットで殴り返し、またあるものはマスケットで射抜き撃ち落とす。
ティロ・フィナーレの態勢に入れるかと思案するが、まだ食虫植物の使い魔は多く健在なのを視認すると、足を止める必要がある巨大マスケットの生成は危険だと判断する。
次にリボンをロープのように使い、林立する柱から柱へ、サーカスの空中ブランコのように舞いながら高度を上げていく。
マミの軌跡を追いかけた使い魔の何体かは、柱に自らの蔦を絡ませて行動不能になったが、多くは依然として追いすがる。
柱の天辺まで登り詰めたマミは、そこから身を宙に躍らせた。
そして、重力に従い落下しながら抱きかかえる形で巨大マスケットを作り始める。落下中ならば、足を止めずに巨大マスケットを生み出せるとの判断。
させじと使い魔が攻撃を繰り出すが、自由落下中のマミはリボンを柱に結えることで左右方向のモーメントを加え、落下軌道を変化させることで器用に避ける。
半ばまで落下したところで大型のマスケットが完成する。
マミは空中で甲殻を背負った魔女に照準した。それと同時、使い魔が一匹、斜め上から迫る。
「ティロ・フィナーレ!」
構わず魔弾を放ったマミは、射撃の反動を利して後方に跳んで使い魔の攻撃を回避する。そして近くにそびえる柱にリボンを投げ、ロープのようにして柱に取りついた。
柱から魔女を見下ろすと、ちょうど魔弾が魔女に届こうとしていた。
陸亀に似た姿に相応しく鈍重な動きで避けようとする魔女、その頭部から胸部にかけてを魔弾が貫いていく。
断末魔をあげることもなく、魔女は絶命した。
主を失ったことで林立していた柱と食虫植物の使い魔は霧散し、拘束された蜂の魔女と元の結界のみが残る。
マミは悠々と次の大型マスケットを作り、拘束された魔女に止めを刺した。
「最近は佐倉さんに隠れて楽にティロ・フィナーレの準備してたから、ひとりでやると結構大変ね……」
マミがそうであるように、佐倉杏子も自分の援護を前提とした戦いを繰り返していた。しかも杏子の場合魔法少女になってすぐにマミとコンビを組んだこともあって、単独での狩りの経験は少ない。
単独での狩りを半年以上行っていた自分でさえコンビを組んでいた時の癖や甘えが抜けきらないのに、彼女は大丈夫だろうか、とマミは思案する。いや、信じよう、とマミは結論した。彼女は得手不得手の落差こそ激しかったが、総合的な実力は自分に比肩する。それにロッソ・ファンタズマは魔女を相手にする限り無敵の魔法技と言っていい――そのロッソ・ファンタズマが失われていることなど、マミは想像だにしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
新学期を迎えて数日が経過したある日の夜遅く。
食事も入浴も済ませ、パジャマ姿で勉強をしていたマミのもとに、切羽詰まったキュゥべえの声が届いた。
『マミ、佐倉杏子がまずい事になった』
『キュゥべえ! いったい、どうしたの?』
『昨日から、立ち上がる事さえできないんだ。全身の傷が酷くて』
手からこぼれたシャープペンシルが机を転がり足元に落下するが、拾い上げることもせずに瞳を閉じてテレパシーに集中する。
『何があったの?』
『とりたてて何が、というわけではないよ。これまで累積して受けてきた傷が、ついに身体機能を維持する限界値を超えたんだろうね。キミも知っての通り、もともと佐倉杏子は回復魔法は得意ではなかったんだが……キミと別れてからは、使えない、と表現して問題ないような状態になった。佐倉杏子は言っていた。他人を傷つける事しかできない自分には、癒す資格も癒される資格もないと』
『それで、佐倉さんは今どこに?』
『キミも行ったことがあるんじゃないのかい。佐倉杏子の教会だよ』
いつの間にか足元に現れていたキュゥべえが、猫がじゃれるかの様にシャープペンシルを手で転がしている。
「教えてくれてありがとう、キュゥべえ」
着替える時間も惜しい、そう判断したマミはパジャマの上から黒のベンチコートを羽織ると魔法少女に変身する。そしてキュゥべえを両手で抱きかかえた
。
『どうしたんだい? 変身なんかして』
「急ぎましょう」
それだけ応えると、マミはベランダから身を躍らせた。
黄色いテープで入口を封鎖されている佐倉杏子の家。その隣に位置する教会の庭に着地すると、マミは歩幅も広く扉口をくぐり、教会内を歩く。
『そこの祭壇から地下室に入れる。そこだよ』
「わかったわ」
キュゥべえの指示に頷いて応えると、重々しい扉を開けて地下へ向かう階段へと歩を進めた。
階段は石造りになっていて、微かな苔の臭いが鼻につく。ここ数日誰も使っていないのか、埃がうっすらと積もっている。
「もっと早く……」
教えてくれれば良かったのに、と言いかけて口を噤む。本来、他の魔法少女の動向をキュゥべえは語らない。今知らせてくれただけでも感謝すべきだと考え直す。
『すまない』
言葉を汲んだキュゥべえが耳をぺたんと伏せて応える。マミはそんなキュゥべえの態度に慌てて「ううん、無理言ってごめんなさい」と否定した。
僅か十段程度で階段は終わり、飾り気のない両開きの扉があった。踊り場すらなく階段の突き当りが唐突に扉になった構造で、一種地下牢のような印象を与える。
「佐倉さん、入るわね」
一応声をかけてから扉を押し開く。と、冷蔵庫のような冷気が中から溢れてくる。魔法少女に変身していても寒いと感じる程だから、相当のものだ。
『こっちだ』
マミの腕から飛び降りると、キュゥべえは案内するように先を歩く。もっとも、二区画しかない上に、灯りが一箇所しかついていないので案内の必要もないのだが。
アーチ状のくぐり戸の先の区画の片隅に、佐倉杏子はいた。普段着のまま、毛布一枚にくるまって倒れるように横になっていた。
「佐倉さん!」
この冷気の中なのに汗が酷い。それに、キュゥべえのいう通り大小問わず傷だらけのようだった。マミは膝を折ると覆いかぶさるようにして治癒魔法に集中する。
杏子の胸にあてたマミの頬、そこから微かに感じられる鼓動だけが、彼女の生存を感じさせてくれた。
毛布からはみ出ている右手をぎゅっと握る。小指が赤子のもののように短いことに気付いた。
「佐倉さん……!」
マミが不十分ながらも治癒した時のままの指を見て息を飲む。物をグリップする際に小指は重要だ。こんな小指では、十分に力を込めて槍を握ることさえ難しかったに違いない。自分のせいで杏子が苦戦を強いられたのかと思うと、マミは胸が張り裂けそうになった。
マミは、魔力が尽きても構わないと決意すると、さらに力を込めて治癒魔法を使った。
だが。
三十分が過ぎても、小指はおろか、些細な傷ですら癒されることはなかった。
「傷が治らない……どうして!」
『佐倉杏子の精神が、治癒を拒んでいるのかもしれないね』
魔法は心の在りように強く影響を受ける。
佐倉杏子は自らの願いを否定したことで、幻惑の魔法を失った。それと同じように、佐倉杏子は治癒を受けることを否定しているのだろうとキュゥべえは語った。
さらに治癒魔法を強くする。オレンジイエローの癒しの魔力で包まれたマミの身体が、黄金色に輝いた。
その光に刺激されたのか、佐倉杏子の瞼が微かに持ち上げらる。
彼女は焦点の合っていない瞳でマミを見つめる。
治癒に必死なマミはそれに気付かず、ひたすら魔力を込めていたため、突然の声に驚いた。
「あれ……マミさん……?」
熱に浮かされて夢と現実の区別もついていない、そのような声だった。
「佐倉さん?」
「ゆめ……?」
「佐倉さん、私が治癒するから、拒まないで! このままじゃ佐倉さんが……」
マミの声が届いているのかいないのか、杏子は儚げな笑みを浮かべると、再び瞳を閉じる。その笑顔は、死を受け入れた諦めの表情のように、マミには感じられた。
何度も諦めずに呼びかけるマミの声にも反応を示さず、苦しげな呼吸を続ける。
「だめ! 佐倉さん! ……キュゥべえ、なんとかできないの?」
『ボクになんとかできたら、キミを呼びにいくわけがないじゃないか』
切羽詰まったマミの声とは対照的に、落ち着き払った声で返す。
「そんな……佐倉さん……!」
伝わってくる杏子の心音が、もう感じられないほど弱く、遅くなっている。
それはまるで、唯一の心残りであったマミを見ることで、彼女が死を甘受したかのようだった。
「起きて。あなたを看取りたくてきたんじゃない……」
『残念だね。マミ、諦めて治癒魔法をやめたらどうだい。このままだと魔力を使い切ってしまうよ』
魔力を使い切っての結末は感情の相転移を伴うそれに比べて効率が悪い、出来れば避けたいんだよね、とキュゥべえは心の中で呟く。
そして、杏子の紫に染まった唇を眺めつつ、『魔力を使い切っての結末も、杏子みたいな死に方に比べればマシではあるけどね。杏子、君には本当にがっかりだよ』と心の中で毒づいた。
キュゥべえの忠告をマミは聞き入れず、なおも癒しの魔法を使い続ける。先ほどまで鮮やな橙色だった髪飾りのソウルジェムは、今や黒雲が広がるように暗い色に侵され始めていた。
『マミ、杏子と心中するつもりかい? 杏子はそんなことは望んでないと思うよ』
「いや……」
『やれやれ、キミと杏子、ふたりともいなくなったら誰が魔女からみんなを守るんだい?』
キュゥべえの指摘は正しくマミの急所を衝いたが、それでも治癒魔法をやめることはせず、嗚咽を漏らしながら杏子をかき抱く。
「なくしたく……ないよぅ……」
『そんなに杏子が大事なら、どうしてボクが呼びに行く前に連絡を取ろうとしなかったんだい?』
「……そうだよね、本当にいつもいつも……どうして私ってこうなのかな……」
光を失っていくマミのソウルジェムを血の色の瞳で眺めていると、ふとキュゥべえに考えが浮かんだ。
『駄目元になるが……キミたち魔法少女にとってソウルジェムは何より大切なものだ。マミのソウルジェムを杏子のものに接触させてみれば、なんらかの反応は得られるかもしれないね』
藁にもすがるというのはこの事だろうか、キュゥべえの提案を聞いたマミは、考えるより早く行動に移した。杏子の指輪形態のソウルジェムを抜き取ると、自らの髪飾りにコツンとあてがう。
「佐倉さん! お願いだから返事をして!」
キュゥべえとしても確信や前例があったわけではなかった。いや、むしろ仮初めの希望を与えて、出来るだけ情動を引き出そうと考えてさえいた。
そんなキュゥべえの見込みを大きく裏切る事態が起こる。
ソウルジェムを接触させていた巴マミが、意識を失うように倒れ伏した。
『マミ? どうしたんだいマミ?』
覗き込むと、瞳孔が開き、呼吸もしていなかった。キュゥべえの知る限り、ソウルジェムを肉体から遠く引き離した時に起きる現象に似ている。
『ふむ……。裏目に出てしまったかもしれないね』
尻尾でマミの頬を叩きながら、キュゥべえは独語した。
◇ ◇ ◇ ◇
茫洋たる、という言葉が適切なほどに果てのない液体の中に、巴マミはいた。
かろうじて浮力と重力から天地の判断はつくが、上を見ても水面は見えない。下を見ても底は見えない。周りを見てもただ澄んだコバルト色の液体がどこまでも続いている。
上からは光さえ差していないが、不思議と暗くは感じなかった。
「佐倉さ……」
言葉を発そうとすると、口腔から空気が泡となって逃げ、しゃぼん玉のように上へ向かう。その代わりに液体が口内に押し寄せ、マミは思わず瞳を閉じ、両手で口元を押さえる――が、既に口腔から気道まで、液体の侵入を許していた。
しかし、それに続く現象、即ち窒息は訪れず、それどころか恐る恐る呼吸を試みると不自由なく息ができた。
理解はできないけれど、そういうものなんだ、と巴マミは受け止めた。
「佐倉さーん!」
先ほどとは違い、肺腑まで液体に満たされていても声は出た。そして音は空気中を伝うように、液体の中を伝った。
何度か叫ぶが、返事はなかった。
徐々に叫ぶ声は小さくなり、瞳は潤んでいった。
「佐倉さん……」
瞳に溜まっていた涙が、真珠のように丸い滴となってマミの身体を離れ、瞳の前にたゆたう。
そんな滴が十を数えた頃、マミは自分を呼ぶ声を聞いた気がした。言葉として聞き取れない程の微かな、本当に微かな音だったが、マミを突き動かすには十分な根拠だった。
目尻に溢れる涙を指で払うと、身体を翻し、両の脚で液体を蹴り下方へと泳いだ。
体感で一時間は泳いだだろうか、液体の中に、うっすらと色のついた泡が混ざり始めた。
あるものは薄桃色の、あるものは翡翠色の、あるものは乳白色の。
あるものは米粒ほどの大きさの、あるものは拳ほどの大きさの、あるものは身体がすっぽり入りそうな大きさの。
それらの泡が身体のそばを通る度に微かな声が、そして泡が身体に触れる度にはっきり聞き取れる声が聞こえた。
『主は、良き心をお救いくださります』
『挨拶は後。今は魔女を倒しましょう』
『杏子のばかー』
『ふたりで倒した成果だし、はんぶんこにしましょう』
『うん、杏子はまだまだ学ぶべきことが多いね』
『たしか裏庭に野イチゴがなっているのを見かけたから』
『あんな話じゃ、本当に苦しんでいる人々を救うことができない……そう思ってね』
『杏子の妹になんか生まれてくるんじゃなかったー』
『泣いちゃダメだぞ。泣くと幸せが逃げていっちゃうからね』
『今日の夕飯はエビフライだから、いい子にして待っててね』
マミの声、杏子の家族の声、キュゥべえの声、杏子自身の声。泡に触れるとその声を発した時の状況まで映像を見せられているかのように脳裏に浮かんだ。
ソウルジェムを介して彼女の記憶や心といったものに入り込んでいるのだろうか、とマミは考えた。
普段からテレパシーを使える魔法少女同士なら、何かの切っ掛けでもっと深い感応が出来ても不思議ではない。
そうだとすれば、潜ることで記憶や心が見えてきたのなら、もっと深く潜れば彼女と意志を疎通させることも叶うかもしれない。
「キュゥべえの言う通り、佐倉さんの心が治癒を拒んでいるなら、絶対に翻意させないと」
決意してさらに潜ると、暗い色の泡が増えてきた。そういった泡は、負の感情を伴う声と記憶をマミに見せる。
家族と喧嘩した記憶、飼い犬を亡くした記憶、妹に十分な食べ物を与えられなかった記憶、父が戒規処分を受けた記憶。
そうした記憶を見せた泡は、寒々しい青色や焦げ茶色をしていた。マミは下方を見やり――
「真っ黒の泡があんなに……」
漆黒の泡が沈殿するかのように蠢く光景に息を呑み、想起する。どれほどの悲しみや不幸があったのかと。
これ以上進んで、奥底に留めておきたいはずの記憶を覗き見てもいいものだろうか、と逡巡する。その時、マミの眼前を数えきれないほどの鎖が音を立てて走る。
赤と黒に彩られた、大人の顔程もある大きさの菱形の金属板。それを連ねた鎖は、様々な角度で交差しあい、マミの行く手を阻むように二重三重の壁を成した。
『ごめんマミさん、これ以上は行かせられないよ』
声が響いた。マミは鎖の壁で拒絶されたことよりも、記憶の残滓でない生きた杏子の意志に触れることができたことによる喜びで顔を綻ばせる。
「佐倉さん、私の話を聞いて。キュゥべえが言っていたんだけど、佐倉さんが治癒魔法を心の中で拒んでいるから、あなたの傷を癒せないの。お願い、私の治癒を受け入れて……!」
暫しの静寂の後、杏子の声が応える。
『いいんだ……。あたしは、誰も彼も、マミさんも家族も、傷つけることしかできなかったから……。癒される資格なんてないんだ』
「馬鹿なこと言わないで! 死んでいいはずなんてないでしょう! それに佐倉さんは、ご家族のために奇跡を祈って、みんなの幸せのために戦っていたじゃない! 傷つけてばかりなんかじゃないわ!」
鎖の壁の向こうに、魔法少女姿の杏子の姿が見えた。距離があるため小指ほどの大きさにしか見えないが、寂しげな表情がマミにははっきりと見えた。その杏子が、漆黒の泡の中に埋もれるように沈んでいく。
『何もかもが怖いんだ……。家族のために祈った事が、結局家族を傷つけた。人のために力を使えば、また人を傷つけるんじゃないかって。それに、眩惑魔法を失ったあたしじゃ、マミさんに迷惑かけるし、最悪あたしのせいで命に関わる。そう思ってマミさんから離れようと思ったんだけど、結局それでも傷つけてしまったよね。そんなあたしだから、このままマミさんにこれ以上迷惑かけずに消えていけるなら、それもいいかなって……』
マミは手で鎖を握ると動かそうとする。が、鎖のような外見とは裏腹に僅かな弛みすら許さず、大樹のように微動だにしない。さらに力を込めると、鎖の鋭利な部分が掌に刺さり、傷口から鮮血が滴となってこぼれる。
「佐倉さん! お願いだからそんなこと言わないで……!」
鎖と鎖の間には、腕程度は十分通せそうな隙間がある。ここからリボンを通せば、と考えたマミは黄色のリボンを繰り出すが、隙間を潜ろうとしたところで見えない障壁のようなものがリボンを弾いた。疎に見える鎖の網目だが、鎖がない部分にも何らかの力場が働いているようだ。
どうにかして鎖をどかせるしかない、そう判断したマミが肩から鎖に体当たりをしても、マスケットで殴っても、硬質化したリボンを剣の様に使い斬っても、鎖はびくともしなかった。マミにはその鎖の堅牢さが、杏子が心に築いた壁の強さに感じられた。
その時だった。小指の爪ほどの大きさの土色の泡が、意志を持っているかのように泳ぎ、とある鎖と鎖の間を器用に抜けていった。それは、手本を見せてマミを導いているかのように見えた。少なくとも、マミにはそう思えた。
胸元のリボンを解き、泡が潜り抜けた隙間を狙い通す。果たして、不可視の障壁は効果を顕さず、黄色のリボンが鎖の壁の向こう側へ伸びていく。
リボンは、土色の泡をかすめて下へ、杏子のもとへと泳ぐ。泡を追い抜くとき、マミはリボン越しにモモの声を聴いた気がした。
「――ありがとう」
既に杏子の姿は漆黒の泡の中に埋もれ、視認できなくなっていた。
リボンは杏子を追い、蠢く泡の群れに突入してゆく。その瞬間、マミの脳裏に杏子の記憶――本人が触れたくないであろう諸々の記憶――が雪崩のように押し寄せてくる。
父の誤解、その懊悩、何もできない無力感、家族を喪った絶望、己の行いがその原因となった悔恨、魔法を喪失したこと、そして、マミのためと思いつつ、マミを傷つけたことへの慚愧の念。
「……ごめんなさい、佐倉さんの気持ちが分かるだなんて偉そうに言って……こんなにも苦しかったのね……」
深く反省する、が、だからこそ杏子を助け出して謝らなければならないと自らを奮起させ、リボンを持つ手に力を込める。
やがて、杏子の手首をリボンがしっかりと掴んだ。リボンを通して杏子の体温を感じると、マミは力の限りでリボンを手繰り寄せる。
漆黒の沈殿はヘドロの様にも見え、相応の抵抗があるかと予想していたのだが、拍子抜けするほどあっさりと杏子の身体は泡の中から引き揚げられた。
「佐倉さん、お願い。けがを治して、また私と一緒にいて」
鎖の壁を挟んで相対する位置まで引き寄せられた杏子は、視線を伏せて消え入りそうな声を発した。
「マミさん、姉と思ってないとか言ってごめんなさい」
「そんなこと気にしてない。……もちろん、その時はショックだったけど、佐倉さんの気持ち、今度こそよく分かったから。それに、私はひとりっこだけど、佐倉さんなら分かるでしょう? 姉妹喧嘩でなにを言われたって、お姉ちゃんは許すものだって」
「え……」
マミの言葉を理解すると、杏子は顔を綻ばせた。そういえば、よくモモは『杏子の妹になんて生まれてくるんじゃなかったー』『杏子なんてお姉ちゃんじゃない』とか言っていたな、と妹の顔を思い出す。
――あたし、モモと一緒の事をマミさんにしてたんだ……。
本当に子供みたいだな、と思うと苦笑しか出てこなかった。いや、妹の感情に任せての放言と比べると、相手のことを思っての言葉なので、そっくり同じというわけではないのだろうが、杏子にとってはその差はたいしたことではなかった。
「私ね、マミさんに迷惑をかけたくなくって。でもバカだから、心にもない事まで言っちゃって……」
「だから気にしてないの。それよりも、けが治して、これからも一緒にいてくれると嬉しいな」
杏子が両の手を胸の前に回し、リボンを握りしめる。俯き気味に瞳を閉じるその姿は、祈りを捧げる敬虔な修道女を思わせた。
「あたし、一緒にいていいの? 迷惑かけない?」
「迷惑くらいいくらでもかけなさい。ひとに迷惑をかけない人なんていないわよ」
「嫌いにならない?」
「もしなったら、そのたびに仲直りしましょう」
「あたしが足引っ張って、マミさんにもしものことが……」
「先輩の実力をなめてるの? あとでたっぷり思い知らせてあげようかしら」
今度は苦笑ではなく晴れやかな笑みを浮かべると、からかうような口振りで杏子は告げた。
「あたしも子供みたいだけど、マミさんも子供みたい」
「あら」
不平を漏らそうとマミが口を開いたところで、世界に異変が生じた。
全ての鎖に無数の亀裂が走り、高い音をたてて砕け散った。飛散した破片が明るい色の泡と化して浮上していく。その泡は例外なく、マミとの訓練、共闘、そしてささやかな交流の記憶をたたえていた。
◇ ◇ ◇ ◇
意識を取り戻したマミの治癒魔法は効果を顕し、佐倉杏子の傷は瞬く間に癒されていく。
血色を失っていた杏子の頬に、ほんのりとした朱の色が差す。それと引き換えるように、マミのソウルジェムはオレンジの光を失い、黒く濁っていった。
やがて、杏子が瞼を上げる頃、マミはその姿をパジャマにコートを羽織っただけのものへと変化させる。既に魔法少女への変身を維持する魔力も枯渇していた。その様子を見て、キュゥべえは独りごちる。
――無理もない。戦闘よりも遥かに多量の魔力を消費していたからね。まぁ無駄死によりはマシではあるか……。
「マミさん?」
「良かった……。もう大丈夫ね?」
「うん、えぇと……ありがとう」
『ふたりともずいぶん素直になったんだね』
事情を解さないキュゥべえの言葉に、顔を見合わせてくすくす笑う。キュゥべえに感情があれば疎外感を感じるところだろうが、幸いにして彼にはそういったものを感じる情緒はなかった。ないからこそ、常に論理的に最適解を選び出せる、というのがキュゥべえ側の言い分だが。
『まぁ、なによりだよ。それよりマミ、魔力を使いすぎたね』
その言い分に相応しく、現実的な指摘を行う。その指摘を受けて、ふたりの視線が毛布の上に転がるマミのソウルジェムに集まった。
もとは温かくも鮮やかなオレンジイエローの光をたたえていたそれは、魔力の酷使の果てに墨を落としたような黒に染まっていた。マミは、落ち着いた声で呟く。
「覚悟の上だし、しょうがないわね」
魔力を使い切った魔法少女は二度と戦えない、とキュゥべえからは聞いていた。
マミの理解としては、魔法を使えなくなってしまうか、あるいはマミの場合は、命を繋ぐ奇跡の代価に魔法少女として戦っている以上、魔法を使えなくなるイコール死もありうると考えていた。
どちらにしろ、佐倉杏子の救命と引き換えになら悔いはなかった。
『ここまで穢れてしまっては、もう魔法少女としては――』
続くキュゥべえの言葉は、杏子がポケットから取り出したグリーフシードをマミのソウルジェムに接触させたことで中断された。
グリーフシードが、ソウルジェムの穢れを身代わりとして吸い上げ、瞬く間にソウルジェムは温かな光を取り戻した。
「マミさん、別れた後にあたしの分だってキュゥべえに持ってこさせたでしょ。それだよ」
穢れを吸い込んだグリーフシードをキュゥべえに与えつつ、杏子が頬を指で掻いて照れ臭そうにしてみせる。
「半分だけとか言ってたけど、どう見ても全部だったし……。使ってないから、たくさんあるよ」
「助かったわ、本当にありがとう」
「いや、もともとマミさんのだし、そもそもあたしのために魔力を……」
深々と頭を下げるマミに、慌ててしどろもどろに応える杏子だった。
「それにしても、酷い有様ね……。埃だらけだし、この毛布もぜんぜん干してないでしょう」
くたびれた白熱電球の不安定な光の下でも、寝床のすぐ傍に埃が層を成していること、毛布が黒ずんでいることが見てとれた。毛布に触れてみると、汗のためだろうか、わずかに湿り気を帯びているし、襟周りは手の感触でわかるほどに汚れが溜まっている。
「そもそも、真冬なのにこんな毛布一枚だけで……」
嘆息すると、厚手のコートを脱いで毛布の上からかぶせ、ぽんぽんと掌で軽く叩く。先ほどまでは治癒魔法による温かさで感じなかったが、それが去ると酷く寒い。
「とりあえず寝ちゃいなさい。明日になったら掃除とかしてあげるから」
こくりと頷く杏子を見て慈しむような表情を浮かべると、立ち上がって壁の電気スイッチに手を伸ばす。その動作で、マミの髪からシャンプーの香りが広がり、杏子の鼻腔をくすぐる。
「電気消しちゃう?」
「マミさんは?」
「治ったとはいえ心配だものね、今晩はずっと付き添ってあげるわよ」
答えないのは消して欲しくないのだろうと判断して腰を下ろすと、マミの手を杏子が掴み、引き寄せるような仕草をした。その要求するところを察したマミは、嬰児を見るように微笑むと「甘えん坊さんね」と呟き、手を握ったまま身体を横にして毛布に潜り込む。
マミの胸に顔を埋める杏子は、ずいぶんと久しぶりに、安らかな気持ちで眠りについたのだった。
「もしもし? おはようございます、二年の巴です。朝のお忙しい時間にお手数をおかけしますが、田浪先生はいらっしゃいますか? はい、お願いします。………………あ、先生ですか? 巴です。申し訳ないのですが、本日はお休みを頂きたくてお電話を……。え、いえ、大丈夫です。ちょっと、個人的な都合で……。はい、お気遣いありがとうございます。はい、明日は伺います」
スマートフォンで通話するマミの声で、杏子は目を覚ました。寒さを感じて、上半身を起こしているマミの腰に両手を回し、太ももに頬を押し付ける。
「おはよう、お寝坊さん」
通話を終えたマミが、杏子の髪を梳くように頭を撫でながら微笑む。おはよう、とまだ眠そうな声で返すと、杏子は二度寝を決め込むが――「おはようございまーす」と芝居がかった調子で歌うように告げたマミが耳たぶを引っ張ると、悲鳴をあげて飛び起きた。
「佐倉さんも学校に連絡する?」
耳を押さえて涙目を見せる杏子にスマートフォンを差し出すが、杏子はかぶりを振って「あたしはいい……」と応えた。三学期に入って一度も学校と連絡を取っていないし、今後も行くつもりはなかったからだ。
態度からそれを察したマミは、学校には行かないとダメですよ、と耳たぶを引っ張ろうとしたが、今度は杏子にガードされて「むむ」と唸った。
朝食――スナック菓子とペットボトルのお茶という組み合わせを朝食とすることにマミは難色を示したが、食材もキッチンもない以上どうしようもなかった――を頂きながら、マミと杏子は今後の事を相談した。相談というよりは、マミの一方的な提案であったが。
「まずは、佐倉杏子さん個人としての今後ね。私の部屋にいらっしゃい。もちろんここは佐倉さんの大切な教会だから、週に一回くらいふたりできて、お掃除やお手入れをしないとね。あと、学校は見滝原に転校しましょう。手続きは私がするから」
転出届け、転入届け、転居届け、電気・ガス・水道の手続き、転校手続き、そういった諸々を含めて一日あれば、というのがマミの目算だったが、大きく外れることになる。まさか昨年末の痛ましい事件に関する後始末を何も行わずに身を隠していたとは、マミも想像だにしていなかったからだ。
結果、警察や消防への届け出や事情聴衆も行う必要があり、マミの登校は教師への連絡に反して三日後となるのだった。
「あとは魔法少女としての今後ね。前みたいに一緒に戦いましょう。佐倉さんが使い魔と戦いたくないのなら、魔女だけ戦ってくれればいいわ。使い魔なんて私ひとりでも十分だしね」
「うん。……マミさん、知ってるよね、あたしもう幻惑魔法……」
マミは指をすっと突き出して杏子の唇に軽く当てると、遮るように言った。
「全部分かってるから……」
辛いことを敢えて口にしなくてもいい、との意図だが、それを察した杏子は「でも、夢の中じゃなくて、はっきりと口にしておきたいんだ」と応えると、過去の事を、心情を交えて赤裸々に語って聞かせた。
時々言葉に詰まったり嗚咽を漏らす杏子を、マミは急かすでも留めるでもなく、ただ笑顔を見せて静かに聞いている。
言葉を紡ぎながら杏子は、マミの笑顔を全ての罪を赦し、全ての咎人を包み込む聖人の笑顔みたいだなと感じていた。